いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

流れの変化に気付くのが遅すぎじゃないか?

2007年02月05日 21時57分34秒 | 政治って?
昨日の「愛知県知事選が取れてホッとした」というのが本音なのかもしれないね。実際どうなのか知らんが。柳沢発言が云々とか、「知ったような口を叩いている国会議員たち」ってのも相当アレだね。感性のズレてる議員たちってのは、マジで~以下自粛(笑)。まあ、「安倍ちゃん批判」が党内から噴出していけば、ひょっとしたら「新たな人事の芽」が出てくると読んでいる人たちもいるから。政局好きにとってはチャンス到来ってことなのかもしれんがね。

あのですね、ハッキリ言っておきますけど、
「いい加減、目覚めなさい」(by アクツマヤ)
ですって。

本当に頭の悪い国会議員たちが多すぎ。一体、何をやってんの?何を考えてんの?
国民の多くは、腐れ議員たちなんて求めてないの。昔式の「金脈、人脈」でやってきた政治には、もうウンザリなの。自民党基盤を固めていた「旧式勢力」っていうのは、段々と選挙で歯が立たなくなってきてるの。まだ判らんのかね。

今回選挙では、愛知県知事を取って、北九州市長は負けたんだが、こんなの「柳沢発言」があっても無くても大して変わらないんじゃないの?既に自民党の「旧来型選挙」方式は、厳しくなっているんじゃないの?支持基盤はそりゃ大事だよ。でも、そういうのだけに応えるのが多数派じゃないんですよ。それでは勝てないんですよ。

認識が不十分な議員さんたちも多いでしょうから、判りやすくまとめてみますか。10月の補選で2勝して以降、「地方の選挙」ではやられてるんですよ。トコトンね。

取れたのは、最も重要だった「沖縄県知事」と、不戦勝だった(民主党候補擁立せず直接対決なし)和歌山知事だけ。つまりは、「特殊な要因・環境」だった沖縄だけが取れたってこと。でも、それ以外はほぼ惨敗。挙げてみましょうか?

市長選から。
・尼崎:ボロ負け→共産系候補にダブルスコア負けだったらしい
・旭川:競り負け
・福岡:新人にまさかの敗北

知事選は
・福島県:大差負け
・宮崎県:そのまんま負け(笑)

どうです?要するに連戦連敗だったんでしょ?
これで、何で「北九州市長選は柳沢発言の影響だ」とかフカせるわけ?むしろ今回、愛知県知事が取れたのは、ラッキーだったんじゃないのか?「よくやった、大健闘だった」と称えるべきなんじゃないの?(爆)

議員の2世だか血筋だとか、官僚とか、そういうのを立てて、組織戦を目論んで、なおかつ連敗してきたんですよ。有権者を甘く見すぎなんだろうと思うね。選挙民をナメてるんだよ。もうここまで鈍感なのであれば、一度「ボロクソ大敗北」でも喫してみた方がいいよ、ホント。統一地方選でボロ負けになって、続々と入ってくる「討ち死」報告でも受けた方が気が引き締まっていいんじゃないか?(凍りついたようになっていた、あの時の岡田代表のような心境になれますよ、きっと)

腐れ体質の国会議員を支えてるような地方議員たちが減れば、その方が地方の政治はちょっと良くなるだろ(笑)。そういう連中は、もう要らない。求められてないんだよ。そんな政治をいつまでやったって、何も良くなってなんかいかないんだよ。地方が静かに、でも確実に死んでいくだけ。その引導を渡そうとしてるのは、腐れ頭の議員たちなのさ。鈍感議員たちというのは、大体こういう腐れ頭の持ち主と相場は決まっているもんなんですよ(笑)。



あるメッセージ

2007年02月05日 16時07分49秒 | 経済関連
だから特にどう、というものでもないわけですが、御礼など。

自分の思い込みだし。


でも、何となく感じたのですね。
「向こう側」を。

凄くわかりやすいメッセージ(笑)も。


全くの偶然かもしれんけど。



ケンシロウに、少佐が「アリガトウ」って言ってました(笑)



ココは寂れてる方が放言しやすいですし。

お気遣い無用ということで宜しいですので。



意識の探求~その2

2007年02月05日 15時26分05秒 | 俺のそれ
分裂勘違い君劇場さんの中身はちょっと書き加えられていますね。当ブログのような寂しいブログ記事に気付いた訳ではないでしょうけど(笑)。

前の続きを、もう少し書き加えてみたいと思います。
まず、「感覚」ということについて考えてみます。「~という感覚」について、直接的な科学的記述が可能なのかどうか、というのがまず問題なんでしょう。個人的な直観では、実現可能性は厳しいかもしれませんが、「可能」かも、と思うのですよね。自分が認識するレベルの「感覚」というのは、再構成されたものでしかないからだろう、と思うのです。

脳みそには、それがどこなのか不明なのですけれども、「自分」(意識?)というノートみたいな領域がきっとあると思うのです。自分が認識するそのノートには、さまざまな情報が書き加えられていくのです。そこでは、勿論「感覚」というのも書かれると思います。「感覚を直接記述できる」かどうか、というのは、その書かれた情報が「どんな風になっているか」というルールが現在の科学水準では「見えない」だけで、厳密に調べることができれば「感覚」さえも再現できるだろうと思うのです。

赤ん坊の頃の「自分ノート」は空白だらけであり、大半が基本ルール(本能的な部分、遺伝子的に規定される部分)しか書かれていないのではないのかな、と思う。でも、経験を重ね、記憶データが増えるに従い、新たな何かがどんどん書き加えられていく。「自分ノート」の全容を自分自身では完全に把握できず、中身もよく判らないであろうな、と。言語理解なども多分書かれているだろうと思いますね。

より厳密に調べると「物理化学的な現象」という科学的記述であるとしても、それが再構成されて「自分ノート」に書かれる時には、「別な情報形態」として書き込まれると思う。喩えて言うと、「500ページに及ぶ本」が科学的記述で、その「タイトル」か「目次の大項目の見出し」みたいなレベルが「感覚」として記録されるんじゃないかな、ということです。

ある食べ物Xがあるとします。Xの成分分析を完璧にでき、構成成分は完全に科学的記述に置き換えることが「可能」だとします。すると、データとしては、組成1、2、3・・・・、N、という風にその種類も、分子構成も、成分比率とか質量とか全て「科学的記述」ができるのです(未知の物質は存在していない、ということにしますけど)。で、これを食べた時に生じる信号というのは、ある特定の成分のみを検出できるレセプターみたいなのがあれば、物理現象として説明できますね。仮に組成1と3と5が「検出可能」な物質であるとしますか。細胞表面には、組成1、3、5と結合可能な部位を持っていて、そこにピッタリと適合する構造を持つ分子であれば検出と判定される、と。で、これが結合すれば「伝達物質」の放出という細胞内カスケードでも何でもいいんですけど、そういう情報伝達ネットワークはできている、と。ここまでは生化学的な表現でできてしまいますね。その伝達物質を探知した神経細胞ではインパルスを生じて脳に伝える、と。どれとどれの神経細胞に伝わっているのか、というような問題はとりあえずおいておきます。で、食べた結果の「感覚」としては、「うまい」というものだったとします。

「組成1、3、5」を探知→電気信号発生→脳で判定→「うまい」という感覚

こんな流れになっている、と。すると、「自分ノート」には「うまい」という感覚が書き込まれる、ということになるんだろうと思います。「うまい」は神経伝達物質で「快楽」とか「快感」に近いものである、というようなことで、厳密には伝達物質の分子数というような物理化学的表現で説明可能なのではないでしょうか。完全な観測が可能であれば、探知された(=レセプターと結合した)「組成1の分子数」だとか、「うまい」と感じた時の「伝達物質を放出した神経細胞はどれとどれ」とか、放出された伝達物質の種類と分子数とか、そういうのが正確に判ってしまう、ということです。今の科学では実現不可能ですけれども、理論的には可能であるように思えます。こうした「物理化学的記述」があたかも大著全部の情報量で、「うまい」に相当する部分は「本のタイトル」みたいなものなんじゃないだろうか、と。自分の中にある「感覚」というのは、そういう「大雑把でいい加減」な情報表現だろうと思うのです。

ある人は「ニンジン」が大嫌いで「まずい」とか「くさい」とか「にがい」とか言うわけです。それらは「自分ノート」に書き込まれている「感覚」ですよね。でも、別な人には、「おいしい」「うまい」「大好き」みたいな表現として「自分ノート」に記録されている、ということです。これって、どういうことか?全く同一の物質を全員に与えても、こうした「感覚」のズレを生じてしまうし、違う結果を生み出す、ということなんですよね。それは過去の記憶とか与えられた条件などによって異なってしまうからだろうと思うのです。それは同じ物質を、同一の分子数だけ与えたとしても、「出力結果」としては違う結果が出てくるのです。脳での判定のところで、「どの神経細胞に伝わったか」「どの神経細胞が興奮したか」というのが「全員違う」からだろうと思うからです。持っている神経ネットワークが全員異なっている、ということなんですよね。完全同一の神経ネットワークを再現できないし、作り上げる方法も判らない、ということなんですよ。なので、「自分ノート」に書かれる内容も違うのです。こうして「ニンジン」→「まずい」とか、「ニンジン」→「うまい」みたいな枝分かれを生じてしまうのです。

それと、同じようなニンジンであっても、厳密に見ていくと、組成の割合も比率もかなりのバラツキがあったりするので、そうした「誤差」の違いを「科学的記述」で完璧に行えるとしたら、例えば「うまい」と感じる「組成1、3、5」の構成比率とかが判定できるかもしれないんですよね。不幸にもそれを外れているニンジンを食べてしまって、「まずい」という学習効果(記憶)を生じ、「自分ノート」にはそう書き込まれているかもしれないですよね。「組成5が40%を超えると「まずい」と感じる」みたいなルールが「科学的記述」として明らかにできれば、人工的に「自分ノート」に「ニンジン」→「まずい」と書き込ませることも可能かもしれないですよね。「まずい」という感覚を生じるのは、組成のバラツキなんかではなくて、本当は「固さ」(歯ごたえ)が原因なのかもしれないし、食べた状況(例えば大好きな彼女と食べる、みたいな)によるのかもしれない。ただ、現時点ではそういうことを完璧に検証できないだけで、物理化学的現象の範囲を超えているわけではないようにも思えます。「うまいという感覚」というのが、あくまで「科学的記述」による(例えば「神経伝達物質の分子数」)もので、どの細胞・脳領域がその情報を記録し、現時点で伝達しているのか、活性化ルールとは何か、というのが判ればいいのではないのかな、と。


あと、「自分ノート」の複雑化は、語彙の増加に似たようなものではないかな。前の記事に書いたが、赤ん坊の持っている初期設定は、大体決まっているだろうし、もしも原始時代みたいな状況ならば、それ相応になるんじゃないかな、と。基本設定で泣、笑、怒、恐、みたいなのしかなくても、語彙が増えれば「嬉」「喜」「楽」「悲」「哀」みたいにどんどん「自分ノート」に書き込まれていくんだろうな、ということなんですよね。それも、元々の初期設定の派生でしかないかもしれないんですけどね。例えば、「石」への応答として、「硬い」(食えない?)ということが初めの情報であっても、それぞれの個人の接する(出会う、見る、触る、ぶつかる・・・)「石」というのが「全部違う」んですよね。それは大きさなのか、色なのか、形状なのか、重さなのか、組成なのか、遭遇した状況なのか、何が影響するのか良く判らないけれど、応答が違うのです。個人に与えられる条件が毎回毎回違うのです。同一上条件という「場面」がただの一度もない、ということなんですね。なので、各個人の「自分ノート」に書かれている中身は、バラバラなんだろうと思うのです。でも、「石」にまつわる情報を完全に「科学的記述」として表現することは不可能ではないと思えるのです。こういう「石」みたいなのが、世の中に膨大に存在しているのです。なので、完全な表現をするというのが困難なのだろうな、と思うのですね。それと、「自分ノート」の記録部分はどの細胞が担当しているのか、というのが正確に判別可能なのであれば、意図的に「自分ノート」に何かの情報を書くことが可能なのではないでしょうか。アミダクジに横線を書き加えると、ゴールが変わったりしますけど、これと似た感じで、とある「自分ノート」担当細胞の一つに「興奮」情報を書き込んだとして、その結果として「全体」がどう変化するか、というのも恐らくやってみないと判らない、ということじゃないかな。予め完全な「アミダクジの全貌」をつかめていて、「どこに横線を書き加えると行き先はどう変えられるか」というのを知っていればいいんですけどね。完全な「アミダクジの全貌」を観察すること(可能か不可能かは別として)自体は、科学的記述方法に過ぎないんだろうと思えます。

初期設定が単純なのは、「未知」の部分が多いから、ということであるのかもしれない。先の「うまい」の検出じゃないけれど、ある深海魚が「食べた事のある」物質には限度があるだろうと思うのですよね。あらゆる深海生物を食べることはないでしょう。でも、これまで「一度も食べたことのない」生物をも食ってしまわねばならないかもしれない。そういう時、対応可能な物質の種類を増やそうとして事前にあまりに「精度の高いシステム」を持とうとすると、「超巨大魚」みたいになってしまうかもしれない。それであっても、新種の生き物が登場してきて、判定できないかもしれないんだけれども。組成a、b、・・・に対応、という膨大なシステムよりも、「うまい」→飲み込む、「まずい」→吐き出す、みたいなシステムの方が「未知」であっても応答ができそう。或いは、「シビレ」→吐き出す、という単一ルールだけかもしれないし。毒の全ての種類を探知できないだろう(新たな毒を持った生き物が登場してくるかもしれない)し、厳密に毒分子1、2、・・・・という風にたくさん検出し対応するシステムを構築して持っていても、巨大研究施設みたいな大きさになっちゃうかもしれんからね。それよりも、曖昧で大雑把だけど未知に対応可能なシステムの方が適応力が高く、生き延びてこれた、ということなんじゃないのかな。「毒分子1」→吐き出す、という精度の高いシステムよりも有効なんじゃないか、と。


今、とりあえず。



意識の探求

2007年02月05日 01時54分13秒 | 俺のそれ
極東ブログから始まって、アルファな方々が「意識」を取り上げられておられるので、自分の思うところを何の科学的裏づけもなく書いてみたいと思います。えー、専門的な研究とか、そういったことは何も知りませんし、適当に書いてるだけですので。よろしくです。


・眠ってる時の意識はどうなんだろう

凄くグッスリ眠ってると、その間何か考えていたとは自分では思えませんよね。何も考えてないかもしれない。でも、本当は考えているのかもしれませんけど。まあ、普通の人の感覚としては、「考えてない」と感じるでしょう。なので、深く眠っている時は、「自分の意識」も眠っているのですよね。浅い眠りで夢を見たりなんかすると、どんな夢だったか思い出せたりしますけどね。

 ◎意識は、「ある」時と「ない」時があるかもしれない

意識を失うとか、意識不明とか言ったりしますよね。こういうのも、外見上は「意識」がないような状態ですけど、本人になってみないと判らないでしょう。脳自体が思考できたり、自分の意識を自分自身で感じることができても、周囲にそれを伝えられない(出力系の障害などかな)ということがあるかもしれない。本当に「意識」が完全消滅して、全く何もない状態なのかもしれない。これを確認するのは困難です。でも、それに似通った状態を作り出せるかもしれません。それは、酒に酔って酩酊状態みたいになっている時とか。その時点では話したりできるけれども、自分では何を言ってるか「よく判ってない」とか、後で行動や話した内容などを「覚えてない」というようなことはありますね。これは「記憶」の異常によってるかもしれないけれども、自分の意識としては「機能していない」という状態なのかもしれない。他には麻酔薬によって意識を奪われてしまうということも有り得ます。この時にも、何も考えてない状態を生じますね。記憶も勿論ないとか。これと似てるのは、「自白薬」のような薬物を投与されたりした時とかも、そうかもしれない。自分では「自分の意識」を感じ取ることができない。でも、言葉とかいくつかの記憶とか、そういう脳の機能は「保持」されているので、聞かれたことに対して自分の意志とは関係なく、答えてしまったりしゃべってしまったりする。外見上、意識が残っている(=ある)かのような状態とか、逆に意識がないような状態みたいなのが観察でき、本人がそれを「感じられる」時もあれば、「感じられない」時もあるのかもしれない。意識がある、というのが、自分が認識(知覚?)できる時である、という風に考えると、「ない」時は有り得ると思う。

 ◎意識は、自分で感じられる時と感じられない時があるかもしれない
 ◎意識は、脳に作用する薬物の影響によって「ない」時を生じる
   (=恐らく脳の機能として意識があるのだろう)
 ◎意識は、自分で制御可能な部分と制御できない部分があるのかもしれない
 ◎意識を自分で認識(知覚)できる時(部分)ばかりではないかもしれない

記憶が失われているだけで、瞬間瞬間では「意識がある」かのように行動したりできるのかもしれない。でも、「記憶がない」ということは意識が機能していないのとほぼ同じような意味合いである。例えば、昨日の夜寝る前に「同じクラスの好きな女の子」のことをあれこれ考えた、という記憶があれば、「意識」というのは機能していたということなんだろうなと思う。その後で眠ってしまって、眠ってる時のことが「何も思い出せない」ということであると、その間は「意識がなかった」と認識することになると思う(実際には「意識がある」のかもしれないのだが)。根本的なところで、「意識」って何?ということを聞かれると、よく判らない。定義問題なのかもしれないし。何かについて自分が自分の意志(「自分の意志」って何?という堂々巡りになるかな)に基づいて自由に考えたり、判断したり、選択したり、決定したり、ということであるとすれば、意識のあるなしは何となく判るように思える。「自分が感じる」からだ。でも、「無意識」とか「意識下」という、自分自身がはっきりとは知覚していない部分(事柄)なんかがあるかもしれず、これも「意識」という範疇に含まれるものとなれば、どんどん判らなくなっていくね…。いずれにせよ、意識(自由意志)と記憶というのは、不可分な関係にあるのかもしれない。記憶が完全に破壊されてしまうと、それはロボットと同じようになってしまうだろうか?


・「赤いという感覚それ自体」は科学的記述ができるのか

「赤いという感覚それ自体」が科学的記述が不可能なんだろうか?とちょっと思ったのですよね。具体的感覚ならば、「物理化学的な法則」に従う、極めて機械的なものなんじゃないだろうか、と思えたもので。

「赤いという感覚」は、脳にバッチリ記録されていると思うので、あくまで物理化学的な法則に従っていると思う。生物の種類によっては、白黒でしか認識できないのもいるし、人間であっても「赤緑色盲(色弱)」なんかだと「判別できない」からである。それは極めて単純に遺伝子的に規定されているんじゃないかと思う。つまりは物理現象そのものということである。喩えて言うと、ある「○Å~△Å」の波長を持つ光に対して、特異的に「興奮」する神経細胞が多数あるとして、その興奮する強さ(神経細胞数)で「赤い色」は判定できそうな気がする。遺伝的にそのタイプの細胞が欠損していると、その波長の色が認識できない、ということになるだろう。それとも、そのタイプの細胞は存在しているが、信号を送っていく時の誤りか、送った先の分析結果が本当なら「赤」と判定するべきところが数式の誤りみたいにいつも「緑」という誤出力をしてしまう、というようなことかな。

基本的な流れを思い浮かべると、大体次のようなことではないかな。

センサー(感覚受容器)→(データ、信号)→脳=演算処理、再構成→認識=自分で感じ取る

このどこの部分に障害があるかによって、色々と違いは出てくるように思う。
センサーが故障していると、例えば目に大怪我で見えなくなる、というのは判り易い。信号エラーは神経線維に腫瘍とかを生じて視野狭窄、みたいなのかな(実際どうなのか判らん)。脳側でのエラーは、演算のプログラムミスとか、再構成する時のデータ抽出・置き換え時に間違い(正常ならば1→A、2→B、と置換すると決まっているのに、間違って1も2もAに置き換わってしまうというような)などがあったりするかもしれない。これらの過程というのは、純粋に物理化学的法則に支配されており、科学的に記述できるように思う。

子どもの頃、昔のブラウン管テレビを凄い間近で見たことがって、本当に「赤青黄」のかたまりみたいなのが整然と並んでいて、これの信号のON-OFFでカラー画像ができていたんですよね?恐らく人間の色覚というのも、これと近いと思いますね。「意識」の問題というのは、上の過程のうち最後の部分以降のことなんだろうと思いますね。「赤い色」を見て「何を感じ、何を考え、何を思うか」「どのような反応結果」が起こったか、みたいなことなんだろうな、と。認識するまでは、全くの物理化学的法則に従っているだろう、と。


・感覚データは物理化学的法則に従うのではないか

次のような単純な装置を考えてみます。

集音マイク―増幅装置―解析装置

これで、全ての音を拾い、信号を増幅して解析装置に入力します。解析装置は今ある全ての分析が可能であるとしましょう。「ある音」を観測して、この音は何Hzで波長はいくら、波形はこんなの、音圧はこんなの・・・・という風に詳しく分析したとして、どうなるでしょうか。物理現象を科学的に記述できる訳ですが、それだけではあんまり意味はないんですよね。意味がある、というのは、例えば「これは○○級潜水艦のスクリュー音だ」とか、「調律のラの音だ」とか、「ウチの子の泣き声だ」とか、そういうことです。つまり、科学的記述ということだけでは、大脳にとっての「意味」がないので、認識した後に「何を感じ、何を考え、何を思うのか」「どのような反応結果」が起こったか、というようなことが「意識」の関わりなんだろうな、と思うのですよね。この装置の仕組み自体は、人間の耳と脳に近いと思います。解析装置に、仮に言語の識別機能があれば、解析結果は「オメデトウ」という「言語」であると判る、というようなことなんですよね。

通常、耳から入力される音のデータ自体は、かなりたくさんあると思いますが(要するに全部マイクで拾っている)、全部は脳で識別していないでしょう。もしも全部処理して、「意識に上ってくる」となれば、うるさくて狂ってしまうかもしれませんよね(笑)。なので、意味のない音データは増幅されない(=脳の演算に回されない)のか、脳で自動的にカットしている(=捨てている)のか、再構成や認識の所で抽出されないようにされているのか、そういう取捨選択が行われていると思いますね。「聞えている」のと、「意識に上ってくる」というのはちょっと違いがあるんですよね。

ある部屋に女性が2人いて、隣の部屋では赤ん坊が寝ているとしましょうか。2人のうち一人は母親、もう一人はそのお友達だとしますか。すると、同じ部屋にいて、同じように赤ん坊の泣き声が「聞えてくる」のに、母親の方がパッと「あっ、泣いてる」とすぐ気付く、というようなことがよくあるように思うのですよね。つまり、音データは同じで、聞こえてるのも同じ条件なのですけど、「赤ん坊の泣き声」という音データへの「認識度」に違いがあると思えます。つまりは脳の処理が異なるんだろうと思います。これは記憶されている音、ということの違いなのかもしれないし、ある特定の周波数の音(この場合は赤ん坊の泣き声)への感度を敏感にしているのかもしれないですよね。潜水艦のスクリュー音の識別能力にしても、同じ音データを凡人が聞かされても「何も感じない、判らない」けれども、優れたソナー手が聞けば一発で判る、みたいな「意味がある」ということなんだろうな、と。解釈ということなのかもしれないけど。これが「意識」の部分と繋がっているように思えるかな、と。本物の機械で構成された解析装置だけであると、そういう判断は生じない、ということでもあります。人間がそれまで蓄えてきた学習結果・記憶、別な情報との照合能力、そういうのが複雑に組み合わさってはじめて、音データに解釈が生まれる、ということなのかな、と。

 ◎感覚データは科学的記述が可能だろう
 ◎感覚データは取捨選択(抽出)され、再構成されているだろう
 ◎機械単独だと解釈や意味づけを行えない
  (予めプログラムされている必要がある)

人間は音についての能力よりも優れた能力を持つ動物はたくさんいるし、聞える(使ってる)音波も人間は狭いのかもしれない。言語があるから、ということもあるのかもしれないが。でも、必要とされない能力は段々衰えるだろうし、それは遺伝子的に規定されてしまうものであって、これも物理化学的法則に支配されているのだろうと思います。イルカみたいなソナー機能もないし、コウモリみたいな超音波レーダー機能もないもんね。感覚データは、イルカでもコウモリでもサメでも科学的に記述できると思うのですね。意識の問題とはあまり関係なく、コウモリは自由に飛んでいるように思えるのです。人間の場合には、意識に上ってくるかどうか、というのが重要なんだろうと思います。

ある親方がいて、弟子に「オイ、○○ノコを持って来い」と言ったとします。初めの方の音がよく聞き取れませんでした。つまり、音データの形式としては不完全か、一部欠損ということです。もしも機械に入力する時には、データが存在しないので演算処理が困難になってしまうかもしれませんね。でも、人間の場合には、他の能力を組み合わせて、データ欠損を補うことが可能なのです。
たとえば、親方が「配管業者」であったりすれば、水道管を切断するのに用いる「カナノコ」に決まっているので、弟子は「ツチノコ」を探しに行ったりはしませんし(古い?笑)、「マルノコが見当たりません」などと言ったりはしない、ということです。或いは、別な業者で「イトノコ」意外考えられない、という場面かもしれませんので、そうであれば、弟子は一直線に「イトノコ」を探しにいくでしょう。このように、その場面とか状況、文脈なんかから、過去の記憶データと照合したりして、適切な「答え」を探し出せるのです(でもトンマな弟子とか、本格的にバカな弟子だったりすると、ツチノコですか?と聞き返して親方からバカヤロウ、とこっぴどく叱られるかもしれませんね)。完全な機械であったりすると、こうした曖昧さには対応できなかったりします。間違えたデータ入力をすると、計算結果も誤ってしまう、ということです。

皮膚の感覚データもかなり取捨選択が行われていると思います。「意識に上ってくる」ということは、ハードルが設定されている、というようなことです。画鋲を踏んでしまったりすれば、飛び上がるほど痛いですし、咄嗟に足を跳ね上げてしまうと思いますね。「痛み」という強い刺激があるからですよね。でも、毎日パンツをはいているにも関わらず、それが常時意識に上ってきて「今、パンツが皮膚に接触している」などとはいちいち考えたりはしませんよね。そこに「注意を向ける」というか、意識すると「あっ、パンツはいてるな」と判る、ということです。着ている服の皮膚接触にしても、普段意識することはほぼないですね。稀には、タグなんかがチクチクして痛いとか気になる、というような時もあって、そうするとずーっと気になってしまうようなことはあるかもしれません。靴下を履いているかどうかは見なくても皮膚の感覚で判りますし、カカトに穴があいてしまっても「穴が開いていると感じる」ことができます。でも、普段靴下の感触が常時意識に上ってくることはないでしょう。満員電車の中で真後ろに立っている女性の長い髪の毛が、ちょっと自分の肩にかかっているような時に、「あ、髪の毛が肩に・・・」というのを感知することさえできるのに、自分が着ている服の重みを「気になって」しまったりはしないのです。こうした皮膚感覚を機械・装置に置き換えて考えてみれば、全て精巧な圧センサーとか温度センサーみたいなので物理的に観測できるものであり、科学的記述は可能なのだと思えますよね。抽出や再構成に回されたりしない感覚データは膨大に存在しているはずです。


・自分の意識というのはどうやって作られるのか

これはよく判りません。でも、何となくはイメージがあります。本来的に決まっている部分と、そこからの派生、というようなことでしょうか。

赤ちゃんは自分というか、「意識」はあるのか、というと、難しいですよね。他者との区別というのはあると思いますが、それは犬の認識レベルなんかと大差ないようにも思えます。犬が自分と、他の生き物を区別可能なのと同じようなものかな、と。本来的な機能は、遺伝子的な設定になっているんじゃないのかな。泣く、笑う、怒る、不安・恐怖、という程度の極めて少ない分類だけある、という感じかな。区分が少ないというのは、必要なスイッチ(神経細胞)は限定的でいいハズだし。なので、大体の生き物に備わっている「本能的な部分」というのが初期設定で作られている、と。システムは、まるで先に例に挙げたテレビのブラウン管みたいなものかな、と。ブラウン管は基本色は3色しかなく、そのドットのON-OFFで画像を構成し、カラー映像を映し出すことが可能なのですよね。しかも、「映し出す画像」というのは、無限に(本当は無限じゃないけど)あって、映画かもしれないしニュースかもしれないし、色々とあるでしょう。その瞬間瞬間に映っている映像自体は、どれも違っています。つまり、ドットの信号を拾い集めたら、ON-OFFの組み合わせが膨大な数になる、ということなんですよね。脳もこれに近い感じで、初めの持っているシステム自体は単純で、少数の「本能的部分」だけがある、と。信号の種類も当然少なく、例えば、全部真っ黒な画像、真っ白な画像、左右で白と黒に二分、上下で白と黒に二分、みたいな、そういう単純な画像しか持ってない、と。でも、成長とともに、記憶データがどんどん増えていくので、ON-OFF信号の組み合わせと種類は膨大になっていき、複雑な画像を映し出せるようになる、ということかな。しかも、一瞬たりとも同一の画像というのが映されることがないんですよね。静止画じゃなく、動画なんですよね。ドットの一つ一つは、神経細胞の意味合いです。

 ◎意識というのは、テレビのブラウン管のようなものかな?
 ◎信号の組み合わせは複雑化していき、動画を映し出しているような感じ
 ◎ドットのON-OFF条件は全員違う(=同一にできない)

信号は元々の性質や生きていく中での経験(=どんな記憶が作られるか?)によって、条件付けが異なっていく。生き物なんかでも、種によっては「好戦的」とか、「臆病」とか、「好奇心旺盛」とか、そういう性質の違いがあったりするので、これもほぼ遺伝子的に規定されていることなんだろうな、と思っています。人間であっても、赤ん坊のうちは反射みたいなものが殆どで、原始反射みたいなものかもしれないが、口のそばに乳首とか何とか→吸う、みたいな限定的なものなんじゃなかろうか、と。なので、赤ん坊だと「みんな同じような反応を示す」ことが多いのではないかな。大人になるに従い、条件付けの枝分かれが膨大になるので、みんな違った人間になるし意識も違っているのではないかな、と。

機械・装置なんかであっても、自動的にドットの信号を制御してON-OFFの組み合わせを駆使することは可能であろう。しかし、その時に「映し出された画像」はどのようなものが映っているのか、というのが問題になると思う。人間であれば、「見て理解できるドラマ」とか「筋のある映画」みたいなものを「映せる」ということなんだろうと思う。しかし、機械だとメチャクチャにランダムな信号になってしまったりして、「人の形」とかのような認識可能な映像を生み出せない(機械自身がそれを認識できない)のではなかろうか、と思うのですよね。もしも、そうした「意味のある映像」を映し出そうとすれば、事前に「録画映像」みたいなものを映すように入力しておくとか、条件設定をしておかねばならないんだろうな、と。でも、ブラウン管テレビとランダム再生可能な映像再生機の組み合わせからは、意識は生じてないとしか思えないんですよね。映像そのものを人間が解釈可能だとしても。遠い未来になった時、人間の意識を生ずる仕組みが完全に解明されれば、そのプログラムに従って制御することは可能になるのかな。


人間は「自分のことを全て知っているか」というと、それは無理なのだと思う。それは意識に上ってくることを、全て完璧に記憶したり思い出したりできないからなんだろうな、と。自分自身で自分の過去を全部再現できないし、完全記録も認識できないし見ることができない為なのだと思いますね。なので、自分で自分のことが全て判るということはない。「新たな自分を発見」という感覚は、見ることができない(=思い出せない)過去の記録があることでも生じてしまいそう。あの時、何を思ったか、考えたか、感じたか、どんな気分だったか、どんな状況に置かれていたか、みたいなデータを、過去の全時間に渡って確認するなんてできないもんね。誰と一緒だった、誰とメシを食べた、何かの話を聞かされた、・・・・こういうのが膨大にあるんですから。


・アリは意識を持っているのか

アリに意識があるかどうか判りませんけれども、「原始的な反応」みたいなのは当然ありますよね。赤ん坊の反応と根本部分は似ていると思います。遺伝子的に組み込まれた本能だけしかないかもしれないし、アリはアリなりにあれこれと思案しているかもしれない(笑)。でも意識があったら、巣を襲いにやってくる自分の何倍もでかいカマキリなんかに果敢にアタックしたりはできなさそう。ソッコウで逃げるんじゃないだろうか?自由な意識がないことで、「巣を守る」という行動プログラムに基づいて(本能みたいなものか?)、外敵と戦うのではないかと思える。自分が死ぬことは厭わず種族が生き延びることを優先するんだろうか。

確かにアリは自由に歩き回っていたりしますけれども、決定論的には判らないんだろうと思います。どのアリが3分後にどの場所に、どういう向きでどんな風に存在しているか、ということを計算結果としては答えを見つけられないんだろうと思う。存在確率みたいなのは、十分有り得ると思うのですけれどね。その更に3分後になれば、存在確率のバラツキがとても大きくなり、もっと予測が難しくなるでしょう。でも、現実というのは、そうした可能性の中から「ただ一つの状態」が選ばれ、結果が出されます。唯一の答えが、現実であることに違いはないのです。これは麻雀をする時、配牌時点でその局の終わりまでを計算によって答えを出そうとするようなものなんですよね。東家が「~を捨てたから」というような影響を常に受けたりして、次々と影響は波及していき、最終的に誰かがアガッて結果が出されるんですよね。

機械に意識を持たせられるというのは、こうした唯一の答えを求めさせるということに近くて、すると膨大な計算量になってしまって、宇宙全部を演算器にしたとしても有限時間で計算結果が出せない、というような「今の技術水準では物理的に不可能」みたいなことになってしまうのだろうか。恐らく、将棋の必勝手順が計算によって発見されるとか、囲碁の究極の一手(初手)が完全な論理で証明される、というようなことにも近いかもしれません。