初めて脱北者の手記を読んだのは姜哲煥・安赫(アン・ヒョク)「北朝鮮脱出」(1995)だったかな? その後全部で20冊は読んだかも・・・。最近では、リ・ハナ「日本に生きる北朝鮮人リ・ハナの一歩一歩」(アジアプレス)を読みました。両親が<帰国事業>で北朝鮮に渡った在日2世で、彼女は中国を経て2005年に韓国ではなく日本にやってきました。そんな彼女が、日本での生活を中心として書いた本です。
昨年は、パク・ヨンミ「生きるための選択」(辰巳出版)と、イ・ヒョンソ「7つの名前を持つ少女」(大和書房)の2冊を読みました。2人ともアメリカで英語によるスピーチで自身の体験を語り、大きな反響を呼んだ女性で、→2015年コチラの記事で紹介しました。(スピーチの動画あり。)
脱北者の手記では、北朝鮮での厳しい生活(とくに多数の餓死者が出た90年代後半)、命がけの国外脱出、中国での公安の目を避けて隠れ暮らした日々、家族との生き別れ、あるいは北朝鮮の政治犯収容所や拷問、公開処刑等について記されているものもあります。
何冊もそうした本を読んでいると、最初に読んだ当時の衝撃はほとんどなく、「やっぱりな・・・」と、ほとんど再確認といったことになります。
そんな中、上掲のパク・ヨンミ「生きるための選択」で久しぶりに(?)驚いた記述がありました。決して上述のような悲惨な体験というものではありませんが・・・。
韓国に来たばかりの脱北者たちに、適応教育、つまり韓国で生活するにあたっての必要な知識・常識を教えるハナ院でのことを記した部分です。
ほかの脱北者も同じかどうかわからないが、私にとって一番大変だったのは、クラスで自己紹介をすることだった。自己紹介のやりかたをほとんどだれも知らなかったので、教師が一から教えてくれた。まず最初に、名前と歳と言う。次に自分の趣味や、好きなミュージシャンや映画スターについて話し、最後に、将来何になりたいかを話す。自分の番になったとき、私は固まってしまった。そもそも“趣味”とはなんなのかわからなかった。自分の楽しみや喜びのためにすることだと説明されても、何も思いつかなかった。北朝鮮では、国や政権を喜ばせることだけが目的とされていたし、“私”が大きくなったら何になりたいかなんて誰も気にしなかった。北朝鮮に“私”はない。あるのは“私たち”だけ。この自己紹介の練習に困惑した私は、ただもじもじしていた。
すると教師が助け舟を出してくれた。「むずかしければ、あなたの好きな色を教えて」 そう言われて、私はまた固まった。
<言葉>がないということは、それが示す<概念>もないということ。
ある記事によれば、20年ほど前(?)まで北朝鮮には<人権>という言葉はなかったとか。もう少しはっきりした記憶では、北朝鮮に<障碍者>という言葉はなく、あるのは昔からの差別意識を含んだ言葉だけ。日本でも私ヌルボの幼い頃(1950年代)はそうだったか・・・。また<自由>という言葉も北朝鮮では使われるとしても、<資本主義>と同じ範疇の否定的な意味合いで、日本や韓国その他とは違うようです。日本でも近代初頭は「そんな自由勝手な振る舞いは許されませぬ!」というふうに良くない意味で使われたそうですが。
話を戻します。<趣味>という言葉の意味が北朝鮮の人にはわからないとは初めて知りました。(皆そうなのか?は未確認ですが。)
また、ここに書かれている自己紹介のしかたは日本や韓国では定番(←この言葉は70年代頃までなかった)なのでしょうが、はたして国際基準といえるものなのかどうか? 少なくとも北朝鮮にはない、ということがわかります。もちろん、この部分のポイントは、それ以前の、(他の人とは違う存在としての)自分という個人をアピールするということ自体が北朝鮮では考えられないということです。
さて、「あなたの好きな色を教えて」と言われて、「私はまた固まった」というその理由は・・・。
北朝鮮の学校では、なんでも丸暗記するよう教えられるし、ほとんどの場合に正解はひとつしかない。だから、教師に好きな色を尋ねられたとき、必死に“正解”を出そうとした。あるものがべつのものよりいいと考えられる理由を合理的に判断する、私はそういう批判的思考のやりかたを教わったことがなかった。
教師が言った。「そんなにむずかしくないでしょう? じゃあ私から言うわね。私の好きな色はピンクよ。あなたは?」
「ピンクです!」 ようやく正解を教えてもらえたことにほっとしてそう答えた。
韓国に来て、最初のうちは「あなたはどう思う?」という質問が嫌いだった。私の意見なんて誰が気にするんだろうと思っていた。自分の頭で考えられるようになり、自分の意見が大事な理由を理解できるようになるまでには、長い時間がかかった。でも、自由な社会で暮らすようになって五年たったいまは、好きな色はスプリング・グリーンであり、趣味は読書とドキュメンタリーを観ることだとちゃんと答えられる。もうほかの人の答えをまねたりはしない。
このハナ院の先生は、「自己紹介のやりかた」の最後に、「将来何になりたいかを話す」と教えていますが、これもまた北朝鮮の人々、そして脱北者にとっては非常にむずかしい問題です。パク・ヨンミさんは「“私”が大きくなったら何になりたいかなんて誰も気にしなかった」と書いている背景には、北朝鮮の社会事情があります。
別のページで彼女は次のように記しています。
ハナ院で習ったことのなかには、理解できないこともたくさんあった。でも、何度も繰り返し聞いたある言葉は強く印象に残っていた。「民主的な社会では、努力すれば報われる」 最初は信じなかった。北朝鮮ではそんなことはない。努力が報われるのは、出身成分がよくて、コネに恵まれている人だけだ。
<出身成分>とは、身分のようなもの。(→ウィキペディア。) 上から「核心階層」(約30%)、「動揺階層」(約50%)、「敵対階層」(約20%)の3つに大別され、それにより、居住地や住宅のレベル、進学や就職等まで規定されるということです。たとえば、祖父が地主だったり、親戚が朝鮮戦争の時「南」に逃げたりしたら、家族や自分自身に落ち度がなくても「敵対階層」とされます。
この出身成分とコネが大きく将来を左右するという点についてはイ・ヒョンソ「7つの名前を持つ少女」にも同様の記述があり、次のような具体例も記されていました。
敵対階層でも何とか[大学を]受けることができ、合格までした女の子がクラスに一人だけいたが、結局、入学は許されなかった。
この女の子の心情を思うと胸が痛みます。(朝鮮総聯の人はホントに「成分」などはないと思っているのですか?)
過日、韓国出身でドイツ国籍の女性監督が「北朝鮮の人たちの自然な姿を撮りたい」という姿勢で取材・撮影したドキュメンタリー映画「ワンダーランド北朝鮮」を観ました。
その中で、監督が1対1で北朝鮮の人に質問をする場面が数ヵ所ありました。観ていた私ヌルボ、そんなシーンで少しハラハラしたのは、まさに上述のような「北朝鮮の人にはむずかしい質問」が含まれていたからです。
この映画の感想を検索をしたら、私ヌルボと同じ箇所に注目した方がいらっしゃいました。(→コチラ。) そのソラアキラさんのレビューの一部をそのままコピペさせていただきます。
終始にこやかな表情で、夫との出会いなどをよどみなく語っていたきれいな顔立ちの奥様(この辺はプロパガンダ)ですが、「あなたの夢は?」と聞かれると、しばし沈黙…。にこやかな表情にもうっすら苦悶がよぎります。
おそらくこの質問、台本(当局に事前にインタビュー事項を出しているはずなので)にない、監督のアドリブだったのでしょう(監督の攻めですね)。微妙に間があいて、奥様はやっとこう答えます。
「昔は…、舞台に立つのが、夢でした」。
夢を思い描くことなんてずっと忘れていた、と言いたげな言葉、表情でした。
中高年や高齢者が、夢を即答できる国。
きっとそんな国がほんとうの意味で、幸せな国なのでしょう。
一方、前出の若い工員女性は、即答でした。「いつか独創的な服を作って世界中の人に着てもらいたい」というのが彼女の夢。
でも監督が「デザイナー(日本語とほぼ同じ発音)になりたいのね?」とハングルで聞くと、女子工員は「デザイナーって何?」と聞き返します。監督が説明し、「あ、設計家ね」と工員は理解します。この言葉における南北の差にも、2国家間の歴史の「リアル」が感じられます。
どうも監督は韓国人に訊くように、軽く質問したのではないでしょうか? そしてその質問の<重さ>に後で気づくこともなかったのでは、と私ヌルボは思いました。(「デザイナー」の語の持つ、<芸術家>で多くの人の<憧れの職業>というイメージが「設計家」にあるのか、大いに疑問。)
今の日本でも、いろんな場面で「あなたの夢は?」と問いかけます。先生は生徒に「夢を持て!」と言います。しかし、たとえば江戸時代にタイムスリップしたとして、日々過酷な労働に明け暮れている水吞百姓の夫婦や子供に「あなたの夢は?」と訊けますか? 相手によっては、時代や国によっては、こうした質問は神経を逆なでしたり、あるいは残酷なものにもなってしまうことは、ちゃんと留意しておきたいものです。
(ハナ院の先生は、脱北者のとまどいを承知の上で、自己紹介といった「形式」だけではない南北の違いを悟らせるための「適応教育」を意識的にやっているのかどうか、よくわかりません。)
昨年は、パク・ヨンミ「生きるための選択」(辰巳出版)と、イ・ヒョンソ「7つの名前を持つ少女」(大和書房)の2冊を読みました。2人ともアメリカで英語によるスピーチで自身の体験を語り、大きな反響を呼んだ女性で、→2015年コチラの記事で紹介しました。(スピーチの動画あり。)
脱北者の手記では、北朝鮮での厳しい生活(とくに多数の餓死者が出た90年代後半)、命がけの国外脱出、中国での公安の目を避けて隠れ暮らした日々、家族との生き別れ、あるいは北朝鮮の政治犯収容所や拷問、公開処刑等について記されているものもあります。
何冊もそうした本を読んでいると、最初に読んだ当時の衝撃はほとんどなく、「やっぱりな・・・」と、ほとんど再確認といったことになります。
韓国に来たばかりの脱北者たちに、適応教育、つまり韓国で生活するにあたっての必要な知識・常識を教えるハナ院でのことを記した部分です。
ほかの脱北者も同じかどうかわからないが、私にとって一番大変だったのは、クラスで自己紹介をすることだった。自己紹介のやりかたをほとんどだれも知らなかったので、教師が一から教えてくれた。まず最初に、名前と歳と言う。次に自分の趣味や、好きなミュージシャンや映画スターについて話し、最後に、将来何になりたいかを話す。自分の番になったとき、私は固まってしまった。そもそも“趣味”とはなんなのかわからなかった。自分の楽しみや喜びのためにすることだと説明されても、何も思いつかなかった。北朝鮮では、国や政権を喜ばせることだけが目的とされていたし、“私”が大きくなったら何になりたいかなんて誰も気にしなかった。北朝鮮に“私”はない。あるのは“私たち”だけ。この自己紹介の練習に困惑した私は、ただもじもじしていた。
すると教師が助け舟を出してくれた。「むずかしければ、あなたの好きな色を教えて」 そう言われて、私はまた固まった。
<言葉>がないということは、それが示す<概念>もないということ。
ある記事によれば、20年ほど前(?)まで北朝鮮には<人権>という言葉はなかったとか。もう少しはっきりした記憶では、北朝鮮に<障碍者>という言葉はなく、あるのは昔からの差別意識を含んだ言葉だけ。日本でも私ヌルボの幼い頃(1950年代)はそうだったか・・・。また<自由>という言葉も北朝鮮では使われるとしても、<資本主義>と同じ範疇の否定的な意味合いで、日本や韓国その他とは違うようです。日本でも近代初頭は「そんな自由勝手な振る舞いは許されませぬ!」というふうに良くない意味で使われたそうですが。
話を戻します。<趣味>という言葉の意味が北朝鮮の人にはわからないとは初めて知りました。(皆そうなのか?は未確認ですが。)
また、ここに書かれている自己紹介のしかたは日本や韓国では定番(←この言葉は70年代頃までなかった)なのでしょうが、はたして国際基準といえるものなのかどうか? 少なくとも北朝鮮にはない、ということがわかります。もちろん、この部分のポイントは、それ以前の、(他の人とは違う存在としての)自分という個人をアピールするということ自体が北朝鮮では考えられないということです。
さて、「あなたの好きな色を教えて」と言われて、「私はまた固まった」というその理由は・・・。
北朝鮮の学校では、なんでも丸暗記するよう教えられるし、ほとんどの場合に正解はひとつしかない。だから、教師に好きな色を尋ねられたとき、必死に“正解”を出そうとした。あるものがべつのものよりいいと考えられる理由を合理的に判断する、私はそういう批判的思考のやりかたを教わったことがなかった。
教師が言った。「そんなにむずかしくないでしょう? じゃあ私から言うわね。私の好きな色はピンクよ。あなたは?」
「ピンクです!」 ようやく正解を教えてもらえたことにほっとしてそう答えた。
韓国に来て、最初のうちは「あなたはどう思う?」という質問が嫌いだった。私の意見なんて誰が気にするんだろうと思っていた。自分の頭で考えられるようになり、自分の意見が大事な理由を理解できるようになるまでには、長い時間がかかった。でも、自由な社会で暮らすようになって五年たったいまは、好きな色はスプリング・グリーンであり、趣味は読書とドキュメンタリーを観ることだとちゃんと答えられる。もうほかの人の答えをまねたりはしない。
このハナ院の先生は、「自己紹介のやりかた」の最後に、「将来何になりたいかを話す」と教えていますが、これもまた北朝鮮の人々、そして脱北者にとっては非常にむずかしい問題です。パク・ヨンミさんは「“私”が大きくなったら何になりたいかなんて誰も気にしなかった」と書いている背景には、北朝鮮の社会事情があります。
別のページで彼女は次のように記しています。
ハナ院で習ったことのなかには、理解できないこともたくさんあった。でも、何度も繰り返し聞いたある言葉は強く印象に残っていた。「民主的な社会では、努力すれば報われる」 最初は信じなかった。北朝鮮ではそんなことはない。努力が報われるのは、出身成分がよくて、コネに恵まれている人だけだ。
<出身成分>とは、身分のようなもの。(→ウィキペディア。) 上から「核心階層」(約30%)、「動揺階層」(約50%)、「敵対階層」(約20%)の3つに大別され、それにより、居住地や住宅のレベル、進学や就職等まで規定されるということです。たとえば、祖父が地主だったり、親戚が朝鮮戦争の時「南」に逃げたりしたら、家族や自分自身に落ち度がなくても「敵対階層」とされます。
この出身成分とコネが大きく将来を左右するという点についてはイ・ヒョンソ「7つの名前を持つ少女」にも同様の記述があり、次のような具体例も記されていました。
敵対階層でも何とか[大学を]受けることができ、合格までした女の子がクラスに一人だけいたが、結局、入学は許されなかった。
この女の子の心情を思うと胸が痛みます。(朝鮮総聯の人はホントに「成分」などはないと思っているのですか?)
過日、韓国出身でドイツ国籍の女性監督が「北朝鮮の人たちの自然な姿を撮りたい」という姿勢で取材・撮影したドキュメンタリー映画「ワンダーランド北朝鮮」を観ました。
その中で、監督が1対1で北朝鮮の人に質問をする場面が数ヵ所ありました。観ていた私ヌルボ、そんなシーンで少しハラハラしたのは、まさに上述のような「北朝鮮の人にはむずかしい質問」が含まれていたからです。
この映画の感想を検索をしたら、私ヌルボと同じ箇所に注目した方がいらっしゃいました。(→コチラ。) そのソラアキラさんのレビューの一部をそのままコピペさせていただきます。
終始にこやかな表情で、夫との出会いなどをよどみなく語っていたきれいな顔立ちの奥様(この辺はプロパガンダ)ですが、「あなたの夢は?」と聞かれると、しばし沈黙…。にこやかな表情にもうっすら苦悶がよぎります。
おそらくこの質問、台本(当局に事前にインタビュー事項を出しているはずなので)にない、監督のアドリブだったのでしょう(監督の攻めですね)。微妙に間があいて、奥様はやっとこう答えます。
「昔は…、舞台に立つのが、夢でした」。
夢を思い描くことなんてずっと忘れていた、と言いたげな言葉、表情でした。
中高年や高齢者が、夢を即答できる国。
きっとそんな国がほんとうの意味で、幸せな国なのでしょう。
一方、前出の若い工員女性は、即答でした。「いつか独創的な服を作って世界中の人に着てもらいたい」というのが彼女の夢。
でも監督が「デザイナー(日本語とほぼ同じ発音)になりたいのね?」とハングルで聞くと、女子工員は「デザイナーって何?」と聞き返します。監督が説明し、「あ、設計家ね」と工員は理解します。この言葉における南北の差にも、2国家間の歴史の「リアル」が感じられます。
どうも監督は韓国人に訊くように、軽く質問したのではないでしょうか? そしてその質問の<重さ>に後で気づくこともなかったのでは、と私ヌルボは思いました。(「デザイナー」の語の持つ、<芸術家>で多くの人の<憧れの職業>というイメージが「設計家」にあるのか、大いに疑問。)
今の日本でも、いろんな場面で「あなたの夢は?」と問いかけます。先生は生徒に「夢を持て!」と言います。しかし、たとえば江戸時代にタイムスリップしたとして、日々過酷な労働に明け暮れている水吞百姓の夫婦や子供に「あなたの夢は?」と訊けますか? 相手によっては、時代や国によっては、こうした質問は神経を逆なでしたり、あるいは残酷なものにもなってしまうことは、ちゃんと留意しておきたいものです。
(ハナ院の先生は、脱北者のとまどいを承知の上で、自己紹介といった「形式」だけではない南北の違いを悟らせるための「適応教育」を意識的にやっているのかどうか、よくわかりません。)