前の続きですが、字数がオーバーしたので分けました。
池田氏は記事の本文を書き換えたな。
こうだ。
『残念でした。価格は、どんな教科書にも書いてあるように、需要と供給で決まるのだ。その需要を決める要因の一つが所得だが、所得水準が上がれば価格が自動的に上がるメカニズムがあるわけではない(PCのように競争的な製品の価格は所得と無関係に下がり続けている)。ましてウェイトレスの所得と「平均生産性」には、何の関係もない。製造業の生産性が上がっても、たとえばジャズ喫茶の限界生産性が下がれば、そのウェイトレスの時給は下がるのである。』
アレ?『あるわけないだろ』は何処に行ったんでしょう?(笑)
初めにに引用した『残念でした』以下の部分を比較して読んでみて下さい。
『残念でした。所得水準が価格を決めるメカニズムなんてあるわけないだろ。価格は需要と供給で決まるのであって、その需要を決める要因の一つに所得はあるが、所得が上がれば価格が上がるといった1対1の因果関係があるわけではない。まして彼が引き合いに出していたウェイトレスの時給が、経済全体の「平均生産性」で決まるなどというメカニズムがあるはずがない。』
新たにジャズ喫茶まで登場させたようですが、まあ、これはいい。大した問題じゃない。けど、池田氏は有名なブロガーらしいのだが、全然当てにはならんな。
自分の主張に信念があるのであれば、変える必要性なんかないはずだ。正しい、と確信していたのであれば、それを貫けばいいのではないか?何故今更になって変えるのだろうか?他のαブロガーを批判していた割には、変ですね。素人相手だからか?(笑)
価格は需要と供給で決まる、それはそうだ。だが、全部が真実じゃない。現実には需要側も供給側も財やサービスも「移動制限」がある。原子みたいに(これってナンだけど例えば気体分子みたいに?ってことか)移動できるわけじゃない。池田氏はPCの価格が下がり続けていることを書き加えてきたが、全世界の需要量が増大してきたのであれば多分下がるだろう。インターネットプロバイダ料金は国際競争には無関係に下がり続けてきた。昔のダイヤルアップに比べれば数百倍とか数千倍もの性能になったが、価格は大幅に低下した。「インターネット接続サービス」というものを中国から輸入してきてるわけではないし、国際競争がなくても需要が増大すれば下がるのだ。携帯電話料金もそうだ。加入者が増大して需要が増えれば、価格は下がるだろう。それは経済学の教えに従うところだろう。サービスは、財と必ずしも同一に扱えない部分が必ずあると思っている。特に人的サービスの比重の大きなものはそうなんだろうと思う。それは供給者(労働者)を簡単に移動できないからだ。需要側もそうだろう。移動に大きなコストがかかるからだろうと思う。
最貧国で「ネイルアート」の商売をしようとしても、成り立たないだろう。日本人のネイルアーティスト(?と呼ぶのだろうか、ちょっと判らんけど)を連れて行って、商売をしようとしても需要が殆どないのでダメだろう。しかし、現実に日本国内では商売が成り立つ。ネイルアートという労働、提供サービスは、地域が変わっても内容は基本的に同じであろう。「その仕事に固有の生産性」が変わるとは思われない。だが、ある地域では商売として成り立ち、ある地域では成り立たない。これは当たり前。需要がないのは、その地域の「賃金(所得水準)が安すぎる」からだ。グローバル競争云々で、ネイルアートの仕事が変わるわけじゃない。もしも海外に激安のネイルアートの店があって、日本では1万円かかるのに、そこでは千円でできるとしても、実際には日本人はあまり利用しないだろう。そこに行くまでの時間や移動コストがかかるからだ。千円で営業している店の外国人は、日本に来て営業した方がはるかにお得なのに、中々やってこれない。それは移動コストとか地域的な障壁が存在しているからだろう。現実世界の中では、「誰も原子(分子)みたいに」振舞うことなんてできない。
日本の喫茶店でコーヒー1杯に600円も取る店があり、この店は生産性が低く国際競争力も低いから、グローバル競争に敗れて潰れる、とか言うのかもしれないが、実際にそれで営業していて、そこの従業員には法定最低賃金よりも高い時給(勿論中国の平均なんかに比べればべら棒に高い)をわざわざ支払って「営業している」んですよ(笑)。それは需要があるからで、もしもその価格に不満なのであれば、利用しなければいい。利益がなくなれば企業は必然的に撤退するのですから。しかし現実に営業可能というのは、経済学でいうところの合理的な結果なのであり、グローバル競争だの生産性が低いから云々ということなんかではない。「中国でコーヒー1杯が80円で飲める喫茶店があるからそこを利用します」、なんて言う日本人に出会ったことはないが(笑)。一杯600円の値付けというのは、経営(供給)側が需要者に「聞いて回って」決めるんじゃないんですよ。需要量が減ったからといって、すぐさま価格変動なんかは起こらないですよ(笑)。供給側が勝手に決めてるだけ。想定している利益率から、価格が設定されているのです。利益率算出には当然従業員の賃金(ウェイトレスの時給だな、笑)だって入っているに決まっていますよ。
話は変わるが、物々交換の世界を考えてみよう。
Aという島ではバナナが自然に常時膨大になっていて、誰でも自由に食べられるとする。別なBという島では、バナナを食べたことがなく、バナナの需要があるとしよう。Bの島ではバナナの代わりに、イモが常時大量に自由に採れるとする。で、Aの島で「バナナを採取し、船に運ぶ人」という仕事a1と、「バナナを船でBに運ぶ」という仕事a2というのができたとする(島Bからは島Aに行ける船がないものとする。これは技術水準がAで高く、Bにはそれができる技術がない、ということです)。それぞれ一人が始めたとしよう。Bの島に行き、バナナ10本とイモ10個を交換して返ってくるとする。で、仕事a2の人がイモ7個、仕事a1の人がイモ3個分が取り分だとしよう。その仕事が島Aでは「オイシイ仕事」であると思うのであれば続けられるだろう。
だが、島Aの人たちが別にイモと交換する為に島Bに行かなくてもいいと思うのであれば、誰も運ばなくなる。それは仕事の生産性とか国際競争なんかには関係ないだろう。「労力が大きい」かどうかである。思っているよりも労力が大きすぎる(例えば船が途中で難破したりして死ぬリスクとか)と感じるのであれば、誰もやらないのだ。もっと別な仕事、例えば魚を取るとか、金属を探す為に山を掘るとか、そういったことをやる。それは基本的には島Aでの生活環境・水準によるのである。逆に、イモとの交換がとてもよい商売であると感じる人たちが多ければ、島Aからバナナを運んでいく人々が増えていくだろう。それもある水準に達すると、それ以上はバナナを運ぶ仕事はそれ以上必要とされなくなる。島Bでの需要がいずれ頭打ちになってしまうからだ。多くの人が島Aから運搬するようになれば、交換比率はバナナ:イモが10:10だったのが10:8とかに低下するかもしれない。これは需給で決まる、と言えるが、島Aから運ぶ仕事の手間暇と、貰えるもの(この場合はイモだ)の価値の感じ方でしかない。イモの適正な絶対価格なんてないからだ(笑)。交換比率が1:1であれば継続されるが、バナナ10本に対してイモ5個とかまで落ちてしまうと、「こんなに大変な思いをして運ぶのはイヤ(損)だ」と感じるようになって、やはり誰も運ばなくなるかもしれない。先の仕事a1の人とa2の人の取り分にしても、貰えるイモが余りに少なくてバナナを採取して運ぶのはイヤだ、とa1の人が思うのであれば、Bにバナナを運ぶ商売を止めるかa1の人のイモの取り分を増やすしかないだろう。
なので、絶対価格を需給で決定するのは難しい。島Aでのa1やa2にかかる賃金コスト(労力)は正確に計算できない。イモの絶対価格も実際には存在しない。Bの島ではタダ同然なのだから。結局、ある仕事をやってもいいと思えるかどうか、ということに行き着くと思われ、それは自分が生活している社会環境、生活状況や期待・欲望という判断(つまりは人間の心の問題?)によるのだろうと思う。
池田氏は記事の本文を書き換えたな。
こうだ。
『残念でした。価格は、どんな教科書にも書いてあるように、需要と供給で決まるのだ。その需要を決める要因の一つが所得だが、所得水準が上がれば価格が自動的に上がるメカニズムがあるわけではない(PCのように競争的な製品の価格は所得と無関係に下がり続けている)。ましてウェイトレスの所得と「平均生産性」には、何の関係もない。製造業の生産性が上がっても、たとえばジャズ喫茶の限界生産性が下がれば、そのウェイトレスの時給は下がるのである。』
アレ?『あるわけないだろ』は何処に行ったんでしょう?(笑)
初めにに引用した『残念でした』以下の部分を比較して読んでみて下さい。
『残念でした。所得水準が価格を決めるメカニズムなんてあるわけないだろ。価格は需要と供給で決まるのであって、その需要を決める要因の一つに所得はあるが、所得が上がれば価格が上がるといった1対1の因果関係があるわけではない。まして彼が引き合いに出していたウェイトレスの時給が、経済全体の「平均生産性」で決まるなどというメカニズムがあるはずがない。』
新たにジャズ喫茶まで登場させたようですが、まあ、これはいい。大した問題じゃない。けど、池田氏は有名なブロガーらしいのだが、全然当てにはならんな。
自分の主張に信念があるのであれば、変える必要性なんかないはずだ。正しい、と確信していたのであれば、それを貫けばいいのではないか?何故今更になって変えるのだろうか?他のαブロガーを批判していた割には、変ですね。素人相手だからか?(笑)
価格は需要と供給で決まる、それはそうだ。だが、全部が真実じゃない。現実には需要側も供給側も財やサービスも「移動制限」がある。原子みたいに(これってナンだけど例えば気体分子みたいに?ってことか)移動できるわけじゃない。池田氏はPCの価格が下がり続けていることを書き加えてきたが、全世界の需要量が増大してきたのであれば多分下がるだろう。インターネットプロバイダ料金は国際競争には無関係に下がり続けてきた。昔のダイヤルアップに比べれば数百倍とか数千倍もの性能になったが、価格は大幅に低下した。「インターネット接続サービス」というものを中国から輸入してきてるわけではないし、国際競争がなくても需要が増大すれば下がるのだ。携帯電話料金もそうだ。加入者が増大して需要が増えれば、価格は下がるだろう。それは経済学の教えに従うところだろう。サービスは、財と必ずしも同一に扱えない部分が必ずあると思っている。特に人的サービスの比重の大きなものはそうなんだろうと思う。それは供給者(労働者)を簡単に移動できないからだ。需要側もそうだろう。移動に大きなコストがかかるからだろうと思う。
最貧国で「ネイルアート」の商売をしようとしても、成り立たないだろう。日本人のネイルアーティスト(?と呼ぶのだろうか、ちょっと判らんけど)を連れて行って、商売をしようとしても需要が殆どないのでダメだろう。しかし、現実に日本国内では商売が成り立つ。ネイルアートという労働、提供サービスは、地域が変わっても内容は基本的に同じであろう。「その仕事に固有の生産性」が変わるとは思われない。だが、ある地域では商売として成り立ち、ある地域では成り立たない。これは当たり前。需要がないのは、その地域の「賃金(所得水準)が安すぎる」からだ。グローバル競争云々で、ネイルアートの仕事が変わるわけじゃない。もしも海外に激安のネイルアートの店があって、日本では1万円かかるのに、そこでは千円でできるとしても、実際には日本人はあまり利用しないだろう。そこに行くまでの時間や移動コストがかかるからだ。千円で営業している店の外国人は、日本に来て営業した方がはるかにお得なのに、中々やってこれない。それは移動コストとか地域的な障壁が存在しているからだろう。現実世界の中では、「誰も原子(分子)みたいに」振舞うことなんてできない。
日本の喫茶店でコーヒー1杯に600円も取る店があり、この店は生産性が低く国際競争力も低いから、グローバル競争に敗れて潰れる、とか言うのかもしれないが、実際にそれで営業していて、そこの従業員には法定最低賃金よりも高い時給(勿論中国の平均なんかに比べればべら棒に高い)をわざわざ支払って「営業している」んですよ(笑)。それは需要があるからで、もしもその価格に不満なのであれば、利用しなければいい。利益がなくなれば企業は必然的に撤退するのですから。しかし現実に営業可能というのは、経済学でいうところの合理的な結果なのであり、グローバル競争だの生産性が低いから云々ということなんかではない。「中国でコーヒー1杯が80円で飲める喫茶店があるからそこを利用します」、なんて言う日本人に出会ったことはないが(笑)。一杯600円の値付けというのは、経営(供給)側が需要者に「聞いて回って」決めるんじゃないんですよ。需要量が減ったからといって、すぐさま価格変動なんかは起こらないですよ(笑)。供給側が勝手に決めてるだけ。想定している利益率から、価格が設定されているのです。利益率算出には当然従業員の賃金(ウェイトレスの時給だな、笑)だって入っているに決まっていますよ。
話は変わるが、物々交換の世界を考えてみよう。
Aという島ではバナナが自然に常時膨大になっていて、誰でも自由に食べられるとする。別なBという島では、バナナを食べたことがなく、バナナの需要があるとしよう。Bの島ではバナナの代わりに、イモが常時大量に自由に採れるとする。で、Aの島で「バナナを採取し、船に運ぶ人」という仕事a1と、「バナナを船でBに運ぶ」という仕事a2というのができたとする(島Bからは島Aに行ける船がないものとする。これは技術水準がAで高く、Bにはそれができる技術がない、ということです)。それぞれ一人が始めたとしよう。Bの島に行き、バナナ10本とイモ10個を交換して返ってくるとする。で、仕事a2の人がイモ7個、仕事a1の人がイモ3個分が取り分だとしよう。その仕事が島Aでは「オイシイ仕事」であると思うのであれば続けられるだろう。
だが、島Aの人たちが別にイモと交換する為に島Bに行かなくてもいいと思うのであれば、誰も運ばなくなる。それは仕事の生産性とか国際競争なんかには関係ないだろう。「労力が大きい」かどうかである。思っているよりも労力が大きすぎる(例えば船が途中で難破したりして死ぬリスクとか)と感じるのであれば、誰もやらないのだ。もっと別な仕事、例えば魚を取るとか、金属を探す為に山を掘るとか、そういったことをやる。それは基本的には島Aでの生活環境・水準によるのである。逆に、イモとの交換がとてもよい商売であると感じる人たちが多ければ、島Aからバナナを運んでいく人々が増えていくだろう。それもある水準に達すると、それ以上はバナナを運ぶ仕事はそれ以上必要とされなくなる。島Bでの需要がいずれ頭打ちになってしまうからだ。多くの人が島Aから運搬するようになれば、交換比率はバナナ:イモが10:10だったのが10:8とかに低下するかもしれない。これは需給で決まる、と言えるが、島Aから運ぶ仕事の手間暇と、貰えるもの(この場合はイモだ)の価値の感じ方でしかない。イモの適正な絶対価格なんてないからだ(笑)。交換比率が1:1であれば継続されるが、バナナ10本に対してイモ5個とかまで落ちてしまうと、「こんなに大変な思いをして運ぶのはイヤ(損)だ」と感じるようになって、やはり誰も運ばなくなるかもしれない。先の仕事a1の人とa2の人の取り分にしても、貰えるイモが余りに少なくてバナナを採取して運ぶのはイヤだ、とa1の人が思うのであれば、Bにバナナを運ぶ商売を止めるかa1の人のイモの取り分を増やすしかないだろう。
なので、絶対価格を需給で決定するのは難しい。島Aでのa1やa2にかかる賃金コスト(労力)は正確に計算できない。イモの絶対価格も実際には存在しない。Bの島ではタダ同然なのだから。結局、ある仕事をやってもいいと思えるかどうか、ということに行き着くと思われ、それは自分が生活している社会環境、生活状況や期待・欲望という判断(つまりは人間の心の問題?)によるのだろうと思う。