いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

グーグルって不思議だね(笑)

2007年02月09日 17時42分49秒 | 俺のそれ
極東ブログで見たので、便乗。
いつも勝手に利用させてもらってます…finalventさん。


一応、これまで書いたグーグル関連の記事。

グーグルの検索能力を実感してみた

専門家は正しい知識を啓蒙しているか

google検索の謎?

私の「こころ」は有限世界なのか?~その4

「いい国」で検索すると・・・・


グーグルについて何か書くと、割と早い時期に発見されて、変更されていると思う。何か改良点が見つけ出せるんだろう、きっと。実態はよく判らないのですけどね。例えば「格差社会」の検索結果は、数日後には件数が大幅に減少し、ランクも勿論大きく変わっていた。今では、トップページに来てるのは新聞記事関係が多く、私のランクは橘木先生に抜かされてしまった(当然か)が、トップ10位内に残っている。しかし、内田樹先生の記事は深い樹海(笑)に埋もれたようだ。namiさんも何処かに埋もれてしまったみたい。これが何故なのか、全くの不明。あと、山田昌弘先生の本さえも、トップから漏れてるね。元々は橘木先生の本よりも有名であったハズなのに・・・ちょっと気の毒。


またいい加減な推測を書いておく。

グーグルにとっての「大きな壁」というのが存在しているのだろうと思う。それは、彼らが英語圏に起源を持つからじゃないかと思う。
つまり、検索システムを作り上げてきた過程で、基本的には「アルファベット」を扱うことが出発点で、それに合うシステムを持っていれば良かったのだろう。「英語の単語」というのは、アルファベットの羅列である。文書の中にキーワードを探し出したり、言葉ごとの分類などが比較的容易なのだろうと思える。

ところが、「日本語」というのは厄介だ。漢字があるからね。アルファベットなら大文字小文字合わせて52個(つまりトランプと同じだ、ジョーカー以外だけど)だけ識別しておけばいい。でも漢字は難しいのではないかと思う。種類がずっと多いからだ。日本語のイヤなところは、これ以外にも「ひらがな」「カタカナ」とか英単語交じりの文章などがボロボロ出てくる。なので、検索しづらいのと、分類すべき文字がとても多くなるだろう、ということかな。グーグルが特に意識しているのは、「漢字」なんだろうな、とは思う。それは検索市場のデカさで考えると、日本と中国で見込める将来の収入となればそりゃ・・・兎にも角にもデカいであろうな、と。米国以外の英語圏とか、ヨーロッパなんかの「細々した国の言語」なんかはあんまり気にするほどでもないだろう、みたいな。ロシア語にしても、アルファベットみたいなのを用いるので英語と似てるしね。でも、「漢字圏」はちょっと違う。一筋縄では行かなかったのだろう、きっと。英単語ならばこんなに簡単に「こんなことができちゃうよ」ということなのに、これが日本語や中国語になると「思ったほどでない」ということになってしまうのかも。

「質問文形式」のような検索能力なんかだと、結構落ちるのかも。米国(英語)だと、質問文のまんまで「かなりイイ線行ってる答え」に辿り着けるのかもしれないが(試してみたことがないのでどうなのかは知らない)、日本語とかで「質問文」形式で入れても、思ってる(期待している)よりもヘンなのが検索されてしまったりすることが多いような気が・・・。現在のところ、「キーワード」形式の検索ならば、漢字の熟語とか何とかは、かなり良くなってきたのだろうけど、単語指定が一つであったりすると(格差社会、みたいに)検索者が求めているものが「探せなかったり」とか、あるかもしれない。掲示板とかブログのコメント欄程度に書かれている、「殆ど役立たない」情報までも「単語が書いてある」というだけで探し出してきちゃったりするとか。なので、検索者が「選択する言葉」をうまく考えて組み合わせると、結構いいところまで「絞り込める」のだが、こうした検索語の「組み合わせが苦手」とか、「別ないい言葉を思いつかない」とか(その為に、幾つかの組み合わせサンプルみたいなのが表示されているんだろうと思う)、そういうのが割りとあるんじゃないかな、と。どうなんでしょうか?

<休憩所:
関係ないが、「ひょっとして~~?」という表示が「大きなお世話」と思うことがある。「全然ひょっとしないんだよ!!」と心の中で叫ぶ。グーグルの探し出してきた一覧がろくでもない結果ばかりで、「使えねー、グーグル、ダメじゃん」ってこともある。こっちは間違ってないんだYO!と思っても、グーグルは「違うんじゃないの?」と先頭に余計な表示をしてくれるからね(笑)。多分、普通はあまり用いられない専門的な用語なんかの場合に出てくるような気がした。主に略号とか…かな。いちいち覚えてられないので、どんなケースだったか忘れた。>


元来「記号(文字)を捜す」ことを基本的システムにしていたのだろうと思うけど、それを変えようとしているのであろうな、と。前にちょっと触れたのだが(参考記事)、ある特定物質(=キーワード)の存在を探知することは可能なのだが、そこから「意味」とか「文脈」を探知することはできない。更に、先日意識の記事で書いたように、特定物質を「レセプター」で探知できるシステム自体は、「うまい」という感覚を「書き込む」「表現する」ということができない。でも、人々が知りたいことの多くは、「カプサイシン」そのものではなく、「辛い食べ物」とか「辛子を使った料理」とか「超美味い辛子料理の店」とかそういうようなことなんだろうな、と。その質問形式にランク付け可能になるには、漢字圏では「試行錯誤」中なのかもな、ということです。


本気で「マザーコンピュータ」を目指しているかもしれないですね。今は個人が検索語を指定し、解答結果一覧の中から「自らが判断」し最適と思えるものを選び、「最終解答」を得ている。しかし、アニメのような世界であれば、人間が質問すれば即座に「解答」を出すのがコンピュータだ。判断も最適解選択・抽出もコンピュータが行う。現在のところ、グーグルにはこれができない。そこで、「人間」をもっと学ぶ必要がある、ということなんだろう。



今年も近づく「2-十」の日

2007年02月08日 19時15分58秒 | 経済関連
特に意味はありません。思い出しただけなので。今年はデモ行進みたいなのはやらないんでしょうか?

2月10日:「ニートの日」

作らない方がよかったような気も…
まあ本人たちがやりたくて、そう決めてるんだからいいんだろうけど…


もっとアクティブな方々?とか、全「世の中」的には、「ニートの日」よりもバレンタインデイに期待が高まってるのであろうな、とは思うのですけどね。私にとっては、後者は「もうどうでもいい日」となっており、「ニートの日」に何が行われるのかという方が興味があります。何もないなら、ないで、まあそうかな、とは思います。



お里が知れる「裸の王様」発言

2007年02月08日 18時54分55秒 | おかしいぞ
今度、外国人監督に「日本の記者団」というのを映画にしてもらいたいです。是非観たい。どれほどスゴイのか判ると思うから。


この前、安倍総理のぶら下がりで次のような発言をした記者がいたようだ。

スポニチ Sponichi Annex ニュース 社会

(以下に記事から一部引用)

しかし、7月に改選を控える舛添要一参院政審会長は報道番組などで「官邸の意識が民意とズレている感じがする。安倍首相は裸の王様になりつつあるのではないか」と批判。これを受け、官邸で記者団から「首相は裸の王様ですか?」との質問が飛んだが、安倍首相は「そうではないと思いますけどね」と首をかしげるだけだった。また、舛添氏が柳沢氏の早期辞任を公然と主張していることに関して、中川秀直幹事長は「参院執行部としての意見ではないと理解している。今年参院選を戦う候補者としての皮膚感覚を語ったのかもしれない」と述べた。




ネタ元はどうやら舛添議員のようだ。恐らく、「官邸機能」が問題になってきている、ということを暗に批判しようとしたのではないかと思うが、真意は定かではない。大体こんなことを言わせておくのは、「党への睨み」が効いてない証拠だ。中川秀さんの「孤軍奮闘」状態になっているのではないか。秀さんの直轄系で、腕っぷしが強くて他の外野を黙らせておける議員さんとかいないの?そもそも党三役が「揃い踏み」になってないんだよね。バラけてるか、対立してるようじゃ、話にならんわな。局面、局面で党内をシメる人がいないと今後も苦しいぞ。秀さんにしても、もうちょっと「ふざけんじゃねぇよ」調でやって頂いた方がいいんじゃないか?怖さが足りんな。虎のすけの虎さんも、参院から「表立って批判の声」が大きく出てこないようにしなけりゃ、マズいんじゃないの?青木さんの「諌め」は小泉さんの時にもそうだったから、これは何も変わってないので別にいいけど。執行部とか閣内とかでさえまとまりに欠けるのは、かなり問題があると思うね。暴れたいのであれば、参院選挙終わってからにしとけっての。

安倍ちゃんがどうやら「隔離」されているのか、「耳の痛い情報」というのが上がっていってないの?それは官邸での機能の問題なんじゃないか?そのことを誰かが改善してあげるか、安倍ちゃんに進言した方がいいんでないの?まあ党内問題は全然判らんので、とりあえず措いておくけど。


問題発言のことですけど、「裸の王様ですか?」って、一国の宰相に向かって聞くことですか?ふざけてるんですよ。一体どこの記者なのか、報道して欲しいですね。不見識にもほどがある。メディアの社内教育が全然なってないんじゃないか?報道に命賭けてるなら、「何か隠してるんじゃないですか!本当はマネーロンダリング的手法なんじゃないですか!○○大臣!」みたいな、「マジネタ」で勝負したらどうだ?もっと説明を求めるべき部分があるだろ?小泉さんの時にも指摘したことがあるけど、本当に低レベルの記者はいるんですよね。

遂には言うに事欠いて、「(あなたは)裸の王様ですか?」って、人をバカにするにもほどがあるぞ!総理以外にだって、使うんだろ?実際使ってみろよ。面と向かって言えるもんなら言ってみろよ。「あなたは裸の王様ですか?」って。記者自身とこの社長とかにも同じように聞いてみろ。酷すぎるぞ、マジで。

こんな有様ですから、日本のメディアって。本気で外国人監督に映画を撮ってもらいたい。外国人から見た、「日本の記者たちの異常な世界」とか「日本人メディアの驚愕の実態」とかそういうのをテーマにしてもらって、一遍メディア諸君は自分たち自身を客観的に見た方がいいと思うよ。

それにしても、安倍ちゃんは本当にいい人なんだね。きっと育ってきた環境がやっぱり立派だったんだな、とは思う。私みたいなお下品な感じで育つと、打たれ強いかもしれんし速攻で罵倒し返せたりもする(笑)けれど、上流の人々というのは基本的にそういう場面の経験というものがなく、言い返したりする必要性もないんですよね。そもそも「根本的に勝っている」から。常に高みにあって、下々の者から「やーい、やーい」みたいな感じではあんまり責められたことがないだろうしね。なので、じっと堪えて丁寧に、でもちょっと困ったような表情と「うさぎ」さんのような悲しげな目をしながら、「そうではないと思いますけどね」と答えていましたよ。「何だ、その質問は?」とか言ってもいいと思うよ。あんな失礼な質問なんだから。もうちょっと怒ってもいいですよ。総理大臣に面と向かって、「裸の王様ですか?」などという言葉を投げかけるヤツはいないよ?普通は。

そういう訳で、このバカな質問をした記者はどこの誰なのか明らかにして欲しい。で、出入り禁止にするべきだ。侮辱にもほどがある。所属と名前を公表してもいいんじゃないか?失言を論うのは得意なんだから、逆に自分達が報じられる番になってみた方がいいよ。



会計検査院だって頑張ってる~本当にマルサよりも劣っているのか

2007年02月07日 21時00分41秒 | 行政制度
一応これまで会計検査院の記事を書いてきたし、度々批判もしてきたのだが、応援してもいた。で、弁護(笑)というわけではないが、実際どうなのかちょっと調べてみた。キッカケは、次の部分が気になったからだ。

わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる マルサの男「徴税権力」はスゴ本

(以下に一部引用)

・国税庁
・会計検査院
 道路一つはさんだだけの、至近距離に位置する2つのビルは、性質を全く異にする。ひとつは、税金をとりたてる側、もう一つは、その税金の使途を監視する側。つまり、国税庁は税金の「入」を、会計検査院は税金の「出」を担う。問題は、その機能の違いではなく、温度の違い、空気の違い。
 苛烈を極める国税庁とは対照的に、「官と官の信頼がある」などとのたまう馴れ合いの会計検査院。片方は情け容赦のない徴税、もう片方の税金放蕩放置プレイは、納税意欲が削がれること著しい。




うーん、言いたいことは判るし、私もそうですが会計検査院には厳しい批判をしてしまうだろうな、とは思います。ブログを始めた頃には、「会計検査院憎し」とまではいかないまでも、色々と批判記事を書いてましたからね。でも、多少なりとも評価してあげてもいいのではなかろうか、とは思います。

参考記事:

会計検査院の仕事

ちょっと寄り道

話題シリーズ24


まず、会計検査院から見てみることにする。

会計検査院 HomePage -活動基盤-

(一部抜粋)

これだけは知っておきたい 会計検査院の3つの特徴

特徴 1 内閣から独立した憲法上の機関
 会計検査院は行政機関ではありますが、内閣に対して独立の地位を有しています。人事権、規則制定権及び予算の自主性等が保障されているため、職員は公平・中立な立場で検査を実施することができます。

特徴 2 転勤がない
 会計検査院には原則として転勤がありません。東京の霞が関(※)にあります本庁に勤めることとなるため、子供の教育環境、職員自身の社会環境が安定し、生活設計を立てるのが容易です。

特徴 3 全国に出張します。
 年間約80日にも及ぶ出張をして会計検査を行います。北は北海道から南は沖縄まで、さらには国内に止まらずODAの実施先にまで赴き、会計経理や工事の設計・施工等あらゆる角度から検査を実施しています。



何となく面白いじゃありませんか。1は当然として、2の「生活設計を立てるのが容易です」というのが羨ましさを誘っていますね。で、これと相反するかのように3の「全国に出張します。」(注:ここだけマルが付いてるのは、ひょっとしてモー娘の影響?)というのがまたイイですよね。全国何処でも、海外にも行けちゃいます、ってことかな?これは全く関係ない余談なので、どうでもいいのですけど。


大事なのはこちら。

会計検査院 HomePage -活動基盤-

これによると、H17年度の指摘金額は約453億円(437件)となっています。職員数は約1300人、うち会計検査の中心は調査官及び調査官補の約850人という陣容です。



一方、国税庁の方はどうでしょうか。マルサは「国税庁調査査察部」という部署で、そこの実績を見てみました。

NTA

これによれば、H17年度で着手件数217件(処理214件、告発150件)、脱税額は約274億円(摘発約230億円)、ということです。因みに、これまでの告発による裁判例は「有罪率100%」という実績を誇る(!スゴイ、マルサが誇っているわけではないかもしれませんけど)ようです。職員数なのですが、実際の数は不明でしたが、一応ヒントはありました。調査査察部は「約3%未満」の陣容ということのようですので、ここから推定してみたいと思います。
まず、国税庁全体の職員数は約56000~57000人程度です。この2%であると1120~1140人、3%であると1680~1710人ということになります。恐らくお役人の人が3%未満ということを言う場合には、きっと2.5~3%くらいの「割と正確な数字」を示していると推測します。特に国税庁ですし(笑)。なので、約1500~1600人、というのが妥当な線ではなかろうかと思います。会計検査院の2倍近い職員数である、ということですね。

で、会計検査院の受け持ちは一般会計と特別会計の両方ですけど、特別会計のうち金額の大きい国債や社会保障関連の会計は殆どが決まりきった支出(所謂義務的支出、利払いや借換、医療や年金給付等)ですので、実際の金額としては約10兆円くらいなのではないかと思います。すると、一般会計約45兆円くらいと合わせて約55兆円規模ではないかと思います。このうち453億円指摘ですから、「一万分の824」ということになります。実際の検査箇所では、全体で12500箇所程度(郵便局を除く、郵便局数は25000くらいあるので)のうち約20%くらいは検査しているようです。調査査察部の方はと言いますと、徴収税額が約54兆円で脱税額274億円ですから、「一万分の507」ということになります。


会計検査院は「お金が国庫に返還される」とも限らないのでしょうけど、件数と金額とも指摘効率から見ればマルサを上回っていると思われます。国税庁の場合には、主に悪いヤツラから「ぶんどり」を実行し、当然かなり追徴するので国民からみると「すっげえ、よくやった」という感情を生じやすいと思われます。国のお財布(=国民のお財布って感覚だろうけど)が「確実に増えて」良かったネ、ということだな。会計検査院が指摘したとしても、国のお財布にどれくらい返ってくるかよく判らないし、本来的には「無駄遣いしないで、ちゃんとやっとけよ」的なことなので、不満を生じやすいのではないかと思えます。会計検査院では「ぶんどり」が仕事なのではないからです。あと、会計検査院の検査というのは、「合規性」や「正確性」ばかりではなく、「経済性」「効率性」「有効性」という観点から検査しなければならない(会計検査院法第20条)為、「コイツら裏金にして隠してるな」というような事ばかりではなく、例えば「もっと安いソフトを導入しても、十分同様の業務をできたハズ」みたいなことも調べなければならないのです。委託先が1千万円で請け負っていても、別な業者に頼めば800万円で請け負える環境にあった、というようなことが確認できるのであれば、「無駄遣い」ということになりますから、そういうのも調べなければならないのですよね。こういうのは、本来担当している行政の部署が自発的に「やってくれればいい」ことなので、指摘する会計検査院の方でも大変だろうと思うのですよね。国税庁の「e-tax くん」のキャラはかなり狂ってる感じでアレなんですけど(笑、もっと違う名前だったか?)、「電子確定申告の利用率はたったの0.5%で非効率」(うろ覚えで不正確かも)みたいなことも調べねばならんのですよね(笑)。

そういう訳で、国税庁も無駄遣いをしているし、会計検査院はそれなりに頑張ってやっている面があるということ、マルサの調査査察部よりも少ない人数ながらも指摘金額や件数は多いこと、そういう部分は評価してあげて欲しいかな、とは思います。

更に重要なことは、国民がそうした活動を側面支援すること、関心を持って見ていくことだろうと思います。国会が検査結果を受けて是正策を考え審議したりする役割を持つのであって、翌年度以降の予算編成などに反映していくことは国会議員たちにその責務があるのです。そういうシステムを活かすのも殺すのも、国民からの目、声、そして1票なのです。できるだけ多くの国民の方々にそのことを考えて頂ければ、会計検査院は益々その機能や能力を発揮して活躍することが可能になるだろうと思います。


万能な用語としての「義務」―際限なき義務化

2007年02月06日 21時01分16秒 | 法と医療
判決内容に疑問を感じたので、取り上げる。判決全文は見つけられなかったので、記事からだけしか判らない。

日赤に賠償命令 男児感染死で説明怠る 姫路

(以下に一部引用)

悪性リンパ腫と診断され姫路赤十字病院(姫路市)に入院、肺炎に感染し死亡した同市内の男児=当時(9つ)=の両親が、病院に過失があったとして、日本赤十字社(東京都)などに約九千四百万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が二十六日、神戸地裁であった。下野恭裕裁判長は「医師らは治療について、両親に説明する義務を怠った」として、赤十字社に一千万円の支払いを命じた。判決によると、男児は一九九九年十一月、悪性リンパ腫の治療で入院。抗がん剤を使う化学療法で症状が改善したとして、入退院を繰り返しながら治療を続けたが、〇〇年十月、入院中に肺炎に感染し死亡した。

同病院は当時、悪性リンパ腫の治療実施計画書を作成した小児白血病研究会に参加してなかったが、下野裁判長は判決理由で「被告は研究会に参加してないことを患者側に告げる義務があった。研究会に参加してない病院では何か問題が起きても、研究会に判断を求めることができない。患者側はほかの研究会参加の病院で、高度な治療を受けることもできた」などとした。さらに裁判長は、肺炎予防の薬の服用についても「男児が薬を内服しやすい環境をつくる義務を怠った」として病院側の過失を認定した。




この記事から判ることで、重大なことが2つありますので、それを順に見ていきます。


1)研究会加入の問題とその告知義務

①「小児白血病研究会」なる団体があって、それに加入していなかった
②その団体が作成していた治療実施計画書を用いて治療を行っていた
③未加入ゆえ、病院は団体に「意見を求められない」
④当該団体未加入であることを告知する義務があった
⑤研究会参加の病院でならば「高度な治療を受けられた」

①について:
今回初めて知りましたが、「小児白血病研究会」なる団体があるのですね。裁判所が認定するのであるから、「医学的には権威ある団体」ということなのでしょうか。つまり、当該団体に未加入であれば「小児の白血病治療を行う」べきでない、ということになります。しかし、これは日本全国でそうしたことを信じている医師は殆どいないのではないかと思えます。本格的に「権威を認められた」団体であれば、「学会」として多くの医師たちに認められるからです(日本医学会?加盟の、だったか)。中には「?」な学会も勿論存在しているようですが、「研究会」というレベルであると「勉強会」といった意味合いが強くなりますので、どうなんでしょうか。出発点として、裁判官の思い込みがあるのではないかと思えます。つまり、団体加入の医師は「能力がはるかに高い」が、未加入の医師は「能力が低い」ということです。それは、裁判官に立証責任があるでしょう。「小児白血病研究会」未加入の医師は必然的に「能力が低い」と信じている医師が、一体どこにいるんでしょう?

②について:
研究会が作成していた「治療計画書」というのは実態がよく判りませんけれども、恐らく治療マニュアル的なものなのではなかろうか、と思います。一応、それを想定して述べていきます。

これに類似した「治療指針」「ガイドライン」「診断基準」「治療マニュアル」等はたくさんあります。例えば、有名なところでは、「厚生労働(旧厚生)省~~研究班」などが作成した「治療指針」とか「難病診断基準」なんかは多数あるでしょう。高血圧症の診断と治療などは「日本高血圧学会」が作っていた治療指針みたいなのが標準的です。救急蘇生関連なんかだと、AHA(American Heart Association)の定めるCRP、日本のBLSとかACLSなど、いくつかありますね。こういうのは、使いやすいとかあると便利というものであって、「絶対基準」なんかではないし、その場その場で外れてることだってあるでしょう。もしもマニュアル通りに全て上手くいくのであれば、殆どの医者なんていらないわけです(笑)。マニュアル通りにできる「誰か」が存在してさえいればいいんですから。

基本的な考え方として、これら指針やガイドラインというのは、所謂「集合知」を活かせるということなんですよね。一人の医者だけで考えると、「経験数が不足しがち」「考えが偏りがち」「自分というバイアス」なんかの可能性は高くなるでしょう。そういうのを回避し、エラーの確率を低くしていく為に複数の専門家たちが膨大な論文などを検証したり、議論して作られていることが多いでしょう。それが一般的な医療現場の中で「標準化」されたモデルとして取り入れられる、ということですよね。でも、医療機関ごとに「若干の付け加え」とか変更とか、そういう独自の工夫がなされるかもしれませんけど。でも、「絶対的な正解」なんかではありませんよ。あくまで「参考解答」でしかありません。そんなに人間というのは単純じゃないんですよ。

③について:
未加入ゆえ病院は意見を「団体に求められない」というのは、殆どの場合そうですよね。上に例示した「高血圧症」の指針に基づいて治療していく時、仮に個別の患者で困ったことがあった時に「日本高血圧学会で答えを教えてくれ」みたいなことはありませんよ。治療指針を作った厚生労働省の研究班でも、個別の症例について「こうしなさい」とか「これが正解です」などと答えてはくれませんよ。少なくとも、「小児白血病研究会」より厚生労働省の研究班の方が、治療指針や診断基準に関しての権威はかなり上だと思いますけど。AHAの基準で治療していく時、AHAに未加入だったら「答えを聞けなくて」、加入している医師ならば「個別の症例について正解を教えてもらえる」なんてこともありませんね。団体に参加していさえいれば「答えを知る事ができる」というのは、裁判官の空想か錯覚です。裁判官は、どうやら「研究会」が治療してくれる、と思っているフシがありますね。ならば、日本を5ブロックくらいに分けて、それぞれ研究会を一つ作り、研究会の人たちだけが治療をやればいいのではないでしょうか(笑)。それならば、裁判官のご希望に沿うことが可能になるかと思います。

④について:
本判決のクライマックスでもありますが、当該団体未加入の告知義務という新たな義務を追加してきました。これまでの法学分野で「医科系の学会に加入しているか否かについての告知義務」というのがある、というのは既出なのでしょうか?あれですか、「当店は日本チェーンストア協会加盟です」とか「東京商工会議所加盟です」といった告知義務を課しているのでしょうか?日本調理師協会加盟でなければ、「協会加盟の、もっと美味い店で食べる権利を有していたのに、店側が告知義務を果たさなかったので義務違反につき損害賠償せよ」となってしまう、と?(例示したこれら団体はあくまで架空です。仮に実在しても何ら関係ありません)

患者またはその家族には、医師や医療機関に関しての「全てを知る権利」は存在していないと思います。最低限告知すべき義務とは、「医療法に規定されている内容」だろうと思います(診療科名とか医師名とか時間とか、・・・そういうようなヤツだったはず)。正式な「学会」だけでも日本医学会加盟団体は100以上あったはずです。それらについて、患者側が必ず正確に判断できるということを想定してはいない為、逆に「~~学会」といった怪しげな権威付けによって患者側が騙されてしまうという不利益の方が問題になるでしょう。恐らく医療法上での想定というのは、「過剰な広告」を禁止する旨だったと思いますけれども、こうした欺瞞に引っ掛かりやすいという患者側の特性があって、患者側利益を保護する意味合いの方が優先されている為だろうと思われます。「振り込め詐欺」で「法務省~~」とか「財務局~~」みたいな「権威付け」名称に、アッサリと引っ掛かってしまっている人々が多く存在していることが明らかです。「あるある~」の納豆騒動でも同じです。何かの権威付けによって、「簡単に騙されてしまう」ということなんですよ。危険性の方が問題だろうと思えます。

こうした研究会だのといった団体加盟の有無について告知義務が法的にあるとは思えません。個別に聞かれた場合には、「答える」というのが常識的であると思います。

参考までに、「健康エコナ」だかの「食用油」のテレビCMがありますよね?あれの「日本人間ドック学会」推薦(?だったと思うがうろ覚えだ)という「権威付け」が行われていますが、「日本人間ドック学会」は「日本医学会」の加盟団体ではありません。「小児白血病研究会」もそうです。裁判官は健康診断を受ける際などに、医療機関が「日本人間ドック学会」に未加入なのかどうかを聞いて回っているのでしょうか?そうした場合に、「日本人間ドック学会未加入の病院を受診し、告知義務を果たされなかった結果、高度な健康診断を受けられなかった」と主張するんですね?仮に、明日にでも「日本高齢者高度先進医療研究会」みたいなのがボコボコと誕生し、告知義務を果たして「ウチは研究会加入の素晴らしい医療機関です」みたいにやってくれ、と、こういう主張をするんですね?

⑤について:
「小児白血病研究会」というのがどういった団体なのかは、私には全く判りません。熱心な先生方が頑張って治療ガイドラインみたいなものを一生懸命作成していて、それは携わっている医師たちにとって「とても有り難い」ものなのかもしれません。小児の白血病自体、絶対数がそんなに多いとも思えませんし(症例数=経験数が少ないと知見も乏しくなりがちなんだろうな、とは思うので)。そうであるとしても、研究会に未加入な医師や医療機関が「未熟」であり、加入していると「高度」である、ということを「一般原則」と認めるには相当の根拠を必要とするでしょう。裁判官はこの立証を行う義務がありますよ。これは同じく、「~学会」加入と未加入においても、同義ですよね?つまりは、全ての団体について「同じ傾向がある」ということを立証せねばならないでしょう。例えば、「日本人間ドック学会」加入だと、未加入の医師や医療機関よりも「高度」なんですね?著名な医療機関はみな「小児白血病研究会」に参加しているハズなんですよね?本当なのでしょうか。


2)肺炎予防の薬を内服しやすい環境を作る義務

肺炎の原因や治療経過などについてはよく判りませんけれども、「内服しやすい環境を作る義務」というのはどうなんでしょうか。血液疾患だけに、肺炎の合併は避けがたいものであったかもしれず、「結果的に」肺炎になってしまったら義務違反、というのがあらゆる場面で認定されてしまいます。

例えば、変性疾患などの場合、死亡原因のかなりの割合に「肺炎」というのがあると思いますが、こうした時でも主たる疾患Xがあって、そのありがちな合併症として「肺炎」になってしまうと、「予防する薬を内服しやすい環境になっていなかったから」肺炎になってしまったのだ、ということになってしまいます。普通に薬の副作用なんかで「間質性肺炎」などもあるわけですが、こうした時でも「肺炎が合併することは十分予期できたのに、肺炎を予防する薬を内服しやすい環境を作っていなかったから義務違反だ」となってしまいます。つまり、肺炎の発症は、「薬を内服しやすい環境になっていなかったから」というのがその重要な要因と認定している、と思われるのです。これは誤解ではないかと思われます。「内服しやすい環境」になっていてもいなくても、無関係に「肺炎」は生じてしまいます。そして、時には致死的となってしまうのです。肺炎は死亡原因の中で、稀な疾患なんかではないいのです。むしろ上位と言えるでしょう(高齢になればなるほど死亡数は増える)。免疫異常などが元々疾患としてあるのであれば、そのリスクは高まります。エイズだって、エイズそのもので死ぬわけではありません。多くは肺炎などの別な「感染症」で死亡するのです。そうした時、「予防する薬を内服”しやすい”環境」を作っていなかったからだ、と裁判官は仰るわけです。これは極めて深刻な事態を招きます。念のため、「肺炎予防の薬を内服しやすい環境」とはどのような環境であるのか、必要な要件を法的解釈に基づいて規定してみて下さい。>法曹の方々なら、誰でも可能なのですよね?

これと同じような理屈を、広い範囲で用いることができてしまいます。
「糖尿病が悪化したのは、糖尿病の悪化を予防する薬を内服しやすい環境になっていなかったからだ。義務違反につき、損害賠償せよ」というのも可能ですね。これは医療側の問題というより、「患者側努力」に関わる面であっても、責任を負わされる、ということでもあります。「糖尿病の薬をちゃんと飲んでいないと、悪くなったら大変だからね」とか言っても、患者が怠けて飲んだり飲まなかったりしていて、そのうち「病状悪化で腎不全」になっちゃったりすれば、「飲まなければ人口透析になるなんて聞いてなかった」とか主張するってことなんですよ。で、「内服しやすい環境になってなかった」という理屈が適用されてしまうのです。本気で患者を医師にするくらいの教育を施さないと、「義務違反」地獄からは逃れられないとしか思えません。

こんなに次々と義務を課されるということであれば、パソコンのトリセツみたいな分厚いやつに、こと細かに書いて全部読んでもらうとかしないと無理だ。それか、前に書いたけど、双方治療前に代理人を立てて契約を締結した方がいいよ。



司法の「品質管理」を問う

2007年02月06日 15時24分51秒 | 法関係
先月、isologueで映画「それでもボクはやってない」を取り上げていたが、最近裁判所の出す判決というものが大変気になる。磯崎氏の
>『選挙に行ったときに、最高裁判所裁判官の国民審査もちゃんとやったほうがいいよ』と言うのと同じくらい人には勧めづらい
というコメントはグサッと痛かった(笑)。実際コレ→法と正義10書いてしまったしね。

参考記事:裁判における検証レベル


まず裁判所側に求めることを簡単に挙げてみる。これらは、あまり難しい要求ではないハズで、他の法学関係者たちも望んでいよう。

・原則的に判決文は全て全文公開(個人名等はXとかYとかでいいと思うけど)
・検索システム構築(キーワード検索、データベース化)
・判事同士による専門分野の検討・研究などの公開

近頃の医療に関する裁判のニュースが出てるのを見ると、「理屈」として「普通にオカシイんじゃないか」と思えるものが目につくわけです。単なる専門外の素人の頭で考えても、「ヘンじゃないのか?」と思うような「理屈」を判決で用いているように思えます。これを修正していくには、私のようなド素人が言っても効果がありませんので、できれば専門家同士の中で「実際どうなんだ?」というのを真剣に考えて頂きたいですね。

判決文が公開されると、困ることというのがあるのでしょうか?判例集を販売している業者たちの仕事は無くなったりしますから、特定業者たちは困るとか言うのかもしれませんけどね。それって、天下り先とかなのでしょうか?その権益を守りたいとか?違うのであれば、e-japan構想?に従って、裁判所の電子化を推進した方がいいですね。判決が公開されていないことで、法学専門家の目に触れずに過ぎてしまって、適切に評価を受けない、ということもあるかもしれず、そうなるとレベルダウンが起こっても、あまり見咎められない、ということは有り得るかもしれません。そういうのを防ぐという意味でも、公開を進めた方がいいと思えます。

とても厳しい言い方になると思いますが、ご容赦願います。
ある判決に対して、「これは考え方がオカシイ」とか、そういった法学研究などが行われて、法務省なんかに提言されたりするようなシステムというのがあるのでしょうか?裁判官たちは、誰の、どういった評価を受けるのでしょうか?判決内容に関して、どういった品質管理(という言葉が適切かどうか判りませんが、とりあえず)の手段を持っていて、どういったフィードバックシステムを持っていますか?前に、上級審があるから、3審制だから、というようなことを書いたのですけれども、基本的には修正なく「一発で同じ解答」が得られている方が、労力とか時間などの節約になるのですよ。それと類似の紛争なども、「裁判にならないで」ある程度解決に繋がっていくかもしれない。でも、「合法」「違法」の判断があっちへ行ったりこっちへ行ったりすると、結局「裁判をやってみなけりゃ判らない」みたいな状況を生じやすくなったりはしないのでしょうか?有名な検察官のお言葉を借りれば、まるで「一か八か」みたいなもんじゃないですか。そういうことで果たしていいのでしょうか?

また喩え話で申し訳ありませんが、医療ではある程度の「治療法」みたいなものができてくるわけですが、それは同じ病気とか症例に関して過去の知識や経験があればそれを参考にして、いいものを「真似して」いくようなものなんですよね。でも、裁判というのはそういうことになっているんでしょうか?どうなんでしょう?でも、初めてのケースとか、そういうこともあるので、過去の裁判例があるとは限らないのは判るのですけれども(きっと医療でも多々あるだろう)、時には「オレ流」でやっていこうとする裁判官も「いないではない」ようですよね?「全ての判決文が短い」とか(笑)。他にも、その種の裁判を一度も「やったことがない」のに、「オレの流儀でやってみる」という裁判官も沢山いるんですよね?その腕の評価はどうなっているんでしょうか?言ってみれば、裁判長というのが「執刀医」で、他2名の裁判官は「助手1号2号」みたいなもんなんですよね。手術を行う医師たちと同じようなものなんですよ。医療であれば、「やったこともないのにやってはいけない」とか、「経験症例数を事前に説明しておくべき」とかそういうことを判決なんかで言われるわけですが、裁判官は毎回原告被告等に「私は医療訴訟事件は初めてですので」とか事前説明をしたりはしませんよね?(笑)「術中の心停止事件に関しては、一度も裁判を担当した経験はありません」とか、宣言したりはしませんね。こういう時、医療であると「指導する医師がいなかったという体制に不備があり、過失と認定」みたいなことになってしまうわけですが、裁判官はそういう体制が完備されているのでしょうか?「やったこともない」のに、知識も能力も十分担保されている、ということを示せますか?判決に関しての「検証・点検機構」というのは、どのようになっているのでしょうか、という問題でもありますね。基本的には、「間違ってもよい」「一か八かやってもよい」というのが、現状の裁判所のシステムなんですよ。おまけに「過去の事件」から学べることや、積み上げ効果(要するにフィードバックだな)が本来活用されるべきなのに、必ずしもそうとも言えませんよね。

裁判長になるまでに、裁判例は何例くらい経験するものなのでしょうか?今までに「心臓手術を2例だけやっています」という医師に、「是非執刀医をお願いします」とか言う人はかなり少ないと思われますが、裁判官の場合だと「裁判しちゃいますから」ということでいいんですよね、きっと。「裁判官は常に正しい」という前提なんでしょうね。もしその前提であるならば、品質管理は厳格に行われるべきではないでしょうか。それには、法学の(場合によっては、特定分野の人も交えた上で)専門家同士で評価を繰り返すことだろう、と思いますね。現在の判決というのが、そうした評価を潜り抜けてきているとも思えないのです。判決文は裁判官の研究論文みたいな側面もあると思うのですけど、言ってみれば「書きっぱなし」「出しっぱなし」ということで、本当にその研究成果でいいのか、正しいのか、ということが検討されていないのです。

このような品質管理状況で、裁判所の判決というのが信頼性を高められるものなのでしょうか?


流れの変化に気付くのが遅すぎじゃないか?

2007年02月05日 21時57分34秒 | 政治って?
昨日の「愛知県知事選が取れてホッとした」というのが本音なのかもしれないね。実際どうなのか知らんが。柳沢発言が云々とか、「知ったような口を叩いている国会議員たち」ってのも相当アレだね。感性のズレてる議員たちってのは、マジで~以下自粛(笑)。まあ、「安倍ちゃん批判」が党内から噴出していけば、ひょっとしたら「新たな人事の芽」が出てくると読んでいる人たちもいるから。政局好きにとってはチャンス到来ってことなのかもしれんがね。

あのですね、ハッキリ言っておきますけど、
「いい加減、目覚めなさい」(by アクツマヤ)
ですって。

本当に頭の悪い国会議員たちが多すぎ。一体、何をやってんの?何を考えてんの?
国民の多くは、腐れ議員たちなんて求めてないの。昔式の「金脈、人脈」でやってきた政治には、もうウンザリなの。自民党基盤を固めていた「旧式勢力」っていうのは、段々と選挙で歯が立たなくなってきてるの。まだ判らんのかね。

今回選挙では、愛知県知事を取って、北九州市長は負けたんだが、こんなの「柳沢発言」があっても無くても大して変わらないんじゃないの?既に自民党の「旧来型選挙」方式は、厳しくなっているんじゃないの?支持基盤はそりゃ大事だよ。でも、そういうのだけに応えるのが多数派じゃないんですよ。それでは勝てないんですよ。

認識が不十分な議員さんたちも多いでしょうから、判りやすくまとめてみますか。10月の補選で2勝して以降、「地方の選挙」ではやられてるんですよ。トコトンね。

取れたのは、最も重要だった「沖縄県知事」と、不戦勝だった(民主党候補擁立せず直接対決なし)和歌山知事だけ。つまりは、「特殊な要因・環境」だった沖縄だけが取れたってこと。でも、それ以外はほぼ惨敗。挙げてみましょうか?

市長選から。
・尼崎:ボロ負け→共産系候補にダブルスコア負けだったらしい
・旭川:競り負け
・福岡:新人にまさかの敗北

知事選は
・福島県:大差負け
・宮崎県:そのまんま負け(笑)

どうです?要するに連戦連敗だったんでしょ?
これで、何で「北九州市長選は柳沢発言の影響だ」とかフカせるわけ?むしろ今回、愛知県知事が取れたのは、ラッキーだったんじゃないのか?「よくやった、大健闘だった」と称えるべきなんじゃないの?(爆)

議員の2世だか血筋だとか、官僚とか、そういうのを立てて、組織戦を目論んで、なおかつ連敗してきたんですよ。有権者を甘く見すぎなんだろうと思うね。選挙民をナメてるんだよ。もうここまで鈍感なのであれば、一度「ボロクソ大敗北」でも喫してみた方がいいよ、ホント。統一地方選でボロ負けになって、続々と入ってくる「討ち死」報告でも受けた方が気が引き締まっていいんじゃないか?(凍りついたようになっていた、あの時の岡田代表のような心境になれますよ、きっと)

腐れ体質の国会議員を支えてるような地方議員たちが減れば、その方が地方の政治はちょっと良くなるだろ(笑)。そういう連中は、もう要らない。求められてないんだよ。そんな政治をいつまでやったって、何も良くなってなんかいかないんだよ。地方が静かに、でも確実に死んでいくだけ。その引導を渡そうとしてるのは、腐れ頭の議員たちなのさ。鈍感議員たちというのは、大体こういう腐れ頭の持ち主と相場は決まっているもんなんですよ(笑)。



あるメッセージ

2007年02月05日 16時07分49秒 | 経済関連
だから特にどう、というものでもないわけですが、御礼など。

自分の思い込みだし。


でも、何となく感じたのですね。
「向こう側」を。

凄くわかりやすいメッセージ(笑)も。


全くの偶然かもしれんけど。



ケンシロウに、少佐が「アリガトウ」って言ってました(笑)



ココは寂れてる方が放言しやすいですし。

お気遣い無用ということで宜しいですので。



意識の探求~その2

2007年02月05日 15時26分05秒 | 俺のそれ
分裂勘違い君劇場さんの中身はちょっと書き加えられていますね。当ブログのような寂しいブログ記事に気付いた訳ではないでしょうけど(笑)。

前の続きを、もう少し書き加えてみたいと思います。
まず、「感覚」ということについて考えてみます。「~という感覚」について、直接的な科学的記述が可能なのかどうか、というのがまず問題なんでしょう。個人的な直観では、実現可能性は厳しいかもしれませんが、「可能」かも、と思うのですよね。自分が認識するレベルの「感覚」というのは、再構成されたものでしかないからだろう、と思うのです。

脳みそには、それがどこなのか不明なのですけれども、「自分」(意識?)というノートみたいな領域がきっとあると思うのです。自分が認識するそのノートには、さまざまな情報が書き加えられていくのです。そこでは、勿論「感覚」というのも書かれると思います。「感覚を直接記述できる」かどうか、というのは、その書かれた情報が「どんな風になっているか」というルールが現在の科学水準では「見えない」だけで、厳密に調べることができれば「感覚」さえも再現できるだろうと思うのです。

赤ん坊の頃の「自分ノート」は空白だらけであり、大半が基本ルール(本能的な部分、遺伝子的に規定される部分)しか書かれていないのではないのかな、と思う。でも、経験を重ね、記憶データが増えるに従い、新たな何かがどんどん書き加えられていく。「自分ノート」の全容を自分自身では完全に把握できず、中身もよく判らないであろうな、と。言語理解なども多分書かれているだろうと思いますね。

より厳密に調べると「物理化学的な現象」という科学的記述であるとしても、それが再構成されて「自分ノート」に書かれる時には、「別な情報形態」として書き込まれると思う。喩えて言うと、「500ページに及ぶ本」が科学的記述で、その「タイトル」か「目次の大項目の見出し」みたいなレベルが「感覚」として記録されるんじゃないかな、ということです。

ある食べ物Xがあるとします。Xの成分分析を完璧にでき、構成成分は完全に科学的記述に置き換えることが「可能」だとします。すると、データとしては、組成1、2、3・・・・、N、という風にその種類も、分子構成も、成分比率とか質量とか全て「科学的記述」ができるのです(未知の物質は存在していない、ということにしますけど)。で、これを食べた時に生じる信号というのは、ある特定の成分のみを検出できるレセプターみたいなのがあれば、物理現象として説明できますね。仮に組成1と3と5が「検出可能」な物質であるとしますか。細胞表面には、組成1、3、5と結合可能な部位を持っていて、そこにピッタリと適合する構造を持つ分子であれば検出と判定される、と。で、これが結合すれば「伝達物質」の放出という細胞内カスケードでも何でもいいんですけど、そういう情報伝達ネットワークはできている、と。ここまでは生化学的な表現でできてしまいますね。その伝達物質を探知した神経細胞ではインパルスを生じて脳に伝える、と。どれとどれの神経細胞に伝わっているのか、というような問題はとりあえずおいておきます。で、食べた結果の「感覚」としては、「うまい」というものだったとします。

「組成1、3、5」を探知→電気信号発生→脳で判定→「うまい」という感覚

こんな流れになっている、と。すると、「自分ノート」には「うまい」という感覚が書き込まれる、ということになるんだろうと思います。「うまい」は神経伝達物質で「快楽」とか「快感」に近いものである、というようなことで、厳密には伝達物質の分子数というような物理化学的表現で説明可能なのではないでしょうか。完全な観測が可能であれば、探知された(=レセプターと結合した)「組成1の分子数」だとか、「うまい」と感じた時の「伝達物質を放出した神経細胞はどれとどれ」とか、放出された伝達物質の種類と分子数とか、そういうのが正確に判ってしまう、ということです。今の科学では実現不可能ですけれども、理論的には可能であるように思えます。こうした「物理化学的記述」があたかも大著全部の情報量で、「うまい」に相当する部分は「本のタイトル」みたいなものなんじゃないだろうか、と。自分の中にある「感覚」というのは、そういう「大雑把でいい加減」な情報表現だろうと思うのです。

ある人は「ニンジン」が大嫌いで「まずい」とか「くさい」とか「にがい」とか言うわけです。それらは「自分ノート」に書き込まれている「感覚」ですよね。でも、別な人には、「おいしい」「うまい」「大好き」みたいな表現として「自分ノート」に記録されている、ということです。これって、どういうことか?全く同一の物質を全員に与えても、こうした「感覚」のズレを生じてしまうし、違う結果を生み出す、ということなんですよね。それは過去の記憶とか与えられた条件などによって異なってしまうからだろうと思うのです。それは同じ物質を、同一の分子数だけ与えたとしても、「出力結果」としては違う結果が出てくるのです。脳での判定のところで、「どの神経細胞に伝わったか」「どの神経細胞が興奮したか」というのが「全員違う」からだろうと思うからです。持っている神経ネットワークが全員異なっている、ということなんですよね。完全同一の神経ネットワークを再現できないし、作り上げる方法も判らない、ということなんですよ。なので、「自分ノート」に書かれる内容も違うのです。こうして「ニンジン」→「まずい」とか、「ニンジン」→「うまい」みたいな枝分かれを生じてしまうのです。

それと、同じようなニンジンであっても、厳密に見ていくと、組成の割合も比率もかなりのバラツキがあったりするので、そうした「誤差」の違いを「科学的記述」で完璧に行えるとしたら、例えば「うまい」と感じる「組成1、3、5」の構成比率とかが判定できるかもしれないんですよね。不幸にもそれを外れているニンジンを食べてしまって、「まずい」という学習効果(記憶)を生じ、「自分ノート」にはそう書き込まれているかもしれないですよね。「組成5が40%を超えると「まずい」と感じる」みたいなルールが「科学的記述」として明らかにできれば、人工的に「自分ノート」に「ニンジン」→「まずい」と書き込ませることも可能かもしれないですよね。「まずい」という感覚を生じるのは、組成のバラツキなんかではなくて、本当は「固さ」(歯ごたえ)が原因なのかもしれないし、食べた状況(例えば大好きな彼女と食べる、みたいな)によるのかもしれない。ただ、現時点ではそういうことを完璧に検証できないだけで、物理化学的現象の範囲を超えているわけではないようにも思えます。「うまいという感覚」というのが、あくまで「科学的記述」による(例えば「神経伝達物質の分子数」)もので、どの細胞・脳領域がその情報を記録し、現時点で伝達しているのか、活性化ルールとは何か、というのが判ればいいのではないのかな、と。


あと、「自分ノート」の複雑化は、語彙の増加に似たようなものではないかな。前の記事に書いたが、赤ん坊の持っている初期設定は、大体決まっているだろうし、もしも原始時代みたいな状況ならば、それ相応になるんじゃないかな、と。基本設定で泣、笑、怒、恐、みたいなのしかなくても、語彙が増えれば「嬉」「喜」「楽」「悲」「哀」みたいにどんどん「自分ノート」に書き込まれていくんだろうな、ということなんですよね。それも、元々の初期設定の派生でしかないかもしれないんですけどね。例えば、「石」への応答として、「硬い」(食えない?)ということが初めの情報であっても、それぞれの個人の接する(出会う、見る、触る、ぶつかる・・・)「石」というのが「全部違う」んですよね。それは大きさなのか、色なのか、形状なのか、重さなのか、組成なのか、遭遇した状況なのか、何が影響するのか良く判らないけれど、応答が違うのです。個人に与えられる条件が毎回毎回違うのです。同一上条件という「場面」がただの一度もない、ということなんですね。なので、各個人の「自分ノート」に書かれている中身は、バラバラなんだろうと思うのです。でも、「石」にまつわる情報を完全に「科学的記述」として表現することは不可能ではないと思えるのです。こういう「石」みたいなのが、世の中に膨大に存在しているのです。なので、完全な表現をするというのが困難なのだろうな、と思うのですね。それと、「自分ノート」の記録部分はどの細胞が担当しているのか、というのが正確に判別可能なのであれば、意図的に「自分ノート」に何かの情報を書くことが可能なのではないでしょうか。アミダクジに横線を書き加えると、ゴールが変わったりしますけど、これと似た感じで、とある「自分ノート」担当細胞の一つに「興奮」情報を書き込んだとして、その結果として「全体」がどう変化するか、というのも恐らくやってみないと判らない、ということじゃないかな。予め完全な「アミダクジの全貌」をつかめていて、「どこに横線を書き加えると行き先はどう変えられるか」というのを知っていればいいんですけどね。完全な「アミダクジの全貌」を観察すること(可能か不可能かは別として)自体は、科学的記述方法に過ぎないんだろうと思えます。

初期設定が単純なのは、「未知」の部分が多いから、ということであるのかもしれない。先の「うまい」の検出じゃないけれど、ある深海魚が「食べた事のある」物質には限度があるだろうと思うのですよね。あらゆる深海生物を食べることはないでしょう。でも、これまで「一度も食べたことのない」生物をも食ってしまわねばならないかもしれない。そういう時、対応可能な物質の種類を増やそうとして事前にあまりに「精度の高いシステム」を持とうとすると、「超巨大魚」みたいになってしまうかもしれない。それであっても、新種の生き物が登場してきて、判定できないかもしれないんだけれども。組成a、b、・・・に対応、という膨大なシステムよりも、「うまい」→飲み込む、「まずい」→吐き出す、みたいなシステムの方が「未知」であっても応答ができそう。或いは、「シビレ」→吐き出す、という単一ルールだけかもしれないし。毒の全ての種類を探知できないだろう(新たな毒を持った生き物が登場してくるかもしれない)し、厳密に毒分子1、2、・・・・という風にたくさん検出し対応するシステムを構築して持っていても、巨大研究施設みたいな大きさになっちゃうかもしれんからね。それよりも、曖昧で大雑把だけど未知に対応可能なシステムの方が適応力が高く、生き延びてこれた、ということなんじゃないのかな。「毒分子1」→吐き出す、という精度の高いシステムよりも有効なんじゃないか、と。


今、とりあえず。



意識の探求

2007年02月05日 01時54分13秒 | 俺のそれ
極東ブログから始まって、アルファな方々が「意識」を取り上げられておられるので、自分の思うところを何の科学的裏づけもなく書いてみたいと思います。えー、専門的な研究とか、そういったことは何も知りませんし、適当に書いてるだけですので。よろしくです。


・眠ってる時の意識はどうなんだろう

凄くグッスリ眠ってると、その間何か考えていたとは自分では思えませんよね。何も考えてないかもしれない。でも、本当は考えているのかもしれませんけど。まあ、普通の人の感覚としては、「考えてない」と感じるでしょう。なので、深く眠っている時は、「自分の意識」も眠っているのですよね。浅い眠りで夢を見たりなんかすると、どんな夢だったか思い出せたりしますけどね。

 ◎意識は、「ある」時と「ない」時があるかもしれない

意識を失うとか、意識不明とか言ったりしますよね。こういうのも、外見上は「意識」がないような状態ですけど、本人になってみないと判らないでしょう。脳自体が思考できたり、自分の意識を自分自身で感じることができても、周囲にそれを伝えられない(出力系の障害などかな)ということがあるかもしれない。本当に「意識」が完全消滅して、全く何もない状態なのかもしれない。これを確認するのは困難です。でも、それに似通った状態を作り出せるかもしれません。それは、酒に酔って酩酊状態みたいになっている時とか。その時点では話したりできるけれども、自分では何を言ってるか「よく判ってない」とか、後で行動や話した内容などを「覚えてない」というようなことはありますね。これは「記憶」の異常によってるかもしれないけれども、自分の意識としては「機能していない」という状態なのかもしれない。他には麻酔薬によって意識を奪われてしまうということも有り得ます。この時にも、何も考えてない状態を生じますね。記憶も勿論ないとか。これと似てるのは、「自白薬」のような薬物を投与されたりした時とかも、そうかもしれない。自分では「自分の意識」を感じ取ることができない。でも、言葉とかいくつかの記憶とか、そういう脳の機能は「保持」されているので、聞かれたことに対して自分の意志とは関係なく、答えてしまったりしゃべってしまったりする。外見上、意識が残っている(=ある)かのような状態とか、逆に意識がないような状態みたいなのが観察でき、本人がそれを「感じられる」時もあれば、「感じられない」時もあるのかもしれない。意識がある、というのが、自分が認識(知覚?)できる時である、という風に考えると、「ない」時は有り得ると思う。

 ◎意識は、自分で感じられる時と感じられない時があるかもしれない
 ◎意識は、脳に作用する薬物の影響によって「ない」時を生じる
   (=恐らく脳の機能として意識があるのだろう)
 ◎意識は、自分で制御可能な部分と制御できない部分があるのかもしれない
 ◎意識を自分で認識(知覚)できる時(部分)ばかりではないかもしれない

記憶が失われているだけで、瞬間瞬間では「意識がある」かのように行動したりできるのかもしれない。でも、「記憶がない」ということは意識が機能していないのとほぼ同じような意味合いである。例えば、昨日の夜寝る前に「同じクラスの好きな女の子」のことをあれこれ考えた、という記憶があれば、「意識」というのは機能していたということなんだろうなと思う。その後で眠ってしまって、眠ってる時のことが「何も思い出せない」ということであると、その間は「意識がなかった」と認識することになると思う(実際には「意識がある」のかもしれないのだが)。根本的なところで、「意識」って何?ということを聞かれると、よく判らない。定義問題なのかもしれないし。何かについて自分が自分の意志(「自分の意志」って何?という堂々巡りになるかな)に基づいて自由に考えたり、判断したり、選択したり、決定したり、ということであるとすれば、意識のあるなしは何となく判るように思える。「自分が感じる」からだ。でも、「無意識」とか「意識下」という、自分自身がはっきりとは知覚していない部分(事柄)なんかがあるかもしれず、これも「意識」という範疇に含まれるものとなれば、どんどん判らなくなっていくね…。いずれにせよ、意識(自由意志)と記憶というのは、不可分な関係にあるのかもしれない。記憶が完全に破壊されてしまうと、それはロボットと同じようになってしまうだろうか?


・「赤いという感覚それ自体」は科学的記述ができるのか

「赤いという感覚それ自体」が科学的記述が不可能なんだろうか?とちょっと思ったのですよね。具体的感覚ならば、「物理化学的な法則」に従う、極めて機械的なものなんじゃないだろうか、と思えたもので。

「赤いという感覚」は、脳にバッチリ記録されていると思うので、あくまで物理化学的な法則に従っていると思う。生物の種類によっては、白黒でしか認識できないのもいるし、人間であっても「赤緑色盲(色弱)」なんかだと「判別できない」からである。それは極めて単純に遺伝子的に規定されているんじゃないかと思う。つまりは物理現象そのものということである。喩えて言うと、ある「○Å~△Å」の波長を持つ光に対して、特異的に「興奮」する神経細胞が多数あるとして、その興奮する強さ(神経細胞数)で「赤い色」は判定できそうな気がする。遺伝的にそのタイプの細胞が欠損していると、その波長の色が認識できない、ということになるだろう。それとも、そのタイプの細胞は存在しているが、信号を送っていく時の誤りか、送った先の分析結果が本当なら「赤」と判定するべきところが数式の誤りみたいにいつも「緑」という誤出力をしてしまう、というようなことかな。

基本的な流れを思い浮かべると、大体次のようなことではないかな。

センサー(感覚受容器)→(データ、信号)→脳=演算処理、再構成→認識=自分で感じ取る

このどこの部分に障害があるかによって、色々と違いは出てくるように思う。
センサーが故障していると、例えば目に大怪我で見えなくなる、というのは判り易い。信号エラーは神経線維に腫瘍とかを生じて視野狭窄、みたいなのかな(実際どうなのか判らん)。脳側でのエラーは、演算のプログラムミスとか、再構成する時のデータ抽出・置き換え時に間違い(正常ならば1→A、2→B、と置換すると決まっているのに、間違って1も2もAに置き換わってしまうというような)などがあったりするかもしれない。これらの過程というのは、純粋に物理化学的法則に支配されており、科学的に記述できるように思う。

子どもの頃、昔のブラウン管テレビを凄い間近で見たことがって、本当に「赤青黄」のかたまりみたいなのが整然と並んでいて、これの信号のON-OFFでカラー画像ができていたんですよね?恐らく人間の色覚というのも、これと近いと思いますね。「意識」の問題というのは、上の過程のうち最後の部分以降のことなんだろうと思いますね。「赤い色」を見て「何を感じ、何を考え、何を思うか」「どのような反応結果」が起こったか、みたいなことなんだろうな、と。認識するまでは、全くの物理化学的法則に従っているだろう、と。


・感覚データは物理化学的法則に従うのではないか

次のような単純な装置を考えてみます。

集音マイク―増幅装置―解析装置

これで、全ての音を拾い、信号を増幅して解析装置に入力します。解析装置は今ある全ての分析が可能であるとしましょう。「ある音」を観測して、この音は何Hzで波長はいくら、波形はこんなの、音圧はこんなの・・・・という風に詳しく分析したとして、どうなるでしょうか。物理現象を科学的に記述できる訳ですが、それだけではあんまり意味はないんですよね。意味がある、というのは、例えば「これは○○級潜水艦のスクリュー音だ」とか、「調律のラの音だ」とか、「ウチの子の泣き声だ」とか、そういうことです。つまり、科学的記述ということだけでは、大脳にとっての「意味」がないので、認識した後に「何を感じ、何を考え、何を思うのか」「どのような反応結果」が起こったか、というようなことが「意識」の関わりなんだろうな、と思うのですよね。この装置の仕組み自体は、人間の耳と脳に近いと思います。解析装置に、仮に言語の識別機能があれば、解析結果は「オメデトウ」という「言語」であると判る、というようなことなんですよね。

通常、耳から入力される音のデータ自体は、かなりたくさんあると思いますが(要するに全部マイクで拾っている)、全部は脳で識別していないでしょう。もしも全部処理して、「意識に上ってくる」となれば、うるさくて狂ってしまうかもしれませんよね(笑)。なので、意味のない音データは増幅されない(=脳の演算に回されない)のか、脳で自動的にカットしている(=捨てている)のか、再構成や認識の所で抽出されないようにされているのか、そういう取捨選択が行われていると思いますね。「聞えている」のと、「意識に上ってくる」というのはちょっと違いがあるんですよね。

ある部屋に女性が2人いて、隣の部屋では赤ん坊が寝ているとしましょうか。2人のうち一人は母親、もう一人はそのお友達だとしますか。すると、同じ部屋にいて、同じように赤ん坊の泣き声が「聞えてくる」のに、母親の方がパッと「あっ、泣いてる」とすぐ気付く、というようなことがよくあるように思うのですよね。つまり、音データは同じで、聞こえてるのも同じ条件なのですけど、「赤ん坊の泣き声」という音データへの「認識度」に違いがあると思えます。つまりは脳の処理が異なるんだろうと思います。これは記憶されている音、ということの違いなのかもしれないし、ある特定の周波数の音(この場合は赤ん坊の泣き声)への感度を敏感にしているのかもしれないですよね。潜水艦のスクリュー音の識別能力にしても、同じ音データを凡人が聞かされても「何も感じない、判らない」けれども、優れたソナー手が聞けば一発で判る、みたいな「意味がある」ということなんだろうな、と。解釈ということなのかもしれないけど。これが「意識」の部分と繋がっているように思えるかな、と。本物の機械で構成された解析装置だけであると、そういう判断は生じない、ということでもあります。人間がそれまで蓄えてきた学習結果・記憶、別な情報との照合能力、そういうのが複雑に組み合わさってはじめて、音データに解釈が生まれる、ということなのかな、と。

 ◎感覚データは科学的記述が可能だろう
 ◎感覚データは取捨選択(抽出)され、再構成されているだろう
 ◎機械単独だと解釈や意味づけを行えない
  (予めプログラムされている必要がある)

人間は音についての能力よりも優れた能力を持つ動物はたくさんいるし、聞える(使ってる)音波も人間は狭いのかもしれない。言語があるから、ということもあるのかもしれないが。でも、必要とされない能力は段々衰えるだろうし、それは遺伝子的に規定されてしまうものであって、これも物理化学的法則に支配されているのだろうと思います。イルカみたいなソナー機能もないし、コウモリみたいな超音波レーダー機能もないもんね。感覚データは、イルカでもコウモリでもサメでも科学的に記述できると思うのですね。意識の問題とはあまり関係なく、コウモリは自由に飛んでいるように思えるのです。人間の場合には、意識に上ってくるかどうか、というのが重要なんだろうと思います。

ある親方がいて、弟子に「オイ、○○ノコを持って来い」と言ったとします。初めの方の音がよく聞き取れませんでした。つまり、音データの形式としては不完全か、一部欠損ということです。もしも機械に入力する時には、データが存在しないので演算処理が困難になってしまうかもしれませんね。でも、人間の場合には、他の能力を組み合わせて、データ欠損を補うことが可能なのです。
たとえば、親方が「配管業者」であったりすれば、水道管を切断するのに用いる「カナノコ」に決まっているので、弟子は「ツチノコ」を探しに行ったりはしませんし(古い?笑)、「マルノコが見当たりません」などと言ったりはしない、ということです。或いは、別な業者で「イトノコ」意外考えられない、という場面かもしれませんので、そうであれば、弟子は一直線に「イトノコ」を探しにいくでしょう。このように、その場面とか状況、文脈なんかから、過去の記憶データと照合したりして、適切な「答え」を探し出せるのです(でもトンマな弟子とか、本格的にバカな弟子だったりすると、ツチノコですか?と聞き返して親方からバカヤロウ、とこっぴどく叱られるかもしれませんね)。完全な機械であったりすると、こうした曖昧さには対応できなかったりします。間違えたデータ入力をすると、計算結果も誤ってしまう、ということです。

皮膚の感覚データもかなり取捨選択が行われていると思います。「意識に上ってくる」ということは、ハードルが設定されている、というようなことです。画鋲を踏んでしまったりすれば、飛び上がるほど痛いですし、咄嗟に足を跳ね上げてしまうと思いますね。「痛み」という強い刺激があるからですよね。でも、毎日パンツをはいているにも関わらず、それが常時意識に上ってきて「今、パンツが皮膚に接触している」などとはいちいち考えたりはしませんよね。そこに「注意を向ける」というか、意識すると「あっ、パンツはいてるな」と判る、ということです。着ている服の皮膚接触にしても、普段意識することはほぼないですね。稀には、タグなんかがチクチクして痛いとか気になる、というような時もあって、そうするとずーっと気になってしまうようなことはあるかもしれません。靴下を履いているかどうかは見なくても皮膚の感覚で判りますし、カカトに穴があいてしまっても「穴が開いていると感じる」ことができます。でも、普段靴下の感触が常時意識に上ってくることはないでしょう。満員電車の中で真後ろに立っている女性の長い髪の毛が、ちょっと自分の肩にかかっているような時に、「あ、髪の毛が肩に・・・」というのを感知することさえできるのに、自分が着ている服の重みを「気になって」しまったりはしないのです。こうした皮膚感覚を機械・装置に置き換えて考えてみれば、全て精巧な圧センサーとか温度センサーみたいなので物理的に観測できるものであり、科学的記述は可能なのだと思えますよね。抽出や再構成に回されたりしない感覚データは膨大に存在しているはずです。


・自分の意識というのはどうやって作られるのか

これはよく判りません。でも、何となくはイメージがあります。本来的に決まっている部分と、そこからの派生、というようなことでしょうか。

赤ちゃんは自分というか、「意識」はあるのか、というと、難しいですよね。他者との区別というのはあると思いますが、それは犬の認識レベルなんかと大差ないようにも思えます。犬が自分と、他の生き物を区別可能なのと同じようなものかな、と。本来的な機能は、遺伝子的な設定になっているんじゃないのかな。泣く、笑う、怒る、不安・恐怖、という程度の極めて少ない分類だけある、という感じかな。区分が少ないというのは、必要なスイッチ(神経細胞)は限定的でいいハズだし。なので、大体の生き物に備わっている「本能的な部分」というのが初期設定で作られている、と。システムは、まるで先に例に挙げたテレビのブラウン管みたいなものかな、と。ブラウン管は基本色は3色しかなく、そのドットのON-OFFで画像を構成し、カラー映像を映し出すことが可能なのですよね。しかも、「映し出す画像」というのは、無限に(本当は無限じゃないけど)あって、映画かもしれないしニュースかもしれないし、色々とあるでしょう。その瞬間瞬間に映っている映像自体は、どれも違っています。つまり、ドットの信号を拾い集めたら、ON-OFFの組み合わせが膨大な数になる、ということなんですよね。脳もこれに近い感じで、初めの持っているシステム自体は単純で、少数の「本能的部分」だけがある、と。信号の種類も当然少なく、例えば、全部真っ黒な画像、真っ白な画像、左右で白と黒に二分、上下で白と黒に二分、みたいな、そういう単純な画像しか持ってない、と。でも、成長とともに、記憶データがどんどん増えていくので、ON-OFF信号の組み合わせと種類は膨大になっていき、複雑な画像を映し出せるようになる、ということかな。しかも、一瞬たりとも同一の画像というのが映されることがないんですよね。静止画じゃなく、動画なんですよね。ドットの一つ一つは、神経細胞の意味合いです。

 ◎意識というのは、テレビのブラウン管のようなものかな?
 ◎信号の組み合わせは複雑化していき、動画を映し出しているような感じ
 ◎ドットのON-OFF条件は全員違う(=同一にできない)

信号は元々の性質や生きていく中での経験(=どんな記憶が作られるか?)によって、条件付けが異なっていく。生き物なんかでも、種によっては「好戦的」とか、「臆病」とか、「好奇心旺盛」とか、そういう性質の違いがあったりするので、これもほぼ遺伝子的に規定されていることなんだろうな、と思っています。人間であっても、赤ん坊のうちは反射みたいなものが殆どで、原始反射みたいなものかもしれないが、口のそばに乳首とか何とか→吸う、みたいな限定的なものなんじゃなかろうか、と。なので、赤ん坊だと「みんな同じような反応を示す」ことが多いのではないかな。大人になるに従い、条件付けの枝分かれが膨大になるので、みんな違った人間になるし意識も違っているのではないかな、と。

機械・装置なんかであっても、自動的にドットの信号を制御してON-OFFの組み合わせを駆使することは可能であろう。しかし、その時に「映し出された画像」はどのようなものが映っているのか、というのが問題になると思う。人間であれば、「見て理解できるドラマ」とか「筋のある映画」みたいなものを「映せる」ということなんだろうと思う。しかし、機械だとメチャクチャにランダムな信号になってしまったりして、「人の形」とかのような認識可能な映像を生み出せない(機械自身がそれを認識できない)のではなかろうか、と思うのですよね。もしも、そうした「意味のある映像」を映し出そうとすれば、事前に「録画映像」みたいなものを映すように入力しておくとか、条件設定をしておかねばならないんだろうな、と。でも、ブラウン管テレビとランダム再生可能な映像再生機の組み合わせからは、意識は生じてないとしか思えないんですよね。映像そのものを人間が解釈可能だとしても。遠い未来になった時、人間の意識を生ずる仕組みが完全に解明されれば、そのプログラムに従って制御することは可能になるのかな。


人間は「自分のことを全て知っているか」というと、それは無理なのだと思う。それは意識に上ってくることを、全て完璧に記憶したり思い出したりできないからなんだろうな、と。自分自身で自分の過去を全部再現できないし、完全記録も認識できないし見ることができない為なのだと思いますね。なので、自分で自分のことが全て判るということはない。「新たな自分を発見」という感覚は、見ることができない(=思い出せない)過去の記録があることでも生じてしまいそう。あの時、何を思ったか、考えたか、感じたか、どんな気分だったか、どんな状況に置かれていたか、みたいなデータを、過去の全時間に渡って確認するなんてできないもんね。誰と一緒だった、誰とメシを食べた、何かの話を聞かされた、・・・・こういうのが膨大にあるんですから。


・アリは意識を持っているのか

アリに意識があるかどうか判りませんけれども、「原始的な反応」みたいなのは当然ありますよね。赤ん坊の反応と根本部分は似ていると思います。遺伝子的に組み込まれた本能だけしかないかもしれないし、アリはアリなりにあれこれと思案しているかもしれない(笑)。でも意識があったら、巣を襲いにやってくる自分の何倍もでかいカマキリなんかに果敢にアタックしたりはできなさそう。ソッコウで逃げるんじゃないだろうか?自由な意識がないことで、「巣を守る」という行動プログラムに基づいて(本能みたいなものか?)、外敵と戦うのではないかと思える。自分が死ぬことは厭わず種族が生き延びることを優先するんだろうか。

確かにアリは自由に歩き回っていたりしますけれども、決定論的には判らないんだろうと思います。どのアリが3分後にどの場所に、どういう向きでどんな風に存在しているか、ということを計算結果としては答えを見つけられないんだろうと思う。存在確率みたいなのは、十分有り得ると思うのですけれどね。その更に3分後になれば、存在確率のバラツキがとても大きくなり、もっと予測が難しくなるでしょう。でも、現実というのは、そうした可能性の中から「ただ一つの状態」が選ばれ、結果が出されます。唯一の答えが、現実であることに違いはないのです。これは麻雀をする時、配牌時点でその局の終わりまでを計算によって答えを出そうとするようなものなんですよね。東家が「~を捨てたから」というような影響を常に受けたりして、次々と影響は波及していき、最終的に誰かがアガッて結果が出されるんですよね。

機械に意識を持たせられるというのは、こうした唯一の答えを求めさせるということに近くて、すると膨大な計算量になってしまって、宇宙全部を演算器にしたとしても有限時間で計算結果が出せない、というような「今の技術水準では物理的に不可能」みたいなことになってしまうのだろうか。恐らく、将棋の必勝手順が計算によって発見されるとか、囲碁の究極の一手(初手)が完全な論理で証明される、というようなことにも近いかもしれません。



安倍政権にご意見申し上げる

2007年02月04日 17時03分28秒 | 政治って?
どうも政府自民党の腰が定まってないですね。浮き足立っている。前から忠告してたのに、どうもイマイチだね。

地獄の沙汰も・・・・

「いい国」で検索すると・・・・

流行語「plutoed」と日本の「plutocracy」

産めない機械はその存在意義すら問われない―by 少佐


問題を分割して見ていきますか、とりあえず。

1)安倍総理自身の問題

何度か言いましたけれども、大衆支持のうち、女性支持というのは重要なんですよね。前よりも、若干は良くなったのかもしれないが、どうもまだ猫かぶりになっているんですよね。国外に出て、外交の舞台に立った時には、安倍ちゃんは中々いい絵になっていると思いますよ。しかし、これは日常的ではないのです。でも、安倍ちゃんは日々のぶら下がりなんかでもそれに近い感じで、早い話が「猫かぶり」があまりに過剰なのではないかと思えます。これはどういうことか?
起伏がない、ってことですよ。感情のヒダみたいなのが、全く伝わってこない、ということですよ。いつも、平坦、あまりに淡々としすぎていて、まるで「優等生お坊ちゃん」の答えを聞いているかのようなのです。

先日のそのまんま東知事誕生ということで、人気が出てますよね。ここにヒントがあると思いますね。
これから秘策を授けましょう(笑)。

第一に「(自分が)応援してあげないと(悪いヤツラに負けてしまうかも)」、と大衆に思わせることです。要するに、「何だか応援してあげたくなる」というようなことです。これは元々持っている人物の魅力もさることながら、そういう状況が作り出されることでも、起こりえると思います。ありがちな判官びいきは、多数派に立ち向かう少数、みたいなのとか。甲子園常連の強豪校に挑む、初出場校とか。なので、困難に立ち向かう、というようなドラマがないとダメなんですよね。前から言ってる物語性というのは、そういうようなことです。

第二に、話す時の「ひとつの文章が短い」ということです。誰かに訴えかけたり説得したりする時(プレゼンとか?)にも、同じようなことが言えるかと思います。安倍ちゃんは、テレビに映っている時の答えは大抵「一文が長い」のです。なので「何を言ってるか分んない」とか、「顔なし」(笑)になってしまうのです。先日の施政方針演説はこれまでの安倍ちゃんの中では一番良かったのですが、もうその話題どころではなくなってしまって(柳沢発言とか・・・・)、ちょっと可哀想ではありましたけれども、良くなってると思いますよ。
なので、ぶら下がりの時の受け答えは、「一つの文章を短く」言うようにした方がいいですよ。例えば、「~の事情等を踏まえながら、適切に考慮していかねばならない、しっかりと見ていかねばならない、と、このように思っています」、という「国会答弁調」はダメなんですよ(だから、何を言ってるのか分らない、とか言われるのです。そもそも国会答弁は煙に巻くテクだから)。そうじゃなくて、小泉流であれば「適切に判断します」で終わりなんですよ。それくらい短くしないと、テレビを通じては伝わっていかないんですよ。官邸HPの映像を誰もわざわざ見に行ったりはしないのですよ、圧倒的大多数の人々は。それをやってるのは、内輪の連中か、余程の物好きか暇な人だけですよ。なので、テレビで映ってる時がやっぱり影響が大きく、「それは努力していきます」「辞めさせる必要はないです」「任命責任の問題なんかではありません」「それは違いますよ」とか、短く言った方がいいです。参考までに、野党に向かって、小泉さんは「勝手にやって下さい」、まで言ってるし(笑)。あと、時には記者たちに「逆ツッコミ」を入れるとか、そういうのもあってもいいと思いますね。

第三に、話す時の抑揚や顔の表情とか感情表現は幾分あった方がいいと思いますよ。最近は大分笑顔で応対が増えてきたかもしれないが、いつもいつも同じ顔だと飽きてくる(特に女性は)ので、時には違う感情表現があった方がいいと思います。営業スマイル的な受け答えは避ける方がいいと思います。失点を恐れすぎて、優等生を過剰に意識しすぎではないかと。あんまり酷いミスじゃなければ、多少マイナス面があっても「人間味」のある方が大衆支持は得やすいと思います。幹事長に就任した時には、安倍人気があった訳で、その当時を思い出して頂ければよいのでは。


2)柳沢さんの失言問題

野党の下らない戦術は、断固突っぱねるべき。選挙結果に柳沢発言が影響するかというと、大したことない。選挙民をそれほどバカにしない方がいいと思いますね。見てる所は見ていると思うし、地域の問題に注意を払っている方が多いと思う。閣僚の~~が○○だから、知事はこっちを選んでやれ、とかの論法にはならんでしょ?ニセ科学のこじつけと似ていて、「柳沢発言があったから、~~の選挙で負けた」とか、そういう理屈にはならんよ。滋賀県知事や宮崎県知事がどのようにして誕生したのか、もう一度見つめ直せと言いたいね。置かれていた状況とか背景とか、そういうのをよく考えれば、内閣支持率云々の影響度が大きいとも言えないでしょうよ。選挙民の感性をみくびらないでもらいたいもんだ。


3)参院選挙の争点など

国会議員の連中が、二言目には「参院選挙に影響する」だの何だのと言うが、ホンマにアホかと。何でもかんでもくっつけ過ぎ。多くはそんなことまで思ってないのに、わざわざ自分たちで結びつけているんですよ。何でそんなに「ご機嫌取り」ばかりせにゃいかんの?やるべきことはキッチリ考えてやっていくべきだし、片付けなけりゃいけない課題は、選挙に関係なくやらにゃいかんでしょうが。それを毎度毎度「参院選挙で反発されるんじゃなか…云々」みたいな話に全て持って行ってるじゃないの。自分たちで選挙の争点という「幻影」に怯え過ぎて、あれもこれも次々と争点化していってるんだよ。アホみたい。「選挙が、選挙が」って言うヤツラに限って、選挙が終わればまたふんぞり返って、クソの役にも立たないんだよ。じゃあ、選挙がなけりゃ(ない年なら)、気にもかけず物事を進めるってのか、オイ?いつも「選挙の年」だと思って、考え、行動し、仕事をしろ。常に選挙直前と同じように国民に接することを心掛けろ。それが当たり前だろが。「選挙の時だけ」は腰を低くお願いするが、それ以外の時には「好き勝手、やりたい放題」なんだよ、多くの議員さんたちってのは。

ハナから、選挙の争点としてこれとこれ、くらい設定しとけっての。中川秀さんは3本の矢だか出してたけど。「自分たちが争点を設定」して国民に提示しておけば済む話なんじゃないの?何でもかんでも「選挙に影響する」って言うもんだから、それまで別にそんなこと考えてなかった人にも「ああそうなのか」と思わせ、多くの国民に「どうぞこれを選挙の争点にして下さい、選挙ではこれも判断材料に入れて下さい、どうぞ選挙に結び付けて下さい」ってお願いして回っているようなもんじゃないか(笑)。滑稽です。

「格差」「地方」というキーワードで選挙は戦わない方がいいですよ。特に、(比例代表の)大票田の都市部で戦い難くなると思いますよ。所謂「田舎」というような意味合いの「地方」という言葉で戦うとなれば、「敵」を大都市に見立てなくちゃいかんでしょうが。対立軸が「地方vs大都市」になっちゃうよ?それでいいの?田舎から見れば、東京や名古屋は景気が良くってズルイな、アイツらがボロ儲けしていて貧乏な地方から搾り取っているんだ、的な恨み節がでるよ?なので、地方と言わず、「圏」か「地域」という言葉を用いた方がいい。
「発展していける経済圏を全国に広げていきます」とか「自立と成長を促す元気なチャレンジ地域(!、笑)を全国に育てます」とか「地域の成長発展を国民生活の底上げに繋げて行きます」とか。スローガン風なら、「地域再生」とか「生活圏の再建」とか「成長なくして再建なし」(笑)とか。センス悪いので、あまり参考にはならんと思うが、こんなような感じで、ってこと。
「格差」も、地域間格差や世代間格差などの「国民の分裂」を誘うので、やめるべき。高齢者ばかりを目の前にして演説する訳でもないんだし。現役世代の多い中で、「高齢者は手厚い給付を受けているが、フリーターやパート労働者は国民年金保険料も払えないワーキング・プアとなっている」とか言ってしまって、高齢者たちの票が離れたらどうすんの?(笑)大企業の集中する東京だけがいい思いをしやがって、「地方では低賃金で苦しんでいて、交付税も補助金も公共事業も連続で減らされて・・・・」とか言うの?

野党は批判するネタになりそうなものであれば何でもいいと思ってるので、楽なんだよ。でもね、与党は違うから。そういうことを考えもせず、「格差で戦う」とか本気で思ってるなら、そりゃ「自分」だけ勝てばいいと思ってるヤツラなんじゃないの?田舎選出の議員さんはそうだろうね。でも、そんな人たちばかりが選挙するわけじゃないでしょ。「田舎に手土産」なんていらないんだよ。そうじゃなくて、ある程度自立(自律にも通じるか)すること、「金、人材」が慢性的な流出超過にならないような成長圏を構成していくこと、そういうのを真剣に考えていかねばならんのでしょ?

見ていて、本当にアレな議員さんたちが見受けられる昨今でございます。


ところで、民主党のCMは酷いですね。最低の評判しか聞かない(笑)。参考までに、ウチの妻曰く「バッカ(→バカよりもっと強力なバカ、強調形)じゃないの」とバッサリ(笑)。「あんな、ア~レ~ってなってるような船長じゃ全然ダメに決まってるでしょ。船長が他の人を助けるならまだ分かるけど」だって。そういえば以前「そうはいかんざき」のCMは妻や子どもには受けてたな。あっちの方がまだ笑える分だけマシだった、ってことのようだ。ダジャレ以下、ってのも…



なぜ「愛情120%」なのか

2007年02月02日 19時31分09秒 | 俺のそれ
この前、ウチの子と話していた時、出てきた話題で、それをちょっと。

よく見かけたりする、ありがちな表現に「~~120%」というものがあります。これって、どうしてなんだろうね、ということについて、父が熱く語ったのでありました。かなりくだらないので、ご容赦願います。

私の推論は次のようなもので、必死に説明しました(笑)。

恐らく『宇宙戦艦ヤマト』の設定に原因があるのではないか、ということです。
記憶では大体次のような会話になっていたと思います。
「波動砲発射用意」
「エネルギー充填120%」
で、この後、「発射」とあいなるわけです。

<参考までに、「何で波動砲のエネルギー充填が120%なんだ?」という理由については知りません。多分水鉄砲みたいなもんなんじゃないでしょうか。水のタンク内容量が仮に「100ml」であるとして、実際に発射可能な水量は「90ml」でしかなく、残りの「10ml」は回路内とかタンクから完全に発射回路に辿り着かない部分として、常に残されてしまう、というようなことです。言うなれば「死腔」みたいなもんかな、と。であれば、発射量を100とすれば、死腔内を満たしておく別な量が必要なのだ、ということで、それが20%なのではないだろうか、というようなことです。波動砲の場合には、エネルギーロスの為とか、発射の必要最低条件なのかよく判りません。>

なので、多分『宇宙戦艦ヤマト』を見てた世代の人とかが、キャッチコピーを考えたりなんかする時に、ついつい「100%じゃないんだよ、もっと溢れているんだよ」というような気持ちを表現したくなり、「120%」という表記を用いてしまうのではないだろうか、と。


これを、わが子に判るように説明しようとした訳ですが、「宇宙戦艦ヤマトって何?」みたいになってしまって、長々と話してしまいました。波動砲についても説明が必要でした。でも、こちらの意図は伝わったようでした。親子における会話で、このような会話はきっと世の中では皆無であろう、という感想を親子ともども持ったわけでございます…。「ウチって変わってるよね」って中二に言われた。

まあ、よい。で、一応、サンプルを調査してみましたところ、出てきましたよ、やっぱり。googleさんって、すごーい。

愛情120%「シーザー」でハッピー120%

もう、まさしく典型的な例でございます。
タイトルからして、「愛情120%」、「ハッピー120%」でございます。
喜びを感じる時には、「うれしさ120%」ということのようでございます(笑)。

更に、文中には、「イルミネーションに彩られたお散歩広場でうれしさ240%!」というのもありましたです。昼だけでも120%なので、日暮れになればさらに120%が加わって倍になる、つまり240%ということでありましょうか。もう、ここまでくると、どうしてそれほどまで120にこだわるのか、全くの不明なのでございます。しかし、表現としては、これはありがちなのかもしれません。「~~120%」(若しくは、その倍数も?)を責めてはいけないんでございます(笑)。


因みに、ウチの子曰く、「120%って、微妙だよね。200%とかにしておけばもっと多いし、きりもいいのにね」と。確かに。
「大体、「おいしさ120%」みたいなのって、どう考えてもヘンだよね」とも言ってた。確かに。

全ては、「波動砲発射よーうい」「エネルギー充填120%」「はっっしゃやー!!」が悪いのでございます(←ウソ、笑)



裁判における検証レベル

2007年02月02日 16時34分05秒 | 法と医療
とても疑問に思うので、また書いておく。以前にも、判決の中で疑問に思えたことがあったので。

本当に血尿だったのか


根本的に、裁判官(裁判所)というのは、一種の「神の視点」から見るものなのでしょうか?変な言い方で申し訳ないのですけど。

ある花を巡って、次のような紛争があったとします。
Aの主張:アサガオに決まってる
Bの主張:絶対にヒマワリだ

裁判所でAの主張が正しいのか、Bの主張が正しいのか、検討することになりました、と。裁判官は思案を重ねた結果、Aの主張である「アサガオ」が正しいと考えるのが合理的だ、とか何とか言って、「Aの勝ち」を宣言するということになるのですね。しかし、ここで大きな問題があるのです。それは「真実とは何か?」という極めて素朴かつ根本的な問題なのです。果たして、本当に「アサガオ」なのでしょうか?これは誰が検証しますか?実は、パンジーかもしれないんですよ(笑)。私の疑問は、そういうことを言っているのです。

つまり、裁判所での検証というのは、双方から提出された、「いかにアサガオらしいか」「ヒマワリの特徴に合致しているか」などという証拠を見ていくのですけれども、その検証能力・判断能力については「専門外」であるが故に、「信頼性が低い」のです。アサガオとヒマワリの「判定」が正しくできる人であれば、アサガオかどうかは見れば一発で判りますよね。そういう「神の視点」を持っている時には、判決には相当の信頼性があると言えますが、「これがアサガオ」ということを見たことも知ることもないような人が、果たして「事実」を正しく見分けられるのか、ということなのです。

全部ではないにせよ、専門的な分野の訴訟に関しては、裁判所での能力限界を超えていると思えます。鑑定結果というのも確かにあるわけですが、裁判官はその重み付けをあくまで「個人的印象・判断」で行ってしまいます。基本的な「(科学的)推定・推論」みたいなものが「十分理解されている」とは言い難いことが見受けられるかもしれません。そういう時に、「事実」はどうなってしまうのか、ということです。酷い喩えを申し上げれば、推理小説に登場する「典型的石頭警部」はそれまでの証拠から犯人を短絡的に断定するのですが、真犯人とは全く違っていて、裁判所がまさにこの「石頭警部」程度であれば、大変困る訳です。物語の中では、探偵とか検事とか家政婦とか?(笑)が本当の犯人を見つけ出してくれるので真相が明らかにされますが、現実世界ではこうした役割の人というのは誰もいませんよね。なので、裁判所の検証能力を超えているようなものの場合には、もっと別な「専門的検証」チームで検討するような仕組みを整えなければならないのではないでしょうか(それとも、医療紛争を裁判という場ではないシステムで解決を目指すか?)。本当はアサガオでもなければヒマワリでもないにも関わらず、「アサガオが正しい」みたいな結論を出す裁判所ということになれば、重大な問題なのではないかと思うのです。


具体的な事例になりますが、これも「本当にそうなのか?」ということが疑問に思えます。

元検弁護士のつぶやき 麻酔医療過誤訴訟:遺族側が逆転勝訴 東京高裁

毎日新聞記事から一部引用。

『判決は「個々の麻酔薬は過剰投与ではないが、局所麻酔は単独使用の場合の限度量が投与され、総量が最小になるよう努める注意義務を担当医は怠った。この過失が心停止の原因」と結論付けた。』

この一文から、裁判官の推理能力が極めて低い、ということが窺われるのです。判決文を詳しく見た訳ではありませんが(裁判所は全部の判決文を公開し、きちんと系統立ててデータベース化しておくべき。裁判所ごととかバラバラじゃなくて。キーワードとか、用いられた条文とかを必ず検索項目として入れたり、裁判の種類も簡便な分類で区分したり、そういう工夫をするべき)、ここに書かれていることを裁判官が述べたとすれば、かなり問題であると思います。

上に挙げた参考記事にしても、血尿=出血で死亡、という「科学的」根拠などからはまるでかけ離れた推論を組み立てている訳です。裁判官には、基本的な考え方が理解しにくいのであろうな、と思うのですよね。今回の事件では、「局所麻酔薬の投与量」と「心停止」の因果関係について、「関係があった」という推定を行い、その結果「最小量」でなかったことが過失である、と認定しているものと思います。以下に、簡単な反論を書いてみましょう。

①最小量を規定できるのか→規定できるならば裁判官が示せるハズ

薬物の効果については、以前から何度も書いてますが、個体差が非常に大きいのです。数倍の違い、というのはごく普通です。代謝される時間や、最大血中濃度などには「大きなばらつき」があるのです。にも関わらず、個人個人について、「最も適正な最小量を決定できる」と思っているならば、それは大間違いですね。普通に用いられる飲み薬が、「錠剤」であるはずないじゃないですか(笑)。全部異なった用量になるに決まってるじゃないですか。これは、「大雑把に」標準的な量というのが決められているだけであり、全員に同じ効果とか同じ薬物動態になるといったことは「有り得ない」のです。そういう基本的な理解がないので、このような理路を用いてしまうのだと思われます。

毎度喩え話で申し訳ありませんが、大体次のようなことです。

「おなかが一杯になるご飯粒は何粒か?」

この答えを全員について、聞く前から「判るのが当然」ということを裁判官は求めているのです。これは無理ですよ。
十人いたとして、みんなそれぞれおなかが一杯になるご飯の量はバラバラです。でも、これを正確に判るはずだ、と考えているということなんですよ。個人差さえも判れ、ということなんですよ。
普通は、そんな厳密には判らないので、例えば「成人男性ならばご飯茶碗に2杯程度」とか、もっと詳しく表現して「○○kcal が適当」とか「××g が通常量」とか、その程度でしか判らないんですよ。これでも、果たして「おなかが一杯」なのかどうかさえ判定できないんですよ。実際食べてもらい、「おなかが一杯です」って答えてもらってはじめて「ああ、この人は~gでおなか一杯なんだな」と判るだけなんですよ。なのに、裁判官はこの答えを聞く前から、「全員のが判って当然」と考えているということです。

そもそも「麻酔の深さ」や「麻酔の効き」というのは、厳密には判っていなんですよ?術中に患者に対して「麻酔は効いてますか?」とか聞く事もできないし(場合によっては脊椎麻酔だけでできることもあるので、意識は明瞭で聞けることもあるかも)、効き具合というのは別な反応(疼痛反応とか、循環変動とか・・・?)を見て推測する以外にないんですよ(まあ、患者に聞いても無駄なことも多いかもしれないが)。「おなかが一杯です」と答えてももらえないどころか、「おなかが一杯」ってどんな状態なのかさえ判らない(規定できない)ものを、「ご飯粒が何粒必要なのか判る筈だ」と要求している、ということですよ。こんなの無理に決まっているのです。


②麻酔薬が心停止の原因なのか

可能性がゼロかと言われれば、そうとは言えないかもしれませんが、極めて難しいと思われますね。薬物の影響で心停止を来たすような投与量ということになれば、それ以前からかなりの薬物中毒状態に陥っており、いきなり心停止になぞ至るわけではないのですよ。大体他の薬物についてもそうですけれども、薬物中毒の症状は軽微なものから出てくるので、投与量がそこまで多くなる前に気付くのです。中毒を示すデータなりも出ますよ。術中であれば、モニター類の数値などにも出てくる可能性はあります。なので、心停止に至るような中毒量が投与された、と考えるのは極めて困難です。

高円宮さまが亡くなられたのは、薬物中毒でも何でもなく、心停止(心室細動)されてしまったのですよ。裁判官は、通常の健康状態でさえ理由なく心停止が起こりえるのに、何故そうした可能性さえ否定でき、「薬物中毒であり、結果心停止に至った」と結論付けることができるのか、ということを「科学的」な理論で明らかにせねばなりません。明らかにできないのに、そんな推論を組み立てることが許される、ということは有り得ないでしょう。可能性の推定をする時、要因A、B、Cとある場合に、特定のAがその原因であるという結論を出す以上、その論理には相当の根拠が必要に決まっているのです。

判決の組み立てとしては、信頼性の乏しいものであるとしか思えないことは、上の一文から読み取れると思えました。



これとは別に、私なりの心停止の可能性を考えると、疑わしい要因は他にもあると思います。

手術が人工関節の置換術(膝か股関節?)ということから、最も疑うべきことは恐らく「骨セメント」なのではなかろうか、と思います。
骨セメントは人工関節のメタルを骨に合着する時に用いられるものです。このモノマーが血管内に吸収されると、急速な血圧低下を招いたりすることがあります。こうした人工関節置換術を受ける患者さんは、大抵が高齢者であり、循環変動に対する予備能力に問題があったりすることが有り得ます。更に、脊椎麻酔や硬膜外麻酔を用いている時には、どちらかというと血圧低下は起こりやすいと考えられ(その分出血量が減少したり、疼痛に反応して血圧上昇を来たしても相殺される、という面も有りますか)、そこにモノマーによる急激な血圧降下が起こると、循環虚脱が起こりやすくなるのではなかろうか、ということです。そういう循環動態の不良な状況が起こると、不整脈の発生を来たすことも考えられ、致死的不整脈の発生によって死に至ることは十分考えられます。当時は骨セメントの危険性についての知見が十分揃っていなかったかもしれません(調べてないので定かではないです)。

股関節手術であれば、膝の手術よりも危険度は増すかもしれませんね(個人的な印象ですけど)。吸収されやすさの危険度が増すように思えるからです。この辺は専門的な文献などがあると思いますので、そちらを調べてもらった方がよいでしょう。


裁判所の考え方では、「麻酔の薬剤に問題があったか、なかったか」という点で考えるので、エラーになり易いのではないかと思える。血尿による出血死みたいな発想もそうだ(事件について詳しく知っている訳ではないので、本当に血尿による失血死ではない、とは断言はできないんですけど)。「血尿で死に至らしめたかどうか」ということに白黒つけようとするからダメなんだと思う。

普通ならば、
ある現象Pが観察された。ここで考えうる原因(関連する要因)は・・・A、B、C、D以下略(それぞれ独立した要因であるとする)
という風に考えると思う。
で、それぞれについての妥当性というか適合具合を調べてみて、「Aが原因」という場合には、残りの要因はかなり否定的かあっても極めて少ない可能性といった検証を行わねばならないし、それが証明できないのであれば、少なくとも「Aが原因」という断定には結びつけられないものなのです。現象Pと特定原因Aを強引に結び付ける発想というのは、ニセ科学信仰とかに陥っている人々と非常に近いのではないでしょうか。


いずれにしろ、裁判所の検証能力には疑問な点があり、専門知識の量だけに限らず、基本的な論理構成のやり方に問題があるように思われる。更に、原告・被告の主張や争点に囚われていても正しい結論に辿り着けるとは限らず、もっと原因探求の方法を学ぶべきなのではないでしょうか。



祈りが通じたのか―起訴猶予

2007年02月01日 17時43分57秒 | 法関係
厳しい情勢の中で、ひとまず安心、というニュースだったでしょう>全国の産科関係者の方々


無資格助産の院長ら11人起訴猶予へ…現場の実情考慮 社会 YOMIURI ONLINE(読売新聞)

(記事より一部引用)

最高検などと協議し、違法としたが、社会情勢から刑事罰を科すケースに当たらないと判断したとみられる。ほかの医療機関でも同様の行為が相次いで明らかになっており、捜査による医療現場の混乱回避を優先させたといえる。名古屋市の女性(当時37歳)ら17人に2003年12月~06年5月、産道に手を入れて胎児の下がり具合を調べる内診などを看護師らが行ったとして、神奈川県警は昨年11月、院長や看護師、准看護師を書類送検。内診について厚生労働省が02年と04年の2度、「看護師では違法」とした通達を出しているのが根拠となった。

しかし、厚労省が05年に設置した諮問機関「保助看法あり方検討会」では、看護師が内診を行っていいかどうかなどについて統一見解を示せず、医療関係者から通達の見直しを求める動きも出ている。これらのことから、検察当局は院長ら個人を罰するほどではないと判断したとみられる。また、産科医やお産を扱う医療機関が減っており、刑事罰を科せば産科医の減少につながると言われかねず、医療現場に混乱を招くことがないように配慮したらしい。




それから、東京新聞の記事。

無資格助産 「医療の構造的問題」

(以下に、一部引用します)

国内有数の出産規模を誇る横浜市瀬谷区の産科婦人科「堀病院」の無資格助産事件で、横浜地検は一日、保健師助産師看護師法違反容疑で書類送検された堀健一元院長(79)と看護師らの計十一人を不起訴(起訴猶予)処分とした。地検は元院長らの違法行為を認める一方、無資格助産は産科医と助産師の不足が深刻な「周産期医療の構造的な問題」であり、「厚生労働省などが改善に向けて施策を進める中で、元院長らを刑事処分して一般予防をするのは相当ではない」と判断した。

地検は、堀元院長が長年、無資格の看護師らに妊婦への「内診」を行わせ、違法状態が院内で常態化していた事実を認めたほか、一部で、卵膜を破る「人工破膜」を看護師にさせていた事実も認定した。一方で無資格内診は、堀病院に限らず周産期医療の構造的な問題であると指摘。さらに(1)堀病院の無資格内診が妊婦の母体に具体的な危険があったとは認められない(2)現在は是正措置がとられている(3)堀元院長が医師免許を返上し、医師を引退する意向を示している-などを起訴猶予処分とした理由に挙げた。

(中略)

事件発覚後、県や横浜市の調査で、十の医療機関でも無資格内診が判明。日本産婦人科医会などが「捜査は医療現場に打撃を与える」と県警の捜査を批判していた。無資格助産事件をめぐる刑事処分では、千葉地検が〇四年に千葉県茂原市の産婦人科院長を略式起訴し罰金五十万円が確定。一方、名古屋地検豊橋支部は昨年十一月、豊橋市の産科婦人科病院長ら三人について起訴猶予処分とした。




これまでの参考記事はこの辺>

助産師・看護師の業務に関する法的検討

頂いたコメントへのお返事~「元検弁護士のつぶやき」様

厚生労働省通知の判例中での取扱い

不戦敗宣言はまだ早いのでは

不戦敗宣言はまだ早いのでは・2


上記読売新聞と東京新聞の記事から、ポイントだと思う部分を挙げてみます。
特に東京新聞の記述は、良いです。検察側の意向がきちんと伝わってきます。

・最高検と協議し、違法と認定
・違法の根拠は厚生労働省通達(←多分「通知」が正しいと思うけど)
・周産期医療の構造的問題
・厚労省は改善に向け施策を模索中(通知内容も含めて→あり方検討会では示せず)
・「刑事処分して一般予防をするのは相当ではない」

更に、個別には
・具体的危険性を認めなかった
・是正措置がとられている
・主たる責任者(院長)は医師免許返上
ということから、起訴猶予へと固まった、ということです。


「刑事処分して一般予防するのは相当ではない」――私は、この文言を何度も読み返しました――という判断に至ってもらえたことについて、深い感謝があります。学会関係者たちや地元の方々の働きかけなんかが、やっぱり大きかったのだろうと思います。また、実際どうなのか不明ではありますが、モトケン先生の所での積み上げは決して無駄ではなかった、と思いたいです。Yosyan先生をはじめ多くの医師たちの悲痛な叫びが、大きな岩を動かしたのだろうと思います。

今まで、色々と文句ばかりを言ってごめんなさい>司法の世界のみなさま
でも、検察の人々だって、良心的な、善良な、そういう人はいっぱいいるのですよ。一生懸命やっている、国民のことを思ってやってくれている人たちは検察官にだってたくさんいるのです。なので、意見や主張を理解してもらうことが可能になれば、それは通じるものがあると思うのですよね。

やっぱり正義はあるものなのだ、と信じたい。
「お花畑」とか言われるかもしれないけれど(笑)。



『月に恋』とイヌイット神話

2007年02月01日 16時33分53秒 | 社会全般
ウチの子のクリスマスプレゼントに『月に恋』という本があった。これは、本人が自分で欲しい本を選んだものだ。どうしてこういう本を選ぶのかなあ、とは思っているのだが、理由は不明である。どうやら「本のよみうり堂」を切り抜いておいたものらしい。いつかの書評に出ていたのだろう。目ざとい。
(それに、薄っぺらいくせに、値段はお高めの2500円…ウチの子はこういうのを何故か選ぶんだよね)。


で、この本を見ていて、ハッとしたことがあった。それは、ある神話の説明であった。イヌイットの太陽と月に関する神話であった。『月と恋』の中に書いてあった話と若干違うけれど、そのあらすじは次のようなものだ。

アメリカ先住民神話 - MSN エンカルタ 百科事典 ダイジェスト

太陽はうつくしい女性で、弟である月と同じ家にすんでいた。毎晩、彼女のもとに男がかよってきたが、正体はわからない。あるとき彼女はそれがだれなのかをたしかめるためにランプの煤(すす)で男の背中をなでておいた。夜が明けると、弟の着ていたトナカイの毛皮に煤がついていた。おこった姉は、ナイフで自分の胸を切りとり、弟になげつけて家をでていった。弟も姉のあとをおい、こうして、太陽と月は空でたがいにおいかけあうようになった。


この説明がやや判り難いが、太陽と月ができる前の話のようである。いきなり「太陽は~」で始まっているが、まだ太陽や月にはなっていない。「姉と弟」が一緒に住んでいたのだが、何と弟が夜這いをして姉を関係を持ってしまう、という話なのである。で、姉は相手が誰なのか判らない、と(そんなことって現実にあるのだろうか?)。しかし、相手が弟であったことが判ると、怒り狂った姉は(その気持ちはそうだろうな、と思う)自ら乳房を両方とも切り取り、弟に投げつけるのだ。その後、たいまつを手にして姉は逃げていくのだが、これを弟も追いかける。途中で、弟は池だか海の氷の割れ目に落ちて、持っていたたいまつの火が消える(つまり、「あまり明るく輝けない」ということから、月ということのようだ)。ここで、姉も弟も天に昇っていき、姉は太陽に、弟は月になった、という話らしい。

<因みに、『月と恋』の中の説明文は、終わりが文章の一部が消えてしまっていると思う。だって、「~が、」で切れていて、続きが出てないんだもの。これって、絶対印刷ミスだよね、と、ウチの子と話したりした(笑)。次の部分は、別な神話が始まってしまってるし。何だか、終わりを聞かなかったお伽噺みたいな感じで、次には何て書いてあったのか気になった。でも、しょうがない。ないものはないのだから。>

この神話は、姉と弟ということになっているが、ネット上では別な説明として「兄と妹」というのも見られた。どちらが本当なのかちょっとよく判らない。原語で「きょうだい・しまい」に該当するような言葉だけで、区別がない場合もあるかもしれないな、とも思った。兄・姉が「年長」で、弟・妹が「年少」みたいな。それだと、日本語に置き換える時には、姉・弟なのか、兄・妹なのか不明ですから。実際どうなのか調べてないから判りません。でも、大昔からの「ありがちなドラマの筋書き」ということなんでしょうか。

最近起こった殺人事件で、乳房が切り取られていた、という情報がどこかで出されていたような気がするが、無関係なのに、この神話を思い出してしまった。不謹慎でゴメンなさい。だが、乳房を切り取る、という行為に、何かの暗示があるのではなかろうか、と気になるのである。人間の行動とか心理には、大昔から存在している何かの共通性が隠されているのではないか―イヌイット神話でそんなことを思った。