映画『サーミの血』、苦悩は続く 関川宗英
『サーミの血』(字幕版)
1時間47分 2017
監督
アマンダ・シェーネル
主演
レーネ=セシリア・スパルロク, ミーア=エリーカ・スパルロク, マイ=ドリス・リンピ
1930年代、スウェーデン北部のラップランドで暮らす先住民族、サーミ人は差別的な扱いを受けていた。サーミ語を禁じられた寄宿学校に通う少女エレ・マリャは成績も良く進学を望んだが、教師は「あなたたちの脳は文明に適応できない」と告げる。そんなある日、エレはスウェーデン人のふりをして忍び込んだ夏祭りで都会的な少年ニクラスと出会い恋に落ちる。トナカイを飼いテントで暮らす生活から何とか抜け出したいと思っていたエレは、彼を頼って街に出た--。(C)2016 NORDISK FILM PRODUCTION
暗い映画だった。
映画の全体を覆う、この重苦しさは何なのだろう。
1.映画のストーリーと背景
ドアのノック、神経質そうにタバコに火をつける老女…、現代のスウェーデン。老女が息子と孫娘とともに、妹の葬式に出向くシーンから、映画は始まる。
「彼女は君の分のトナカイを、毎年マーキングしていた。」と、老女はサーミの男に言われるが、言葉がわからないと冷たく返す。妹に花を手向けようともしない。
そして、映画は、1930年代へ。トナカイ、テント、牧草地で暮らすサーミの人たち。スウェーデンの北部の先住民族、サーミ人は分離政策を受けていた。トナカイ遊牧のサーミ人は土地を購入して定住したり、ほかの仕事に就いたりすることを禁止されたという。
主人公の14歳の少女エレ・マリャは、妹とともに、スウェーデン語などを学ぶ寄宿学校(移牧学校)に向かう。
移牧学校のある村では、土地の若者から「捕まえれば金になる」とか「くさい」などと、差別的な言葉を浴びる。
学校では、サーミ語を使うと、女教師に定木で手をたたかれる。
1913年に発布された「移牧学校法」によって設立された移牧学校で、サーミの子供たちは親から離れ、教育を受けることになった。それは、サーミの子供たちを普通の公立学校から排除することでもあった。
トナカイの放牧生活で生きてきたサーミ人は、知能的に劣っており、都市の文明の中では生きていけない。だからサーミの子供たちは移牧学校で、サーミ語の使用を禁じられ、スウェーデン語を勉強する。スウェーデン語の詩を暗唱し、スウェーデン語で神をたたえる歌を歌うのだ。
映画を観ながら、アイヌのことが頭に浮かぶ。
自然とともに狩猟、漁労で生きてきたアイヌの人たちも、アイヌ語の使用を禁じられ、日本語を覚えさせられた。
文明とはかけ離れ、劣っているとされた少数民族が、近代社会の中で生活できるようにという大義の下、その文化を否定され、支配者の文化や言語の使用を強制させられる。
イヌイットやアポリジニなどの少数民族も同じように分離政策を受けた。
主人公が頭蓋を細かく測定され、裸にされて写真を撮られる、いたたまれないシーンがある。窓の外では、主人公たちをいつもからかう村の若者たちが覗いている。一人のいたいけな少女が、その体をさらし者にされる屈辱的なシーンだ。
当時の人体測定学では、人間の優劣を科学的に証明しようと研究が進められていた。
ダーウィンの進化論の「進化」や「淘汰」といった言葉は、社会学者らによって「敵者生存」「優勝劣敗」という概念になり、優生思想を生んでいった。
頭蓋の大きさや形、毛髪や肌の色を調べて、サルに近い人種、優秀な白人に近い人種を調べていく。そのような科学的な知見を重ねていくことで、世界中の民族が、人類学的な優劣のふるいにかけられる。
優秀なスウェーデン人がサーミ人を保護し、教育する。それが当時の正しい考え方だった。優生思想が最新の科学的真理だと信じられていた時代の話だ。
1995年、「北大人骨事件」が起きた。北海道大学構内の標本庫から、段ボール箱に納められた6つの頭骨が発見された事件だ。それはアイヌや朝鮮人などの人骨だったが、この事件をきっかけに、文部科学省は「北海道大学や東京大学など全国の12大学に1600体以上のアイヌ民族遺骨が保管されている」と発表した。さらに、琉球人の遺骨も全国の大学にあることが判明する。
これらの骨は、墓から盗掘されたものだ。
なぜ、アイヌ人や琉球人の骨を盗掘したのか。
その理由は、エレ・マリャが裸の写真を撮られたことと同じだろう。つまり、サーミやアイヌの人体は、人種の違いから人類の進化の道筋を論じるために、人体測定学に必要な研究対象だったからだ。
さらに言えば、支配者側の論理を確実なものにするための、科学的な証拠集めといえる。
琉球新報編集委員の宮城隆尋は語っている。
「遺骨の収集には多くの研究者が関わり、アイヌと琉球だけでなく全国各地の日本人や朝鮮人、中国人、台湾先住民、東南アジアの先住民なども研究の対象とされました。その成果は、学術誌の論文や一般誌の記事として幅広く発表されました。多くの論文は、日本人以外の体格的な特徴や文化的風習を挙げて、日本人の優秀さを裏づける根拠とした。こうした研究が戦前の植民地主義的な国策を支える役割を果たしたことを、複数の研究者が批判しています」(https://www.msn.com/ja-jp/news/national/京都大学が盗掘した琉球人骨を返さぬワケ/ar-BBWglBM)
アイヌの人たちの人骨を調べた論文は、アジアの人々と日本人のルーツは同じだが、日本人が優秀だから日本が統治する、といった趣旨で、日本の対アジア侵略戦争や「大東亜共栄圏」を正当化する当時の政権側に極めて都合のいい内容だったという。
エレ・マリャは移牧学校を抜け出す。そして、都会でクリスティーナとして生きていくことを決意する。エレ・マリャは、サーミの民族衣装コルトを焼き捨てる。コルトが燃える赤い炎は、家族を捨て、サーミを捨てる、エレ・マリャの悲痛な決意の色だ。そして、スウェーデン人クリスティーナとして生きていこうと決めた、わずか15歳くらいの女の子の情念の色だった。
それから、何十年かの月日が流れ、映画は再び、現代のスウェーデン。妹のことを思い出している老女。
映画の終盤、老女クリスティーナは、死んだ妹のいる教会を訪れる。姉は妹の棺をあけ、妹の亡骸を見る。そして、失われてしまったかけがえのないものにすがるように、「許して」と姉は妹に顔を寄せる。老女の妹への深い愛情が胸に迫ってくる。
映画のラスト、老女は白髪を振り乱しながら険しい道を登る。そして、トナカイを放牧しているサーミ人のキャンプを見る。クリスティーナとして生きた老女エレ・マリャ。深いしわが刻まれた老女の顔。その顔には、はっきりとした表情はうかがえない。しかし、そのしわの深さは、老女の人生の苦悩を語っているようだった。サーミへの思いの深さを彷彿とさせる顔だった。
2.クリスティーナの苦悩
今、サーミの言葉を話せる人は500人くらいしかいないという。
しかし、サーミの土地や水の使用の権利は認められ、サーミ大学の設置や、サーミ語の教員養成の制度もあるそうだ。
サーミの復権は、国際的な先住民族の運動に大きな影響を与えるようになっている。
『サーミの血』は、少数民族が権利を勝ちとってきた歴史に思いをはせ、民族のアイデンティティを静かにうたいあげる物語かもしれない。
しかし老女の顔には、そんな誇り高いものは感じられない。
映画の全編を覆う、重苦しいものを拭えないまま、映画は終わってしまう。
老女クリスティーナの顔に、一人の女性として、その人生を受容したといえるような、満ち足りた表情はない。
家族を捨て、サーミを捨てて、一人のスウェーデン人として生きたクリスティーナの苦悩は、先住民族の「形だけの権利回復」で決着がつくものではないということだろうか。
『サーミの血』には、美しいシーンもある。
トナカイが走る、山裾の牧草地のショット。
そして、ヨイクを歌うシーンだ。
ヨイクはアイヌの歌のようでもあった。
同じような言葉、音韻の繰り返しが、心地よい抑揚の中に聞くものを引き込む。
それは幼いころ聞いたような、懐かしい気持ちを誘う。
もしかしたら、ヨイクの抑揚は、私たちの遠い祖先が歌い、聞いてきたものと同じ根っこのものかもしれない。
ボートの上で、姉が妹に歌うヨイク。
「ニェンナがボートで泣いている」
移牧学校に行きたくないという妹に、姉が歌う。たゆたうボートの上で、姉が妹を元気づけようとする美しいシーン。
ずっとそのヨイクを聞いていたい、そんな気持ちにさせられる。
映画の後半、妹が姉に、ヨイクを歌うシーンもあった。
雪解け水の池(?)に姉は妹を浮かべる。「飛んでいるみたいでしょ」と姉は言いながら、妹を水に浮かべる。
まぶしい春の陽光の中、二人は久しぶりの時間を過ごす。そのとき、妹が上機嫌でヨイクを歌う。
遠い昔の、姉と妹の美しい時間。
サーミの人々が、山の懐でトナカイを追いながら何百年と歌いつづけてきたかもしれないヨイク。
ヨイクの声に、サーミの美しい記憶を私は追い求めてしまう。
2007年、『先住民族の権利に関する国連宣言』が採択された。
21世紀の今、多様性の大切さは、世界中のどの政治家からも聞かれる。
しかし、世の中は欲望と憎悪が渦巻いている、というのが実感ではないのか。
ヘイト条例を訴える在日韓国人の女性のもとには、一千万件を超えるバッシングのコメントが届くそうだ。
コロナが発生した大学に、脅迫状が届いたというニュースもあった。
『サーミの血』が抱える暗さは、現実の世界のこの重苦しさかもしれない。
老女クリスティーナがホテルで、旅行客の女性たちからサーミの悪口を聞かされるシーンがある。ヘリコプターに乗り込むサーミ人を見て、「あの人たちのバイクの音がうるさい」、「自然保護区を破壊している」、などといわれる。
『先住民族の権利に関する国連宣言』が採択された今も、差別の根っこは変わっていない。表面的に見えなくなっただけ、さらに悪質かもしれない。
老女クリスティーナの苦悩は続いているのだ。