いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

日本市場全体が「仕手」られている?

2008年01月16日 17時59分15秒 | 経済関連
さすがに、ここまで下がると異常だと思う。

日本経済の先行き不安とかいっても、年明け以降の下げは普通じゃない。経済不安に揺れる本家本元の米国の下落以上に、日本株が売られている。これが可能なのは、「売り方」についてる連中が大量の資金投入をしている、ということだと思う。

現物を売り続けるのは、極めて難しいだろう。発行済み株式の何%かを売り続ければ、大量保有株主の移動が起こるから、誰が大量に売ったか判るだろう。日経平均指標になっている主要株式の大株主がゾロゾロと変わっているはずだろう、ということだ。それが本当に起こっているのであれば、調べればわかるのではないかな。


けど、そういうことがないのであれば、現物売りだけでは下げ続けられない。


私の妄想ではこうだ。

①米国の日経先物を全力で売る
②これにつられて日本市場の先物が売られる
③先物売に反応して、現物の一部と信用売りが増える
④いつまでも下がるので信用売りは利益が出る
⑤出た利益で信用売りを拡大
⑥つられて売りに転じる投資家も増える
⑦損失の大きい投資家は投売りで更に下がる
⑧下げ続けるので買いたがらない投資家が増える
⑨売りが圧倒的優勢となりさらに下がる
以下、ループ。


信用倍率で1倍割れとか2倍割れが多くなっていれば、市場全体として、これで巨額利益をあげてる連中がいる、ということになる。ハンパな額を持っていても、ここまで売り込めないかもしれんが。

何故こんなことが起こったのか?
それは、陰謀だからだ(笑)。

主要な1部上場株であっても、不思議な点はあるね。
例えば、普段は売買高が100万株くらいしかなくて、買いがそこそこ優勢になっても、売りを被せてくる。結果的には、上げそうになっても売り続けてくるから殆ど上がらず、売買高が3倍とかの300万株になる。買いが続かなくなるのはごく当たり前だ。普通の投資家は「自分が欲しいな」と思って手に入れると、その後に買おうとは考えなくなるからだ。しかし投機的に売ってくる連中は違う。明確な目的をもって、意図的に下げを狙ってくるからだ。買いが薄くなれば、売り圧力が優勢となり、大きく下げることに成功するのである。


日本人はお人よしなのだ。
とりあえず様子見だ、みたいに言うし。
随分とノンビリしているんだな、と呆れてしまうよ。
こういう時こそ、キャッシュリッチな企業とかが買え、って。自社株消却を推進しろよ。更に、年金資金を大量投入して、先物を全力で買えよ。


売り方についてるのは、下がり続ける限り利益が出るのでいくらでも売ってくる。これに対抗するには、巨額資金を投入して防衛するしかない。買い方の資金量を増やし、一気に巻き返す以外には上がらない。売り方についてる連中の総資金量が上回る限り、上がらないのだ。下がり続ける限り、売り方の資金は増加する一方になり、買い方を上回る。狼狽した投資家はとりあえず売って撤退するしかなくなるし。

しかも売り方についている巨額資金を保有するグループは、「日本市場を防衛する誰か」などいないことを知っている。これは外為ではないからね。あくまで自由な取引だから。なので、少ない資金投入で買っても、買っても、相手側資金を上回る投入ができない限り、負け続ける。一般投資家も売りに参加していくる数は増えるしね。それが売り方の狙いだ。

日本市場で起こっていることが尋常ではない、ということに対する警戒感があまりに乏しいのである、この国は。
そもそも陰謀なんてない、っていうのは、そうだろうけど(笑)

しかし、売買代金総額が下がり、市場支配力がそこそこ及ぶことが判れば、日本の投資家の行動を見越して仕掛けることは可能だ。個々の個人投資家が防衛買いなどできるはずもなく、資金を引き上げる人の割合は増加するだけとなるだろう。介入がないとなれば底なしに落とせるだろう。落ちれば落ちるほど彼らの資金は増加していくのだからね。

売り方の連中に踏み上げさせるまで大量資金を投入し買い続ける以外にはないだろう。正常化するまでは、防衛買いをするしかないだろう。



日本が果たす役割とは

2008年01月16日 16時54分56秒 | 外交問題
この前から給油活動についての問題を批判しているが、これが何故ダメなのかといえば、根本部分で大きな間違いを犯しているからだ。それは「日本はこうやっていきます、問題にはこうして対処します」という自発的な意思が存在しないからであり、もっと言えば「誰かの顔色を窺って決めたこと」という以上のものではないからだ。周りが自分のことをどう言っているか、ということだけを気にして、自分の意志というものがまるでない、ただの木偶人形みたいなものだ。だから、余計にとやかく言われるのである。日本という国はよく判らない、と。本当に必要なことであるなら、国民に十分説明できるものでなければならないし、見え透いた嘘やおかしな建前だけで物事を進めようとする連中が多すぎるのである。どうせ嘘をつくなら、もっと真実性の高い嘘を用意しておくべきだろう(笑)。


国際関係と個人的人間関係は違う、というのはその通りであろうが、外部から見て判断しているのは全て人間であり、彼らから見た時の日本が「どう判断されるか」ということになるので人物評価に近いのではないかと思う。まあ、色々な人間がいるので、一概に尊敬される人物像の基準などないかもしれないが、個人的判断で書いてみる。

通常の人間関係で、尊敬される人とか一目置かれる人というのは、どういう人なのであろうか?
誠実、信念がある、責任感がある、裏切らない、とか、様々あるかもしれない。日本はどうなのかと言えば、前に言ってたこととコロッと変わってみたり、脅したりすかされたりすれば自分の意見を変えてしまう、という具合に、傍から見れば「よく判らない」「頼りない」「意志が弱い」ということになってしまう。だから余計になじられるし、批判もされてしまうのである。


今、一つのクラスがあって、暴れん坊の男が1人いるとしよう。
クラスメートの何人かは、手に手に棍棒や拳銃を持って、その男が暴れたりするのを殴ったり発砲したりして押さえ込もうとしている。そういう屈強な生徒は、既に大勢いるのである。屈強な生徒たちは、「オレたちは正義の為に殴っているんだ」「オレたちが警察としてみんなを守っているのだ」ということで、暴れん坊を懲らしめることを正当だと言っている。確かにそうかもしれない。暴れん坊が他の生徒たちに迷惑をかけたり、怪我をさせたりしているのを、黙って見過ごすわけにはいかないだろうから。
さてこの時、自分であればこの暴れん坊に対して、どのように対処するか、ということになる。自ら棍棒を手に取り、「オレたちが自警団なのさ」という仲間に加えてもらうことを希望するか?それとも、遠巻きにして眺めているか?他の方法を考えるか?どうだろう?

日本というのは、戦争を経てきて、学んだものや獲得したものがあるだろう。これまでの戦後の歴史の中で培ってきたものもあるだろう。そういうのをどう考えるか、ということにも関係しているかもしれない。大勢の生徒たちが棍棒を手にして対決しているさなかに、「オレも殴るのを手伝うぜ」と言って、飛び込んでいくフリをするのが、本当に必要なことなのであろうか?それが尊敬される立場なのか?もう思いっ切りぶっ叩いている連中は、何人もいるわけである。そこに、「オレも加勢するぜ」と、ヘルメットとか篭手とか格好だけは一丁前に装備して、後から参加していく人間は、どうなのよ?って話。しかも棒を振り回せないので、「後ろの方で」メガホンだけ持って野次を飛ばしているような腰抜け野郎なのだ。暴れん坊が近くに来たら、「よし、お前が行け」と言って、周囲にいる他の誰かをけしかけるだけしか能のないような、本物の弱虫なのである。これで尊敬される人物とみなされると思うか?(笑)
みんなと同じようにやれば認めてもらえる、などというのは錯覚に過ぎない。加勢するぜ、と言って加わってきても、実質的に何もできないような足手まといは、誰も望んでなどいない。

暴れん坊を殴って大人しくさせる、というのは一つの方法に過ぎない。大抵は、「オレを殴ったな、こっちも仕返ししてやるぜ」ということで殴り返すことを、みんなが認めている、というだけである。では、自分ならばどう立ち向かうのか、ということである。既に大勢が棍棒を持って「殴る係」に立候補しているのに、殴れもしない自分が「オレも、オレも」みたいに立つ方がよっぽどバカである。日本は、「絶対に殴らないんだって」と皆が認めているなら、殴らない方法で立ち向かうしかないのである。その決意を示すことの方が、何倍も勇気がいるのだ。喩えていえば、屈強な剣士の前に、死を恐れずに立ちはだかる神父のようなものである。「武器を置いて、私の話を聞きなさい」と相手を大人しくさせることを試みることは、蔑まれることは少ないであろう。大勢のクラスメートが殴っているなかにあって、殴らずに対処しようとする人間の方が、はるかに存在をアピールできると思うが。

別に、自分だけ目立てばいいとか言っているのではない。日本は、国際社会に向かって、重大な決意表明と約束をしている。その約束を守り、信念を貫く人間の方が、人の意見に流されて態度を変える人間よりも信頼されるのではないか、と言っているのだ。私は絶対に殴りません、と日本は表明しているのだから。

では、自分の息子がならず者で、かっぱらいや暴力沙汰とか、問題をあちこちで起こしているとしよう。周囲のみんなは「こいつは悪いヤツだ」ということで、棍棒を片手に殴っている。そういう時にも、やはり自分はみんなと同じように「殴らねばならない」のだろうか?息子に対して責任を持つ、ということは、周囲のみんなに対して「私が責任を持って必ずやります」と明らかにし、息子を改心させるように努力することではないのかな?特に、散々みんなが殴り続けてきたのに、殴るだけでは解決できなかった息子を、自分がみんなと一緒に殴れば本当に更生させられるのだろうか?一番偉い村長が「こいつは本当にダメなワルだから、もっと殴れ」と言っている時、自分は常に村長の言いなりで、「ヘイ、わかりやした、おいらも殴ればいいんですね?ご尤もで…」と揉み手して答えるような人物は、尊敬に値するのだろうか?

日本に息子はいないけど(笑)、自分が責任ある立場だ、と思って行動するなら、「自分がこれこれをしなければならない」と考えるであろう。自分に責任がないと思っているなら、息子に対するような対応は取らないだろう。所詮他人事だからだ。自分が解決に向けて関与するというのであれば、ただ殴るだけではなく、「私がやります」という姿勢を明らかにし、自分のできるベストのことをやろうとするだろう。本当に暴れん坊のことを考えることができるかどうか、ということでもある。何でも村長の為にやるわけではないのだから。しかし、今の日本の態度からは、首尾一貫性も信念も感じ取れない。誠実さも勇気も責任感もない。あるのは、日和見的な優柔不断さと、迎合的で卑屈な狡さだけである。

日本には日本の良さがあるのであり、日本しかできないとか、日本だからできることがあるかもしれない。それを実行していこうとする意思と、理を説き周囲の理解を得る努力が、全く足りない。だから軽んじられてしまうのである。殴られたら殴り返す、で解決を図ろうとすること以上に、殴らないで対処することの方が難しいのだ。それに日本が挑まねばならない、ということ。中には、貧しい国に対し、ほっぺたを札束で叩いて回っているような国もある(笑)が、それはそれでしょうがないだろう。そういう国にはそれなりの取り巻きが付くのは世の常かも。日本がそういうのと一緒になって真似する必要性はないだろう。


アフガン問題に関与していこうと本気で考えるなら、まずパキスタンに足場を作るのが先ではないか。港湾にしても、中国は既に確保していたと思うが、日本は何も手をつけていないだろう。1千万超都市のカラチがあるのだし、発展する可能性はある。日本国内でばかり公共工事をあてにするのではなく、日本の工事業者を指導する人間として投入し、現地の人に教えながら道路や鉄道工事をするとか、いくらでも考えることはできるだろう。前にもちょっと書いた(パキスタンを押さえるのが先決では)が、「町を一つ作るつもりで」というのは、そうした拠点を確保しつつ次第に内陸部(アフガンも含めて)に足場を築くようにしていく、ということ。日本の知恵や生活技術を提供すること、医療や教育を整えること、人材受け入れや日本人指導者派遣を推進すること、そういうのを10年計画とか20年計画で取り組むことが必要だろう。


今の日本に出来ることは何か、ということをよく考えることだ。日本は知恵も技術もお金も、はるかにたくさん持っているのだから。日本という国は徹底して「平和を輸出する国」なのだ、と誰もが認識した時、日本は兵隊を出さないのでとんでもない、などとは言われなくなるだろう。戦闘に立つのではなく、日本らしい取組みの先頭に立ちなさい、ということ。それが真の勇気を示すことでもあり、一目置かれる存在になる、ということなのではないか。
Tsunami とか、サイクロン・台風や地震災害などの時には、日本で「自衛隊を海外に出すな」という反対は殆どないのだから、いくらでも自衛隊派遣の必要な時はあるだろう。PKO活動もあるのだし。結局、外国から見たときに、日本が「何をどうしたいのかがさっぱり判らない」ということになっているのであり、それは日本自身が「どう関与するか考えられない」ということである。なので、他人の意見に流され、せいぜい「人まね」するのが関の山なのである。