前の記事の続きです。
ポピュリズム批判を繰り返して得意になっているようだが、肝心の質問には全く回答できないのは、池田信夫氏の十八番なのであろうか。
私は池田氏を全く知らないし、特別な遺恨も抱いてはいないが、どうやら「質問されては困ること」というのがあるようだ。こちらのTBもコメントも掲載しないからね。彼は”TBが届かない”とコメントに書いていたので、コメントに前の記事の3つ質問だけを書いたのだが、それも掲載拒否だ(笑)。まあ、それは管理者が決めることであるから自由なのだからいいのですけどね。
彼は以前に山形氏との平均賃金論争で次のように書いている。
経済の各部門の限界生産性は異なり、それによって賃金も異なる。その集計として平均は算出できるが、それは因果関係を意味しない。もちろん「生産性の高い国は所得も高い」ぐらいのことはいえるだろう。こういう関係を私は前の記事で「日本の所得水準が高いぶんだけ、絶対価格は中国よりも高くなる」と(わざと曖昧に)書いた。山形氏は、見事にこれに引っかかって「じゃあ池田くんの言う『所得水準』はどうよ? 所得水準が絶対価格を決めるメカニズムはあるんだよねえ?」という。
残念でした。所得水準が価格を決めるメカニズムなんてあるわけないだろ。
私がこのように記事に引用した後で、彼は内容を書き換えた。まあ、それもいいでしょう。思い直して表現を書き換えることもあるでしょうから。だが、卑怯な感じは否めないな。
更に、
池田信夫 blog 賃金格差の拡大が必要だ
追記2:昨日の記事では、山形氏は反論もできず、「分裂勘違い君劇場」に助けを求めているが、この話は彼がデカ文字で強調した「賃金水準は、[労働者の]絶対的な生産性で決まるんじゃない。その社会の平均的な生産性で決まるんだ」という命題を証明していない。だいたい平均生産性だけで賃金が決まるのなら、プログラマとウェイトレスの賃金の差は何で決まるのかね。
とも書いている。
彼は主張者が自説を「証明することを求める・反論を求める」が、自分に都合の悪い質問に対してはスルーなんだそうだ。これも彼の自由だから別にいいのだが、こちらの質問内容なんてたったの3つであり、難しい内容でも何でもないのだから簡単に答えられそうなものだ(爆)。しかし、彼には答えられないだろう。何故なら答えると、自らの主張に綻びを生じるからだ。なので、コメントやTBの表示を拒否し、都合の悪い部分は隠しておきたいと考えるのも当然の反応なのであろう。
こういう手合いというのは、いくつかの共通点が見られる。
・大衆批判
自分自身は知的水準が高いと自認しているのか、大衆の反応が愚かしく感じるようである。それ故、ポピュリズムとして批判をするのであろう。それは一部正しいこともあるが、「大衆は無知だ、古い脳だ、論理的推論ができない、1段階の論理しか持たない」などと批判する割りには、自分自身が正しく考えているかというとそうでもない。彼らが批判する”無知な”大衆とあまり違いはないか、むしろ下手に経済学の理屈などを知っている分だけ「トンデモ科学」同様に「トンデモ」な主張を繰り広げ、それを撒布しているように思われる。もっとタチが悪いのである。
・自分の主張を説明できない
大衆批判の根拠は、「自分は知っている、理解しているが、大衆は無知で愚かだから、それがわからないのだ」ということなのであろう。では、自分が主張している説の根拠を説明してごらんなさい、と求めると、できないのである。そりゃそうだわな。反論には耐えられない程度の、脆弱な根拠なのだから。例えば、「上限金利引下げる→資金供給が減る」ということが現実に観察されてるとは限らないのですから。矛盾があるじゃありませんか、と言われると、答えられないんですよ。要するに結論を先にして、それに自分の知ってる理屈を都合よく組み合わせるだけなのと変わりない。「サラ金の90%は闇金だ」とか言っておきながら、「引下げで中小業者が潰れるからだめだ」とも言う。上限引下げで大手・準大手だけ生き延びれば、他は大半が「闇金」が潰れるだけだから好都合じゃないですか(笑)。
要するに、「思いつき」か「思い込み」で言ってるのと変わりがないのである。自らが批判している大衆の感情論と何ら違いがないのである。それが「新しい脳」を持っていると過信しているのか、大衆よりも優れた判断を下せると自惚れているのか、知識人を気取っている人間の正体ということなのであろう。
ポピュリズム批判を繰り返して得意になっているようだが、肝心の質問には全く回答できないのは、池田信夫氏の十八番なのであろうか。
私は池田氏を全く知らないし、特別な遺恨も抱いてはいないが、どうやら「質問されては困ること」というのがあるようだ。こちらのTBもコメントも掲載しないからね。彼は”TBが届かない”とコメントに書いていたので、コメントに前の記事の3つ質問だけを書いたのだが、それも掲載拒否だ(笑)。まあ、それは管理者が決めることであるから自由なのだからいいのですけどね。
彼は以前に山形氏との平均賃金論争で次のように書いている。
経済の各部門の限界生産性は異なり、それによって賃金も異なる。その集計として平均は算出できるが、それは因果関係を意味しない。もちろん「生産性の高い国は所得も高い」ぐらいのことはいえるだろう。こういう関係を私は前の記事で「日本の所得水準が高いぶんだけ、絶対価格は中国よりも高くなる」と(わざと曖昧に)書いた。山形氏は、見事にこれに引っかかって「じゃあ池田くんの言う『所得水準』はどうよ? 所得水準が絶対価格を決めるメカニズムはあるんだよねえ?」という。
残念でした。所得水準が価格を決めるメカニズムなんてあるわけないだろ。
私がこのように記事に引用した後で、彼は内容を書き換えた。まあ、それもいいでしょう。思い直して表現を書き換えることもあるでしょうから。だが、卑怯な感じは否めないな。
更に、
池田信夫 blog 賃金格差の拡大が必要だ
追記2:昨日の記事では、山形氏は反論もできず、「分裂勘違い君劇場」に助けを求めているが、この話は彼がデカ文字で強調した「賃金水準は、[労働者の]絶対的な生産性で決まるんじゃない。その社会の平均的な生産性で決まるんだ」という命題を証明していない。だいたい平均生産性だけで賃金が決まるのなら、プログラマとウェイトレスの賃金の差は何で決まるのかね。
とも書いている。
彼は主張者が自説を「証明することを求める・反論を求める」が、自分に都合の悪い質問に対してはスルーなんだそうだ。これも彼の自由だから別にいいのだが、こちらの質問内容なんてたったの3つであり、難しい内容でも何でもないのだから簡単に答えられそうなものだ(爆)。しかし、彼には答えられないだろう。何故なら答えると、自らの主張に綻びを生じるからだ。なので、コメントやTBの表示を拒否し、都合の悪い部分は隠しておきたいと考えるのも当然の反応なのであろう。
こういう手合いというのは、いくつかの共通点が見られる。
・大衆批判
自分自身は知的水準が高いと自認しているのか、大衆の反応が愚かしく感じるようである。それ故、ポピュリズムとして批判をするのであろう。それは一部正しいこともあるが、「大衆は無知だ、古い脳だ、論理的推論ができない、1段階の論理しか持たない」などと批判する割りには、自分自身が正しく考えているかというとそうでもない。彼らが批判する”無知な”大衆とあまり違いはないか、むしろ下手に経済学の理屈などを知っている分だけ「トンデモ科学」同様に「トンデモ」な主張を繰り広げ、それを撒布しているように思われる。もっとタチが悪いのである。
・自分の主張を説明できない
大衆批判の根拠は、「自分は知っている、理解しているが、大衆は無知で愚かだから、それがわからないのだ」ということなのであろう。では、自分が主張している説の根拠を説明してごらんなさい、と求めると、できないのである。そりゃそうだわな。反論には耐えられない程度の、脆弱な根拠なのだから。例えば、「上限金利引下げる→資金供給が減る」ということが現実に観察されてるとは限らないのですから。矛盾があるじゃありませんか、と言われると、答えられないんですよ。要するに結論を先にして、それに自分の知ってる理屈を都合よく組み合わせるだけなのと変わりない。「サラ金の90%は闇金だ」とか言っておきながら、「引下げで中小業者が潰れるからだめだ」とも言う。上限引下げで大手・準大手だけ生き延びれば、他は大半が「闇金」が潰れるだけだから好都合じゃないですか(笑)。
要するに、「思いつき」か「思い込み」で言ってるのと変わりがないのである。自らが批判している大衆の感情論と何ら違いがないのである。それが「新しい脳」を持っていると過信しているのか、大衆よりも優れた判断を下せると自惚れているのか、知識人を気取っている人間の正体ということなのであろう。