どんなに学問を積んでも見えないものがあります。それは「神は愛なり」という考え方です。人類の歴史や現在の世界を見ると、愛である神様が何故、こんな悲劇を人間に与えるのだろう、神様が人類を愛していれば、こんな悲劇は起きるはずがない、と思います。しかしそれでも神様の愛を信じると、悲劇の中に神の愛が見えてくる場合があります。どんなに時間をかけてみても信じないと見えてきません。確かに歴史を見れば、何故、こんな残酷な事件があるのだろう、神が愛ならば、こんな残酷な事を地上に許すはずがない、と思います。私も海外の暴動に巻き込まれ身近に親しい人が死んでいくのを見ました時に、神は存在するのか、と叫びましたし「神は愛」などとは嘘だと叫びました。しかし今は色々の体験をしましたが、神は愛なり、と信じています。何故でしょうか?信じると見えてきたものがあり、見えた以上、どんな悲劇を見ても神は愛なり、と思えるからです。例えば自分の死ですが、この死は永遠の生命への通過儀礼だと信じますと、現在分からないこれらの疑問は死んだ後に全て分かるだろう、という平安感が優先して私の心を支配してしまうのです。死んでみると生きている時の疑問全てがわかるに違いないと確信してしまうのです。今、分からなくてもいい、と思ってしますのです。それでも神は愛なりと信じていきていこうと明るい気分になるのです。信仰と学問は違います。信じる世界は信仰の世界なので、学問の追求と信仰は全く次元に存在しているようです。
:<比較宗教学の視点からの心の旅:22>
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