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日本復活の道を探る・3~「ケイレツ」解体

2008年01月26日 22時41分16秒 | 経済関連
80年代、日本型経営の勝利が決定的になったかのように見えたかもしれません。米国は長きに渡る不振が続き、英国も改革の道半ばでした。世界経済をリードし、景気の牽引役になっていたのは日本経済であったでしょう。それ故、日本企業には称賛が惜しみなく送られました。特に、日本の企業群は他の国にはないシステムを持っていたのです。旧財閥系を中心とする系列がそれだったと思います。外国人から見れば「判り難い」と批判の対象になったでしょうが、ユダヤ人脈や華僑などとさしたる違いなどないでしょう。イスラム圏の特異な集団でもそうかもしれません。ある集団には理解されるシステムが外部の人間にとっては判らないというのは、ごく当たり前でしょう。

日本の系列がどうして生まれてきたのか、それがどういった存在だったのか、ということは、恐らく過去に議論し尽くされてきたと思います。それが日本のバブル崩壊に果たした役割や、長期停滞にどういった関与をしていたのかということも、一通り定説みたいなものは多分出来上がっているでしょう。私の個人的見解よりも、そうした定説を参考にされた方が望ましいでしょう。
とりあえず、かなり勝手な個人的感想(笑)を書いていきたいと思います。

◇◇◇

米国企業なんかを見ると、ずば抜けた企業というのが誕生してくるのですね。ティラノサウルスみたいな(笑)。単体で世界市場を狙えるような屈強な企業なのです。判りやすい例では、MSみたいなもんです。モビルスーツではありませんよ、マイクロソフトです。ガンダムでいうと、シャアとかアムロが操縦していて勝ちまくり敵を倒し続けられる、というようなことです。米国において、数々の敵と戦いを続けた結果、グーグルのような「エース級」が誕生する、ということになるのです。そのエース級の企業は、戦果がもの凄く大きいので、CEOの取り分もそれに見合うものとなっている、ということかと思います。

では、日本ではどうであったでしょうか。系列は、銀行や商社・中核企業を中心としたチームのようなものであり、国内では絶対的エース級の企業は存在していなかったかもしれません。個々で比べると、米国企業にはちょっと見劣りするよね、ということはあるかと思います。シャア専用機のようなのとは違って、汎用型が多いのでありジムやザクの集団、みたいなものかもしれません。集団を見ると、イメージでは「師団」みたいなものかと思います。また軍隊っぽい話で申し訳ありませんけど。

系列という師団構成はこんなイメージです。
中核になる主力部隊(銀行、商社、製造業等)が師団のエースです。たとえば、三菱重工、三菱銀行、三菱商事、みたいな感じで。ここが参謀本部を兼ねており、作戦立案や司令は勿論、人事権をも持っている、ということですね。この中核部隊に勝たせる為には、サポート部隊が必要です。支援火力とか、兵站とか、工兵とか、色々とあるでしょう。それが様々な業種に及ぶ企業群ということになり、連隊とか大隊司令官クラスの企業、ということです。その下部には、更に多くの企業が連なり、中隊や小隊という規模の小さい組織になり、所謂下請けの中小企業群ということになるかと思います。

師団司令部から号令が掛けられると、その師団はみんな協力し合いながら末端にその司令が伝達されていった、ということになるでしょう。有能な参謀本部である限り、末端の方では難しい判断とかは求められなかったのかもしれません。上からの命令に従っていれば、それでうまく切り抜けられていた、ということです。戦っている兵士たちは、「よく判らないけど、とりあえず命令に従え」というような感じでしょうか。つまりこのシステムでは、有能な人材が上の方に少数いれば、下の人間たちはあまり心配せずとも良かったのかもしれません。

時には、連隊長や大隊長クラスが不振に陥り、無能さを露呈したりしますと、師団参謀の方から「首を挿げ替えよう」という意向が働いてグループ内で交代が行われていたでしょう。新たな連隊長を決める、送り込む、みたいなことが慣行として行われていたかもしれません。これは、師団内の規律という点と下部組織の長期不振を放置させない、という利点があったかもしれません。下部の中隊や小隊は特別な才能を有していないかもしれないが、命令には忠実に従い、師団全体の組織戦では諸外国と戦えるだけの戦力となっていたでしょう。手柄を我が物とすることもなく、中核部隊が「大戦果」を挙げる為だけに働いていた、ということです。将棋で言えば、「歩」の働きに似ているかもしれませんね。そうした下部組織の献身的というか、犠牲を厭わない戦いができたことが、日本企業群の飛躍と勝利をもたらしていたものと思っています。

師団の戦い方で特に有利だったのではないかと思えるのは、「隣の連隊が苦境に陥っています!」という戦況が知らされると、グループ内で隣とかにいる連隊や大隊から「よし、増援を送るぞ、向こうに行って加勢してこい」みたいに、協力できたことではないかと思えます。自分の戦果は小さくなるかもしれないが、苦境に陥った仲間を見捨てたりせずに、隣の部隊とかから緊急で戦車部隊とか砲兵部隊が送られて支援を受けられた、ということです。これで、その連隊とかは戦線離脱せずに踏み止まって戦うことができ、師団全体としても戦線に破綻を生じさせないで戦い続けられたのではないのかな、と。営業不振で赤字になっても、とりあえず持合株をグループ内で移動(形式的には売却?)し益出しを行ったりできた(市場で売却するよりも有利だし、株価が下がるのも防げる)のかもしれません。あるいは、グループ内の受注を増やしてあげるとか、そういう融通が利いたのだろうな、と。

それと、下請けの系列化は忠誠の代わりに、仕事を約束するものであり、強いていえば昔の武士の仕官みたいなものに似た感じではないかと思います。「○○家に忠義を尽くす××家の末席に連なる△△家に縁の当社」のようなものです(笑)。師団参謀の中核部隊は雲の上のまた上の方ではありましたが、師団の末端として「きっと俺達の戦いは無駄にはならないんだ、ここで踏ん張っていればきっと師団は勝利するんだ」みたいに信じて、大隊や中隊と一緒に行動していたんだろうな、と思うのです。自分たちは「きっと○○家に繋がっているのだ」というような矜持が末端にもあったかもしれない、ということです。個々の労働者たちが果たしてそういった心境であったのかどうかは判りませんが、「お仕事は何を…?」といった会話中の質問には、「三菱なんとかなんとかなんとか製作所です」や「日立ほにゃららほにゃほにゃ物流です」みたいなもので(笑)、どこに連なっているか、ということが大事だったのだろうな、と。これは「ほにゃらら藩です」という所属を言う(実際には~藩というのはなかった、という話だけど)のとほぼ同じでは。「○○家家臣、~さまにお仕えする××家分家の△△家に仕官しています」、と答えるようなものではないでしょうか、と。

こうして、日本の系列という戦闘集団は、世界的に類を見ない戦い方で数々の勝利を収めることに成功してきたのです。中核部隊に大戦果をもたらす忠実な末端組織、その末端組織をグループ内に擁護し俸禄を確保するシステム、というようなイメージです。この戦い方は日本人の気質に合っており、「超スーパーエース」単独で戦うやり方とは異なっていたと思います。前に書いた組織戦で勝利する(日本は「ジャイアンツ戦略」を選択するのが望ましいか)というのは、このことです。

問題点もあって、企業統治がどうのとかよく言われたと思いますし、似たような師団がいくつもある、というのも、日本的であったのですね。これが横並び的と批判されたし、あっちの師団でこうやってるからウチもやる、みたいなことになったりするのです。これがいいのか悪いのかは、はっきりとは判りません。他人の良い戦い方を真似することが悪いとも言えないですし、サッカーだって強いチームや選手の真似をするのは、ダメじゃないですよね(笑)。将棋だって定跡があるし、研究していくと、誰かのマネになっている、ということは不思議でも何でもありません。他の問題としては、師団参謀の根本的誤りがあった場合には、師団全体に大変な影響を持つので、大敗北に繋がることになりかねないかもしれないですね。バブル崩壊過程は、まさにこれが起こったのではなかろうかと思いますし、最終的に系列解体へと突き進んだ参謀たちは、愚かだったのではないかと思います。日本が米国のマネをしたからといって、必ずしも良くなるわけではない、と立ち止まるべきでした(これも随分前に書いたのですが)。

参考:イルカはサメになれない~まとめ編

系列が非効率であるというのは、例えば運送の際に「俺は三菱系列だから三井系列の荷物は運搬しないぜ」ということで、トラックの半分以上を空にして走っているみたいなことです。系列の壁を越えて、一台のトラックが三菱と三井の荷物を一緒に積んで運べば、これまでは2台のトラックが必要だったのが一台で済むよね、ということです。これは系列解体なんかをしなくとも、系列同士が協力すればいい話なのですね。いうなれば、ウチの師団と隣の師団で協力して戦っていきましょう、という体勢を整えればいいだけです。かつては日本の電気産業は、自動車と並び強さの象徴であったのではないかと思います。日本の輸出産業の代表格であり、「made in Japan」の代名詞であったでしょう。今では半導体・コンピュータ産業の苦戦に現れるように、系列解体以後には世界では中々通用しなくなっていきました。「次の担い手」が弱体化したようにも思えました。製品そのもののが悪いとかではなく、マーケットと繋いでいたグループ内企業や商社の衰退が関係してなかったとも思えなかったりします。ソニーのようなブランドを浸透させてきた企業がどうにか世界に出て行くことが可能ですが、多くは国内市場に封じ込められたままではないでしょうか。


こうして系列解体の結果、「個々の判断で戦え、生き延びよ」と自由にされても、それまで上からの命令で戦うことに馴れてしまっていた末端の兵士たちは、「ええーっ?どうすんの?自分1人で戦うのかよ」と戸惑うことになり、それまで機能していた連隊や大隊も解散させられ、個別に局地戦を戦い抜かねばならなくなったのです。みんな個々の戦力として散り散りになり、グローバル化の波や金融システム異常やデフレや不況などがあって、各個撃破されていきました。多くの中小企業は倒れていったのです。生産性の高かった中堅クラスであっても、バランスシート上で負債が多ければ、デフレの影響(=返済負担が重くなる)と貸し渋りや貸し剥がし等、更には「これまでの俸禄(=下請けの仕事)がどうなるのか」という将来の不確実性増大なんかもあって、次々と討ち死にしていったんですよ。これまでの組織戦で優位に立ってきたことも災いして、「ミクロの、1対1の局面で、華麗な個人技や敵を圧倒する身体能力を発揮して、勝利せよ」という要求には応えられるはずもなかったんですよ。多くの人たちがそんな戦い方は身につけていなかったのですから。平凡なザクが、「よし、お前もシャアになって戦え」と急に言われたって、どうにもできないのと同じですよ。だれでもアムロになれるわけじゃない。


こうして日本全体は、系列を失って一気に沈没していきました。
愚かな経営者たちは、バランスシートだの資産だのを改善せねばならん、何といってもキャッシュフローだ、現ナマだ、リストラで首切れ、アメリカ型万歳だ、と、我を失ったのですよ。それまで法人が多く保有していた土地も株式も一斉に売り出し、わざわざ自らの売却で価値をどんどん落としていき、バランスシートを悪化させていったのですよ。
ある土地が「ジョーカーの札」だとしますか。ババ抜きと同じで、最後に持っていたヤツが損するんだ~ばーか、ばーか、笑、みたいに売ったようなもんです。
Aさん→Bさんに100円で売る→Cさんに60円で売る→Dさんに30円で売る→Eさんに10円で売る
みたいになったんですよ。
このジョーカーの札は、全ての札の価格を正確には表していないのに、「トランプ全体では1枚10円の札が53枚」ということになって、価値が激減したのですからね。最初は100円×53枚だったものが、最後には10分の1となった、というようなことです。それは札の売却を繰り返すことによって生じてしまうのです。ババを持ちたくない、というリスク回避は結果的に日本経済をどん底に陥れたのです。

土地が売りだされ、株が売り切られ、結果的に資産は大きく目減りしたということ。今回の日本株暴落でも、一気に売れば価値なんて評価されなくなり、リスクを回避する為だけに投売りするということです。勿論、どうしても売らねば生きていけない、という企業は仕方がないでしょう。でも、みんな真似して一斉に売る必要なんてなかったのです。みんなが同じく英米型企業に生まれ変わる必要性なんてなかったのですよ。愚かな経営者たちは、生半可な知識を仕入れてきた「米国かぶれ」にまんまと騙されたのですよ。「よく判らない」という外国人には情報を開示すればいいだけで、別に実物を売って現金に置き換えてまで「これなら判りやすいですよね?」なんて見せてやる必要性なんてこれっぽちもなかったんですよ。

日本人は個人個人が判断して投資を行ったりするのは、あまり得意ではなかったでしょう。けれど、企業はその役割を引き受けてくれて、社内預金だの企業年金だのやってくれたんだと思います。福利厚生も企業が考えて、社宅とか社員寮を確保したりしていたのです。保養所だの研修所だのもあったかもしれません(今では、公務員たちだけがそういうのをマネて、税金を無駄に遣い込んでいるが。笑)。そういうのが日本経済の「民間投資」をかなり補っていたのだろうと思うのです。個人レベルでは株式投資が苦手だから、代わりに系列グループで買い入れたり、資本増強が必要なら法人が「現金を出して」株式の引受手となり、着実に株価が値上がりしてきたことに貢献していたでしょう。まさに現金を資産に投資するのと同じ効果を生んでいたのです。浮動株比率が低いことが、株価の右肩上がりを支えていた面もあったかもしれません。企業が持ち合っているお陰で、多数の安定株主を確保できるというメリットもあったと思います。もの言わぬ株主であったかもしれませんが、系列内では株主でもあり統治側の人間でもあったので、それなりの統治機構は働いていたでしょう。そうでなければ80年代に日本型経営を称賛する意見など出てこなかったのではないかと思えるからです。


系列解体を通じて、日本は牙を抜かれた弱々しい兵士の塊みたいになってしまったのです。その兵士たちは、何の統率もとれない、バラバラの戦力なので、戦いに中々勝てないのです。かつての企業は、従業員や下請け企業のために、或いはグループ内の他人の為にお金を使うことで、日本経済の成長をしっかりと支えてきていたのです。だからこそ、昔の企業経営者たちは偉かったんだろうと思いますよ。前の記事にも書いたのですが、経常収支=(貯蓄-投資)+財政収支 の式において、政府の財政収支が若干のプラスかゼロ程度にするには、「多すぎる貯蓄」を使うだけの投資を誰かが行わねばならなかったのです。その役回りを企業が担っていた、ということです。会社は本当の意味で「社会的責任」を果たしていたのですよ。企業投資が大きくて企業貯蓄が大幅なマイナスであったのは、そうして成立していたのであろうと思いますよ。ところが今は企業貯蓄が大きなプラスとなって投資が少ない為に、貯蓄が大きくなり過ぎ(これもデフレのせいとか、将来不安に備えるなどの理由かも)で投資との差額が経常収支と釣り合わなければ、結果的に政府投資を大きくする(=財政収支はマイナス)ということになってしまっているのです。


日本の企業文化が「欧米か!」じゃなくて欧米化することで、それまでの良さが多く失われ、多くの国民にとっては国民負担率上昇という数字上のダメージ以上に、「社宅も社員寮もなくなった」「給料は成果主義で減らされた」というような負担増を強いられたようなものです。これでは消費が低迷するのも当たり前ですわな。会社は誰かの為という役割を放棄したのですからね。自分のことだけを考えるようになってからは、日本経済全体が地盤沈下となっていったということです。「お前らになんて無駄なんだよ!もっと合理化せよ!」という、浅ましい資本家根性みたいなものが、本当に現実経済に表れてきたということです。会社が従業員の幸せを願えなくなった時、会社の低迷と活力喪失が決定的となったのです。その積み重なった状態が、今の日本経済なのだ、ということです。


トヨタが何故勝ち続けられたのか?ゴーン流の日産が追い抜けないのは何故なのでしょうか?それは色々と分析されているでしょうが、結局は従業員の忠誠に応えられる企業であったか、ということではないでしょうか。自分の給料を削ってでも、従業員に食べさせてあげようとする経営者であるかどうか、ということですよ。だからこそ、豊田家に仕えるものたちは勝ち抜いてこれたのだろうと思えます。日産はやったけれども、トヨタは系列解体も行わず、リストラもやらなかったでしょう。日本人に合った戦い方を選んだのだ、ということです。そして企業文化を継承してきたからこそ、組織戦で対抗できる企業となってきたのだろうと思います。


中には一匹狼の戦いが得意な人もいるでしょう。そういう人は自ら選んで個別戦を戦うのですから、強いし生き延びられると思うのです。なので、自分に合っているのであれば、そういう企業が出てきても全然構わないと思うのですよ。でも、みんながみんな、急に全てを捨て去る必要性なんてないとしか思えないのですね。生まれ変わることが問題を解決することには繋がらない、ということです。「どうやって戦うか、どうやって生き延びられるようにするか」、大切なのはそれだけですね。けれども、企業群は「自分さえ助かればいい」という方向に走り出したのです。だから、解体を進め、切り売りし、「スリム化至上主義」的に(そんな主義はないけど)ありとあらゆるものを切り離してしまったのです。

これが正しい選択だった、とは、到底思えないのです。
今後、政府の財政均衡を目指すのであれば、大きい貯蓄に見合う投資を民間が行うか、経常収支を赤にするか、選んでみたらどうでしょうか?(笑)>「財政再建命」派の方々、経団連どの


個人的には、日本の低迷を脱するカギは「文化の尊重」であると思っています。
また精神論かよ、と批判されると思いますけれども、「自分たちの長所とは何か」「得意なことは何か」という自己点検をやることから始めたらいいと思います。それは、これまでの生き方そのものということであり、日本の歩んだ道であり、日本に育まれてきた文化そのものです。これまで歩んでこなかった道には、自分の長所はありません。過去にネットプレーを全然してこなかったテニスプレイヤーが、急にサーブ&ボレーで勝てるようになれるわけではありません(笑)。

自分の強みを生かす戦術をリーダーが考える、ということ以外にはありません。それが実行できなければ、何の解決策も見出せないまま、沈没から逃れられないでしょう。



道路特定財源を巡る攻防戦

2008年01月26日 02時32分21秒 | 政治って?
えー、「ガソリン○○」みたいな命名が流行っているようですが、これも古くて新しい問題、ということかもしれません。現在の戦況を大雑把に見てみますと、与党vs民主党という図式のように思えますが、そう単純ではなさそうです。
これはどういうことか?
話は極めて複雑であり、はっきり言えば敵味方入り乱れての「大混乱」ということです。まさにバトルロワイヤル状態でございます(笑)。

古館アナ時代の実況風に言うと、こんな感じ?
「敵の敵は味方なのか、貴様の敵は俺の敵なのか、はたまた昨日の敵は今日の友ならぬ長年の宿敵なのか、敵味方入り乱れて誰の目にも判らない状況となっております。最後に立っているのは誰なのか、最後に笑うものは誰なのか、国民は泣きを見るのか、全く混沌としたまま壮絶な戦いの幕が切って落とされました。これぞ燃え盛るガソリン国会、火にアブラを注ぐのは、インド洋へと旅立った、補給艦「おうみ」でありますまいか、火の勢いは俄然増す一方で、今もなお消火の目処が立っていない状況であります。」
長い?作りすぎ?全然似てないって?失礼仕りました(笑)


個人的な判断基準を元に東軍(維持派)と西軍(撤廃派)に分けますと、こうなっています。

◎東軍(暫定税率維持派)
・政府与党
・財務省
・国交省
・総務省?(地方財源問題)
・道路族&仲間たち
・地方政治家
・石原&東国原知事
・建設土木関係
・日経新聞??→NIKKEI NET:社説
(日経は撤廃反対だが主張をはっきり書いてないので、維持派ではないのかも?)


◎西軍(暫定税率撤廃派)
・民主党
・その他野党?
・経産省?
・環境省?(環境税の胸算用?)
・産業振興系議員?
・自工会を中心とする自動車関連団体
・ 石油団体
・ 商工団体?
・みのもんた?(笑)


◎その他(一般財源化)
・オレ
・朝日新聞→asahicom:朝日新聞社説
・読売新聞→YOMIURI ONLINE
・毎日新聞→社説:毎日jp毎日新聞
・不明??

私の意見は、珍しく大手紙と同じになっています。前から一般財源化を主張してきたので、これは変わっていませんけど。


暫定税率問題は、元々民主党が「撤廃」を主張していたわけではありません。自動車団体の長年の悲願、というべき面があるでしょう。

例えばコレ>JAMA -JAMAGAZINE-

一部引用しますと、ここに登場する議員さんというのは、
『国会議員を代表して、自由民主党・甘利明 筆頭副幹事長、自由民主党・坂本剛二 経済産業部会長、公明党・松あきら 中央幹事、保守党・泉信也 参議院幹事長』
ということだそうです。
甘利さんは既に経産大臣ですな。民主党議員にも維持派がいるのと同じく、与党側にも「本当は撤廃…」と内心思っている人もいるかもしれませんね。
で、問題の根っこのところは、道路族と自動車族との駆け引きといいますか、綱引きになっている、ということだろうと思います。

道路族は歴史もあるし政治力もあって強大であるのですが、小泉政権下で弱体化が進んだと思われます。公共事業削減の波は建設土木を圧迫し、ハコモノが封じられた今となっては唯一残された逃げ場が「道路」ということだろうと思います。特に地方での影響が大きいのが、この道路事業なのですね。目先の利益に飛びつきたい議員連中は、直ぐに結果が出せる「道路事業」を取ってくることが票に直結するので、何としても維持したい、自分の町に予算を回してもらいたい、というのが本音でしょう。

一方の自動車関連団体の言い分としては、長年撤廃を主張してきたのと、運輸関連業界は燃料費高騰で経営的な圧迫を受けているので、何とかしてくれということでしょう。トラック協会関連団体は自民との関係が深いにも関わらず、主張が受け入れられないばかりか、協会に補助金を回してもらって業界団体トップ連中が旨味にありついていて、業界全体には何らプラスになっていないという裏腹な面も見られるかもしれません。業界の末端は苦しいだけ、ということかと。
更に最強の撤廃派中核となっているのは、自工会でしょう。トヨタをはじめとする基幹企業が軒並み撤廃を主張しているのだし、自工会には天下り受け皿もありますからね(笑)。自動車関連団体が撤廃派である為に、議員ばかりではなく役人サイドも「股割き」状態になっているのではないかと思われるのです。でも民主党が「撤廃だ」と言い始めてからは、自工会はダンマリを決め込んでおり、それは撤廃を表立って主張すると、民主党に肩入れすることになってしまいかねないので、それも「やり難い」「バツが悪い」「状況を悪化させる」というような計算が働いているのでしょう(笑)。なので、以前の「社長総出で撤廃署名運動」みたいなことは、「差し控えております」ということらしい。


こうして、撤廃派、維持派と入り乱れての戦いとなっており、問題は民主党も与党もこの争いが政治局面を左右する決定的な材料である、と認識していることなのです。どちらかが譲歩すれば、解散総選挙(即ち政権交代や連立組み換え?)に直結する、と考えているからだろうと思われます。

しかし、落ち着いて考えてみれば、これが政権を揺るがすようなネタなんでしょうかね、という話であり、やけに争点が小さすぎやしませんかね、ということです。全体の利益よりも「地元の利益」しか考えないような知事や議員連中が、「維持して道路工事」という短絡的思考しかできないことが、余計に政治的効果を大きくしているということもあるでしょう。参院選で地方で手痛い目に遭わされた自民が、「地方が困る、地方が、地方が」というフレーズに過敏になっているからです。

道路族と自動車族、自民党と民主党の対立、地方の問題(選挙、財政、景気、雇用)、国会運営、等々、複雑に絡み合っているのですね。なので、一筋縄ではいかない、ということになっているのではなかろうかと。

この「火に油を注ぐ」キッカケ作りをしたのは、例の国交省の道路計画に必要な財源が68兆円?でしたか、あの杜撰な計画であったことでしょう。民主党に攻撃材料を提供してあげたようなものです。元凶はあの計画だったことは間違いないでしょう。道路族の反撃という狼煙を上げてしまったばかりに、大きく育ててしまったようなものです。なので、自民としても一歩も引けなくなってしまった。道路族は思慮が足りないんだろうね。この期に及んで、道路、道路で日本の将来を切り開けるとでも思っているのかね?


小泉政権時代に戻るが、この頃から「一般財源化」というのが幾度となく論点として浮上していた。財務省が財源不足に嘆いていたのと、財政規律という点?から道路特定財源を締め付ける必要性を感じていたからなのかもしれない。

関連記事:

財務省の金策

経済学は難しい12

道路で未来は拓けるのか

守旧派の復活劇


05年段階で既に道路族の反対を押し切ろうとしていたことが窺われ、一般財源化して財政再建の足しにしたかったのだろうと思われます。財務省は税率維持を図りつつも、本音では「余計な所には使わずに一般財源に繰入しろよ」と考えていたのだろうな、ということです。当時は国交省は不祥事続きで相当叩かれていて「弱っていた」からね。反論する元気なんてなかったんですよ。談合事件、耐震偽装などがあったわけですから。けど、今はほとぼりが冷めた頃だろう、ということで、再び「省益」確保に動けるくらいに復活したということでしょうか?無謀ともいえる10年計画をのうのうと出せるくらいには(笑)。

野球のグローグだろうが、ユニフォームだろうが、「適法」と言い張ることなど造作もない省庁ですので、まあアレですな。「ユニフォーム」を買ったのは、「道路管理作業服の購入に過ぎない」ので適法、などという屁理屈を出してくる省庁の言うことなど、どれ程の信頼性があるものだか判らんですわな(参考)。これは、組織の体質だわね。中央でもやってるから、地方の出先でも同じようにやってるだけだろ。グローブに限った話などではなく、常態化しているんだよ。こういうのを止める気配も、改めようという考えも持ってない、ということ。


国土交通省から財源と権限を取り上げる方がまだマシだ、というのが感想。財務省がそれ以下であるという可能性は否定できないのだが(笑)。

通学路の安全対策も必要です、開かずの踏切解消も必要です、みたいな理由というのは、ごくごく一部でしかないであろう。もしも実際に必要だ、というのなら、個別具体的に全ての道路整備地図と算定金額を出せ。

開かずの踏切とは、遮断時間が1時間当たり何分なのか、最大遮断時間は何分か、その間の通行量はどのくらいか、出せるはずだろう。それが何万箇所あって、それぞれ工事費はどの程度かかるか、という概算は出せるでしょう、ということ。それに線路の高架化は民間業者のやるべきことが大半なのでは?歩道橋のようなものを設置するなら、その設置費用が一箇所の平均単価みたいなものは出せるだろう。

学童の歩道やガードレールの話も、あったらいいよね、ということではあるけれど、全部に必要とは判断されてこなかったからこれまで「後回し」になってきたのだろ?かつての半分に児童生徒数が減少して、今後も減っていく、学校も減っていくという時代にあって、これから整備開始と?笑わせるね。
こういうウソ八百の理由を持ち出してくるというのは、心情的に否定し難くさせる為だけであろう。それが最優先事項ということなら、当面それ以外には使わせないから。勿論それで異論があろうはずなかろう?道路財源は「開かずの踏切」「通学路」以外に使わせない、と(笑)。

過去に投入された財源は、こうした対策には優先的に使われてこなかったのであれば、重要度も必要性も低いとの判断だったと考えざるを得ない、ということ。それを今になって、必要だというのは都合の良い「財源分捕り」の為の口実に過ぎない。

上の参考記事(経済学は難しい)にも書いたが、社会資本は道路整備に大きく偏ってしまったことは明らかだ。道路に金を注ぎ込んでも、社会は停滞してきたし、地方は今の状況に過ぎなかったのだ、ということが未だに理解できない連中が多すぎるのだ。道路が付加価値を生み出す原動力にはなり得ない。

人間が新たな価値を生み出すのであり、人間に投資しない限り、未来はない。