「もう成長は終わったんだ論」に加わることになれば、それは、多分自分自身の成長を止めることになってしまうかもしれない、ということを考慮しておくべきではないだろうか。だからこそ、そんなに簡単には「成長を止められない」ということになるのだけれど。
私自身の理解の仕方というものを、簡単に書いてみる。経済学的に正しい説明というのは、よく知らない。けど、きっとこういうことなんだろう、ということで。
いつものごとく、非常に単純化した例でしか考えられないので、ご容赦願います。
働き手の男10人がいる。それぞれ同じ量の米を生産している。その生産量は100粒としよう。この集団の生産高は、米1000粒ということになる。成長のある社会というのは、次の期になれば、100粒だった米の生産が102粒とか105粒になるという社会である。これまでは、100粒しか食べられなかったのだけれど、もっと食べられて良かったね、ということで105粒食べられると嬉しいよねという社会なのである。これが経済成長、ということだ。
で、ただ何の苦労もなく102粒とか105粒になるのかというと、そうではないのだ。肥料のやり方とか苗の育成方法とか何とか、そういう「工夫の積み重ね」によって初めて達成できるのである。いうなれば、日々是「カイゼン」だ(笑)。その成果が102粒とか105粒といった生産高の増量として獲得できる、ということに他ならない。
集団全体で1000粒しか生産できなかったものが、工夫の積み重ねで1050粒とか1100粒生産できるようになってゆくよ、ということになるわけである。もっと食べられるようになるよ、ということである。これが、第一点。
これを継続してゆくと、いずれ全体で1200粒とかの生産高を達成できるようになるのが、持続的継続的な経済成長ということになるわけである。すると、「10人全員で生産しなくてもいいんじゃね?」ということになり、じゃあ生産力の一番乏しい人は他のことをやっていいよ、といった余裕が生じてくるのだ。とりあえず、余った1人を音楽家としておくことにする。そうすると、かつては10人で1000粒しか生産できなかったものが、9人でも1000粒生産できる、というようなことになっているわけである。残りの一人はもっと別な生産活動を行うことができるようになり、「余った人をもっと別な生産活動に回せる余裕が生まれてくる」というのが、経済成長のある社会である。これが第二点。
つまり、「音楽家を一人余分に養っておける社会」というのが、経済成長のある社会だ。
これは、音楽家じゃなくてもいいのは当然だ。織物を作る職人でもいいし、弓職人でも陶器職人でもいい。何でもいいけど、かつては食べる為に10人全員が米生産に従事せねばならなかったのが、経済成長によって9人で済むようになった、ということ。余った人はある時間は「失業者」ということになるわけだけれども、その時に別な仕事を生み出すことができるなら、社会に不要な人ということになるわけではないよ、ということが重要。
音楽家になって、他の人々に演奏を聞かせたり歌を歌ってあげられるなら、それは素晴らしい効用を生み出すよ、ということ。これが経済成長、ということの意味だ。この「素晴らしい歌声を聴けたよ、いい気分になれたよ」というのを、金額に置き換えて評価してしまうのが経済学というようなことの意味なのだけれど、別に金額に表示したくなければしなけりゃいいだけだ。それで「いい気分になれたよ、得した気分になれたよ」というのが消えてなくなるわけじゃないからね。
更に時が進んで、米を9人で生産していたけれど、ある時、交配を繰り返していた一人の男が品種改良に成功したとしよう。すると、これまで10粒獲れてた稲が20粒獲れる品種になって、飛躍的に生産高が伸びたとする。これがイノベーションというやつだ。同じ作業をしても、これまでの2倍の生産高を得ることができるようになるわけである。1200粒生産だったのなら、次の期からは2400粒が獲れる、ということになるのだ。
そうなのであれば、2400粒も生産しても食べきれないということになるくらいならば、5人が米生産に従事して、他の4人は音楽家以外の仕事をすればいい、ということになるのだ。生産性の向上というのは、このようにやってくるということ。
各々の能力にしても、稲刈り速度をアップさせて、これまでは1時間かかっていたものを50分でできるようになる、というのも立派な生産性向上ということだ。余った時間は労働投入が減らせるから、他の仕事をできるようになるかもしれない。これが「経済成長」のある社会、ということの意味だ。
成長のない状態というのは、これまで100粒分の稲を刈り取るのにかかっていた時間は、次の期にも同じ時間がかかり、次の期も更に次の期も…、という「まるで上達のあとが見られませんね」というような状態になっている、ということなのだよ。これは、消滅間近の社会主義経済みたいなもんだな。それとも、一昔前のお役所天国みたいなものか。仕事を「わざと同じペースで定常的にやる」とか、早くできるものを敢えて遅くやる、みたいなものだ。
たとえ「2000粒も生産するのは環境に悪いからよくない」とか、「どうせ1500粒くらいしか食べられないので、余った分を捨てるのはもったいない」とか、環境への配慮みたいなことがあるにせよ、成長が必要ないということにはならない。倍の生産量の品種ができたり、稲刈りを機械化するなどのイノベーションを重ねることで、一人当たり生産量が400粒まで高まったとするなら、3人だけ米生産に従事して1200粒生産し、他の7人は音楽家でも、漫画を書くでも、肩もみ係でも、占い師でも、天体観測記録係でも、何だっていいので、他の仕事か作業をやった方がいいに決まっているのだ。これは「成長」という恩恵によるものであり、米生産をかつての10人から3人にまで生産性を高めた結果なのだから。そのお陰で余剰となる人員とか時間の余裕が生まれ、そこからもっと違った価値が創造されてゆくようになるのだから。
成長を止めるというのは、10人で100粒ずつ生産していたのなら、これを「いつまで経っても1人100粒生産」というのを頑なに守ってゆくことと同じなのだ。これが果たして望ましい社会なのか?それなら、音楽家一人を養えるようになる社会、とか、もっと、7人は別な作業に従事できる社会、とか、そういう方がいいんじゃないのか?仕事をする人当人にとっても、毎期同じ100粒しか生産しないというよりも、交配を工夫して新たな品種を発見できるとか、病気を防げるとか発育のいい肥料の開発をできることの方が、やり甲斐や生き甲斐だって生じるのではないのか?
1時間で刈り取れる面積が、前の2倍になったら、「ああ、オレって上達したんだな」って実感できるのではないか?その方が、仕事は楽しいのではないのか?
成長というのは、そういうことだ。
経済成長というのは、結果的に経済規模全体の成長ということが「金額換算」として出されるのだけれども、本質的な部分では「各個人の成長=上達、習熟、工夫、閃き、発明、等々」ということの積み重ねに他ならないのである。先人の失敗を防ぐ知恵、みたいなものも当然に含まれているものなのである。それがなければ、簡単には進歩しないからである。同じ試行錯誤を繰り返してしまったり、無駄に失敗をしたりすれば、それ自体が(経済)成長へのマイナスとなってカウントされてしまうものだからだ。
経済成長というのは、言葉というか語感に何か先入観を与えるものがあるのかもしれない。
それは、非人間的な「計算尽く」っぽい狡さみたいな雰囲気を醸し出してしまう言葉が、「経済」という響きだからなのか(ああ、これはやや個人的偏見かも)。「成長」の前に「経済」という語がくっつくだけで、これほどまでに忌み嫌われることになろうとは、というのはあるかもね。でも、「パイを大きくすれ」と語っている人たちが、上記のような肌で感じるようなリアルな実感を持っていて、そう主張しているのかというと、そうでもないような気がする。彼らの言うのは、あくまで「経済成長率」のような、人工的に合成された数値的な指標のことを言うだけだからだ。
でも、ミクロまで降りて行く時の、「経済成長」の現場は、かなり人間の労働とか仕事の本質的な部分にまで接近するのだと思う。今はいるかどうかは知らないけれども、デパートの包装係の人が1時間に10個しかできなかったものが、熟達によって50個とか60個できるようになれば、これは大幅な生産性の向上ということなのだから。1時間に10個できる人が5人とか6人でやっていた仕事を、たった1人でできてしまうようになるわけだから。しかも、紙がシワにならずに、一度でサッと角が決められる、というような「仕上がりの美しさ」ということで、さらに付加価値が高まった状態に近づいてゆくのだから。これらは、全て成長ということなのだ。6人でやっていた仕事を1人でやるようになり、他の5人が寝ていたり遊んでいたりしたって、成長の恩恵があるということなのだから。ある意味では、不断の努力を求められる職人っぽい話になるわけである。より完成度の高い仕事を求め続けることこそ、経済成長の原動力となり得るのである。
けれど、ある水準にまで到達するとそこから先の限界みたいなものがやってくるだろう。そうなると、特別なことがない限りはイノベーションもなければ、新たな成長というものも難しくなるかもしれない。これは数百年続く「伝統の○○」みたいなものも近いかもしれない。なので、そこでは大きな一歩は得られないかもしれないが、伝統を守りつつ小さな一歩を常に探し求めるしかない、ということはある。別な価値を創造しなければならない、ということだね。
私自身の理解の仕方というものを、簡単に書いてみる。経済学的に正しい説明というのは、よく知らない。けど、きっとこういうことなんだろう、ということで。
いつものごとく、非常に単純化した例でしか考えられないので、ご容赦願います。
働き手の男10人がいる。それぞれ同じ量の米を生産している。その生産量は100粒としよう。この集団の生産高は、米1000粒ということになる。成長のある社会というのは、次の期になれば、100粒だった米の生産が102粒とか105粒になるという社会である。これまでは、100粒しか食べられなかったのだけれど、もっと食べられて良かったね、ということで105粒食べられると嬉しいよねという社会なのである。これが経済成長、ということだ。
で、ただ何の苦労もなく102粒とか105粒になるのかというと、そうではないのだ。肥料のやり方とか苗の育成方法とか何とか、そういう「工夫の積み重ね」によって初めて達成できるのである。いうなれば、日々是「カイゼン」だ(笑)。その成果が102粒とか105粒といった生産高の増量として獲得できる、ということに他ならない。
集団全体で1000粒しか生産できなかったものが、工夫の積み重ねで1050粒とか1100粒生産できるようになってゆくよ、ということになるわけである。もっと食べられるようになるよ、ということである。これが、第一点。
これを継続してゆくと、いずれ全体で1200粒とかの生産高を達成できるようになるのが、持続的継続的な経済成長ということになるわけである。すると、「10人全員で生産しなくてもいいんじゃね?」ということになり、じゃあ生産力の一番乏しい人は他のことをやっていいよ、といった余裕が生じてくるのだ。とりあえず、余った1人を音楽家としておくことにする。そうすると、かつては10人で1000粒しか生産できなかったものが、9人でも1000粒生産できる、というようなことになっているわけである。残りの一人はもっと別な生産活動を行うことができるようになり、「余った人をもっと別な生産活動に回せる余裕が生まれてくる」というのが、経済成長のある社会である。これが第二点。
つまり、「音楽家を一人余分に養っておける社会」というのが、経済成長のある社会だ。
これは、音楽家じゃなくてもいいのは当然だ。織物を作る職人でもいいし、弓職人でも陶器職人でもいい。何でもいいけど、かつては食べる為に10人全員が米生産に従事せねばならなかったのが、経済成長によって9人で済むようになった、ということ。余った人はある時間は「失業者」ということになるわけだけれども、その時に別な仕事を生み出すことができるなら、社会に不要な人ということになるわけではないよ、ということが重要。
音楽家になって、他の人々に演奏を聞かせたり歌を歌ってあげられるなら、それは素晴らしい効用を生み出すよ、ということ。これが経済成長、ということの意味だ。この「素晴らしい歌声を聴けたよ、いい気分になれたよ」というのを、金額に置き換えて評価してしまうのが経済学というようなことの意味なのだけれど、別に金額に表示したくなければしなけりゃいいだけだ。それで「いい気分になれたよ、得した気分になれたよ」というのが消えてなくなるわけじゃないからね。
更に時が進んで、米を9人で生産していたけれど、ある時、交配を繰り返していた一人の男が品種改良に成功したとしよう。すると、これまで10粒獲れてた稲が20粒獲れる品種になって、飛躍的に生産高が伸びたとする。これがイノベーションというやつだ。同じ作業をしても、これまでの2倍の生産高を得ることができるようになるわけである。1200粒生産だったのなら、次の期からは2400粒が獲れる、ということになるのだ。
そうなのであれば、2400粒も生産しても食べきれないということになるくらいならば、5人が米生産に従事して、他の4人は音楽家以外の仕事をすればいい、ということになるのだ。生産性の向上というのは、このようにやってくるということ。
各々の能力にしても、稲刈り速度をアップさせて、これまでは1時間かかっていたものを50分でできるようになる、というのも立派な生産性向上ということだ。余った時間は労働投入が減らせるから、他の仕事をできるようになるかもしれない。これが「経済成長」のある社会、ということの意味だ。
成長のない状態というのは、これまで100粒分の稲を刈り取るのにかかっていた時間は、次の期にも同じ時間がかかり、次の期も更に次の期も…、という「まるで上達のあとが見られませんね」というような状態になっている、ということなのだよ。これは、消滅間近の社会主義経済みたいなもんだな。それとも、一昔前のお役所天国みたいなものか。仕事を「わざと同じペースで定常的にやる」とか、早くできるものを敢えて遅くやる、みたいなものだ。
たとえ「2000粒も生産するのは環境に悪いからよくない」とか、「どうせ1500粒くらいしか食べられないので、余った分を捨てるのはもったいない」とか、環境への配慮みたいなことがあるにせよ、成長が必要ないということにはならない。倍の生産量の品種ができたり、稲刈りを機械化するなどのイノベーションを重ねることで、一人当たり生産量が400粒まで高まったとするなら、3人だけ米生産に従事して1200粒生産し、他の7人は音楽家でも、漫画を書くでも、肩もみ係でも、占い師でも、天体観測記録係でも、何だっていいので、他の仕事か作業をやった方がいいに決まっているのだ。これは「成長」という恩恵によるものであり、米生産をかつての10人から3人にまで生産性を高めた結果なのだから。そのお陰で余剰となる人員とか時間の余裕が生まれ、そこからもっと違った価値が創造されてゆくようになるのだから。
成長を止めるというのは、10人で100粒ずつ生産していたのなら、これを「いつまで経っても1人100粒生産」というのを頑なに守ってゆくことと同じなのだ。これが果たして望ましい社会なのか?それなら、音楽家一人を養えるようになる社会、とか、もっと、7人は別な作業に従事できる社会、とか、そういう方がいいんじゃないのか?仕事をする人当人にとっても、毎期同じ100粒しか生産しないというよりも、交配を工夫して新たな品種を発見できるとか、病気を防げるとか発育のいい肥料の開発をできることの方が、やり甲斐や生き甲斐だって生じるのではないのか?
1時間で刈り取れる面積が、前の2倍になったら、「ああ、オレって上達したんだな」って実感できるのではないか?その方が、仕事は楽しいのではないのか?
成長というのは、そういうことだ。
経済成長というのは、結果的に経済規模全体の成長ということが「金額換算」として出されるのだけれども、本質的な部分では「各個人の成長=上達、習熟、工夫、閃き、発明、等々」ということの積み重ねに他ならないのである。先人の失敗を防ぐ知恵、みたいなものも当然に含まれているものなのである。それがなければ、簡単には進歩しないからである。同じ試行錯誤を繰り返してしまったり、無駄に失敗をしたりすれば、それ自体が(経済)成長へのマイナスとなってカウントされてしまうものだからだ。
経済成長というのは、言葉というか語感に何か先入観を与えるものがあるのかもしれない。
それは、非人間的な「計算尽く」っぽい狡さみたいな雰囲気を醸し出してしまう言葉が、「経済」という響きだからなのか(ああ、これはやや個人的偏見かも)。「成長」の前に「経済」という語がくっつくだけで、これほどまでに忌み嫌われることになろうとは、というのはあるかもね。でも、「パイを大きくすれ」と語っている人たちが、上記のような肌で感じるようなリアルな実感を持っていて、そう主張しているのかというと、そうでもないような気がする。彼らの言うのは、あくまで「経済成長率」のような、人工的に合成された数値的な指標のことを言うだけだからだ。
でも、ミクロまで降りて行く時の、「経済成長」の現場は、かなり人間の労働とか仕事の本質的な部分にまで接近するのだと思う。今はいるかどうかは知らないけれども、デパートの包装係の人が1時間に10個しかできなかったものが、熟達によって50個とか60個できるようになれば、これは大幅な生産性の向上ということなのだから。1時間に10個できる人が5人とか6人でやっていた仕事を、たった1人でできてしまうようになるわけだから。しかも、紙がシワにならずに、一度でサッと角が決められる、というような「仕上がりの美しさ」ということで、さらに付加価値が高まった状態に近づいてゆくのだから。これらは、全て成長ということなのだ。6人でやっていた仕事を1人でやるようになり、他の5人が寝ていたり遊んでいたりしたって、成長の恩恵があるということなのだから。ある意味では、不断の努力を求められる職人っぽい話になるわけである。より完成度の高い仕事を求め続けることこそ、経済成長の原動力となり得るのである。
けれど、ある水準にまで到達するとそこから先の限界みたいなものがやってくるだろう。そうなると、特別なことがない限りはイノベーションもなければ、新たな成長というものも難しくなるかもしれない。これは数百年続く「伝統の○○」みたいなものも近いかもしれない。なので、そこでは大きな一歩は得られないかもしれないが、伝統を守りつつ小さな一歩を常に探し求めるしかない、ということはある。別な価値を創造しなければならない、ということだね。