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日本復活の道を探る・2~「努力しろ」は禁句か

2008年01月24日 20時20分20秒 | 経済関連
ちょっと色々とありまして、間が空いていますけれども、続きです。

何かと批判の対象とされていたかもしれないNHK番組の「プロジェクトX」でしたけれども、私は結構好きでした。というか、今でも好きです(それほど多く観てたわけではありませんが)。現在放映中の「プロフェッショナル」も観ています。それは、誰かの物語だからです。困難に挑戦する人間のドラマだからです。今の若い世代では、そういう「熱さ」みたいなものはダサいと思われているのかもしれませんが、それが停滞の一因なのではなかろうかと思っています。

よくありがちな話題で、「根性論ではダメだ」とか「努力しろ、は責任転嫁」とか「努力するのは無駄」とか、色々な意見が出されます。それは人によって色んな捉え方ができるでしょう。ただ我武者羅にやるだけでは解決できない、というのは正しいのかもしれません。が、どういう訳か、「理論に基づいてやれ」とか「根性ではダメ」とか、そういう意見は万能の如くにありとあらゆる場面に適用されているような気がするのです。でも、それって本当にそうなのだろうか?


また例でゴメンなさいね。
水泳のトレーニング方法は色んな経験や運動生理学などが総合的に加味されて、有力選手はトレーニングに励んでいると思います。日本選手の活躍は、そうした強化策が奏功した結果なのではないかと個人的には感じています。ここで、「うさぎ跳びで根性を鍛えれば勝てる」というような意見は、「無駄かもね」ということが言えるかもしれません。ただ努力だけしても無駄なんだよ、という「全てを見切ったかのような意見」が通用するだろうと思います。で、非常に大雑把に言えば、「科学的トレーニング理論に従って実践すべきだ」という意見だとしましょう。これには多くの人が賛同するものと思いますが、これはいつでも通用しますでしょうか?

水泳を学ぶ少年がいるとします。とりあえず、平泳ぎの選手を目指しているとしますか。北島選手に憧れている、ということで。
理論に基づいて、「科学的トレーニングを実践すべし」という意見は正しいのですが、さて、この少年にはそれが可能なのでしょうか、というのが問題なのです。この少年が水泳を学びはじめてまだ間もないので、「まだ水に入るのが怖い」と思っているかもしれません。すると、少年に「少しでも練習した方がいいですよ」とアドバイスしても、少年は「科学的トレーニングじゃなきゃヤダ、オレはそれ以外やらない」とか言い張るのですね(笑)。それとか、「オレはプールに無駄に通いたくない、サクッと上達する方法じゃないと行かない」とか主張するのです。

まあ確かに少年の主張するところには一理あると思います。けれど、一流選手たちだってひたすら「地道な努力」を重ねており、それができないと誰も勝てる選手になどなれないのです。理論に基づくトレーニング法であるとしても、それは「うさぎ跳びで根性養成」よりも「時間当たりの効果が高いであろう」ということが予想されるだけであり、結果を約束するものではありません。私が科学的トレーニング法で練習しても「うさぎ跳びで根性養成」したイアン・ソープには全く敵わないでしょう(笑)。上記少年の場合においても、科学的トレーニング云々を言う前に、平たく言えば「まずは根性見せろや」という理論もへったくれもないごく普通のことが必要なだけです。「お前、地道に努力せな強くなれんで」というのが出発点です。

大抵の場合には、頭でっかちになっているタイプの人は「そんな練習方法では理論的でない」とか、「そんな努力は無駄に終わる、だってオレはどうせ勝てないからやらない」という風に、何でもやる前に考えてばかりで行動に移そうとしないのです。そんなに全てのことを見切れるものなのでしょうか?泥臭くたっていいじゃないですか。根性論だっていいじゃないですか。まずは「プールに通うこと」「水に入ること」みたいなところから始めない限り、一気にオリンピック選手になれる方法などありません。やる前から「オレは降りた」という宣言をする人たちというのは、「プールに入る」ところからさえも退場してしまうのです。これは科学的トレーニング方法がどうの、といったレベルの問題ではないのです。無理矢理「プールに連れて来て、入れる」などということは、誰にもできないのです。自分でプールに地道に通ってもらわないと、どうしてあげることもできません。けど、「地道に通いなさい」とか言うと、「根性論かよ、根性では解決できない」と言い訳するんですね。「自分で泳ぐ努力をしなさい」とか言うと、「今度は自己責任かよ、お説教は聞き飽きた」と反論するのです。だったら好きにしなさい、と思ってしまうのですよね。プールに通う努力をしたくない者は、泳げなくても仕方がないでしょう。普通の人たちの場合というのは、トレーニング方法が科学的か科学的じゃないか、というレベルの話ではなく、それ以前の問題であるということです。


努力の仕方、というのは、当然色々あると思います。過去の失敗や数多くの経験とかが蓄積された結果が、今のトレーニング方法の確立に繋がってきた、ということだと思います。なので、「その練習方法は昔にやって効果的ではなかったよ」という失敗の教訓みたいなものが得られているので、その「無駄な練習」は行わない、ということだけです。それは「今のやり方」の方が効果的だ、ということが判っており、全部無駄にはならないかもしれないが「今のやり方」よりも効果が落ちますね、だから選ばない、ということです。もし自分が全て独力でやると、そうした過去の失敗などの経験の蓄積がないので、同じような試行錯誤を繰り返すことになってしまうかもしれません。でも、優秀なコーチとかがいて「ああ、それは止めた方がいいよ」とアドバイスをしてくれると、遠回りせずに済みます。試行錯誤にかかる時間が短縮できるのですね。だから、先人たちの経験というものはとても貴重なのであり、過去からの「蓄積」というものは大きな恩恵があるのです。学問でも、練習メニューでも、何だっていいのですが、経験は大切だと思っています。

結局、先人たちの教訓や経験等を踏まえつつ、運動生理学などの理論とか、個体差などの要素を総合的に判断したりして、「理論に基づく練習メニュー」みたいなものが作られる、ということになるかと思います(実際にどうなっているかは知りません、あくまで例示)。そこには、一定の合理性が備わっており、「根性」というだけのメニューにはなっていないでしょう。でも、ここから先はやはり選手個人の「地道な努力」に支えられるのであり、それ以外には勝てる選手にはなれないのです。誰しも一足飛びで最強の選手にはなれないのです。そこにあるのは、非凡な才能・センスと、それを開花させるだけの「地道な努力や反復」です。

私が血反吐を吐くほど根性を発揮して練習したとして、市民大会に優勝できる程度にはなれるかもしれませんが、「あんまり練習していないソープ」にさえも永遠に勝てない、ということは十分起こり得るのです。残酷ですけれども、人それぞれの向き不向きがあるのはしょうがないことなのです。けれども、そうした努力が一切合切無駄に終わり、何らの価値も持たない、というようなことはないと思います。チャレンジャーたちにしか判らないことがあるのだろうと思います。何を獲得したのかは人それぞれなのだ、ということです。


「プロジェクトX」は、観る人によって受け止め方が違うのかもしれません。「根性礼賛」や「お涙頂戴」の物語とか思うのも自由だと思います。私は、困難に挑戦しようとしたチャレンジャーたちの物語だと思ったし、(特に失敗や苦悩の)経験が多く詰まった先人たちの生きざまを知るにはとてもよいと思いました。どん底や絶望感などがあるからこそ、成功は大きな喜びとなるのであり、世の中では成功を掴めずそのまま敗北することも多々あるでしょう。それでも、常に挑まない限り決して成功はないのです。プールの水に飛び込む勇気、根性(笑)を見せない限り、泳ぐことはできないのと同じです。


現代では自営業者の数が大幅に減少しており、チャレンジャーの出現する数が昔と違うのかもしれません。昔のドラマとかのセリフの中には、「オレの夢は、一人前になって自分の店を持つことだ」のような、「自営」が割りと語られていたように思います。それはラーメン屋がボコボコ出てきたのと近い印象なのかもしれません。自分の店を持つ為に、金を溜めて、店舗を確保して、一式用意して、というような独立的生き方が昔にはそこそこあったのですが、今は大企業志向・公務員志向というような「組織依存性」が高いように思えます。これも「新たな種」が誕生しにくくなっていることに関係しているように感じます。

若者には才能やアイディアがたくさんあると思います。今は大きくなった企業であっても、初めは小さな店や町工場から始まっていったのだから、これと同じく「とりあえず何かをやってみよう」という自立的な精神が必要だろうと思うのです。そういう中から、面白いもの、将来性のあるもの、人気の出るもの、みたいに誕生してくるのだろうと思います。