テキトーに、思いつくまま書いてみる。
最近の体育会系がどうなっているかは知らないが、昔だと例えば「1年生がボールとスパイク磨きな」ということで、新入りにさせる仕事というのは決まって割当られていたであろう。どうして1年生の仕事なのかは、誰も正確には知らない。
ある新入生が
「先輩、どうして1年生という理由だけでボール磨きをさせられなきゃならないんですか?」
とか、無謀にも上級生に尋ねたとしよう。
すると先輩は、
「いいか、昔から我が部の伝統で、そうと決まっているからだ、分かったか!」
とか、鉄拳制裁もアリっぽい軍隊式絶対命令を下すわけです。まさに体育会系。上級生の命令は絶対。1年生へのイジメの一種なんじゃないか、とか、新入生たちは感じるわけだ。イジメだから、1年生というだけで「ボール磨き」という雑用をさせられる、みたいなものですな。
けれど、これには続きがって、自分が上級生になればそうした雑務からは「解放される」ということになっているのですよ。まさに順送り。自分が1年生の時にやらされてきたことは、今度は上級生になってみれば「やってもらえる側」に立てるのです。1年生からすると、「○○先輩なんて一度も試合に出てないのに、ボール磨きさえもしないんだぜ。楽でいいよな」的意見が生じてくるかもしれません。これはまさに、「団塊世代の社員たちは大して働いていないのに高給を取ってる」といった批判によく似ているのです。
日本の年功序列的な待遇というのは、こうした体育会系の仕組みに近いかもしれません。若い時代には安月給で「会社に尽くせ」(=ボール磨きなどの下働きをせっせとやれ)、その後には「回収」できる時代がやってくるよ(=ボール磨きなどの雑務から解放される)、ということで、自分の順番を待つということですね。これがずっと継続されてきた、ということでしょう。
中には、1年生の時に散々「ボール磨き」をさせられてきたのに、急に「これからは試合に出ない人間がやれ」ということで制度変更されて、3年生になってもやはり「ボール磨き」に専念させられている上級生もいたりするようになってしまったわけです。こういう途中の制度変更は、過去に「いずれ解放されるから、それまで頑張ろう」と思って1年生の時にボール磨きをさせられてきた人にとっては、悪夢のような出来事です。自分の回収の順番が来ると期待していたら、永遠にやってこなくなってしまった、ということです。古い慣習を打ち破るのは、いい場合もありますが、一時期にはその不利益とか軋轢を生じることが予想される、ということでしょうか。
いずれにしてもボール磨きはやらねばならないので、
ア)1年生がやる
イ)全員が平等にやる
ウ)試合に出る人(レギュラー)以外がやる
というような意見があるとしますか。
旧式のルールでは、ア)の体育会系方式だった、と。ところが、やっぱり平等主義者がいたりするので、「どうしてですか教」の信者みたいな人たちはいちいち「~はどうしてですか」と問い質してくるので、1年生がやることを理屈で納得させられないと平等を掲げてきたりするかも。そういう意見が多数派になれば、そちらに変更されることがあるかもしれませんね。勿論、そういう部があってもよく、長く続けば伝統的に全員でやる、ということはあるでしょうね。
ウ)の意見というのは、レギュラーじゃない人間は試合に出てないので楽してる(=大して仕事もできず働いてもいない)んだから、そういう人に「ボール磨きをさせるべきだ」(=そういう人の給料は下げるべきだ)、といった思考に近いのかもしれません。まあ、鼻っ柱の強い新入り、みたいなのは、どこの世界にもいるでしょうね。確かに、1年生であろうと実力がある人は大勢いるでしょうし。そういう人は特別なので、ボール磨きをしなくていいという意見があっても不思議ではありませんね。でも、試合に出られないチームの他の人間たちがどんな思いでレギュラーに託しているか、ということを知る機会となるかもしれないので、そういう下積みを敢えて課すという考え方もできるかもしれません。
実力は大事、それは確かにそうなんだけれども、それだけでチームの力は発揮されるのか、というのは、やってみなけりゃよく判らないのではないかな。
バレーボールで、リベロというポジションの人がいる。リベロはアタックが許されないので、「拾いまくり」専門職、というようなところだ。花形なのは、通常であれば「アタッカー」であり、スポットライトが当たるのもアタッカー。リベロがどんなにいいレシーブをしてセッターに100%で返球したとしても、得点を決めるのはアタッカーの役割。チームの得点源はそういうアタッカーであり、リベロはたったの1点さえも取ることができないのだ。でも、同じチームの一員なのである。こういう時、あるエースが「オレはチーム最多得点を挙げている。リベロのオマエは1点も取ってないじゃないか」とか言ったら、これはもうこのチームとしての存在はほぼ期待できなくなるであろう。誰もこのエースの為にいい球を上げよう、とか思えなくなるし、セッターもこのエースには二度と打たせるもんか、とか思うかもしれない。そういうようなもんだ。
華々しく得点を挙げているように見えるかもしれないエースであっても、本当はチームメイトの献身があってのものだ。そういうのを忘れて、他のヤツラは「楽している」とか「得点を挙げてないじゃないか」とか、どの口で言えるか、っての。結局、ア)~ウ)のいずれの方法であっても、長い慣習が殆どであろうし、良し悪しはそれぞれであろう。どれかが絶対的に正しいとか、有利だ、といったことは分からないのではないかな。どれであろうとも、初めから制度が正確に判っているなら、そういうもんかな、と思って行動するだけだろう。だが、急に制度変更になってしまうと、その時には今まで以上の不公平が一時的には発生することになるだろう。
因みに、体育会系方式というのはイメージが昔の軍隊式みたいなものなので、ちょっと問題のある上級生がいたりすると、恐るべきイジメみたいなものが発生したりするかもしれない。今で言うパワハラ、みたいなもんですかね。1年生には2年生が指揮命令できる、とかだと、2年生に旧日本軍人っぽい人がいたりすると、もう大変なことになる。「1年の分際で、実力があるからって、いい気になりやがって」とか「気合が足りない!!靴磨き100足だ!」みたいな。小さな権限であろうと、持たせてはいけない人に権限を持たせると、こういうことになってしまうかも。丸山真男がビンタを食らう、みたいものだな。
いくらボールを磨いても強くはなれませんよ、というのは、そうなのかもしれない。だが、それはどのレベルでの話なのか、ということはあると思う。そういう経験を積んできたことのある人間が、「これ以上ボールやスパイクを磨いても競技人生にはプラスにならない」と感じるのと、一度の経験もなしに「どうしてですか?」教を唱えるのではワケが違うんじゃないのかな、と。
最近の体育会系がどうなっているかは知らないが、昔だと例えば「1年生がボールとスパイク磨きな」ということで、新入りにさせる仕事というのは決まって割当られていたであろう。どうして1年生の仕事なのかは、誰も正確には知らない。
ある新入生が
「先輩、どうして1年生という理由だけでボール磨きをさせられなきゃならないんですか?」
とか、無謀にも上級生に尋ねたとしよう。
すると先輩は、
「いいか、昔から我が部の伝統で、そうと決まっているからだ、分かったか!」
とか、鉄拳制裁もアリっぽい軍隊式絶対命令を下すわけです。まさに体育会系。上級生の命令は絶対。1年生へのイジメの一種なんじゃないか、とか、新入生たちは感じるわけだ。イジメだから、1年生というだけで「ボール磨き」という雑用をさせられる、みたいなものですな。
けれど、これには続きがって、自分が上級生になればそうした雑務からは「解放される」ということになっているのですよ。まさに順送り。自分が1年生の時にやらされてきたことは、今度は上級生になってみれば「やってもらえる側」に立てるのです。1年生からすると、「○○先輩なんて一度も試合に出てないのに、ボール磨きさえもしないんだぜ。楽でいいよな」的意見が生じてくるかもしれません。これはまさに、「団塊世代の社員たちは大して働いていないのに高給を取ってる」といった批判によく似ているのです。
日本の年功序列的な待遇というのは、こうした体育会系の仕組みに近いかもしれません。若い時代には安月給で「会社に尽くせ」(=ボール磨きなどの下働きをせっせとやれ)、その後には「回収」できる時代がやってくるよ(=ボール磨きなどの雑務から解放される)、ということで、自分の順番を待つということですね。これがずっと継続されてきた、ということでしょう。
中には、1年生の時に散々「ボール磨き」をさせられてきたのに、急に「これからは試合に出ない人間がやれ」ということで制度変更されて、3年生になってもやはり「ボール磨き」に専念させられている上級生もいたりするようになってしまったわけです。こういう途中の制度変更は、過去に「いずれ解放されるから、それまで頑張ろう」と思って1年生の時にボール磨きをさせられてきた人にとっては、悪夢のような出来事です。自分の回収の順番が来ると期待していたら、永遠にやってこなくなってしまった、ということです。古い慣習を打ち破るのは、いい場合もありますが、一時期にはその不利益とか軋轢を生じることが予想される、ということでしょうか。
いずれにしてもボール磨きはやらねばならないので、
ア)1年生がやる
イ)全員が平等にやる
ウ)試合に出る人(レギュラー)以外がやる
というような意見があるとしますか。
旧式のルールでは、ア)の体育会系方式だった、と。ところが、やっぱり平等主義者がいたりするので、「どうしてですか教」の信者みたいな人たちはいちいち「~はどうしてですか」と問い質してくるので、1年生がやることを理屈で納得させられないと平等を掲げてきたりするかも。そういう意見が多数派になれば、そちらに変更されることがあるかもしれませんね。勿論、そういう部があってもよく、長く続けば伝統的に全員でやる、ということはあるでしょうね。
ウ)の意見というのは、レギュラーじゃない人間は試合に出てないので楽してる(=大して仕事もできず働いてもいない)んだから、そういう人に「ボール磨きをさせるべきだ」(=そういう人の給料は下げるべきだ)、といった思考に近いのかもしれません。まあ、鼻っ柱の強い新入り、みたいなのは、どこの世界にもいるでしょうね。確かに、1年生であろうと実力がある人は大勢いるでしょうし。そういう人は特別なので、ボール磨きをしなくていいという意見があっても不思議ではありませんね。でも、試合に出られないチームの他の人間たちがどんな思いでレギュラーに託しているか、ということを知る機会となるかもしれないので、そういう下積みを敢えて課すという考え方もできるかもしれません。
実力は大事、それは確かにそうなんだけれども、それだけでチームの力は発揮されるのか、というのは、やってみなけりゃよく判らないのではないかな。
バレーボールで、リベロというポジションの人がいる。リベロはアタックが許されないので、「拾いまくり」専門職、というようなところだ。花形なのは、通常であれば「アタッカー」であり、スポットライトが当たるのもアタッカー。リベロがどんなにいいレシーブをしてセッターに100%で返球したとしても、得点を決めるのはアタッカーの役割。チームの得点源はそういうアタッカーであり、リベロはたったの1点さえも取ることができないのだ。でも、同じチームの一員なのである。こういう時、あるエースが「オレはチーム最多得点を挙げている。リベロのオマエは1点も取ってないじゃないか」とか言ったら、これはもうこのチームとしての存在はほぼ期待できなくなるであろう。誰もこのエースの為にいい球を上げよう、とか思えなくなるし、セッターもこのエースには二度と打たせるもんか、とか思うかもしれない。そういうようなもんだ。
華々しく得点を挙げているように見えるかもしれないエースであっても、本当はチームメイトの献身があってのものだ。そういうのを忘れて、他のヤツラは「楽している」とか「得点を挙げてないじゃないか」とか、どの口で言えるか、っての。結局、ア)~ウ)のいずれの方法であっても、長い慣習が殆どであろうし、良し悪しはそれぞれであろう。どれかが絶対的に正しいとか、有利だ、といったことは分からないのではないかな。どれであろうとも、初めから制度が正確に判っているなら、そういうもんかな、と思って行動するだけだろう。だが、急に制度変更になってしまうと、その時には今まで以上の不公平が一時的には発生することになるだろう。
因みに、体育会系方式というのはイメージが昔の軍隊式みたいなものなので、ちょっと問題のある上級生がいたりすると、恐るべきイジメみたいなものが発生したりするかもしれない。今で言うパワハラ、みたいなもんですかね。1年生には2年生が指揮命令できる、とかだと、2年生に旧日本軍人っぽい人がいたりすると、もう大変なことになる。「1年の分際で、実力があるからって、いい気になりやがって」とか「気合が足りない!!靴磨き100足だ!」みたいな。小さな権限であろうと、持たせてはいけない人に権限を持たせると、こういうことになってしまうかも。丸山真男がビンタを食らう、みたいものだな。
いくらボールを磨いても強くはなれませんよ、というのは、そうなのかもしれない。だが、それはどのレベルでの話なのか、ということはあると思う。そういう経験を積んできたことのある人間が、「これ以上ボールやスパイクを磨いても競技人生にはプラスにならない」と感じるのと、一度の経験もなしに「どうしてですか?」教を唱えるのではワケが違うんじゃないのかな、と。