いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

新年早々、熱いバトルですか…

2008年01月03日 21時32分20秒 | 俺のそれ
御とそが入りすぎとかではないと思いますけれども、これまでネット界隈で繰り広げられてきたバトルの一種なのかもしれません。燃えたくないですし、詳しい事実を勉強してませんのでコメントも難しいですが、少し書いてみます。

はてなブックマーク - 正しい意見を間違っているかのように印象づけるテクニック - 劇場管理人のコメント - 分裂勘違い君劇場グループ


射撃の応酬は結構あるみたいなので、流れ弾には注意しつつ、と。

以前にもちょっと触れました>沖縄集団自決を巡る抗議集会から学ぶこと


①「南京大虐殺」と「南京事件」という呼称

定義問題かもしれませんが、ある事件とか出来事を指す場合に、「~事変」「~事件」「~の戦い」「~陥落」などがあろうかと思われますが、「~大虐殺」という名称を用いるか否かは、何らかの価値観をより反映するものかもしれません。「ベルリン陥落」という呼称にならって「南京陥落」と呼んだとて非難されるものなのかどうかは知りません。歴史学上での用語の定義として定められている場合には、それを踏襲するのは普通かもしれません。日本語表記のみならず、英語表記の場合の対応語などが学会等で決められているのであれば、それに準じた呼称を用いるのが望ましいと思われます。決まっていない場合には、著名な歴史学者などが個人的に決めた名称が広く知られることになるのかもしれませんが、それに反対する人たちが存在するとしても止むを得ないでありましょう。


②虐殺(若しくは大虐殺)とはどのような基準なのか

大量殺人とは何人までで、虐殺とはどのくらいか、という言い方の問題はあるかもしれない。が、30万人なら虐殺と呼び、1万人なら虐殺と呼ばない、ということにはならない。たとえ50人でも虐殺は虐殺だという主張は有り得るであろう。死亡人数が「30万人ではなかった」ということが仮に証明されたとしても、「虐殺ではないと主張できるわけでない」こと、「虐殺と見なされる殺戮行為が正当化されることはない」こと、この2点には双方の合意があるものと思う。

こんな例も>サンドクリークの虐殺 - Wikipedia


③行為の有無と被害実態は不明なことは多い

そもそも南京での問題については、6週間程度の長い期間を含めるようなので、行為と被害の直接的関係が明確ではないことが十分考えられるであろう。「人数の問題」ということを考える時、どの行為の結果であったのかを検討する必要がある、ということ。これは薬害C型肝炎の被害を「全て血液製剤のせいだ」と主張するのと似ている。あったか、なかったか、という話と、感染被害者の数とは必ずしも一致しないのと同じである。

<例>
○フィブリノゲンの場合
・汚染されたフィブリノゲンはあった
・投与された全員が薬害C型肝炎ではない
・C型肝炎の全員がフィブリノゲンによる感染でない

○虐殺の場合
・捕虜や民間人等の虐殺はあった(と推定される)
・日本軍が南京を攻撃して全員が死亡したわけでない
・死亡者の全員が虐殺による死亡ではない

すなわち、虐殺と呼べる残虐行為や国際法違反に当たる行為があったか、と問われれば「あった」と考えるのは妥当であろうと思われる。しかし、死亡者の全てがこうした残虐行為の結果ではない、ということも十分考えられる。全死亡者のうち、どの程度がこれら行為による死亡者数なのかは正確に検証するのは難しい。けれども、推定総数や推定割合を学術的な検証結果として発表したりすることは正当である。これが(恐らく)「より真実に近い数字であろう」ということを示すには、具体的な論拠なり証拠たるものを提示し、説明可能なものである。その過程に疑義を生じるなら、その論拠を示せばいいだけである。「~は間違いである可能性が高い」「~はもっと小さい数字であると推測するのが合理的」といった意見を出せば済む話であり、それが提示できても「虐殺はなかった」ことにはならない。「輸血でC型肝炎に感染した人は大勢いる」ということを示しても、「フィブリノゲンで感染した人はいなかった」ことを肯定することにはならない、ということである。


④被害実態を示す時の分類や区分を明確にするべき

「南京事件」での死亡者数を推定するとしても、時間的な問題や死亡原因による区別などの問題があるのであって、それらを全て含めて20万人とか30万人という数字だけを言っても、双方に「何が違うのか」判定し難くなるだけである。なので、細かく区分を決めて、その数字を積み上げていく方がよいと思われる。これは「太平洋戦争で死んだ米兵の数」というのが「~万人だ」というのを多かった、少なかったと言い争うよりも、日米戦争での死亡者数と欧州での死亡者を分ける、更に、主な戦闘や戦場、大規模作戦毎に分ける、艦船と航空戦での死者数を分ける、などといった「細かい区分」を行ってみると、互いの見解の相違点が明確になり易くなるであろう。

例えば、南京事件の地上戦前に行われた航空機による爆撃や地上攻撃等で死亡したと見られる数、地上戦が始まり陥落までの数日間の戦闘で死亡したと見られる数、入城後の通常戦闘(軍事的戦闘)で死亡数、ゲリラと見られる非正規兵の死亡数、戦闘能力のない捕虜や一般人の死亡数、過酷な労働等による衰弱病死数、その他、という具合に区分して、それぞれの数字について検討していくのが不毛な議論を避けることになるのではなかろうか、と。

入城後の戦闘では論争になりがちかもしれないので、争いのある部分については数字の妥当性を見る前に決着をつけておくべきであろう。一方が「一般人だった」といい、別な方は「いや、偽装した民兵だった」みたいに主張に違いがあるのであれば、まずそこの点について区分の定義を明確にしておく、ということ。ベトコンみたいに農民の姿をしていても実はゲリラということもあれば、イラク戦争のように武器を持って軍隊に攻撃を仕掛けてくる自発的な非正規軍もいるからである。

また、昔の軍隊では病死の数はかなりの数が存在すると推測され、正規の日本軍の中でも戦死ばかりではなくある水準で病死があったものと思われる。過酷な労働とか食事がないなどの非人道的扱いに起因する衰弱死なのか、赤痢のような感染症が死亡要因であったのか、といったことが考えられるかもしれない。敢えて射殺するなどの行為を行わなくても、死亡することはある(捕虜の待遇が悪かったのは犯罪だ、殺すも同然、というような意見はあるかもしれないので見解の相違はあるかも)。

これらをやっていけば、どこの数字の見方について論争があるのかが理解しやすくなるであろう。


⑤情報の質には注意が必要

よくありがちなのは、「○○が~と証言しているから」みたいな証拠があるからそれを事実と看做すということであろうか。参考記事でも書いたのだが、「11万人という新聞報道があった」ということは実際の人数が11万人であることを証明するに足る根拠となるわけではない。あくまで一つの資料としての価値はあるけれども、情報の正確さは色々な水準があるだろう、ということだ。

もう一つ重要な点は、情報というものが「正しいものだけが流通している」とか「大勢が知っている情報なので(多分)正しい」ということは大きな誤解である、ということである。それは、その当時の「ある程度信頼性の高い社会階層の人」が言っているとしても、間違いを含む可能性は多々ある、ということでもある。具体的には、昨年末のC型肝炎に関する報道やそれに関与する発言をしていたテレビ出演者たちを見てみるとよい。彼らの間で流通している情報というのは決して正しいものではなく、大多数の人々はそれら発信源からの誤った情報しか知らないので事実を正しく認識してはいないのである。そういう人々の間で流通している誤った情報だけをいくら集めても、真実には近づけないであろう。喩えて言うと、何人もの証言を集めてきても、その殆どが「フィブリノゲンを投与されるとC型肝炎になるらしい」ということしか言わない、故に後日になってそれしか知りえない、みたいなことになってしまう。

<ところで、『硫黄島からの手紙』を観たのだが、この映画は日本人について中々鋭く描いているな、と思った。特に、司令官の命令に従わず、部下を虐待するとか、自決命令や突撃して死んで来いと命令を勝手に出すとか、そういう輩がいるのである。民家の飼い犬がうるさく吼えるので、情報通信の妨害になるから殺して来い、と命令する憲兵隊の上官もいた。「○○が正しいのだ、だから~するのは絶対だ、~しなければならない」というような、何かを信じて疑わないタイプの人間に幾許かの権力を持たせると大変なことになってしまうのである。中途半端に偉そうに威張るのと、誤った信念や考えに基づく指示や命令を勝手に出すのである。こういう士官や下士官がそれなりに存在していたであろうと思う。現代でいえば…、以下自粛>

末端レベルの兵士の証言をたくさん集めたとしても、それらの人々が真実を知るわけでもなければ、正しい証言をしているかどうかも疑問は残される、ということは留意しなければならないだろう。最初のトップからの命令が「○○するな」というものであっても、途中の伝達過程で勝手に変えられてしまって、「トンデモ隊長」みたいな末端付近の上官が「○○せよ」という命令を出してしまうこともあったかもしれない。そうなると、証言した兵士達は決して「ウソを言っている」ということではなく、真実を知らないままに又聞きで証言してしまうこともあるだろう。当人はそれが「事実だ」と固く信じているのであるから、その誤りに自ら気付くこともない。なので、「フィブリノゲンは使われたか?」と問えばyesであり、「肝炎になった人が何人もいた」という多数の証言から、「フィブリノゲンを使ったので肝炎になった」という事実が(殆どが違うにも関わらず)合成されることになってしまうのである。

日本軍の進軍途中で、「(先に日本軍が通過した)村が焼き払われていたのを見た」という証言が複数あったとしよう。すると、日本軍は虐殺後に村ごと焼き払ったんだ、というような事実が合成されてしまうかもしれないが、本当かどうかは判らない。「オレが焼いた」とか「直接焼いているところを見た」という人がいれば、その証言は貴重ではある。けれど、先に○○師団が通過して、その後に通過した別な師団の下級兵士たちが「○○師団の連中が焼いたらしい」という噂を耳にしていても、それは事実なのかどうかは不明なのである。敵軍が撤退しながら戦う時に、焦土作戦を取ることは十分考えられるからである。それとも爆撃や砲撃の結果、焼けてしまったのかもしれない。確かめられない事実について、多くの末端の人間に流通していた情報(=彼らの証言)を真実であると看做すことには、より慎重であるべき、と考える。

一応、中国では三国志のような古典的世界においても、撤退する時や戦勝時に焼き払うということは多々あった。日本軍の進軍速度を遅らせる為に、敵軍が自ら焼き払ったとしても不思議ではないだろう。作戦としては合理的である、ということだ。


なので、見聞きした人たちの証言というのは、正しいかどうかは判定は難しい面はあるのではなかろうか、と思っている。

「否定する気か!」とか、「なかったことにしようと言うのか!」とかではなくて、

30万人は妥当(より真実に近い数字)でしょうか?→Yes or No
Noなら、どの位でしょうか?

という話であるなら、別にこれを認めたとしても「『虐殺はなかった派』に負けた」とかって話にはならないのですから。
沖縄の集会人数が「11万人ではありませんでした、あれは誤りと考えるのが妥当です」と表明すれば敗北みたいなことになってしまうと考えているのでしょうか?そこで「数は問題ではない」ということをいちいち持ち出すので、余計にこじれるのでは。