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年功序列賃金と体育会系

2009年08月09日 15時50分52秒 | 社会全般
テキトーに、思いつくまま書いてみる。

最近の体育会系がどうなっているかは知らないが、昔だと例えば「1年生がボールとスパイク磨きな」ということで、新入りにさせる仕事というのは決まって割当られていたであろう。どうして1年生の仕事なのかは、誰も正確には知らない。

ある新入生が
「先輩、どうして1年生という理由だけでボール磨きをさせられなきゃならないんですか?」
とか、無謀にも上級生に尋ねたとしよう。

すると先輩は、
「いいか、昔から我が部の伝統で、そうと決まっているからだ、分かったか!」
とか、鉄拳制裁もアリっぽい軍隊式絶対命令を下すわけです。まさに体育会系。上級生の命令は絶対。1年生へのイジメの一種なんじゃないか、とか、新入生たちは感じるわけだ。イジメだから、1年生というだけで「ボール磨き」という雑用をさせられる、みたいなものですな。

けれど、これには続きがって、自分が上級生になればそうした雑務からは「解放される」ということになっているのですよ。まさに順送り。自分が1年生の時にやらされてきたことは、今度は上級生になってみれば「やってもらえる側」に立てるのです。1年生からすると、「○○先輩なんて一度も試合に出てないのに、ボール磨きさえもしないんだぜ。楽でいいよな」的意見が生じてくるかもしれません。これはまさに、「団塊世代の社員たちは大して働いていないのに高給を取ってる」といった批判によく似ているのです。


日本の年功序列的な待遇というのは、こうした体育会系の仕組みに近いかもしれません。若い時代には安月給で「会社に尽くせ」(=ボール磨きなどの下働きをせっせとやれ)、その後には「回収」できる時代がやってくるよ(=ボール磨きなどの雑務から解放される)、ということで、自分の順番を待つということですね。これがずっと継続されてきた、ということでしょう。

中には、1年生の時に散々「ボール磨き」をさせられてきたのに、急に「これからは試合に出ない人間がやれ」ということで制度変更されて、3年生になってもやはり「ボール磨き」に専念させられている上級生もいたりするようになってしまったわけです。こういう途中の制度変更は、過去に「いずれ解放されるから、それまで頑張ろう」と思って1年生の時にボール磨きをさせられてきた人にとっては、悪夢のような出来事です。自分の回収の順番が来ると期待していたら、永遠にやってこなくなってしまった、ということです。古い慣習を打ち破るのは、いい場合もありますが、一時期にはその不利益とか軋轢を生じることが予想される、ということでしょうか。

いずれにしてもボール磨きはやらねばならないので、

ア)1年生がやる
イ)全員が平等にやる
ウ)試合に出る人(レギュラー)以外がやる

というような意見があるとしますか。
旧式のルールでは、ア)の体育会系方式だった、と。ところが、やっぱり平等主義者がいたりするので、「どうしてですか教」の信者みたいな人たちはいちいち「~はどうしてですか」と問い質してくるので、1年生がやることを理屈で納得させられないと平等を掲げてきたりするかも。そういう意見が多数派になれば、そちらに変更されることがあるかもしれませんね。勿論、そういう部があってもよく、長く続けば伝統的に全員でやる、ということはあるでしょうね。
ウ)の意見というのは、レギュラーじゃない人間は試合に出てないので楽してる(=大して仕事もできず働いてもいない)んだから、そういう人に「ボール磨きをさせるべきだ」(=そういう人の給料は下げるべきだ)、といった思考に近いのかもしれません。まあ、鼻っ柱の強い新入り、みたいなのは、どこの世界にもいるでしょうね。確かに、1年生であろうと実力がある人は大勢いるでしょうし。そういう人は特別なので、ボール磨きをしなくていいという意見があっても不思議ではありませんね。でも、試合に出られないチームの他の人間たちがどんな思いでレギュラーに託しているか、ということを知る機会となるかもしれないので、そういう下積みを敢えて課すという考え方もできるかもしれません。


実力は大事、それは確かにそうなんだけれども、それだけでチームの力は発揮されるのか、というのは、やってみなけりゃよく判らないのではないかな。
バレーボールで、リベロというポジションの人がいる。リベロはアタックが許されないので、「拾いまくり」専門職、というようなところだ。花形なのは、通常であれば「アタッカー」であり、スポットライトが当たるのもアタッカー。リベロがどんなにいいレシーブをしてセッターに100%で返球したとしても、得点を決めるのはアタッカーの役割。チームの得点源はそういうアタッカーであり、リベロはたったの1点さえも取ることができないのだ。でも、同じチームの一員なのである。こういう時、あるエースが「オレはチーム最多得点を挙げている。リベロのオマエは1点も取ってないじゃないか」とか言ったら、これはもうこのチームとしての存在はほぼ期待できなくなるであろう。誰もこのエースの為にいい球を上げよう、とか思えなくなるし、セッターもこのエースには二度と打たせるもんか、とか思うかもしれない。そういうようなもんだ。

華々しく得点を挙げているように見えるかもしれないエースであっても、本当はチームメイトの献身があってのものだ。そういうのを忘れて、他のヤツラは「楽している」とか「得点を挙げてないじゃないか」とか、どの口で言えるか、っての。結局、ア)~ウ)のいずれの方法であっても、長い慣習が殆どであろうし、良し悪しはそれぞれであろう。どれかが絶対的に正しいとか、有利だ、といったことは分からないのではないかな。どれであろうとも、初めから制度が正確に判っているなら、そういうもんかな、と思って行動するだけだろう。だが、急に制度変更になってしまうと、その時には今まで以上の不公平が一時的には発生することになるだろう。


因みに、体育会系方式というのはイメージが昔の軍隊式みたいなものなので、ちょっと問題のある上級生がいたりすると、恐るべきイジメみたいなものが発生したりするかもしれない。今で言うパワハラ、みたいなもんですかね。1年生には2年生が指揮命令できる、とかだと、2年生に旧日本軍人っぽい人がいたりすると、もう大変なことになる。「1年の分際で、実力があるからって、いい気になりやがって」とか「気合が足りない!!靴磨き100足だ!」みたいな。小さな権限であろうと、持たせてはいけない人に権限を持たせると、こういうことになってしまうかも。丸山真男がビンタを食らう、みたいものだな。

いくらボールを磨いても強くはなれませんよ、というのは、そうなのかもしれない。だが、それはどのレベルでの話なのか、ということはあると思う。そういう経験を積んできたことのある人間が、「これ以上ボールやスパイクを磨いても競技人生にはプラスにならない」と感じるのと、一度の経験もなしに「どうしてですか?」教を唱えるのではワケが違うんじゃないのかな、と。




最低賃金に関する議論~3

2009年08月08日 18時32分22秒 | 社会全般
賃金の下限が存在しなければ、たとえば次のような条件の仕事も認める、ということであろうか。

・ある会社が商品を生産するのに時給200円
・1日に16時間勤務すれば3200円の賃金が得られる

確かに一日に”3200円も”貰えるなら、生きていくだけなら可能なのかもしれない(笑)。毎日働けば、30日で96000円も稼げるからな。社会の失業が減らせて何よりだ。確かに失業した途端に食べられない失業者となって死ぬよりは、はるかにマシ。時給800円で生産している会社よりも、この会社の方が儲かるし、社会全体で見ても「働きたい人が働ける」のでいいんじゃないか(笑)。素晴らしき経済学。

働きたい人が優先的に働ける社会。
死を選ぶよりは時給200円の方がいい、という社会。

なんて素晴らしいんだ。
原材料価格が上昇して生産コストが増加しても、消費者側の需給は基本的には関係ないから、同じ価格のままになるってことだろうしね。そうすると、価格は需給で決まるままになるので、生産する企業側が原材料コストを価格には反映させられないけれども、賃金を削ればすむだけの話。時給を100円にすれば原材料コストの増加分を吸収できるなら、賃金を半分に減らせばいいだけ。これで楽々解決だ。労働者は賃金を失うと死ぬから、それよりはマシだもんね、確かに。


失業給付や最低賃金のような社会制度は、過去の人類の経験から生み出されてきたものではないかと思うが、よく知らない。でも、上記のような極端な労働条件というものを防ぐのに役立ってきたのではないのか?

本当に「借りたい人が借りられる」社会とか、「働きたい人が働ける」社会なんてものが、公正なのかどうか、大いに疑問はあるわけである。正しいというのなら無駄な制度は廃止するように政策変更をするべきだろうし、それを裏付ける理屈について経済学の理論で明らかにするべきだろうね。


もっと違ったイメージがあるので、それについて書いてみよう。

今、小型のボールが3個あって、大、中、小の3種類とする。これを菓子折りのような箱に入れる。この箱には、ボールの直径とピッタリ合う大きさの穴を開けた台紙が底に置かれているとする。穴以外は真っ平。ボールは自由に転がって、穴部分のくぼみに嵌ることができるようになっている。くぼみは大中小の3つなので、同じ大きさかボールよりも大きい穴の部分にボールが嵌ることができるわけである。ボール自身よりも小さい穴には、入れない。

さて、3個のボールを箱に入れてフタをし、箱を水平方向に適当に振ってみる。
そうすると、箱の中はどうなっているか?、ということだ。
色々な場合があるであろう。
3つともボールと同じ大きさの穴にピッタリ嵌って、動かないでいるかもしれない。それとも、どれかの穴は空きがあるかもしれない。ボールは平らな部分にコロコロと転がっているだけ、ということだ。大きなボールの穴には別な中か小のボールが居座って大きなボールに合う穴を塞いでしまうと、大きなボールは残りの中か小の穴には入れないので、いつまで経っても嵌る場所を見つけられず、コロコロと転がり続けるしかなくなる。

こういうのを幾度か続けてみると、一体何が判るのか?
少なくとも、3つのボールがそれぞれに合う穴にピッタリ嵌るというのは、毎回じゃない、ということだ。これが現実なのだ、ということ。


個々のボールが労働者、穴は仕事とかポストであるとしよう。
大きなボールは能力の一番高い労働者で賃金が最も高く、中くらいのボールはその次、小は一番下の賃金、ということだ。穴の大きさはそれに見合う賃金を提示している仕事、ということになる。労働者が自由に移動できる、ということがあるとしても、経済学理論みたいに毎回毎回穴の大きさに合うボールだけがピッタリと収まっている、なんてことは現実には起こらない、ということだ。穴に入れずにコロコロと平らな部分を彷徨うボール(=失業)が存在する状態はある、ということだ(確率の問題、といったことはあるかも)。余るボールはきっとあるよ、という話だ。

また、穴の数よりもボールの方が多ければ、必ず余る。しかも、余ったボールは死を意味する。賃金下限が存在し得ないなら、失業給付が存在しないのと同じだからだ。もし失業給付があるなら、これを下回る賃金は「存在できない」。賃金の方が低ければ失業給付を貰う方が得なので、労働者はそちらを必ず選択してしまうからである。死を回避する為には、ボール自身の大きさを小さくすれば、穴に入れる確率は高まるであろう。ボールを小さくする、ということは、すなわち「賃金引下げ」を自ら行う、ということだ。


実際の労働市場というのは、jこの箱みたいに毎回毎回全部を転がす程には振られることはない。殆どのボールが、今まで通りの穴に収まったまま、という状態なのだ。余っているボールが、空いた穴にサクッと収まれるかというと、難しいかもしれない。全部を流動化していいというのは、ボールの大きい人が穴に入れず、小さいボールのくせに大きな穴(=賃金の高いポスト)を”不当に”占拠していて、効率が悪いだろというような場合だ。

でも、普通はボールの大きさを正しく計測(評価)できるか、という問題がある。プロ野球選手みたいに、数字とか実績の評価をしやすい実力世界であればある程度は可能かもしれないが、普通の会社勤めとかであると結構難しかったりする。まるで「エースで4番」選手だと強いチームになれるという信奉者がいるかもしれないが、そんな人ばかりだと野球チームはうまく機能しなくなるだろう。個々の能力が高い人を集めてきたからといって、それで必ずしもうまくいくようになるわけじゃない。

またボールの大とか中の人たちの労働市場というのと、小という人たちは本当に同じように競合するのか、ということもあるだろう。ボールの小さい方の人たちというのは、恐らく中の穴にはそうそう簡単には飛び込めないようになっているのだ。採用側がそのようにボールを弾くからである。具体的にはどんな場合かというと、例えば中卒者とか、知的障害者か、障害者とは認定されないまでも知能テスト等で測定される水準がかなり低目の人とか、そういう人たちだ。

極端に低い賃金を提示されていても、他の賃金水準だと決して採用されないので、やむなく低賃金の仕事をしてしまう、ということだ。他に選ぶべき状態なんて、存在してないのだ。無職か、激安賃金か、だ。
働きたい人が働けばいい、か。

極端に小さい穴を提示すると、本来的には、「もっと大きい穴を提示する」企業が必ず現れるのでそちらの穴にボールが移動し、小さい穴の提示には誰も来ないということになるわけである。本当に競争が正しく働いていれば「誰も来ないので労働者が手当てできない」という状態になるのだ。それは企業側にとっては損になるので賃金を引き上げざるを得ず、そうすると「極端に小さい穴」は存在し得なくなるということだ。これが最低賃金のいらない世界、であるはずだ。しかし、現実は違う。

では、どう違うのか?
これまでの経済学の説明では何が不足なのか?
何が説明できてないのか?

そういうことを考えるのが学問なんじゃないの?(笑)


600円の仕事と700円の仕事があるとしても、全員が700円の仕事を選べるわけじゃない。仕事の存在を知らない、とかではなくても、判っていながらにして敢えて移らない、ということはよくある。それは移動のコストがずっと大きいからである。東京であっても、これは起こるよ。歩いて2分の場所の仕事と、電車で1駅の場所での仕事であれば、電車移動の分だけ差が生じるからね。それ以上に、転職とか転居ということになると、仮に有利な仕事がそこに行けばあるとしても、移動には大きな障壁が存在しているのさ。

ある大きさの励起エネルギーを超えられないと、エネルギー準位が一つ上がらない、というようなものだ。ある安定的な状態から、次の状態に移るまでには、そのエネルギー差よりもはるかに大きな山を超えない限り移れない、ということ。賃金の時給600円から700円という壁以上に、もっと大きな移動コストが存在するというのが普通なのではないのか、と。

更には、採用側は「700円のボール」と看做した労働者以下の労働者が応募してきた時には、必ず弾くわけだ。いくら「自分は700円のボールの価値を持っています」とアピールしてみたところで、600円のボールなのか700円のボールなのかという値踏みは採用側に判断基準や権限が与えられているのだから。労働市場は多くの場合分断されているのが現実なのではないか?菓子折りの箱を振るみたいに、簡単に移動できると思うか?いや、それとも「箱を振る」というのが、どの程度の大きなエネルギー(コストの大きさ?)なのか、ということを調べるべきではないのか?

最低賃金がある、というのは、穴の大きさに下限がある、ということだから。
ごくごく小さな穴に合う人が「穴には入れなくなるから」という理由で、いくらでも穴を小さくできる、ということだわな。大や中の穴の数も大幅に減らして、ずっと小さい穴を増やせば確かに「穴からあまるボール」を減らせるし、企業はもっと儲かるという仕組みなのだな。砂粒みたいに小さい穴であれば、そりゃあ多数の労働者があぶれることなく「ポストに就くことができる」には違いないわな。だから、そのポストは「時給200円」でもいいのさ。記事の最初に例示した通りにね。穴とそこに嵌るボールさえあればいい、というのを頭から信じきっている人たちはいるんだろう。そういう連中には、「働かない(失業給付を受けた)方がマシだ」という選択は存在していないのだろうね。


大体、単純な説明だけで明らかにできると考えていることの方が、異常だとは思う。
働くか働かないかを天秤にかけられるほどに余裕のある人と、「働く以外に食べられない」という人では、全く前提が違うだろ?極めて一般性に乏しい法則だか定理だかを用いても、あらゆる事例に適用でき説明できるはずがないであろう。どうしてそういうことを考えられないのか、私には全く判らない。


いま、ある島から別な島に荷物を運ぶ仕事があるとしよう。
船は時々難破する。難破した場合には、乗組員は死亡する。全員が過去に難破したことがある、という事例を複数知っているものとする。

・乗組員の賃金がいくらならば応募すべきか?
・運賃や賃金を決める要因というのは一体何か?
・他の仕事が存在するか否かで、賃金は変わると思うか?
・全員失業給付が受けられる権利を持つ場合には、賃金はどうなると思うか?

経済学では答えが決まっているのだろう(笑)。
たいそう論理的な学問らしいからね。



ヤクも一緒にいただきマンモス

2009年08月07日 16時03分20秒 | 社会全般
世の中、辛く悲しいことが多いのだね。


一昔前のアイドルとか、当時にはまるでよいとは思わなかったし、興味もたいしてなかった。何ぴー語とかいう、ワケの分からなさとかも、暫くは知らなかった。

だから、タイーホとかになっても、悲しくも何ともない。が、こういう有名人なのに、どうしてわざわざ薬物になんて、とは思う。失うモノの方が圧倒的に大きいだろうに。けど、当人にはどうしようもできないんだろうけど。薬物の誘惑に負けてしまう、ということなんかね。

ま、ヤクも全て「合法化すべし教」の経済学者たちは掃いて捨てるほどいるだろうから、違法ではあるけれども「薬物使用は悪くない」と擁護してくれることだろう(笑)。


このままいけば、本当に逮捕されちゃうぞウガメの大移動(おつう語)。
仮に逮捕されて有罪になってしまっても、執行猶予とか付いて息子と出直すことはできるから、そうした方がまだいいと思うよードチンキ。
樹海で後悔したり「夢冒険」は止めておいた方がいいデスハンソン。

まだ若いでしょうがおいうさぎ。
きっとやり直せるはずだよ、地道にいっぽいっほしの金貨(ク、苦しい…)。




接待漬けのマスコミ

2009年08月06日 13時33分15秒 | 社会全般
まだまだ初心だったのね、私(笑)。
いやはや、マスコミ記者への接待なんて、何がそんなに得になるのかな、と思ったけれども、実情はそういうレベルではなかったのだね。私の知らない「大人の約束事」とか「オマエも大人になれよ」とかいう、大人の事情だか社会の仕組みだか、いっぱいあるんだね。


Business Media 誠:相場英雄の時事日想:実録 メディアへの接待! 墜ちる記者の“分かれ目”とは 12

(一部引用)

キャップやサブキャップ級はほぼ毎晩お声がかかる。接待攻勢で有名な某業界などは、同業他社の広報マン同士がシフト表を作成し、大手紙、テレビの担当記者の宴会日程を調整していたほどだ。当時、年間の記者対策予算が1億円を超えていた企業さえ存在する。
(中略)
幸い筆者は先輩のアドバイスを忠実に守り、自分なりに精神面のバランスを保つことができた。だが、均衡を崩してしまう輩も少なくない。企業に自身の飲み食いのツケを回す者、クラブでの豪遊、はては風俗店での接待さえ強要する輩も少なくない。記者というよりも人間の資質の問題だ。
 一方の広報マンはタダでは起きない。しっかり貸しの台帳を付けているのだ。例えば、風俗店での接待を強要した記者はしっかりと写真を撮られていたし、某社のSMマニア記者の場合、常連の店で特殊なツールがこの記者用にキープされていることまでしっかりと記録されていた。
 台帳に載った記者が企業に都合の悪い記事を出そうとした場合、どうなるか。「躊躇(ちゅうちょ)なく貸しを相殺させてもらう」(某銀行の広報マン)となる。本コラムの冒頭で記した“あの手この手”とは、こういう類いのエピソードも含んでいるのだ。

=====


めくるめく、酒池肉林的堕落世界が広がっている、ということなんでしょうかね(笑、大袈裟か)。
でも、この相場さんが所属していた「日銀金融記者クラブ」の若手記者でさえこれだったのだから、あれだ例の「ノーパンしゃぶしゃぶ」くらいは当然あっても不思議ではないよね、ということはあるかも。ところで、本当にそんな店は存在していたのかが、大変気になるのですがね(笑)。見たことも聞いたこともないので、真偽のほどは判りませんが。そういう記事すら、マスコミが統制できてしまうかもしれない、ってことですから。

「人間の資質の問題」とか書かれていますけれども、やはりタカリ体質は役人だろうがマスコミだろうが、「関係ない」ということなのではないでしょうか。だって、大手マスコミに入るのって、とても大変なんですよね?有力なコネ(笑)でもなけりゃ、そうそうは入れないんでしたか?それとも、いい大学を出て優秀だと言われるような人たちが、最難関の入社試験で入って、その結果がこのザマということなのですから、堕落(笑)とは恐ろしいものです。
高級官僚しかり、日銀エリートしかり、大手マスコミ記者しかり、日本の優秀だと目される層ですら、こういう有様なんですから、その他大勢の下々の者なんて、そりゃ、どうにもこうにもなりませんわな。重要な意見を形成するはずの優秀な層が一致結託してダメに向かうわけですから、その他大勢にはそれを止めることなんてできやしませんぜ。


本当に一度ぶっ壊れた方がいいですよ。

沈没への共犯者たちが揃っているんですもん。どうりで日本がおかしくなるはずですわ。ロクでもない連中の間でロクでもない意見が共有され、それが力を持つということはこういうことなんですね。ちょうちん記事が吐き出されていき、世間の誘導が行われる、と。そうでしたか。なるほど。

その一方では、官僚叩きが大袈裟に行われる、というのも、あまりにヘンな話だな。こんなのに比べたら、「居酒屋タクシー」とかなんて全然カワイイもんじゃないか(笑)。なんか、こういうのを知ると、社会に対して幻滅してしまうね。自分の信じるべき部分を次々に失ってゆく、という感覚。もう、何を信じられるか、誰を信じればいいのか全く判らない、というようなことだな。そうすると、こういう時にピッタリなセリフが「オマエも大人になれよ」ということなのかもしれない。

あーあ、あまりに陳腐な一言で申し訳ないが、返答を書いておく。

「大人って、汚い」




年長者たちこそ「ゆとり世代」を見習えばいい

2009年08月04日 03時17分03秒 | 俺のそれ
何かといえば、もうダメだ、閉塞感は打ち破れない、もう日本は終わった、等々、悲劇のヒーローorヒロインが好きな人々は大勢いる。そういう人たちは、若い世代がどれほど頑張っているか見習うべきだ。

科学五輪、日本躍進のワケ ニュース 教育 YOMIURI ONLINE(読売新聞)


日本の若者の快挙を伝えるニュースに心が躍ったし、大変頼もしく感じた。いや、別に私の息子たち、というわけではないですけど。同じ「日本人だから」という理由だけの人は、自分には他に何も誇れるもののないウヨみたいな人間だからだ、というような批判がネットのどこかであったように思いますが、そういった心情で頼もしく感じたわけではありませんよ、勿論(笑)。けど、日本人として、大変誇りに思います。こうやって、若い世代の人たちが世界に挑戦しているんだな、と思うと、勇気や元気をもらえますよ。


涙の優勝を飾り、2勝目を挙げた遼クンだって、立派なもんだ。
石川遼、全米プロへ“灼熱対策”も - ゴルフ - SANSPOCOM

全英ではタイガーと回り、初日には大健闘だったものの、残念ながら2日目後半で奈落の底に落ちていってしまった。初めての経験というのもあったろうし、悪天候とか長い中断とかアクシデントが重なったりして、集中力を欠いていったのかもしれない。あるいは、精神的スタミナを消耗させられていったのかもしれない。あの百戦錬磨の勝負師であるタイガーでさえ予選落ちだったのだから、遼クンはよく頑張った方だったよ。

でも、あの時の苦しさとか経験が、本当に実になっているんじゃないかな、と感じさせたのが、この2勝目だったのでは。追いつかれて、嫌な展開になっても不思議ではなかったのに、グリーン勝負で見事に1打差で下すなんて、「何てタフなんだ!」と思わずにはいられなかった。この強さは全英出場の効果といってもいいんじゃないかと。


こうやって、高校生の若者たちが結果を出し、世界に挑んで頑張っているんだから、大人たちがそんなに落ち込んでいたり自信喪失していたりして、どうすんだよ。
恥ずかしくないか?
もっと頑張れるんじゃないのか?
そう思わずにはいられないのです。

私たち大人たちは、知らず知らずのうちに失ったものがあるのではないか?
それとも、どこかに置き忘れているのではないのか?

挑まなければ、結果は得られない。
まずはステージに上ることから始めなければならない。
そういう意志を示すことだ。

できないはずはない。
やろうとしてないだけだ。
結果がでないことを怖れて、言い訳にしているにすぎない。

だから、やってみようよ。
まずはそこからだ。




哲学と「考える力」

2009年08月03日 17時55分03秒 | 教育問題
知らなかったのだけれど、色々な試みがあったりするようなのだ。

検索で見つけた>基礎学力を考える


一世風靡の「漢検」というのが、ちょっと気になるといえばなるけれども、考える力を劣化させるわけではないだろうから、この際はおいておく。結構、立派な方々がインタビュー記事に載っているんですよね。悪い取組みばかりでもなかった、ということなんでしょうか。あそこまで漢検の理事長父子が叩かれていたのって、一体何だったのかなと思わないでもない。大して興味もなかったんですがね。


こちらは、世田谷区の「日本語」授業ということで、哲学があるそうなのだ。

世田谷区 教科「日本語」の推進


へえー、いまどきはそういう授業なんだな、と。初めて知りました。
哲学だけじゃなく、例のネット界隈で物議を醸した「日本語が滅びる」云々の話題とも重なる部分はあるね。ただ、「考える力」とかいっても、現実には大人になったってダメなものはダメなんだろうし、哲学をやってるからとか哲学を知っているから考えられるかというと、それもまた難しそう。

むしろ、権威主義者たちの哲学を振りかざす傲慢さと揺るぎなき妄信こそが、人類の危機を生んできたか危機に対しては全くの無力であったか、という印象は拭えないかも。

単なる個人的感想なんだけど。

あまりに強力な信念やイデオロギー信奉に繋がってしまうか、現実問題に対して関心を払わないか対処する気のない「知識の海」に漂うことをよしとするような傾向であったのではなかろうか、とか。


色んな意味で、哲学は難しい、と思う。
不要とか、哲学では生きていけないとか、そういうことを言いたいわけではないのだけれど。私には全く向かないか、理解を超えているから、だろうなとは思う。



夢の中の4コマ漫画

2009年08月02日 18時09分06秒 | 俺のそれ
別にどうという中身のある話ではないのだけれど。他愛もない記事はいつも通りか(笑)。


先日、あまりみることのない嫁を、失礼、夢を(あくまで誤タッチです)みた。

自分自身の笑いで、眠りから醒めそうになったよ。
その時の夢とは、何かの4コマ漫画っぽいものだった。

最初は、4コマ漫画だ、とは気付かなかったのだが、自分で自分の夢に笑ったら、「ああ、これって4コマ漫画になっているな」と自覚(認識?)したのだった。オチがあまりにうまくて、何がどうであったか思い出せないのだけれども、寝ながら笑ったのだった。しかも、4コマ漫画になっている!、と自作したことに夢の中で気付いたにも関わらず、内容を思い出せないのだ。

自らの笑い声で眠りが浅くなった時、「ああ、この夢の中でみた最高傑作を、絶対に忘れないようにしよう、オチは必ず憶えてこう」と、これまた夢の中で決心をしていたのに、翌日目覚めてから半日くらいは「そういえば…」と思い出すことさえなかった。素晴らしい自作の4コマ漫画で笑ったことすら、思い出せなかったのだ。午後くらいになってから、ああ、夢で笑ったんだよな、と思って、どんな話だったのかと記憶を辿ったのだが、まるで憶えていなかった…。


なんということか!

仕事から帰宅して、妻に「そういえば、昨日の夜、ぼくが寝言とかで笑ってなかった?」と尋ねると、「なんか、笑ってたみたいだよ」との証言をしたのだった。やはり、夢で笑っていたようだった。


参考までに、私は寝ている間に、年に数回くらい?は寝言を言ったり笑ったりしているらしい。自分で気付くことはあるが、妻は昨日の夜寝言言ってたわよなんていって、私のマネをするのだ。それが、もの凄くオカシイんですよ。抱腹絶倒。それから、あまりに怖い夢の場合だと、飛び起きたりすることが過去数回あったかも。本当に恐怖映画のシーンみたいに夢の内容がマジでリアルっぽくて、心臓がドッキンドッキンして、ベッドからガバッと起きるの。そうすると、妻が大丈夫?とか言うんだけれど、怖い夢みたとか答えると既に寝ていたりする。なんだよ全然心配してねーじゃねーか!(笑)


ま、そんなわけで、夢の中で自作4コマ漫画でバカ笑いをさせてくれたのに、夢の中身を思い出せずにガッカリしたんですよ。

夢って、儚いのね。






民主党の変節~給油活動のこと

2009年08月01日 11時16分32秒 | 政治って?
先日にも書いたが、インド洋での給油活動は「期限切れ以降には延長しない」と、以前と異なる方針に変更したのは疑問だ。


元々、安倍政権時代には「即時撤退」を主張していたではないか。だからこそ、与党の延長法案には「反対」したのではなかったか。安倍政権はこの期限切れ問題と、3分の2規定の強硬採決問題の狭間で揺れて、結局は辞任に至ったのだ。自民党転落の序章は、ここからだった。


国会では、民主党側が「即時撤退」を幾度となく主張していた。国会の議事録を当たれば、いくらでも見つけられると思うよ。

それに、即時撤退の代わりに、提出した独自法案があったじゃないか。通称「テロ根絶法」、正しくは

「国際的なテロリズムの防止及び根絶のためのアフガニスタン復興支援等に関する特別措置法」案

だったじゃないか。


それを今更、給油活動の代替案を考える、とかいう話でもあるまいに。政権につくのであれば、再提出して可決をするのが政党としての責任の取り方なのではないのか。

民主党のHPにだって参考記事は多数あるよ。

民主党:ニュース記事一覧 テロ根絶法


07年からの主張をひっくり返して、今度は別な方針に変えようという姿勢こそが「変節なんじゃないの」と問うているわけですよ。それでもいいんでしょうか?