ⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅥ「India インディア」を観る聴く、 『エイガニッキ』 SASHI-ハラダ 2020/4/20
ボンベイの雑踏、通り、大型バス、車、ビル、近代建築、多様な人々、多様な言語、混沌、古さと新しさと、寺院、巨大な寺院、祈りの世界、大きな街と寺院と、そして、今、カメラは、視点は、何処に、如何に、遙かに青い空、緑の森の中、移動しパンするカメラ、木々がまばらに、木々の中から草原に、道が、象、象を操る人々、象は重機でもあるのだ、長閑な日常、暮らし、仕事を終えて象たちの水浴び、象の食事、草木を食べて、象を操る私、大木から見詰める屋敷の庭、村で見かけた娘、私に取って忘れられない日にと、娘と象の世話の最中、川で見つめ合い、人形劇の一座がトラックで、村にやって来た、皆が見詰める人形劇、此処でも娘を見かけた、大人も、子供も、昼下がり私は、大木の枝の上から、また見詰める娘、こうして学校の先生に相談、彼は間に入って父に話してくれる、こうして私の父と娘の父との話し合い、結婚式、着飾った娘、衣装、色彩、化粧、共に出向いてくる人々の列、祝い、子供が出来て、その一家か、違う私の一家か、ドキュメントスタイルのドラマ、若者は結婚して子供も出来、ダム建設に、労働者、田舎の生活から、今は労働者、電力を得るための、都心のためのダム建設、建設が終わると、住居を代えて、隣同士も別れ別れ、悲しみの、ぼやきの妻、幼い子供を抱えて、これから何処に、出来上がったダムを見詰め歩く私、廃墟と化した寺院、文字を書き付けのだが、沐浴する私、しかし、一つの建設が終われば次なる建設に、遠く、労働者たちが、列を作って歩き去って行く、彼等もまた、次なる労働場所を求めて、インドの近代化、だが、この近代化が何をもたらしたのだろうか、私の生活にあって、妻、子供、仕事、豊かになったろうか、そんなとってつけた説明などない、見るのだ、この姿等を、ヒマラヤの山々、雪山、そこから流れる水、小川から、川に、蓮の緑、蓮の花、川は流れ、その先までも、そこには人々の作り出した道が、川の道から土の道に、近代化のアスファルト、川と道は連なっていく、続いていく、さてまた、森の中、草原、木々、人の訪れない、聖なる世界、魔の世界、魔術の世界、神々の世界、何が見える、何が聞こえる、何が終わる、何が始まる、獣たち、老いた私、農村で、子供たちが働いてくれる、嫁がやってきて世話を焼く、私は一人牛を連れて草原の中、牛に草を匍わせ、私は煙草を吹かす、憩いの時、が、此処には虎が、虎のカップル、襲う事はないと知っていても恐怖で、周章てて立ち上がり、牛と共に去る、森の世界は、獣たちの世界は、昔のままに、象は手名付けて、仕事につかえた、だが、虎は如何とも出来ない、獣たちも、家の中、祈りの妻、赤ん坊に乳をやる嫁、働く子供たち、長閑な日常、だが、そこに近代化が、鉄鋼の鉱石の為のトラックたち、土を掘る地響き、音、これまでの獣たちとの同居が壊れていく、獣たちはこの開発に驚き、怯え、騒ぎ、森から外に、逃げ惑う、恐れていたことが、居場所のない虎が人を襲ったのだ、草原の中の血、一度人を襲ったら、次々に、虎とは森の神、森の怒り、ダムによって、昔ながらの小さな湖も消えた、巨大なコンクリートの巨壁、人々は、労働者として、移動していく、動かざるを得ない、結果として街に、熱波、陽射し、一人の男が猿を連れて、旅芸人なのだろうか、歩いてくる、が、熱波の故か、倒れ込んでしまう、チェーンに繋がれた猿、飼い主が倒れて死して仕舞った、舞う鳥たち、ハゲタカだろうか、怯える猿、身動きが出来ない、男の顔の上に重なって、必至に、語りかけるように、答えない男、舞う鳥、チェーンの先が外れて、逃げることが出来て、走る走る、川に、水辺に、辿りつく猿、猿である私、サーカス、一座の者たち、旅してきた猿はサーカスに、ブランコの曲芸、猿の芸、必至に芸をする猿、此処にも私が、生きていくための仕事、労働、相変わらずにチェーンに繋がれてあるのだ、壁の上、外を見詰めると自然の中に猿が、野生の猿が自由に生きて木々を渡っていく、見詰める猿の私、彼等の中に、飛び込むか、いや、この場に残って芸をするか、野生の猿の私から見れば、繋がれた私は人と猿との中間の生き物、だから、語りはないが、象なる私、虎なる私、木々なる私、川なる私、道なる私が、語りかける、この私たちが、今街中に、結果として、インドについてのドキュメント、町、自然、含めて、人々の姿、自然の姿、獣たちの姿、視線、在処、インドの現実が、捕らえられて、古いインド、祈りのインド、近代化のインド、森、山、川、道、移動、かくて、今、何処に、如何に、コロナの日本の私もまた、このドキュメントの中に在るのだ、近代化という、その廃墟という多様な視点の中に、この中からしか、始まらない、始めるのだ、あらためて、ウィルスの舞う時空を、生きるのだ、近代化の廃墟の先にまでも、公害の爛れた汚染の切れた、ウィルスに依って切り開かれた魔を、間を、生きるのだ、今、終わりでは無い、始まりなのだ、ロッセリーニの「India インディア」を見るとは、コロナの日本を、世界を背負うことなのだ、コロナという解体を引き受けながらの始まり、今日、二〇二〇年四月十九日昼の習志野の青い青い空、白い白い雲、余りに爽やかな空気、彼等に撃たれながら、