What A Wonderful World

毎日の暮らしの中で、心惹かれたことを語ります。

中山星香 妖精国の騎士 

2006年08月01日 14時14分19秒 | 漫画
 恐らく、これでも中山さんは、相当描き込みたい部分をカットしているんだと思いました。愛読者の方ならご存知でしょうが、中山さんは大昔から、この「三剣物語」のプロットを暖めておいででした。当然ですが、「三人の主人公」を据えて、それぞれの物語を描き込むのは、至難の技だと思うのです。それでも、これは削れない、ここはどうしてもというエピソードを描いておられるのが、続けて読むと良く判りました。

 最近の漫画の傾向に、刺激的なエピードをどんどん積み重ねて(中には風呂敷を広げすぎて、収拾のつかない物もあります)短いテンポでお話を作る作品が多く観られます。その漫画に慣れておいでの読者さんからすると、中山さんの作風は「だらだらとした大作」に思えるかもしれません。

 1970年代の作品には、中山さんのようなスタイルで描かれた名作が数多くあります。それらは、いまもって美しくて楽しくて、哀しくて奥深い作品ばかりではないでしょうか?

 厳密に言えば、中山さんのファンタジーは「日本風」だと思います。ですが、今の漫画界で、ここまで確固たるオリジナル・ファンタジー漫画を描いている作品が、何作あるでしょうか?

 ネットの書評上で酷評されている作品ではありますが、プリンセスの黄金期を作った作家さんの一人として、決して作品の質が下がっていない事を、私は申し上げます。
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「物語の続きを知りたい」という欲求に関わるいくつかの事例

2006年08月01日 10時23分33秒 | ブログ
○情報中毒者、あるいは活字中毒者、もしくは物語中毒者の弁明 http://d.hatena.ne.jp/soorce/20060730/p1#c

というso or ce様の素敵なブログの7月30日のお話

 「物語の続きを知りたい」という欲求に関わるいくつかの事例」

が、情報中毒気味の自覚ありの私には、とても興味深いものでした。

<以下ブログからの引用>

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ディケンズの作品は連続読物("分冊")のかたちで刊行された。

こういう刊行形式が当時のマス・メディアであり、いまのテレビのミニ・シリーズのように、一般大衆の娯楽だった。

あらゆる人びとが、ディケンズの最新作の物語を首を長くして待ちわびた。



『骨董屋』の分冊が刊行中の一八四一年、ニューヨーク港に大勢の群集が集まり、イギリスからの大型帆船が桟橋の先端に近づくのを待った。

大西洋横断の電信がまだなかった時代で、旧大陸からのニュースはすべて船で運ばれてきたのだ。

群集はぞろぞろと前へにじりよった。

桟橋に立ったひとりが、帆船の手すりの前にいる人びとに向かって、とつぜん息せききった声でさけんだ。



「リトル・ネルは死んだのかね?」



イギリスの田舎では、一シリングの出費をする余裕のない人びとが、ときには一村ぜんたいで金を出しあって分冊を買い、みんなを集めてだれかが朗読したという。


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 150年前の市井の人たちの物語への愛情は、現代人である私たちとなんら変わらないと思いませんか?遠い過去に生きていた人たちの息遣いが、一瞬で直ぐ傍に感じられました。人種も年齢も手段も、何もかもが違うであろう人と、私との時間の壁は「大好きなお話しの続きを知りたい」という気持ち、たった一つの欲求で無くなってしまいました。

 どんなに最新のお話も古典のお話も、絶えず私に多くの喜びや悲しみを語りかけてくれます。更に、そこの生活が知りたくなって地域や歴史を調べてみたり、同時期の作家さんの作品を読んでみたりと、知る楽しみはどんどん広がって行きます。

 作品を愛するが故に「その後」のお話を、著名な作家さんたちが書かれる事が多くあります。あるいは、作家さんが亡くなられて、未完で終わってしまった作品の続きを、別な作家さんが資料などを元に完成させたという事もあります。「映画」にも、その作品へのオマージュを込めて作られる物もあります。全てそこにあるのは、その作品への「愛情」にほかなりません。

 そこには「小説」や「漫画」等、創作ジャンルの区別はなく、「俗物」や「教養」の区別も無いと思います。

<以下ブログからの引用>

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 過去、現在を含めて、生み出される膨大な数の物語達のうち殆ど全ては一過性で、そのときの楽しみに供される、野蛮で、消耗される、「教養として扱われることを拒否するエンターテイメント」でしょう。


 話芸という、雑誌よりもなおうつろい易い、消耗品どころかその場で消えていく揮発的なものも*4であっても残るものは残ってきているのです。


 始めは一般大衆の娯楽だったり、子供のためのおとぎ話だったりしても、それが年月を経て残るものならば、残った結果としては「教養」と呼ばれるものになるかもしれません。


 それがたとえ元々意図していたものとは全く違ったとしても。

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 私もそう思います。



 「愛情」には偏ったものも、逆の意味合いを持ったものも、千差万別様々な表現があります。なので、ネット上での「情報」が、大勢の人を振り回す結果になったり、悪意を生み出してしまう事もあります。欲求が飢えになり、それを満たす事にのみなってしまったり、他人への暴力など違う欲求にすり替わってしまわないよう、お互いに気をつけたいですね。
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