いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

思考と主張の難しさ

2008年01月04日 18時55分50秒 | 俺のそれ
双方の様々な立場を考慮して、意見を表明したり議論したりすることは、結構難しいと思う。そうではあっても、世の中の多くのことについて考えたり、賛否を表明したり、物事を決定していかねばならない。みんなが同じようなレベルで決定することは困難であり、誰もが納得できる結論を得るのは不可能であろう。

特に、「納得できないーーイィィ!」と頑強に言い続けられると、相手を「納得させる」ことに成功できない限り、終わりがない。無限に要求しようと思えば、この究極のセリフ「納得できない」を出し続けることで達成できる。昔にも書いたけれども、この「納得できない」という要求は最初の1回までで、それ以降には使用不可とするべきではないかとさえ思う(笑)。


こちらの記事に頂いたコメントが興味深かったので、記事で書いてみたい。
コメントの一部を再掲いたします。

=====

理系研究者は論理的な筋道を立てて物事を考察する訓練を受けております。しかし、論理の組み立ては基本的には極めて特化した分野に関して、客観的事実を持って己自身が打ち立てた仮説を証明するという行為にのみ行われることが多いとお考えください。
専門外に関してはデータ不足のために研究者以外の人(つまりは素人)と何ら変わりはありません。
また、下手をすると自己主張の為に論理の飛躍を行う方もおられます。
その修正を行う意味で、専門分野の人間間で相互批判を行う場が学会や論文になっています。

ちなみに批判を受けた場合は、再批判を防ぐためにも自身が持ちうる客観的な事実でのみ反論を行う思考回路が強く働きます。そのため、そのようなデータが得られない場合は「分からない」あるいは「答えない」となります。
普通ならあらゆる知識を総動員して回答することを試みる抵抗をされるのかもしれませんが、特性だスルーだと仰る「答えない」あるいは「分からない」と答えるのが研究者としては正解だと思っています。

研究者は分からないことだらけの中で仕事をしていますので、都合の悪いこと分からないことは自身で完全に消化できるまでは語りません。
そういうどうしようもない人種だとお考えください。

=====


なるほど、理系研究者の傾向のようなものを説明いただいたので、そうなのだな、と思います。ご指摘のような「どうしようもない人種」とも思っておりませんが、このコメント中にも疑問点があるな、と思いました。

前提として、研究者というのは「都合の悪いこと、分らないことは自身で完全に消化できるまでは語らない」という人種である、と。そうであれば、自身で消化できず分らないことが多くある場合には、元々の意見としては、例えば「どちらとも言えない」「自分にはどうするか分らない」というようなものになっているはずで、「~するべきだ」「~するのは当然だ」「~するのに賛成だ」という意見表明はなされないのではなかろうか、と思います。今回の例では、「国がC型肝炎訴訟の原告団に一律に賠償する」ことに対して、賛成か否かが問題とされていました。

「国が一律に賠償すべし、(できないと言っていたのを)世論が政府を動かした」というご意見を目にしたが故に、なぜそのような意見となっているかということについてご質問をしたところ若干の返答をいただき、その返答中に提示された説明に疑問点があるので、違う見解を示してみましたが、それに対してはご返答がありませんでした。

主張する意見に「矛盾する点や都合の悪い点がある」と本人が認識しているのであれば、「自覚していても主張する」か、コメントで紹介されたように「(自覚しているので)語らない」ということになるかと思います。つまり「語らない(明確に主張しない)」という場合には、都合の悪い部分があることが自覚的でなければならず、意見表明としては「一律に賠償すべきかどうか分らない」とか「賛否を決めかねる」というような意見であるはずです。「自覚していても主張する」のであれば、矛盾しますよね、という指摘に対しては「そうだ(=肯定)、だけど人情として賠償すべきだ」という極めて単純な見解になってもいいはずなのですが、この「そうだ」という同意を示すことが全くないことを言っているのです。「~なので、国は賠償すべき」と主張するのと同等に、「自論には都合の悪い点はあるよ、けど、すべし、と言ってるんだよ」と表明するのが誠実な主張なのではありませんか、ということですね。

これは偽装表示の類と似たようなものなのであって、ある製品説明に「美しくダイエットできるので飲用すべきだ」という主張が書かれていても「副作用として肝障害や重篤な下痢を来たすことがあります」と書いてなければ、不誠実と非難されても当然なのではありませんか、ということです。あくまで都合の良い「美しくダイエットできます」という主張点だけを殊更強調することは問題ですよね、ということを言っているのであって、主張点を書くなとか、分らないと言うなとか言ってるのではありません。

それとも、主張する意見には「矛盾する点や都合の悪い点はない」と考えているのかもしれません。矛盾点などについて自覚的であることの方が少ないと個人的には思います(自分がそうだから、なのかも、笑)。そういう場合こそ議論というのが有効になるのではないでしょうか。でも、「~は矛盾しませんか」と指摘しても、説明することもなく前言撤回でもなく、指摘事項に同意なのか不同意なのかさえ判定できないのですね。同意ならば訂正すればいいし、不同意であれば「~は矛盾しません、なぜなら…」のように説明可能なものであるはずです。「この製品はダイエットできます」ということだけを掲げ続け、「でも酷い下痢になるのではありませんか」と指摘されても無視を決め込み、スルーで済ませようとする人たちはいる、ということでしょうね。

また「理系研究者は論理的な筋道を立てて物事を考察する訓練を受けております」というご意見がありましたが、これを他の分野について適用できない理由というものが私にはよく判りません。少なくとも、「薬害が原因なのだから、国は一律賠償すべし」という主張をするからには、「薬害が原因である」「損害を与えたのは製薬会社及び国(悪徳役人)である」「よって賠償すべし」というような、道筋を立てているはずです。その論理的考察の結果、「国が一律賠償するのは正しい」という意見に結びついていると思うのは自然です。もしも論理的に正しくないけれど、そういう主張をしているんだ、ということであるなら、「最初の質問」の段階で「まったく論理的ではない(or論理的には間違っていると思う)が、賠償すべし、という主張をしているのだ」と答えるはずですからね。初めの質問の時に、あたかも「自己の主張には論理的正当性がある」というような誤解を与える回答をするはずがない、ということですよ。
(例えば「裁判所が独立性を失っている傾向が顕著」という主張にプラスして関連性の薄い記事にリンクを張る、相手側主張の改変文を回答に付ける、などの行為は、何らかの意図が窺われる>参考記事

主張点について、一度は「論理的に自説の補強」を試みながら、更に指摘されればスルーというのは、故意性のある偽装表示みたいなものと変わりない、ということです。ヘンな理屈を付け足してくる分だけ、「よく判らないけど、賛成だ」という意見よりも厄介でタチが悪い、と思っています。
まあ、考察の道筋の欠陥を指摘されたとしても、決して認めないという「性質」は研究者に限ったことではありません(笑)。論理的な道筋を立てて考察する訓練を受けていても、論理的でないことを言う人はいる、ということでしょう。論理的思考訓練が何らの役にも立っていないということであれば、日本の大学教育というものに大いなる疑念を抱かざるを得ません。研究者への過大な期待でも何でもなく、逆に、驚きと絶望を感じたのです。高等教育を経てきた、知的水準の高いと思われている人々でさえ「この水準ですか」、と。


話が離れますけれども、少し視点を変えてみましょう。
検察側と被告側とか、原告側と被告側というような対立する意見があるとします。自分がその裁判員に任命されたようなものと思って、双方の主張というものについて考えるものとします。論者A、論者B、傍聴員(自分)みたいにいる、ということですね。さて、ここで傍聴員の意見には色々とあるので、それを考えてみます。


○例1:

傍聴員 「論者Aの立論も論者Bの立論も、知識のない私にはよく分りません」
論者 「分らないなら首を突っ込むな!」

論者AやBの目的とは何でしょうか?一方が他方を撃破して、(論の)存在を抹消するということなのでしょうか?そうであるなら、無限に戦いを継続していくということでしょう。どちらかが完全絶滅するまで(笑)。
平凡にいえば、相手側ではなく、その他大勢へ「自分の立論」であるところの主張点を広く知らしめ、世の中全体に多数派を形成してもらえば、多くの「誤解する人」「誤った認識を持つ人」が発生してくるのを防ぐことに資すると考えるでしょう。勿論、相手側を撃破して頂いても結構ですが、殆どの場合には「論者Aは論者Bを撃破したんだって」という小さな出来事をいちいち知りません。なので、撃破したという出来事だけ聞かされてもあまり役立ちません。

「信長は源頼朝の生まれ変わり」論者であるXの立論を、反「信長は源頼朝の生まれ変わり」論者のYが完全撃破したとして、無関係な人が「よく分らんな」と言うたびに「オマエはもっと勉強せよ!XはYに完全撃破されたんだ、そんなことも知らんのか!いくらでも激闘の跡は発見できるぞ!Yが勝利し、X説は絶滅したんだ」とかツッコミ入れられても、無関係の人には何が何だか判りません。むしろ知りたいのは「「信長は源頼朝の生まれ変わり」という説は採用されていません、何故なら…」ということであって、Xが誰にどうやって撃破されたかを詳細に知っても「信長は源頼朝の生まれ変わり」論争の本質が理解しにくい為です。

で、「分らないなら首を突っ込むな」という意見は、XとYの激闘最中には何らかの意味があるかもしれませんが、「信長は源頼朝の生まれ変わり」説ってのがあったらしいわよ、違いがよく分らないんだけど、とか言ってたら、自警団の巡回警邏隊が「オマエはX説信者か?ん?分らないなら首を突っ込むな」と叱られても、普通の人たちは困るだけです。論者の目的が広く一般に知らしめる、というものである限り、「首を突っ込むな」という主張は適切とは言えないと思われます。敵陣営である相手側論者のみをターゲットとして完全撃破しようとしているなら、巡回警邏隊はそっちに向かって全戦力を投入し撃破に精を出してもらいたい、と思います。


○例2:

傍聴員 「論者Aも論者Bも怒鳴りあっているだけで、どっちもどっちだ」
論者 「”ひとごと”だからそんなことを言うんだ!」

相手陣営と戦っている論者にとっては無責任っぽく見える意見だとしても、ひとごとだと思うな自分と思え、みたいに求めるのは難しいと思います。少なくとも、「首を突っ込むな」というご意見は、「オマエは関係ないから、ここから立ち去れ」みたいに「ひとごと」化を求めているように思われ、その一方では「ひとごとだと思うな」と言われてもどうしていいものやら分かりかねます。喧嘩の現場に遭遇した人々が、「何?何?どうしたの?原因は何?」とか集まってきたら、整理係の警邏隊が「ホラホラ、事情を知らない連中はここから立ち去れ、分らないことには首を突っ込むな。もっと詳しく勉強してから来い!」と追い散らしつつ、「よく知らないけど喧嘩はよくないよ、どっちもどっち」とか言う野次馬には「ひとごとだと思うからそんなこと言うんだ!」と喧嘩の原因について深く考えることを要求する、みたいなものかな。


○例3:

論者A 「~~で、殺意はあった」
論者B 「いや、~だから殺意はなかった」
傍聴員 「ところで、殺人と過失致死の違いって何ですか?」

たとえ論者間では「殺意の有無」が争点となっているとしても、傍聴員にとっては、それが本質的な争点なのかどうか以前に、基礎的な知識としての「殺人と過失致死の違い」というものを十分理解できないことは有り得る。立論を行う人間は、「絶対に殺意があったんだよ!だからこれは殺人なんだ!ひとごとだから殺意はなかった、なんてことを言うんだ」みたいな主張だけをするので、他の人には理解が難しくなったりすると思います。あったか、なかったか以前の話として、殺意とは何か、殺人と過失致死の違いとは何か、みたいな定義を明確にしておかない限り、無駄な論争になったりします。最低限のルールとしては、「共通言語」を用いましょう、ということかと。


○例4:

論者A 「ダンプ追突が原因で乗用車の30人が死んだんだ!」
論者B 「いや、ダンプ追突が原因ではない」
傍聴員 「乗用車に30人も乗れるの?」

原因究明はやっていただいていいと思いますけれども、そもそも乗用車に30人も乗っていたとは考え難いのでは、という意見に対して「数の問題ではない、追突して殺したことに変わりない」とか「オマエが乗ってないからそんなこと言うんだ」とか怒られても困るのですよね。事実の積み上げは、「乗用車の定員は5人乗りだった」「普通乗用車には最大でも8人くらいしか乗れない」、といった客観性のある情報を集めることであり、これら事実から推測されるのは「死亡したのが30人というのは過大であろう」ということが分るだけである。お前らはダンプ追突を正当化する気か、とか、1人だろうと30人だろうと殺したことには変わりない、とか言われると返す言葉もありません、ってなことになってしまうわけです。物事には物理的制約というものがあるので、できるだけそういうのを重視しつつ、整合性のありそうな説明を考える努力をしてみる、ということです。そこで、1人の命は地球より重いんだ、だから他人事と思わず殺したことを正当化してはならないー!といったレベルに飛ばれると、もうどうにもできません。完敗です。反論の余地のない意見だからです。


話があちこちにいってしまいましたが、対立する意見がある時には、誰に何を知ってもらいたいか、誰を説得するのか、みたいなことを考えてみるしかないでしょう。大抵のことは、「何もよく知らない多数派」が勝敗の帰趨を決するカギを握っており、彼らへのアプローチに失敗・敗北すると、思わぬ結果を招くことになるだろう、ということは念頭に置いた方がいいかもしれません。立論を行う論者同士の直接対決で何かが決まるというのは、案外と少ないのだ、ということです。