ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

①韓国文学②韓国漫画③韓国のメディア観察④韓国語いろいろ⑤韓国映画⑥韓国の歴史・社会⑦韓国・朝鮮関係の本⑧韓国旅行の記録

朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の呼称 ④韓国で、「北韓」という呼び方を避ける人が出てきた

2018-08-25 23:49:26 | 韓国・朝鮮関係の知識教養(歴史・地理・社会等)
 → 朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の呼称 ①「北朝鮮」と「韓国」以外にあるの?
 → 朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の呼称 ②ホントに厄介な「北」の呼び方
 → 朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の呼称 ③韓国では、「北韓」の語が定着するまで何と言っていた?

 6月2日以来約100日ぶりの続き記事です。
 今回は、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国のそれぞれが、自国と相手国のことを何と呼ぶかについてです。実はこの最終回が本論です。(今までは長~い前書きだった!?)
 ちょっと長くなりそうなので、先にこのシリーズを始めたキッカケについて書いておきます。
 それは、ドキュメンタリー映画「ワンダーランド北朝鮮」を観たこと。より正確には、その韓国題が북녘의 내 형제 자매들(北の方の私の兄弟・姉妹たち)」いうことを知ったから。
 そして、関連して思い出したのが3年前に読んだ「リ・ジョンエのソウル滞留記」。総連系の在日朝鮮人リ・ジョンエさんの実体験を描いた漫画です。

    
 ソウルの街頭行動で統一旗を振る彼女(左画像)は、「북한(プッカン.「北側(북쪽.プクチョク)」)」という言葉を使わず、いつも「北側(북쪽.プクチョク)」と言っていることに気づきました。右画像は彼女が金剛山ツアーで北朝鮮に行った時の現地事務所。「「北側」の方たちは皆私が総連同胞ということを知ると、弾圧を受けている状況をわがことのように心配し憤ってくれました。」

 先回りして結論まで書いてしまうと、韓国の進歩系の人、親北朝鮮の人の中には、このように韓国で一般的に用いられている「北韓」という呼称を避けている人が相当数いるようだ、ということです。
 大韓民国では自国のことはもちろん「한국(ハングク.韓国)」と呼び、北朝鮮のことは先に書いたように「북한(プッカン.北韓)」と呼びます。
 ※google翻訳やexcite翻訳では、<북한>→<北朝鮮>、<北朝鮮>→<북한>と変換されるので、場合によっては要注意。
 ※韓国では、南と北を併称する場合に、「남한(ナマン.南韓)」「북한(プッカン.北韓)」という言い方をすることもあります。
 ※国号というものではありませんが、「以北(이북.イブク)」という言葉もあります。光復後南北に分断された休戦ライン北側の地域のことで、以北五道といえば黄海道・平安南道・平安北道・咸鏡南道・咸鏡北道を指し、韓国では今もそれぞれ知事が任命されています。また北朝鮮出身者による食堂に→「以北ソンマンドゥ」といった店名がつけられたりもしています。

 一方、朝鮮民主主義人民共和国では自国を「조선(チョソン.朝鮮)」といいます。また→先の先の記事
で書いたように、「共和国」という言葉が用いられることもあります。
 ※最近読んだ脱北者関係の本(韓国語)で、「北朝鮮の人は「조국」という言葉を「祖国」ではなく「朝鮮国」の略語「朝国」という意味で使っている」という脱北者の言葉を読んだ記憶があります。1ヵ月以上前から書名等再確認中です。
 そして、北朝鮮では韓国のことを「남조선(ナムチョソン.南朝鮮)」と呼んでいます。しかし、南と北を併称する場合に、「北朝鮮」「南朝鮮」という言い方をしない点は韓国と異なります。
 ※つまり、「北朝鮮」という言葉は韓国でも北朝鮮でも使われないということです。

 ちなみに、この「南朝鮮」という言葉を使ったらどうなるか? 少し古い事例ですが、1997年に金大中系の野党・新政治国民会議所属の李錫玄(イ・ソッキョン)議員が米国訪問中に「韓國(南朝鮮) 國會議員 李錫玄」と記された名刺を使用したことで与党・新韓国党の追及を受けた<名刺波紋>がありました。李錫玄議員は、国際化時代に合わせて7大言語で名刺を作って外国で使用したものの1つで、中国人のためのものと説明し、新韓国党の主張は「幼稚で滑稽なこじつけ」と反論しましたが、結局新政治国民会議を離党することになりました。(その後金大中の大統領選当選後に復党。現在は与党・共に民主党所属。)
 今は状況はかなり変わってきましたが、それでも韓国では「南朝鮮」という言葉は依然として公公然と使える言葉ではありません。

 ところが、近年韓国で北朝鮮の呼称についてまた変化が見られます。反共軍事政権当時ふつうに用いられていた「北傀」に代わって「北韓」が定着したのは約20年前の金大中政権頃からでした。
 しかし、その後この「北韓」に対しても批判的な主張が出てきました。南北の統一を志向する<進歩系>の立場からのものです。
 その代表として、円光大のイ・ジェボン教授が2005年に書いた南北の呼称についての記事(→コチラ)の要点を紹介します。(※イ・ジェボン教授は、親北・反米的な主張を重ねている、いわゆる「親北」(従北?)人物です。)

・歴史的には「朝鮮」は「古朝鮮」に始まり、「韓国」は三韓(馬韓、辰韓、弁韓)に由来する。つまり「朝鮮」はウリナラ(われわれの国)の最古の名前であり、「韓国」はその次に古い名前だが、それら長い伝統と深い意味を持つ国号が南北の対立のためにその崇高さと美しさが損なわれている
南北の和解・協力の前提として、相手方の国名を正しく呼ぶべきだ。
 ではどう呼ぶか? 以下、6つのペアについて考えてみよう。
  ①大韓民国 - 朝鮮民主主義人民共和国
    ・・・・正式名称だが、長すぎる。
  ②韓国 - 朝鮮
    ・・・・ともに自国でそのように呼んでいるという点で、相手方を尊重し、平和統一をめざしている点で評価できる。ただ、共通の文字がないので、お互いが他人という印象を与え、本来的に1つの国という観点からは不適当である。 ※南のメディアで北を「朝鮮」と表記しているのは[全国言論労働組合連盟]で発行する週刊誌「メディア・オヌル」が唯一の例外とみられる。
  ③韓国 - 北韓
  ④朝鮮 - 南朝鮮 
   ・・・・③④とも強く拒否する。ともに相手の存在を認めない、不公平で非対称的なペアだ。偏見や歪みを煽り、吸収統一を志向する冷戦的で暴力的な呼称である。南で「南朝鮮」という言葉を、また北で「北韓」という言葉を極度に嫌う理由がここにある。
  ⑤南韓 - 北韓
  ⑥北朝鮮 - 南朝鮮
   ・・・・この⑤と⑥が望ましい。均衡のとれた呼称で、共通の文字である「韓」や「朝鮮」を介して互いに、同じ血筋であることを明示する一方、分断の痛みを露呈することで、統一への願いを持つように導くからである。しかし韓国では⑤は使えるが、⑥を使うとパルゲンイ(アカ)と罵倒されたり、容共利敵行為で処罰されそうだ。
・今、「南朝鮮」という言葉の使用にそれほど抵抗感があるなら、相手が極度に嫌う「北韓」という呼称も使わないようにすべきだ。
・あえて「北韓」という呼称にこ固執するなら、私たち自身を「韓国」とせず「南韓」と呼ぼう。
・どうしても南側を「韓国」と呼ぶなら、北を「朝鮮」と呼ぼう。


 ・・・ということですが、ここで私ヌルボがイ・ジェボン教授に問いたいのは、北の政府あるいは国民がこの意見に同意してくれると思うのか?ということ。あるいは、その前に「相手方を尊重し」、「対等の立場での統一をめざす」という観点が北朝鮮の政府に受け入れられると思うのか?ということ。
 あるいはさらに、北朝鮮の人々は(イ・ジェボン教授のように)熱い民族意識を持って統一を願っていると思うのか?ということ。
 私ヌルボの見るところでは、答えはすべて「否」です。最近の南北間の他の案件でも同様ですが、全体的に韓国の政府や多くの国民の側からの「片思い的民族感情」ばかりが先行しているように思えます。(「<住民>はいるが<市民>はいない」北朝鮮で、そんな民衆レベルの民族意識の高揚は起こりえず、また北朝鮮政府も民衆が独自の<意思>を持つことを恐れるのでは?)

 いずれにしても、韓国の<進歩系>=統一志向の人たちにとっては北朝鮮の呼称は難しいところです。単に「北韓」はふつう(「南韓」ではなく)「韓国」とペアだし、すると「韓国主導の一方的な吸収統一」につながりそうだし・・・。
 ということで、「北韓」を使わないとなると、どうするか?
 結局は単に「北側(북쪽.プクチョク)」とか「北の方(북녘.プンニョク)」という言い方をするしかありません。
 と、ここで冒頭のあたりで書いた「ワンダーランド北朝鮮」の韓国題につながるというわけです。

 ウィキペディアの→<朝鮮民主主義人民共和国>の項目を見ると、<朝鮮民主主義人民共和国>の「韓国における呼称」についての説明文中に次のように記されています。

 韓国では朝鮮の南北について「南韓・北韓」という呼び方が一般的であり、自国のことを「南朝鮮」と呼ぶ者は、ごく一部の民族民主(NL)系人士に限られる。また、政治色を無くした「南側・北側」が特に南北交流の場で使われることもある

 実はこの説明文中「特に南北交流の場で」の部分は最近までありませんでした。したがって多少は改善されましたが、韓国の一般国民の間での使用状況をみると、この「政治色を無くした」という部分は誤りです。上述のように、「南側・北側」という言葉を使う場合は、その人は(韓国主導ではない)統一を志向しているという「政治的立場」を示しています。つまりは<進歩系>の人ということです。(<親北左翼>と言った方がわかりやすいですが、そう書くとなんか批判的なキモチが前面に出てしまうので・・・。って、もう出てる?)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の呼称 ③韓国では、「北韓」の語が定着するまで何と言っていた?

2018-06-02 10:22:47 | 韓国・朝鮮関係の知識教養(歴史・地理・社会等)
 → 朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の呼称 ①「北朝鮮」と「韓国」以外にあるの?
 → 朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の呼称 ②ホントに厄介な「北」の呼び方

 韓国では北朝鮮のことを「북한(プッカン.北韓)」といいます。韓国語学習者の間では常識だとや思いますが、一般的にはどうでしょうか?
 Google翻訳の[日本語→韓国語]でも、「北朝鮮」と入力すると「북한」と変換され、逆に[韓国語→日本語]だと「북한」は「北朝鮮」に自動翻訳されます。(場合によっては誤解・誤読を生む。)
 しかし、だからといって韓国内で「朝鮮という言葉が禁じられているわけではありません。ただ、この言葉はふつう過去の朝鮮王朝を指します。また朝鮮日報、ウェスティン朝鮮ホテル、朝鮮大学校(光州にある)等の固有名詞にも用いられています。ただ、日本人が韓国人のことを「チョーセン人」と言うのは禁物。差別語ととられるし、実際差別意識が込められている場合が多いのではないでしょうか?

 さて、この北韓という言葉ですが、ふつうに使われるようになったのは、1972年の7∙4南北共同声明が契機でした。南北関係がたまたま少しよくなった時です。では、それ以前は何と呼んでいたかというと「북괴(プッケ.北傀)」でした。つまり北の傀儡(かいらい)国家という意味の侮蔑語です。「傀儡」は、本来は「操り人形」のことですが、「人の手先となって思いのままに使われる者」という2番目の意味の方がよく使われていますね。(「くぐつ」という読み方もあります。) 具体的には「ソ連の操り人形」という意味です。逆に北朝鮮の方も韓国を「アメリカ帝国主義の傀儡」と言ってました。

 共同声明が採択された次の日、文化公報部は「従来「北傀」と呼んでいたのを「北朝鮮」と呼称し、金日成に対する中傷・誹謗を見合わせること」を指示しました。これにより、すべてのメディアと政府の公式広報から「北傀」は消え、「北韓」に替わりました。
 ところがほどなく会話の時間が終わり、対決が再開されると、「北傀」が戻ってきました。

 1980年代の全斗煥、盧泰愚政権当時は、70年代にマスコミで使われ始めた「북한 공산집단(北韓共産集団)」という表現が広く使われたりもしました。
 あの尹東柱と少年時代同窓だった文益煥(ムン・イックァン)牧師(1918~94)は1989年3月訪北して金日成主席と会った人ですが、同年正月「たわごとではないたわごと」という詩で「私は彼らを傀儡とは呼ばない」と叫びましたが、87年6月の民主化宣言後も依然としてそう呼ぶ人は少なくなかったのですね。
 画期となったのは1991年9月、南北の国連同時加盟でした。その後間もない12月13日、南北朝鮮は公式合意書で正式国号(大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国)を使用することを取り決めました。(「南北間の和解と不可侵および交流協力に関する合意書」)
 以後、メディアや政府の公式広報物から「北傀」の語は消えましたが、まだ軍の文書には残っていました。この言葉を放棄すれば「将兵の士気が落ちる」という主張が強かったからです。その軍でも消えたのは、2000年6月の南北首脳会談以降のことでした。「傀儡」という言葉も同月末になくなり、国防部の記事からも2001年8月完全に消えました。
 (※ここまでの記事は→コチラを参考にしました。)

 ・・・以上のような経緯でようやく現在に至ったわけですが、今でもブログ記事等で「北傀」の語はしばしば見受けられます。あるいは、ニュース記事に対する読者のカキコミ。とくに代表的な保守紙・朝鮮日報の北朝鮮関係ニュースの読者評<100字評>欄を見るとごくふつうに目に入ってきます。(下画像)

 [訳] 北傀の手法は、これまで数十年、対南詐欺劇をまことしやかにやってのけても、平然としている。だからこれに一喜一憂してはならない。(以下略)

 このように、保守派の一部で「北傀」の使用者が残る一方で、近年、主に進歩陣営の側から「北韓」という呼称に対する異論も登場してきました。
 それについては次回で。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の呼称 ②ホントに厄介な「北」の呼び方

2018-06-01 23:48:15 | 韓国・朝鮮関係の知識教養(歴史・地理・社会等)
 → 朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の呼称 ①「北朝鮮」と「韓国」以外にあるの?

 以前は、各テレビ局がニュース等で「北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国」と長ったらしい言い方をしていましたが、長い間よく続けていたものです。新聞の場合は「朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)」という表記でした。→ウィキペディアによると、このような呼称は1972年札幌オリンピックの頃から今世紀の初め頃始まり、小泉首相訪朝後、北朝鮮の拉致問題や、核施設凍結解除・IAEA査察官の追放(翌年脱退)等の問題が沸騰していた2002~3年頃まで続いたとのことです。ということは、約30年間
 
 右の画像は、表記の変更についての2002年12月28日の朝日新聞の社告です。
 なお、この直後の、灘本昌久京都産業大学助教授(当時)による関連記事(→コチラ)は、この呼称問題について詳しく記しつつ、自身の見解を提示しています。
 これらの記事から、各紙が北朝鮮の呼称を簡略化した時期を順に並べると・・・。
 ・産経新聞・・・1996年から「北朝鮮」のみ。
 ・読売新聞・・・1999年から「北朝鮮」のみ。
 ・毎日新聞・・・2002年11月から、正式国名は全ページで1ヵ所。
 ・朝日新聞・・・2002年12月から、一部の記事をのぞいて「北朝鮮」に。
 ・日本経済新聞・・・2003年1月から、原則として「北朝鮮」に一本化。
 ・東京新聞・・・2003年1月から、正式国名は全ページで1ヵ所。
  ※フジテレビ・・・以前から「北朝鮮」のみ。

 ・・・と、ほぼ各紙の政治的立ち位置(北朝鮮に対する批判の強度の差)がこんなところにも表れていますね。

 では、朝鮮総聯の機関紙「朝鮮新報」と、民団の機関紙「民団新聞」の日本語版ではどうなっているかというと、それぞれ北朝鮮と韓国での呼び方の通り。
 つまり、「朝鮮新報」(→公式サイト)では、北朝鮮は「朝鮮」、韓国は「南朝鮮」「祖国」という言葉も多く見受けられます。
 ただ、4月27日の南北首脳会談は「北南首脳会談」ですが、朝鮮民主主義人民共和国の金正恩国務委員長と大韓民国の文在寅大統領は・・・」ときっちり書いています。(ほー、大韓民国と書いたか!)
 「民団新聞」(→公式サイト)は、韓国がそのまま「韓国」で、北朝鮮は「北韓」と、本国と同じ表記。
 また、統一志向の在日韓国人による新聞「統一日報」の→公式サイトをのぞいてみると、南北首脳会談についても「「板門店宣言」は自由民主国家の自殺」といったオオッと驚くような見出しの記事(→コチラ)が目を引きます。北朝鮮に批判的な論調を特色にしている新聞(統一教会とは無関係)で、「民団新聞」と同じく「韓国」「北韓」の語を用いています。

 ところで、上記の灘本昌久さんは記事の中で「記事の簡略化という点では、なぜ「朝鮮」では ないのかという疑問には答えられない。」として「北朝鮮」よりも「朝鮮」がよいとしているようですが、「朝鮮」だと南北全部を指すようにもとられそうだし、韓国での一般的な理解のように、過去の朝鮮王朝を指すと受け取られることも考えられます。「朝鮮の社会体制は、生まれながらの身分による差別が人生をほとんど決定づける」と書いたら、どちらのことなのかよくわかりません。またNHKの語学講座も「朝鮮語講座」とすべきだったとの主張ですが、先の平昌冬季五輪の南北合同チーム内でもなかなか言葉が通じにくかったと伝えられたように、南北間の言葉にはかなりの隔たりが生じています。そんな中、NHKでは当然日本人に身近な韓国語で講座をやっているわけで、それに「朝鮮語講座」というタイトルをつけるのは不自然だし、また多くの誤解を招き混乱の元になりそうです。ということで、この件についてヌルボはとりあえずは現状の「ハングル講座」でOK。(ただし<ハングル>は文字のことなのに、「ハングルで話す」という間違いに気づかない人を多数生んでいますが・・・。)もちろん半島の情勢が今後大きく変われば国や人や地理関係の呼称も変わる可能性はありますけどね。

 北朝鮮に対する呼称がもう1つあるのを思い出しました。今も使われています。(一部の人たちですが。) と、これだけでわかる人がどれくらいいるでしょうか?
 ヒント。私ヌルボが1991年団体で北朝鮮に行った時、現地で北朝鮮の人たちに対して国名をどう言えばいいか?という点について、案内員氏(だったかな?)が教えてくれました。
 「○○○と言って下さい。」
 漢字3文字です。正解はやコチラ → 共和国

 これは固有名詞じゃなく普通名詞でしょ! ・・・と誰しも思うでしょうが、今も依然として使われているのですね。(「え、うそっ。みんな「王朝」って言ってるのに・・・。」という人もいるかも。)
 下の画像は「世界」の2018年1月号の、まさのあつこ「「北朝鮮」と呼ばれる国交のない国・訪問記」より。
 まさのあつこさん、必ずしも北朝鮮ベッタリということでもありませんが、現地で「共和国」と言っても、日本に戻ってもずっと「共和国」を用い続けるというのはどうなんでしょうか? コンゴ共和国とか南アフリカ共和国と誤解する人がいるかもしれないし・・・。 
 あ、そういえば立憲民主党の初鹿明博議員は→ウィキペディアによれば次のように述べているそうです。
 「日本が朝鮮民主主義人民共和国から尊重してもらいたいなら、同じように相手の国を尊重しなくてはならないとして『北朝鮮』という呼称を使わない。『朝鮮』もしくは『共和国』と呼ぶように心がけている。これは、朝鮮の国民も自国に誇りを持っており、その誇りを傷つける行為を不用意にするべきではないと考えるからだ。」
 私ヌルボ、これは傾聴に値する主張だと思います。が、上述のように「朝鮮」でも「共和国」でも誤解がありそうだし、「北朝鮮」といっても相手を侮蔑することにならないのはかつての東ドイツ・西ドイツと同じと考えるからです。それだけではなく、今の北朝鮮という国に対する認識の相違もありそうです。初鹿議員は、自国民の基本的人権などに一顧だにしない北朝鮮の独裁政権との相互の「尊重」を国際政治上の<方便>として考えているのならまだわかりますが・・・。
      

 ホントはこの記事の一番の目的は、「韓国内での北朝鮮に対する呼び方でその人の政治的な立ち位置がわかる」ということだったのです。で、今回までの記事は(例によって)タラタラと長~い前書きのようなものです。
 というわけで、続きは<韓国・北朝鮮は、それぞれ相手国と自国のことをどう呼ぶか?>について書きます。

 → 朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の呼称 ③韓国では、「北韓」の語が定着するまで何と言っていた?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の呼称 ①「北朝鮮」と「韓国」以外にあるの?

2018-05-14 23:53:27 | 韓国・朝鮮関係の知識教養(歴史・地理・社会等)
 この記事の日付は5月14日になっていますが、6月1日にいろいろ書き足したら長くなりすぎたので2分割することにしました。さらにその後にも続いて、全部で4回くらいになりそうです。

 朝鮮民主主義人民共和国大韓民国のことをふつうどう呼ぶか?
 かつての日本の統治下では「北鮮」「南鮮」と言っていました。 
 右画像は1930年代末頃の大阪商船の<北鮮・大阪急航航路>のパンフ(部分)。このように、ごくふつうに使われていました。
 この「北鮮」「南鮮」は、戦後は「差別語だ!」との抗議もあって用いられなくなっていきました。といっても1948年の両国の建国までは終戦以前と同じだし、その後も50年代はこの「北鮮」「南鮮」という呼称はけっこう使われていたようです。私ヌルボの記憶では、60年代にもそう言ってた年配者はいましたね。

 「北鮮」「南鮮」が本当に差別語かどうかについては、辻本武氏によるなかなか鋭い批判があります。(→コチラ。)
 右画像は、そこに挙げられていた1920年代白丁(ペクチョン)差別撤廃を訴えて結成された衡平社のポスター。なるほど、最上段に全朝鮮ではなく<全鮮定期大会>と記されています。
 ただ、私ヌルボとしては、戦後これらの言葉が「チョーセン人」同様差別語として<記憶>されたということを重視するしかないと思います。「バカチョン」の語源が朝鮮人とは無関係だとしても使わないのがよいのと同様。

 あ、最初から話が本筋から離れてる! 元に戻します。

 今では言うまでもなく「北朝鮮」「韓国」ですね。
 ところが、私ヌルボの高校時代の頃(60年代!)、親しかった級友U君は韓国のことを「南朝鮮」と言ってました。彼は民青(民主青年同盟=日本共産党系の青年組織)の同盟員で、当時は共産党の方針がそうだったわけです。同党が「韓国」という呼称に改めたのは1997年のことで、その経緯・理由については→コチラに党の公式見解が述べられています。内容的には疑問もありますが、今は深入りしません。
 しかし、現在でも「南朝鮮」と呼んでいる人はいないではないと思います。・・・と書いてふと頭に浮かんだのは、中核派の機関紙「前進」ではどう書いてるのだろう?ということ。おー、検索したら公式サイトがあった! →コチラです。サイト内の記事をいくつか見た中で、たとえば、

 「足元での戦争の最大の火点は東アジアであり、米帝トランプが日帝・安倍などとともに強行しようとしている朝鮮侵略戦争だ。それは北朝鮮スターリン主義の体制転覆と、民主労総を先頭とする韓国労働者人民の革命的なゼネスト決起の圧殺を狙った戦争である。」

 ・・・といった記述があるゾ。
 中核派を出したら、革マル派も出さずばなるまいて。機関紙「解放」のサイト(→コチラ)にはこんな記事が・・・。

 「南北の権力者どもによって朝鮮半島の「民族的和解」などとおしだされているこの瞞着は、だがしかし、「平和への激動」(日共委員長・志位)などというものでは断じてない。独占ブルジョアジーに支えられた権力の支配下で貧困と失業苦に突き落とされている韓国の労働者・人民。そして金一族によるネポティズム専制支配のもとで圧政に組み敷かれている北朝鮮の人民。現下の瞞着は、六十五年の永きにわたって南北に引き裂かれてきたこの南北朝鮮人民の悲劇を現在的に固定化する以外のなにものでもない。」

 いやあ、ドチラも久しぶりに見ましたが、ユニークというか、刺激的というか、あいかわらず(難解)というか・・・。現在の状況についての両者の違いはなんとなくわかりましたが、これも今は(今後も?)深入りしません。まあドチラも北朝鮮・韓国の呼称など、どーでもいいといったフンイキです。(ところで、今の学生たちにおける中核とか革マルの認知度なんてどんなレベルなんだろ??)

 私ヌルボ、ここで日常の世界に帰還したところで、次回に続きます。

 → 朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の呼称 ②ホントに厄介な「北」の呼び方
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1月4日に天寿を全うして亡くなった野毛山動物園のアムールトラ(チョウセントラ)・メイメイ(20歳)

2017-01-26 18:01:37 | 韓国・朝鮮関係の知識教養(歴史・地理・社会等)
 → <チョウセントラの過去と現在> ①はじめに =歴史・文化・民俗・絶滅危惧種等々=
 → <チョウセントラの過去と現在> ②トラを見にズーラシアに行った、のですが・・・
 <チョウセントラの過去と現在> ③野毛山動物園のメイメイの「虎」独、麝香虎骨膏のこと等

【今は亡き横浜・野毛山動物園のトラ・メイメイ(1996年10月3日生まれ.雌) 2016年2月19日撮影】

 1月4日横浜市立野毛山動物園のトラ・メイメイが亡くなりました。
 数日後そのことを知りましたが、2010年と昨16年現地取材して記事を書いたこともあって他人事とは思えず、12日に行ってみました。

    
 メイメイが居たオリに掲示板が掛けられていました。

    
 横にまわってみると献花台が設けられていました。在りし日の写真等が置かれ、台上には花が供えられています。

       
 猛獣舎の中に入ると、メイメイの居た部屋(外のオリの奥側)にはたくさんの花や思い出の品々が置かれています。
 そして獣舎の通路の壁には「メイメイ おもいで写真展」ということで赤ちゃんの時からの写真が10数枚展示されていました。

   
 この動物園で生まれたのが1996年10月3日。上左は生後1~2ヵ月。右は母親のヤンユェン、双子の姉妹リリーと一緒に写っています。
 以前の記事(→コチラ)に記したように、10年前にはズーラシアに両親が、そして野毛山にはメイメイとリリーがいて4頭健在だったのにその後メイメイ以外の3頭が相次いで世を去り、2009年12月からはメイメイだけになってしまいました。20歳と3ヵ月。人間でいうと90歳以上とのことで、「天寿を全うした」と言っていいでしょう。

   
 ブイで遊ぶのが好きだったそうです。そういえばネコには毬の類、とくに毛糸玉が付き物のようですね。獲物を獲る訓練になるのかな? 右は猛獣脱出対策訓練の時にトラの代役を務めたキグルミの人との対面の場面。どう思ったのでしょうね?
   
 献花台が置かれている最終日は22日ということで、その日も行ってみました。
 日曜日とあって、子供連れで来ている人が大勢いました。(左)
 メイメイの部屋の前にもメイメイの訃報を知っている人、知らない人それぞれいろんな話をしています。(右) 「あの大きなボールは何なの?」と言っている小さな子がいたので教えてあげました。

    
 メイメイのファンからの手紙や写真、寄せ書きも置かれています。

    
 右は「20年前の命名式に参加しました」という方からのお手紙。当時6歳だったお子さんが今は青年。トラと人間の「トラの時間」と「人間の時間」の違いを痛感します。

 私ヌルボがメイメイに関心を持つようになったのは、先の記事にも書いたように「アムールトラ(=チョウセントラ)」だからです。もちろんトラのこととてメイメイはそんなことも、自らが絶滅危惧種であることも知りませんが・・・。
 以前→コチラの過去記事にも書いた「生まれたらそこがふるさと」という言葉をなんとなく思い出しました。元は李正子の短歌の一節で、在日朝鮮人や朝鮮生まれの日本人のアイデンティティを問うた言葉ですが、メイメイの場合、ただこの野毛山で20年を過ごしてきたわけで、まぎれもなく「ここがふるさと」であり、そして野生のトラとはいかにかけ離れたものであっても、このように多くのファンに愛されてきた幸せな生涯だったといってよさそうです。(トラの心は読めませんが・・・。)
 
 [追記①] メイメイについては、野毛山動物園の担当さん(大滝さん)のとても心の籠った記事(→コチラ)があります。ぜひご一読を。また→コチラのブログ記事も。

 [追記②] <アムールトラねっと>の記事(→コチラ)によると、首都圏でアムールトラがいるのは多摩動物公園だけになってしまったようですね。

 [追記③] 韓国ではもう野生のチョウセントラ(アムールトラ)はいないと言われています。北朝鮮はよくわかりませんが、北の国境方面にもしいるとしてもごくわずか(10頭くらい?)。韓国の動物園にはどのくらいいるのか? ちょっと検索してみたら、2016年4月の→コチラの記事(韓国語)によると「ソウルの動物園に現在23頭の韓国トラ(アムールトラ)がいる」とあります。私ヌルボ、2014年に果川にある国立現代美術館には行ったものの、「美術館の隣の動物園」にはいかなかったからなー。しかし、ここのトラのうち2頭(オス&メス)は2011年ロシアから贈られたのですが、その後13年にそのオスの方(ロストフ)に飼育員が襲われ死亡するという事故が起こってるからちょっと恐いかも。(野生の個体に近い遺伝子とのこと。その後ロストフは謹慎生活?)
 地方では、全州動物園で昨年6月オスの双子が誕生し、公募によってチョンドン(雷)とポンゲ(稲妻)と命名されたとのことです。(→コチラの記事(韓国語)参照。) ということは両親もいるということか?
 ※韓国の記事ではふつう「시베리아 호랑이(シベリアトラ)」としているようです。
【昨年全州動物園で生まれたアムールトラの双子(オス)】
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おもしろくてためになる<歴史共和国 韓国史法廷>シリーズ 6月抗争・禁乱廛権等(その2)

2016-09-10 17:37:05 | 韓国・朝鮮関係の知識教養(歴史・地理・社会等)
      

 →3つ前の記事の続きです。今回は上画像右の「なぜ禁乱廛権が廃止されたか?(왜 금난전권이 폐지되었을까?)」を紹介します。

 表紙の絵を見ると近現代でないことはわかります。日本史で言えば江戸時代半ば頃18世紀あたりが今回の法廷で取り扱われている時代です。
 では、そもそも<禁乱廛権>とは何ぞや?
 読みは<クムナンジョンクォン>、日本の音読では<きんらんてんけん>です。廛は一見塵と間違えそうですが、<てん>と読み、屋敷や店を意味する漢字。ここでは店の方です。
この4文字は<禁乱・廛権>ではなく、<禁・乱廛・権>と区切って理解するとわかりやいです。つまり「乱廛を禁止する権利」のことです。

 では乱廛とは何か?
 ・・・という前に、まず順を追って市廛(시전.シジョン.してん)という用語から説明しておきます。これは政府の統制下にある店舗のことです。政府は店舗を立てて商人に貸与し、政府が必要とする物品を調達・供給させるとともに、店舗税と商税を徴収しました。市廛商人は官庁に物品を納める見返りとして、特定商品の独占販売権を与えられました。このように政府と「持ちつ持たれつ」といった関係にあったのが市廛商人でした。
 また、これら市廛の中でもっとも規模が大きく繁盛したものが絹、紙、魚等を売る店で、後にこれらは六矣廛(욱의전.ユギジョン.ろくいてん)と総称されました。

 そこで乱廛(난전.ナンジョン.らんてん)について。
 これは政府の統制下にある市廛とは逆に、政府の許可を得ないで商売をしている露店(の商人)のことで私商(사상.ササン)ともいいます。つまり、朝鮮後期の商業発展とともに成長してきた新興商人層で、とくに18世紀以降漢城(ソウル)を始め各地で活発な商業活動を行うようになりました。

 この乱廛の台頭によって自らの商権を侵害された市廛が政府に要請して1706年(粛宗32年)獲得した権利が禁乱廛権でした。漢城(ソウル)の都城内と城外十里(約4㎞)以内の地域で乱廛の活動を規制して市廛商人に専売特権を与えるとともに、それを守らせる権利を付与したものです。

 しかし、このような権力と結びついた商業の独占権といったものは物価高の要因ともなるし、商業の自由な発展を阻害することになります。当然私商や都市窮民の反発は高まり、結局は撤廃されるのが時代の流れ。
 その結果が1791年の辛亥通共(シネトンゴン.しんがいつうきょう)とよばれる禁乱廛権を禁止する措置で、当時の左議政蔡済恭(チェ・ジェゴン)の建議を容れて正祖(右画像)により実施されました。「六矣廛以外の」というただし書き付きですが、全ての市廛の禁乱廛権を否定し、設立30年未満の市廛を廃止するという内容で、この措置は以後の商業発展のひとつの契機となったとのことです。

 ・・・と、ここまで読んで「なんだ、日本史の<楽市・楽座>と同じようなものじゃん!」と思った人は多いのでは? 織田信長が1577年安土城下で実施した、という施策。→ウィキペディアによると1549年近江の大名・六角定頼によるものが最初だそうですが、いずれにしろ正祖の時代より200以上も前。それだけ朝鮮は日本よりも商業の発展が遅れていたってことか!?と思いますが、これだけで結論付けるのは早計でしょう。今後の課題ですね。

 やっと本書の中身に立ち返って、まず登場人物の紹介から。
 この裁判の原告はキム・シジョン(左画像)、そして被告はパク・ササン(右画像)です。あ、両者とも架空の人物です。
 シジョンとササンという名の綴りは市廛、私商と同じ。わかりやすいです。(笑) つまりキム・シジョンは親から受け継いだ市廛、それも規模が大きい六矣廛で中国産の絹織物を取り扱っている商人です。
 一方パク・ササンは漢江を根拠地にしている京江(경강)商人とよばれていた商人集団の代表的存在。
 私ヌルボが「ここらへんが本書の構成の妙だな」と思ったのは、旧時代の代表を原告に、新時代の担い手を被告に設定にしている点。前の記事で旧軍人を原告、民主派学生を被告にしたように、「負けそうな側」を原告にしているのです。つまり「歴史的に敗者や正義に反する側にも言い分はある」という意図なのだろう、とヌルボとしては肯定的に理解しました。
 で、原告キム・シジョンが「役人の無理な要求にも応え、国のために代々商売をしてきたのに、乱廛がはびこって自分たちの権利を侵害しているのに、政府が禁乱廛権まで廃止するとは到底容認できない」という理由で私商の代表パク・ササンを相手取って賠償を求めたのかこの裁判というわけです。
 これに対して被告パク・ササンは、朝鮮の商業発展に寄与しているのは自分たちの方だ。市廛の方こそ権力をかさに横暴を働いてわれわれの財産権を侵害してきた」と反論します。

 双方とも仲間の商人等が証人として出廷します。原告側証人で、乱廛の取締りに当たった役人の名前がカン・タンソク(강단속)というのはちょっと笑ってしまいます。漢字だと強団束。団束は取締りの意です。
 実在の人物で登場しているのは上記の蔡済恭(チェ・ジェゴン)(右画像)=被告側証人と、1799年領議政となった老論派の李秉模(イ・ビョンモ)(左画像)=原告側証人です。※蔡済恭が手に掲げているのは死後(1824)刊行された彼の詩文集「樊巖集(번엄집)」です。

 そのやりとりを読むと、禁乱廛権廃止という施策は社会経済上の観点からだけでなく、市廛との結びつきによって利益を得ていた老論派に打撃を与えるといった意図も見えてきます。(戦国大名が楽市・楽座によって大寺社等の旧勢力に経済的打撃を加えたのと同じパターンか?) 蔡済恭は南人派の領袖。つまり反老論派で、正祖の信任を得て政治に携わった人物です
 あ、蔡済恭はドラマ「トキメキ☆成均館スキャンダル」に登場しているのですね。もちろん「イ・サン」にも・・・。とくに前者では、禁乱廛権のことがドラマの展開にも関わって出てきたようですよ。(→コチラ参照。)

 さて、いよいよ判決です。主文は・・・・
 歴史共和国韓国史法廷は原告キム・シジョンが被告パク・ササンを相手に提起した物質的・精神的損害賠償請求を棄却する。
 ・・・と、予測通りの結果。判決理由を簡略に記すと、
 禁乱廛権は人間の生活に必要な需要と供給の原則を阻害するもので、普遍的な真理に則ったものではない。したがって、資本主義と自由市場経済体制が芽生え始めた朝鮮後期には禁乱廛権を廃止することは、その時代の流れに合ったものとみられ、今回の訴訟は原告の主張は棄却するものとする。
 この「資本主義と自由市場経済体制が芽生え始めた朝鮮後期」という部分には<内在的発展論><資本主義萌芽論>といった民族史観の匂いがほのかに感じられますね。(参考→<朝鮮の歴史観>)

 以上が本書の主な内容で、結末は上記のように予想通りでしたが、ベンキョーになったのは17世紀最初のあたりからの社会の変化がいろいろ記されていること。
 とくに16世紀末の壬辰倭乱・丁酉再乱(文禄慶長の役)が朝鮮の経済や土地制度、身分制度に及ぼした影響は非常に大きく、朝鮮史の分水嶺ともいわれているとのことですが、その中で「田植えが普及して農業生産が高まり、耕作地も拡大した」と記されています。
 田植えは韓国語では移秧法(이앙법.イアンポプ.いおうほう)、あるいはモネギ(모내기)といいます。※「모」は「苗」の固有語で、모내기は「苗を移すこと」。
 この田植えの普及についての判事と被告側弁護士のやり取りは次の通りです。
 判事「移秧法が壬辰倭乱以後に普及したということは、もしかして日本から入ってきたものですか?
 弁護士「いいえ。ふつうモネギといっている移秧法は高麗時代に普及していましたが、当時は水利施設が貧弱だったので国でも勧めませんでした。灌漑施設がないとモネギの時期に日照りが続くと苗が全滅するからです。しかし壬辰倭乱後には技術が発達して移秧法は全国に拡大していきました。」
 ふーむ、このあたりにも何かありそうな気配がないでもない? ま、それは今後の課題。

[付記①] 本書中にあった「朝鮮後期の商業と貿易活動」を示す図は、1996年発行の高校国史教科書(の翻訳書)に同じものがありましたので並べて貼っておきます。
     

[付記②] 私ヌルボが上述の六矣廛(ユギジョン)という言葉を知ったのは、2012年12月ソウル市歴史博物館の展示物を見たのが最初です。その写真を貼っておきます。
 
 朝鮮第1の繁華街とされる漢城の雲従街(운종가.ウンジョンガ)。その中心部の現在の鐘閣あたりに六矣廛があったそうです。
 ※近年の発掘による遺物が2012年にオープンした六矣廛博物館で展示されているそうです。(→ソウルナビ。→innolife。) 場所はタプコル公園のすぐ東の六矣廛ビル地下。(←知らんかったな。)
 上の展示物を見ると、ずいぶん道幅が広いですね。ホンマかいな?と思っていろいろ検索すると、→コチラの<カイカイ反応通信>の記事が見つかりました。1900年当時の写真が掲載されていたので1枚拝借して貼っております。他にも店舗の写真等数枚あります。なるほど、道路はたしかに広いですね。ただ、街のフンイキは大分違うような・・・。


 生徒・児童向きとはいえ、1冊読むといろんな知識が得られるものです。教科書よりもおもしろいし・・・。しかし、また新たな疑問もいろいろ。当然とはいえ、キリがありません。ふー。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おもしろくてためになる<歴史共和国 韓国史法廷>シリーズ 6月抗争・禁乱廛権等(その1)

2016-08-29 23:47:56 | 韓国・朝鮮関係の知識教養(歴史・地理・社会等)
      

 2015年6月の記事(→コチラ)で「なぜ4.19革命が起こったのか?」という本を紹介しました。자음과모음(子音と母音)という出版社から発行されている全60巻の<歴史共和国 韓国史法廷(역사공화국 한극사법정)>というシリーズ中の1冊です。
 小学校高学年~中学生程度の生徒を対象とした歴史教養書シリーズで、読んでみると私ヌルボとしては知っていることもあり、知らないことはもっとたくさんありで、何よりも平易に書かれていて内容的にも文章のレベルもちょうどよく、気に入りました。

 それで今年3月韓国に行った時に同シリーズの本を2冊買ってきました。
 上の画像の左は「왜 6월항쟁이 일어났을까?」で、右は「왜 금난전권이 폐지되었을까?」。値段は定価1万1千ウォンですが、右の方はアラディン中古書店で半額以下の古本を購入しました。
 で、左の方の書名は「なぜ6月抗争は起こったか?」はすぐにわかりましたが、右は「なぜ금난전권が廃止されたか?」の、肝心の<금난전권(クムナンジョンクォン)>がわからず。数ページ読むと、日本史で言えば<楽市楽座>に相当する朝鮮王朝時代の施策らしい、と見当はつきますが・・・。帰ってからネット検索してそれが<禁乱廛権(きんらんてんけん)>という歴史用語であることがわかりました。

 案の定、どちらの本も期待通りのおもしろくてためになる本でした。以下、その内容と、私ヌルボが仕入れた知識等をかいつまんで紹介します。このところ1つの記事が長くなりすぎる傾向があるので、今回は1冊ずつに分けることにします。まず「なぜ6月抗争は起こったか?」の方から。

 <6月抗争>とは、全斗煥大統領の軍事政権下の1987年、6月10日から「6・29宣言」が発表されるまでの約20日間にわたって繰り広げられた学生を主体とする民主化運動のことです。
 ※今<6月抗争>で検索すると、ウィキペディア(→コチラ)の次、つまり2番目<60年安保闘争、韓国の6月民主抗争等、6月はデモの季節?>と題した本ブログの過去記事(→コチラ)がヒットしたのでちょっと驚きました。

 さて、この<歴史共和国 韓国史法廷>はどんな構成になっているかというと、舞台は>。登場人物も皆故人です。歴史上の出来事について、対立する2つの側の人物の一方が他の側の人物を訴え、韓国史法廷で原告と被告の主張とそれぞれの側の証人たちの証言等を経て、最後に裁判官が判決を下すというものになっています。なお、傍聴席の雰囲気も描写され、そこに重要人物が現れたりすることもあります。
 ※「過去のことを現代の価値観で裁く」というのは、まさに韓国らしいところですね(笑)。
 主役というべき原告・被告をみると、「なぜ4.19革命が起こったのか?」では原告は張勉(チャン・ミョン)、被告は李承晩(イ・スンマン)でしたが、必ずしもこのような実在の人物と限ったわけではありません。この本も、原告は元軍人の최애국(チェ・エグク)、被告はデモに参加していた元女子学生の나뮌주(ナ・ミンジュ)という架空の人物になっています。ふつうの名前らしい漢字をだと崔愛国と羅民珠あたりでしょうが、<最愛国>、<わたし民主>とも読めるのがミソ。
 ところで、ふつうに考えるとひどい弾圧を被ったデモ学生の方が原告で、権力側の軍人や警察の方が被告になるのでは?と思うところですが、逆に軍人が原告、学生が被告に設定されている点が構成の巧みなところ。では、原告の軍人が何に対して訴訟を起こしたか、その請求内容を簡単に言えば次のようなことです。

 歴史は公明正大でなければならず、またすべての時代や人物についても明るい面と暗い面がある。したがって全斗煥の時代(第5共和国)の評価に対する現今のような全否定的な評価は一方的で不公平だ。その歴史的不可避性と、業績を後世に正しく伝えることを請求する

 いよいよ開廷です。いや、その前に傍聴席方面がただならぬ雰囲気。というのは、傍聴席が軍人グループと学生グループに二分され、それぞれ原告と被告を支援して気勢を上げているのです。
 なんと、軍人グループは軍歌を歌い始めます。
 「전선을 간다(前線を行く)」という歌。(→動画。) 代表的な軍歌の1つで、「최후의 5분(最後の5分)」とともにとくに人気があるとのことですが、ヌルボは初めて知りました。歌う前に原告自身が반동 준비!(反動準備!)」、「반동 시작!(反動始め!)」と号令をかけていますが、반동(反動)というのは上画像のように腰の横に手を置いて体を左右に揺らす動作のことだそうで、別に彼らが反動的な連中だという意味でしありません。
 これに対抗して被告ナ・ミンジュのリードで傍聴席の学生たちも「임을 위한 행진곡(イムのための行進曲)」 (→動画)を歌います。この歌は知っていました。アン・チファン等が歌っている代表的な運動圏歌謡の1つです。(上のリンク先は<労働歌手>チェ・ドウンの歌。)

 原告・被告双方の証人には、日本人にもよく知られている人もいれば、それほどでもない人も・・・、って自分を基準にするのもよくないですが・・・。ヌルボが知らなかったのが下画像の人。原告側の証人です。
 
 全斗煥大統領の経済首席秘書官だった金在益(キム・ジェイク)。世界の主要国と比較した歴代政権の経済成長率をグラフで説明しています。それによると朴正煕政権=3.3%、全斗煥政権=5.7%、金大中政権=4.8%で、全斗煥政権の時が最も高いというわけです。
 この金在益は第5共和国の主要人物中の中で例外的によく知られているそうで、その理由①=経済について全く知らない全斗煥を補助して80年代に経済成長と物価安定を達成したということ、そして理由②=1983年10月のアウンサン廟爆破事件(ラングーン事件)つまり北朝鮮による爆破テロ事件の犠牲となって44歳で世を去ったこと。(ふーむ、そうだったのか。ドラマ「第5共和国」は未見。やっぱり見なくちゃ・・・。)
 ※金在益については「中央日報」のコラム(→コチラ)と→コチラのブログ記事参照。「韓国の隠れたる英雄」と賞揚しています。
 本書では、金在益の他に、「大学の本考査廃止・内申成績重視・課外禁止・大学の卒業定員制」を内容とする<7.30教育改革>を発表した李奎浩(イ・ギュホ)文教部長官も原告側証人として登場しています。
 彼等以外の証人は次のような人たちです。
            
 左から金日成・金大中・李韓烈(イ・ハニョル)・金槿泰(キム・グンテ)
 金日成と金大中については説明するまでもないですね。李韓烈は、1987年6月9日の集会で戦闘警察による催涙弾を後頭部に受け、翌月5日死亡したた延世大の学生です。金槿泰のことはたまたま→1つ前の記事でも書いたように、2013年暮れ大統領選挙前に朴槿恵候補だけが観なかった映画「南営洞1985」の元となった体験記で、1985年治安警察に連行されて南営洞の治安本部対共分室で受けた残酷な拷問のことを書いた人です。
 ところで、この4人が皆被告つまり学生側の証人かというとそうではなく、1人は原告側の証人として出廷・証言しています。それはなんと金日成! 北朝鮮人らしく「안녕하십까? 반갑습다.」と挨拶しながら登場します。
 原告側が彼を呼んだのは、「北朝鮮の脅威があったから」という軍部独裁政権による国民の自由や権利等の制限の1つの理由が根拠のない言い逃れではないことを明らかにするためでした。原告側弁護士が光州民主化運動について金日成に「この闘争が南朝鮮全域に拡散すれば<対南事業>の決定的な機会にできる」と党幹部たちに強調しなかったか問うと、彼はそれを肯定しています。また金日成が「誤解を受けるかもしれないが、南朝鮮の人民は軍部独裁に堪えられないと思ったよ。4.19革命を凌ぐ大きな抵抗が起こるかと・・・。で政府がなくなったらわが共和国が秩序を回復して民族統一を達成しなければならないだろう? われわれが裏で工作しているなどという誤解はやめなさいよ」と言うと、弁護士はすかさず「裏で工作はしない? ではアウンサン事件は?」と追及。金日成は「何山(サン)だって?」と問い返し、説明されると「うーむ、そうだったっけなー」などとシラを切ったりします。弁護士はさらに1982年の学生たちによる釜山のアメリカ文化院放火事件(→ウィキペディア)についても金日成に訊こうとしますがこれは無理筋。

 裁判の後半は、逆に被告(学生側)の証言が続きます。
 上記の金槿泰と、李韓烈です。長くなるので彼等の証言は略しますが、李韓烈が7月9日行われた<李韓烈烈士民主国民葬>(下画像)について語っています。そして「皆が私の死に涙を流し、民主主義を望む歌を歌いました」と言いながら・・・
 ・・・彼が低い声で歌い始めると、ナ・ミンジュと傍聴席のあちこちからも歌声が上がり、悲愴ながらも勇壮な合唱が法廷に響き渡ります・・・。
 「타는 목마름으로  민주주의여, 만세!」という歌詞が絵の中に書かれています。金芝河の詩による「타는 목마름으로(灼けつく喉の渇きに)」ではないですか。この歌については→コチラの過去記事に歌詞&訳詞、そして金光石(キム・グァンソク)の動画付きで紹介しました。ご存知なかった方はぜひ聴いてみてください。

 いよいよ裁判は終幕を迎えます。勝訴はどちらか? 私ヌルボ、ふつうに考えて軍人側の勝訴はどうみてもないだろうとは思いました。では学生側の全面勝訴は?・・・等々考えながら読み進んでいくと、思わぬところでいきなり裁判が終わってしまいました
 歌の後、李韓烈が心に沁みる話で証言を終えると、傍聴席から拍手が起こります。その時原告チェ・エグクは叫びます。「もう止め! この裁判はこれでおしまいにしてください!」。皆が驚いて彼の方に目をやります。
 ・・・ほとんどの方はこの本を読まないでしょうからネタバレOKですね。一応黄色にしておきます。「私はこの訴訟を取り下げます」。
 おー、こういう持っていき方があったのか。「知りませんでした。それほどまで若者たちがつらい日々を送っていたことを・・・。非民主もクーデターも国のためと思っていましたが、間違っていました」というのが彼が語ったその理由。
 裁判はこれで終わり。後日談が5、6ページ分ありますが・・・。

 さらにその後、<出かけよう、体験探訪>という記事が2ページ分付いています。見出しは「6月民主抗争の歴史が息づいている警察庁人権センター」。下画像はそこに掲載されている写真です。 
     
 警察庁人権センターは6月抗争当時(1987年)は南営洞対共分室と呼ばれていました。上述の金槿泰等が拷問を受けた所です。説明文によると「○○海洋研究所」という看板がかかっていたそうです。今、そこの別館(写真左)は児童・女性・障碍者警察支援センターになっており、本館1階は(人権センターの)歴史館、2~3階は人権相談室等、4階は対共分室で拷問により死亡したソウル大学生・朴鐘哲(パク・ジョンチョル)関係の展示室(写真中)、5階は朴鐘哲を死に追いやった調査室(写真右)が原型のまま保存されています。
 ※新村には李韓烈博物館があります。これらについては、青さんのブログに3つ関連記事があります。→コチラと→コチラと→コチラ。毎度のことながら、ヌルボが1度行ってみようかな?と思った所はとっくにほとんど(全部?)行っている、なんとも大した方です。

 忘れてしまいそうなことをタラタラ書いていったらまたまた長くなってしまいました。考えてみれば読んだ内容や調べたことの大半は「忘れてしまいそう」なことなので、必然的に長くなってしまうということのようです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「岳人」2016年6月号の特集<韓国の山> ②日本と韓国の登山事情の違い等

2016-06-20 23:45:10 | 韓国・朝鮮関係の知識教養(歴史・地理・社会等)

 →1つ前の記事の最後の方で「韓国の山は、やはり魅力的な岩山が特徴的」と書きましたが、高い山だけでなく、たとえばソウル近郊の低山も意外なほどの岩山です。
            


 上は北漢山(プッカンサン)の仁寿峰(インスボン)。ご覧のような花崗岩の岩壁で「東洋のヨセミテ」ともよばれているとのことです。
 その他、仁王山(イヌァンサン)、道峰山(トボンサン)、水落山(スラクサン)等も(写真で見るだけでも)「ほほう」という声が自然に出るほどの奇岩の景勝地です。
 さて、右の画像の人物ですが、北漢山・白雲山荘で<歩荷(ボッカ)一筋32年>というミン・ヒョンシクさんで「多い時には50㎏の荷物を1日4回運び上げます」とのこと。うーむ、高校生の山岳部員だと20㎏のザックでもきついレベルなのに・・・。

 ここで本書に記されていた韓国と日本の登山関係のいろんな違いを略述しておきます。

すれ違う時「登り優先、右側通行」という日本での暗黙のルールは韓国では通用しない。

山小屋は基本的に素泊まりで、飲食物の販売はカップラーメンと若干の行動食だけ。自炊スペースは広い。予約は国立公園が一括管理していて、予約なしでは宿泊できない。したがって、→コチラでネット予約をする。(韓国語がわからない人は→英語で。) 料金は寝具なしで1泊7千~8千ウォン。毛布は+2千ウォン。
 日本と大きく異なるのは受付開始時刻が遅いこと。5~9月は18~19時、10~4月は17~18時で、その時刻にならないと客室に入れない! つまり、日本のように15時頃到着して・・・ということではないようです。

登山地図は携帯しない人が多い。下記のように案内板等が整っているということも1つの理由のようです。
 ※5万分の1地図(1枚5千ウォン)や主な山の地図を購入するならソウルの中央地図文化社で。鐘閣駅2番出口から北100m、最初の十字路を左折後すぐの洋菓子店2F。営業時間は9:00~18:30。(土日休業。) 古地図等も含めて実にさまざまな地図を取り扱っている店です。→ http://www.camap.co.kr/

道標・案内板が十分に設置されている。国立公園内には多目的位置表示板という標識が約500m間隔で設置されていて、これにはピーク等までの距離の他、緊急連絡用の電話番号も記されている。※ただしハングルと英字のみで漢字表記はナシ。
 実際どのような物か、韓国サイトから拾ってみました。
 下左は雪岳山、中は北漢山の多目的位置表示板で、右は鶏龍山にあるその説明板です。
          


登山道は整備が行き届いている。日本ならハシゴや鎖がかかっているような岩場だと、手すりのついた階段が設置されていることが多い。(「なるべく自然の状態を残す」という日本の考え方とは異なる。) たとえば下の画像。
       
 まあ、あれだけ年配者も大勢山に登っているので、何をおいても「安全第一」ということでしょうか。


 本書では、登山に関連した韓国語の単語と、簡単な会話についてもページを割いています。
      
 大体は中級レベルの韓国語学習者であればふつうに知っている単語ですが、一応要注意のものを挙げておきます。
 ザック=배낭(背嚢)、ストック=스틱、コンパス(磁石)=나침반(羅針盤)、寝袋=침낭(寝嚢)、水場=약수터(薬水ト)・샘터(泉ト)、上り道=오르막[길]、下り道=내리막[길]

 私ヌルボ、ソウルに行く度に「今度は登るゾ!」と思いつつ果たせないまま20年。(あ、南山(ナムサン.262m)だけは歩いて登ったことがあったなー。) 数日前馬耳山(マイサン)は、なんとか塔寺からのコースをただ登り、反対側に下りましたが、それだけで十分しんどかったです。せめて景福宮のすぐ後ろの仁王山(340m)・北岳山(プガクサン.343m)は1年以内に登っておかなければ! (と思っても自分自身が信用できなかったりして・・・。(笑))
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「岳人」2016年6月号の特集<韓国の山> ①山好き&韓国好きの人にぜひオススメ!

2016-06-20 21:51:16 | 韓国・朝鮮関係の知識教養(歴史・地理・社会等)

 かつては山男のハシクレだった私ヌルボも、この20年というものは山から遠ざかっています。したがって、上のような山の雑誌の韓国特集も、ヌルボが韓国オタクということを知っている本屋さんがいて教えてくれなければ気づきもしなかったでしょう。
 たまたまそんな本屋さんがいてラッキーでした。

 この「岳人」という雑誌は以前から知ってはいましたが、2014年出版業務が中日新聞社からモンベル系列のネイチュアエンタープライズに引き継がれたことは知りませんでした。なるほど、裏表紙や記事等々にモンベル関係の広告や記事が載っています。 ※モンベルの店舗は日本に106あるそうですが、韓国には約140店あって、世界最多なのだそうです。

 さて、目次を見てみると・・・。
 韓国内で標高ベスト3の漢拏山(ハルラサン)=1950m、②智異山(チリサン)=1915m、③雪岳山(ソラクサン)=1708mはもちろん紹介されています。ちなみに朝鮮半島最高峰は北朝鮮・中国国境の白頭山(ペクトゥサン)=2744m、また有名な北朝鮮の名山・金剛山(クムガンサン)=1638mです。
 これらの高い山のほかに、ソウルの人々に親しまれている500~800m程度の山々もいろいろ紹介されています。

 この韓国の山々の地図を見て私ヌルボが注目したのは、半島南部の智異山から韓国北西部の雪岳山を経て北朝鮮の金剛山まで薄茶色で太く白頭大幹が表示されていること。これはさらに白頭山まで続いているものです。この白頭大幹については、2014年に<民族主義の色濃い伝統的な地理観? <白頭大幹>をめぐって>と題した3回シリーズの記事を書きました(→コチラ)が、近代以前の朝鮮時代からある伝統的な地理観に基づく概念です。日本の統治期にはそれとは異なる近代的な地質・地理学による山脈体系が学校等でも教えらましたが、近年(90年代以降)民族主義の高まりとともに<白頭大幹>が脚光を浴びるようになってきたようです。で、私ヌルボ個人としては、学問的な観点からは使用は要注意の用語だと思います。

 上はソウル近郊の山々が一目でわかる地図。一番高い北漢山(プッカンサン)も高さ837mです。韓国の人はホントに山が好きです。本書にも「人口の3分の1は登山好き」とか「韓国の人口は5000万人ほどですが、登山人口は2000万人と言われます」と記されています。土日の朝早く地下鉄に乗ると、1つの車両に必ずといっていいほど登山服姿の客を見かけます。日帰りハイキング程度でもけっこう本格的なイデタチです。
 また本書にも書かれていますが、山でマッコリを飲む人が多いんですね。まあ山に限らず野遊会と言って眺めのいい屋外で飲むのが好きな人たちですが・・・。そういえば昨年連載した<S氏の慶熙大学校10週間留学記>中の記事(→コチラ)によるとS氏は韓国人の友人カンさんと道峰山に登ってますが、「山登りの際の必需品」というトマトキュウリは山で食べて、酒は下山してからだったようです。

 韓国の山は、やはり魅力的な岩山が特徴的です。北朝鮮・金剛山萬物相(→画像検索結果)は有名ですが、韓国にもすごい岩壁や奇岩で知られる山々がたくさんあります。たとえば先の目次の画像の左側、岩峰が連なっているのは雪岳山の山容です。

 そして上の画像は済州島東端の観光ポイント城山日出峰(ソンサンイルチュルボン)。世界自然遺産の奇観で、巨大噴火口がある頂上まで歩いて約15分とのこと。ヌルボはまだ行ってません。

 どうも長くなりそうな感じなので、このへんでとりあえずひと区切り。

 → 「岳人」2016年6月号の特集<韓国の山> ②日本と韓国の登山事情の違い等
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<チョウセントラの過去と現在> ③野毛山動物園のメイメイの「虎」独、麝香虎骨膏のこと等

2016-03-10 10:25:54 | 韓国・朝鮮関係の知識教養(歴史・地理・社会等)
 → <チョウセントラの過去と現在> ①はじめに =歴史・文化・民俗・絶滅危惧種等々=
 → <チョウセントラの過去と現在> ②トラを見にズーラシアに行った、のですが・・・

 1つ前に記事で、2月18日に初めてズーラシアに行ったものの、お目当てのアムールトラ(チョウセントラ)は2009年にオス・メス2頭があいついで死亡して今はいないことを知って肩すかしをくらったことを書きました。まあ元気のいいスマトラトラの双子姉妹は見られたのはよかったですが・・・。
 そこで気を取り直してさっそく翌日向かった先が野毛山動物園です。前に1度来て、記事にも書いた(→コチラ)のが2010年なので、なんと6年ぶり。私ヌルボが週3回は通っている横浜市立図書館から歩いてわずかに10分ほどなんですが、いや、ちょっと上り坂がしんどいような、そんなこんなで・・・。
 で、昼過ぎに行ってさっそくライオンとトラの獣舎に向かいました。
 インドライオンのラージャーの獣舎では10人以上の人がいて、何を見ているのかのぞくと、職員のお1人がエサをやり、別のお1人が檻の外に尾を引っ張り出してキレイに拭いたりしていました。後で→コチラの記事を見たら健康管理のため採血をしていたのですね。採血までは見ないで、当初の目的のアムールトラの獣舎へ。
     
 あら、6年前と同じで今日もゴロ寝? ボードを見ると「あそぶのが大好き」なはずなのに・・・。しかし続きを読むと「アムールトラの寿命は飼育下で15年」ですと。で、このメイメイは1996年生まれということは、え、今年で20歳になるんでないの! 人間でいえば80~90歳くらいのおばあさんなのか!? うーむ、そうでしたか、どうもすみません。・・・と見るうちに・・・。
     
 おもむろに立ち上がったメイメイ。私ヌルボを真正面からにらんだりして(上左。再度「すみません」)、次には外側のエリアにお出まし。(上右) 手前にはちょっと笹だか竹だかが植えられているのも「やはりトラに似つかわしいねー」と他の見物客が言ってました。
 なお、このメイメイの動画は→コチラの<野毛山動物園探検隊>の記事の中にあります。また→コチラは小さいですがメイメイの母親ヤンユェン(陽原)の写真。その時点の2007年8月には、メイメイの両親がズーラシアにいて、野毛山にはメイメイ(美美)とリリ(麗麗)の双子姉妹がいて、4頭健在だったのに2009年12月にはメイメイ1頭だけの「虎」独の身になってしまったのですね・・・。
 事務室でコピーしていただいた「ふぉーしーずーん」という印刷物のアムールトラの記事には、そのリリのありし日の写真が載っていました。
 その記事には、通常のエサの冷凍馬肉や鶏の頭ではなく、たまにはご馳走をと骨付き豚肉のかたまりをやった時のことが書かれていました。ところがリリは喜んでかぶりついてバリバリムシャムシャ・・・とはいかないで、肉を噛み切れずとまどい、結局はあきらめちゃったそうです。本来ならトラは両前足でしっかり肉を抑えて肉を引きちぎるのですが、動物園で生まれ育ってカットされた肉しか食べたことがなく、母親からもそんな食べ方を教わる機会がなかったからなのでしょう、と担当のOさんは記しています。しかたなく肉を切ってやるとリリはおいしそうに食べ始めたとのことです。

 さて、日本全国でアムールトラは何頭くらいいるのでしょうか?
 国際環境NGOの<FoE Japan>内に<アムールトラねっと>(→コチラ)という組織があります。そのサイトの「アムールトラのいる動物園」というページ(→コチラ)には、28の動物園がリストアップされています。しかし、ズーラシアも含めて10ヵ所もの動物園に「○○が死亡しました。ご冥福をお祈りします」と記されていたりしているので、これらの園にアムールトラがいるというわけでもありません。2009~11年にそんな多くのアムールトラが死亡した一方、広島の安佐動物園では2011年4頭の子トラが誕生しました。→コチラでその動画を見ることができます。今はずいぶん大きくなっていることでしょう。また京都市動物園にも今3頭のアムールトラがいるようです。(→コチラ。) その他、日本平動物園(→コチラ)等にも複数いるので、大雑把に言って全国で30頭近くいるのではないでしょうか。

 さて、上記のアムールトラねっとではアムールトラ保護のため5枚1組のパネルを作成・配布しています。下写真はその中の2枚で6年前に撮ったものですが今回は見当たりませんでした。
     
 森林伐採等の他、石油パイプラインの建設も減少の要因にあげられています。
 今回は、入口近くの掲示板に野生生物の取引を監視・調査しているTRAFFIC(トラフィック.→公式サイト)という国際的NGOの掲示物が貼られていました。内容はワシントン条約(絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約)の説明です。
      
 トラは附属書Iすなわち「今すでに絶滅する危険性がある生き物」に分類されています。(左) ちなみにジャイアントパンダ、ゴリラ、オランウータン、シロナガスクジラ、タンチョウ、ウミガメも同じです。生きている動物だけでなく、毛皮や角等の他、薬や装飾品等の加工品も規制の対象とされています。(中) トラについては毛皮はもちろん、ヌルボが注目したのは右の画像。「麝香虎骨膏」という火防訳があるのですね。<百度百科>(→コチラ)によると鎮痛消炎・筋肉痛・関節痛等々に効能があるという貼り薬(軟膏もある?)で、成分中にたしかに虎骨とか豹骨が入っています。ただ、今ではこれらを含まない「麝香骨膏」がふつうに出回っているようです。(包装紙には虎の絵が描かれていますが。) なお、虎と軟膏といえば思い出すのがタイガーバームですが、この製品名は創業者の名前に由るので、トラの成分が含まれているわけではありません。
 トラの加工品規制関係の記事をいくつか見ていたら、2005年の中国のニュースを紹介した「中国政府、”虎” 資源の貿易解禁か」というちょっとヤバい記事がありました。(→コチラ。) 戦後の中国での虎狩りやトラ減少の状況について、あるいは「死んだ虎を使って生きた虎に役立てる」といった一部の意向について記されています。これは11年前の記事ですが、今はどうなのか気になるところです。

 チョウセントラの、「トラ」の方に重点を置いた記事が2回続きましたが、このシリーズの次回は「チョウセン」に立ち返って朝鮮での虎狩りのこと等を書く予定です。

 → 1月4日に天寿を全うして亡くなった野毛山動物園のアムールトラ(チョウセントラ)・メイメイ(20歳)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<チョウセントラの過去と現在> ②トラを見にズーラシアに行った、のですが・・・

2016-03-05 23:49:56 | 韓国・朝鮮関係の知識教養(歴史・地理・社会等)
 → <チョウセントラの過去と現在> ①はじめに =歴史・文化・民俗・絶滅危惧種等々=
の続きです。

 近所のスーパーで2月初め「鬼のパンツ」の歌が流され、その後ずっと「うれしいひなまつり」の歌だったのが、それも一昨日でおしまい。あっという間に今年も6分の1が終わってしまいました。(あの歌を聴きながら頭の中で「あかりをつけたら消えちゃった♪」と歌っている人は何割もいると思います。)
 そして2月18日(木)に免許の更新で二俣川の免許試験場に行ってからもう2週間。当初の予定だとその免許関係の記事(→コチラ)のすぐ後にこの記事を書くつもりだったのがずいぶん遅れてしまいました。

 さて、精神的に疲れた私ヌルボが原付で向かった先はよこはまズーラシア動物園。「癒し」のほかに行った理由はというと、
 ①大雑把にみれば自宅からの方向が二俣川と同じ(北西)で、長く神奈川に居住しているのにまだ行ったことがなかったから。
 ②最近「メンコンイ」=ジムグリガエルについての記事を書いて以来絶滅危惧種動物にちょっと興味を持つようになったから。
 ③アムールトラ(チョウセントラ)と、東南アジアのトラを比べて見てみたかったから。

 ・・・と、こんなところです。

 いい天気とはいえ、冬。そしてウイークデイの昼過ぎ。こんな時にどんな人たちが動物園を訪れるかと、動物より先に人間観察。多いのは幼児を連れたお母さん。(たまに父親がいることも。) それからアベック。そーか、動物園デートというのはデートの定番なんだな。なるほど、動物園デートのタブー(→コチラ)とか、(女性の)作戦(→コチラ)とか、いろいろあるみたいです。この数十年ちょっと無頓着だったな。(笑)

 ズーラシアはとにかく広い動物園です。とりあえず、公式サイトは→コチラです。
 最初のゾーンは<アジアの熱帯林>。ここでとくに親近感を覚えるのは・・・。
     
 もちろんオランウータンですね。
 その後、知り合いの生物のセンセーから「チンパンジーとはDNAの99%が一致している」と聞きました。ただ、後でネット検索すると「一致」の解釈の仕方の問題もあるようですね。(→コチラ参照。)

 少し行くと、いました、いましたがなスマトラトラが!
     
 2014年8月生まれのメスの双子ダマイとミンピです。まだ1歳半なのに、こんなに大きくなっています。大きなガラスの向こうを歩き回っています。 
     
 こんな近くまで! この小さな女の子、真正面で視線を合わせたりして恐くないのかな? いやー、ガラスを発明した人はたいしたものです。
 その少し先に、インドライオン
     
 インドにもライオンがいるということはどれくらい知られているのでしょう? これもやっぱり絶滅危惧種(EN)です。それにしても、トラととも動物界の横綱格なのに、先のスマトラトラの双子姉妹のような精悍さがぜ~んぜん感じられない・・・。何を考えているのか、しっかりしてほしい!(笑)

 次に、入って少し後に気づいたことなのですが、私ヌルボ、先に書いたように「アムールトラ(チョウセントラ)と、東南アジアのトラを比べて見てみたかった」というのがここに来た目的の1つでしたが・・・、次のゾーン<亜寒帯の森>の見取り図を見るとこの通り。
 アムールトラと書いてあったとおぼしきところがアムールヒョウと書きかえられています。
 あとで確かめてみたら、横浜と友好都市提携をしている上海の動物園からアムールトラのトンファ(東華.オス)とヤンユェン(陽原.メス)という2頭のアムールトラがやってきて、野毛山動物園で育てられていたが、その後新しくズーラシアができてそちらに移されたとのこと。しかしトンファは2009年2月に、またヤンユェンも同年12月に死亡したのだそうです。つまり、今ズーラシアにアムールトラはいないのです!
 そうか・・・。私ヌルボがズーラシアにはアムールトラがいることを知ったのが約10年前。トラの寿命は15~20年ということなので、ヌルボが年をとる4~5倍くらいの速さで老け込み、とっくにこの世のトラではなくなっていたのですね・・・。なお、トンファの死については「トンファは私にとって友人だった」という方の真情溢れる追悼記事があります。(→コチラ。) これはぜひ読んでほしい一文です。
 で、これがアムールヒョウ
     
 アムールヒョウはシベリアヒョウともよばれ、また朝鮮半島にも(かつては)いてチョウセンヒョウといわれたという点ではアムールトラと同じですね。ただ、やはりトラよりひと回り小さいし、トラを横綱とすれば関脇クラスかせいぜい張出大関といった感じですかねー。

 さて、<亜寒帯の森>ゾーンでは他にこれも絶滅危惧種のユーラシアカワウソを見たかったのですが、なぬっ、今日はお休みだって!? 「ウソ!」・・・とつまらないオヤジギャグを口にしてしまってどっと疲れが・・・。
 この後、<オセアニアの草原><中央アジアの高地>の2つのゾーンを経て、<日本の山里>ゾーンにやっと入った頃にはもう3時半を回り、午前中の精神的疲れは癒えたものの身体的疲労はいかんともしがたいレベルに。
 その<日本の山里>ゾーンにいたのが左の写真のツシマヤマネコベンガルヤマネコの亜種とのことですが、そもそもベンガルヤマネコの亜種とされるアムールヤマネコというのが生息する所によってツシマヤマネコ、チョウセンヤマネコと呼ばれるということなのかな? 学者によっても見解が分かれる? ここらへんはよくわかりません。
 それにしてもこのヤマネコは落ち着きがなく、間断なく同じ所を往ったり来たりしていました。
 どうも動物園で見る動物は動きがほとんどないか、過剰なほど動き回っているかの2つに大別されるように思います。まあ自分が人間だから、人間の動きを基準にして見ているにすぎないのでしょうが・・・。それにしてもとくに爬虫類の諸君など生きているのか死んでいるのか、生き物なのか置き物なのかも判然としないのがずいぶんいます。いくら「亀は万年」と言われるほど長生きしても、その大半をあんなにじっとしたままで過ごすとしたら、その人生(いや亀生か)といったい何なんだ!と問うてみたいものです。彼らがしゃべれるとしたら、「そ・・・れ・・・は・・・だ・・・な・・・」と100年くらいかけて答えてくれるかも。(笑)
 
 ズーラシアは、やっぱり広かった! 53.3ヘクタールで、多摩動物園を少し上回っています。(子供の頃ちょくちょく親に連れて行ってもらった名古屋の東山動植物園は60ヘクタール。恐竜像が懐かしい。) 半日ではとても回りきれず、アマゾンやアフリカの動物はまた今度ということにして帰途についたのでした。

 ズーラシアにアムールトラはいなかったので、次の記事で捲土重来です。

 → <チョウセントラの過去と現在> ③野毛山動物園のメイメイの「虎」独、麝香虎骨膏のこと等
 → 1月4日に天寿を全うして亡くなった野毛山動物園のアムールトラ(チョウセントラ)・メイメイ(20歳)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<チョウセントラの過去と現在> ①はじめに =歴史・文化・民俗・絶滅危惧種等々=

2016-02-26 16:26:57 | 韓国・朝鮮関係の知識教養(歴史・地理・社会等)
 韓国・朝鮮に興味を持つ人にとって、チョウセントラはとくに注目のテーマのひとつでしょう。本ブログでも、2010年に関係記事(→コチラ)を書きましたが、<イザベラ・バード「朝鮮紀行」を読む>シリーズ中の記事であり、チョウセントラについての包括的な記事ではありませんでした。
 その記事が数日前からアクセスが増えているのは、おそらく<聯合ニュース>が2月22日付で「同志社にトラの剥製の返還を要請=韓国市民団体」と題したニュース(→コチラ)を報じたからと思われます。問題のトラの剥製は「朝鮮半島で大規模なトラ狩りを行った山本唯三郎が同志社大に寄贈したものとされる」とのことですが、この山本唯三郎の虎狩り(1917年)については「北朝鮮で虎狩り!」というウェブ記事(→コチラ)や、荒俣宏「奇っ怪紳士録」(平凡社ライブラリー)中の「行け行け、山本征虎軍!」に記されています。
 日本の統治期の虎狩りについては、昨2015年12月韓国で公開されたチェ・ミンシク主演の映画「大虎」でも描かれています。1925年の智異山(チリサン)を主舞台にした物語です。虎の皮に魅了された日本高官・前園(大杉漣)は、地元民たちがサングン(山君)として怖れている大虎を捕えようと日本軍と朝鮮人猟師たちをせっつきますが、大虎は容易に自らの跡を出さず、最後の手段としてすでに引退している名猟師が登場して・・・という内容です。(→参考ブログ記事。)
 もしかしたら、上記の韓国市民団体によるトラの剥製返還要請は、近年世界で進められつつある文化財返還運動の一環という側面とともに、この映画「大虎」に描かれたような、日本の統治期のもろもろに対する民族的な尊厳の回復といった面もあるのかもしれません。
 ※明治末~昭和前期の朝鮮でのトラ狩りや、木浦儒達初等学校に現存するチョウセントラの剥製等については遠藤公男「韓国の虎はなぜきえたか」(講談社.1986)に記されています。

 さて、トラをめぐる日本と韓国・朝鮮との関係はもちろん近代に始まったわけではありません。加藤清正の虎退治の話は(真偽はおくとして)多くの日本人が知るところです。「魏志倭人伝」にも「その地には牛・馬・・豹・羊・鵲なし」とあるように、日本列島には昔からトラはいませんでしたが、書物や絵画に古代からさまざまに記され、描かれてきました。朝鮮だけでなく、日本の民話等にも登場します。 ※梶島孝雄「資料 日本動物史」(八坂書房)によると「トラは洪積世前期以降、我が国にも生息していたが、縄文時代草創期までの間に絶滅し」たという。
 また、毛皮が高価で取引され、骨等は薬用としても珍重されてきた歴史もあります。(今も!?)
 このように古来日本でも縁の深い動物だったトラですが、今トラは世界的に個体数が減少し、絶滅危険度がENレベルの絶滅危惧種とされています。このままだと「近い将来に絶滅する危険性が高い」というものです。
 生物学的にはトラはネコ科ヒョウ属トラ種に属する動物で、現在は次の8つの亜種に分類されます。
 ベンガルトラ、アムールトラ、アモイトラ、バリトラ、マレートラ、ジャワトラ、スマトラトラ、カスピトラ
 で、チョウセントラはこの中のアムールトラと同じものとされています。シベリアトラウスリートラともいわれ、トラ種の中では最大で、雄には3.7mに及ぶものもあるとか。しかし、今野生の個体数は約500頭とのことです。
 ※マンシュウトラといわれたこともあったようです。
 ・・・というところで、誰もが抱く疑問が「今も朝鮮半島にトラはいるの?」ということ。
 詳しくはこのシリーズでそのうち取り上げますが、韓国は「限りなくゼロに近い」のではと思われますが、北朝鮮については→コチラの記事(韓国語)によると数は少ないもののまだいることが確認されているとか。白頭山トラが数頭程度。ただしこれは2005年の記事で、その時すでに絶滅の危機に瀕している状態。その後は?というと、最近(2015年12月)の「ハンギョレ」にアムールトラセンター沿海州地域所長という肩書のロシア人の専門家が北朝鮮内に野生のトラがいるかどうか調査に入る案を推進しているとの記事(→コチラ.韓国語)がありました。「ロシアトラの雌1頭と子2頭が北朝鮮に移動した状況がある」とのことですが、まだ計画の段階かな? ということで、北朝鮮にいたとしてもごくわずかで、もしかしたらもういないかも、というのが現在の状況のようです。

 ・・・と、チョウセントラについてはさまざまな分野にまたがって興味深いネタがたくさんあります。今回は序論なのにちょっと細かく書きすぎたかも。以下、あまり(全然)体系的ではありませんが、私ヌルボの興味の赴くままに不定期連載を始めます。
 (他にも完結していないシリーズ物記事をたくさん抱えているのに・・・。)


 横浜・野毛山動物園のアムールトラ・メイメイ(1996年10月生まれ.雌) 2016年2月19日撮影


 → <チョウセントラの過去と現在> ②トラを見にズーラシアに行った、のですが・・・
 → <チョウセントラの過去と現在> ③野毛山動物園のメイメイの「虎」独、麝香虎骨膏のこと等
 → 1月4日に天寿を全うして亡くなった野毛山動物園のアムールトラ(チョウセントラ)・メイメイ(20歳)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安倍能成がうるさがった「メコン蛙」の正体とその現在[3] 昔はあんなにいたのに、今は貴重な存在に

2016-02-15 23:48:19 | 韓国・朝鮮関係の知識教養(歴史・地理・社会等)
 → <安倍能成がうるさがった「メコン蛙」の正体とその現在[1] メコン川は関係ナシ>
 → <安倍能成がうるさがった「メコン蛙」の正体とその現在[2] 歌を2つ紹介します>

 朴婉緒(パク・ワンソ)の小説「그 많던 싱아는 누가 다 먹었을까(たくさんあったあのイタドリ(スイバ?)は誰が食べたのか)」や、あるいは文貞姫(ムン・ジョンヒ)の詩「그 많던 여학생들은 어디로 갔을까(大勢いたあの女学生たちは皆どこへ行ったのか)」の表現を借りれば、「그 많던 맹꽁이들는 지금 어디로 갔을까(たくさんいたあのメンコンイは今どこへ行ったのか)」・・・というのが今回のテーマです。

⑥メンコンイは都市化の進行、水質汚染、農薬の害等によって棲息地がどんどん減少して絶滅危機動植物に指定されるに至ったが、そんな中で近年生態環境のマスコットとなって復活した。
 日本では、1960年代高度経済成長が進展する一方、とくにその後半から公害が大きな社会問題となりました。そして70年代に入り、「環境・自然・健康」等をスローガンにしたさまざまな運動が展開されるようになりました。
 韓国の場合も、私ヌルボの持論(笑)の<日韓を分ける24年差の歴史>(→コチラコチラ参照)にこれまた合致しているようですが、やはり産業・経済の急速な発展の時期を経て、2000年前後あたりから「環境・自然・健康」への関心が一気に高まったのではないかと思います。
 メンコンイについても、それまでどんどん棲息地が減少していって、今世紀に入って気がついた時には環境部指定の絶滅危機野生動植物Ⅱ級になっていた、というところでしょうか。
 ※II級は、絶滅の危機に瀕しているⅠ級レベルに次ぐもので、現在の脅威要因が除去されたり緩和されない場合に、近い将来に絶滅の危機に処するおそれのある種のこと。
 先の2回の記事で「中央日報」(日本語版)の記事(→コチラ)を紹介しましたが、その見出しは<ジムグリガエル(メンコンイ)の集団移住>というものです。つまり、宅地造成等でメンコンイの棲息地の湿地等が埋め立てられる時、メンコンイたちも無慈悲に(笑)生き埋めにしたりせず、事前にそこのメンコンイを採集し、他の安全な所に移すというもの・・・、いやそれでオシマイではなく、元の地に新たに湿地を造成し、完成後にまたメンコンイたちを戻す。これでメデタシメデタシとなるわけです。この2010年の記事によると、最初のメンコンイ移住プロジェクトは2006年で、開発業社自らが上記の作業を行ったそうです。「2年間で117匹のメンコンイを採集し「ソウルの森」に移した。移住費だけで3億ウォン。これらジムグリガエルは50億ウォンをかけて造成する再建築湿地に2011年帰ってくる予定」とか、まあずいぶん多額の負担ですね。(移住費だけでも1匹当たり日本円で30万円!?) また労力も・・・。
 それ以外にも、仁川の桂陽山ではメンコンイ保護のためゴルフ場開発が阻止されたようだし、またこの記事が載った頃、漢江ノドゥル島のメンコンイがノウル公園の生態湿地に移住し、漢江芸術島の工事が終わる2014年6月に戻る予定なのだとか・・・、もう戻っているのでしょうね。

 さて、メンコンイ関係の画像の中にあったのがたとえば右のポスターです。2013年ソウル近郊の河南(ハナム)市による<2013メンコンイ学校 メンコンイ救助団募集>のお知らせ。家族単位で120人募集し、市庁の大講堂で室内教育を受け、なんと6月中50㎜の雨が降ったら夜7時から救助活動を行うんですと! →コチラの記事によると同市では環境団体が公園内のマンホールに落ちて溺死寸前のメンコンイや道を横断中のメンコンイの救助活動もしていますよ。

 このようにメンコンイの種の保存が自然環境保全との関連で関心が高まる中、韓国最大の
メンコンイ棲息地として宣伝(?)しているのが大邱市の大明川遊水地で、下画像のような掲示板を設けたり、またここでも子供たちによるメンコンイ救助活動が行われています。

 ※この大明川遊水地のすぐ近くに、琴湖江と洛東江が合流する地点に位置する大邱達成湿地があります。韓国最大の内陸湿地で、多様な植物が見られるほか、アオサギなどの渡り鳥が訪れる所で、なかなか眺望が良さそう。行ってみたくなりました。

 最近の情報では、上述のような保護活動の成果があったためか、メンコンイを絶滅危機野生動植物から除外する動きも出ているようですが、反対の声も強いので今後どうなるかはわかりません。

 以上でメンコンイについての3回続きのシリーズはおしまいですが、第1回の記事でちょっと気になったのが同じ安倍能成のエッセイに出てきた南山蛙というカエルのこと。これもよくわかりませんが、2005年の「東亜日報」に<カエルやサンショウウオを南山に放す>といった内容の記事が見つかりました。(→コチラ.韓国語。) それによると「ソウル市は、生態系が断絶した南山に池など小規模生物の棲息地を造成し、山カエル(サンケグリ.산개구리)5000匹、ヒキガエル(두꺼비)5000匹、サンショウウオ(도롱뇽)100匹等、両生類や爬虫類約1万匹、またリス(다람쥐)も50匹を放した」とのことです。また担当のムン課長は「今後は人工繁殖技術により金カエル(クムケグリ.금개구리)(右画像)まで放す対象にしたい」とも語っています。(※このクムケグリというカエルもメンコンイ同様絶滅危機野生動植物Ⅱ級に指定されています。) もしかしたら、かつて京城にい日本人たちが南山蛙といっていたのはこのサンケグリ、またはクムケグリのことなのかもしれません。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安倍能成がうるさがった「メコン蛙」の正体とその現在[2] 歌を2つ紹介します

2016-02-10 23:55:38 | 韓国・朝鮮関係の知識教養(歴史・地理・社会等)
 2つ前の記事の続きです。前の記事では、安倍能成がエッセイの中にある「だめを押すようにしつこく鳴くメコン蛙」というカエルがジムグリガエル、韓国語でメンコンイ(맹꽁이)というカエルの一種であることを書きました。
 カエルのことは韓国語でケグリ(개구리)といいます。初級レベルで出てくる単語ですね。鳴き声のケグルケグル(개굴개굴)に由来する言葉ですが、鳴き声にはケゴルケゴル(개골개골)とかケグルルルルルル(개구르르르르르르)という表現もあるそうです。「아기는 개골개골 아빠는 개굴개굴(子供はケゴルケゴル お父さんはケグルケグル)」というタイトルの児童書があるところからみると、개굴개굴は「げろげろ」、개골개골は「けろけろ」といったニュアンスでしょうか?
 そういえば「故郷の春」「鳳仙花」の作曲者として知られる洪蘭坡(ホン・ナンパ.홍난파)が作曲した代表的な童謡に「ケグリ」がありますが、その歌い出しも「개굴 개굴 개구리」です。(→動画。ソウル市少年少女合唱団による本格的な合唱は→コチラ。)
 一方、ケグリに対してメンコンイの方の鳴き声の場合はメンコンメンコン(맹꽁맹꽁)。なんでケグリと全然違うのかよくわかりません。
 まあ外国人にしてみれば日本人の耳にはなぜマツムシやウマオイの鳴き声をチンチロリンとかスイッチョと聞こえるのかわからないでしょうが・・・。
 ・・・ということで今回の本論へ。

⑤「メンコンイ打令(맹꽁이타령)」という歌が2つあり、流行歌(新民謡)の方は70年以上親しまれている(かな?)
 先の記事で紹介した「中央日報」(日本語版)の記事(→コチラ)の中で、「ヨルムキムチを漬けるときはあなたのことを思い出して」という歌詞で始まる「メンコンイ打令(タリョン)」という歌が紹介されています。記事では京畿民謡とありますが、正確には最初1938年に作られ、パク・タンマ(박단마)(1921~92)という女性歌手が歌った新民謡で、当時はタイトルも「アイゴナヨ、メンコンよ(아이고나 요 맹꽁아)」だったそうです。この歌は2014年「歌謡舞台」(KBS1)でチョン・スビンが歌ったり(→動画)や、なんだか楽しそうに公園で歌ってる(?)動画(→コチラ)等もあったりして、それなりに歌い継がれてきていることがうかがわれます。
 YouTubeに、最初のパク・タンマの歌があったので貼っておきます。


 現代の歌謡曲と比べると素朴な感じがする歌い方です。「맹이야(メンイや) 꽁이야(コンイや)」とかけ合いのように歌う部分で「メンイや」を高く、「コンイや」は低い声で歌っているのは「メンイ=雌、コンイ=雄」というのがふつうなのかもと思いましたが、それは考え過ぎでした。
 歌詞は「中央日報」の記事によればおよそ次のような内容です。(1番のみ)

  ヨルムキムチを漬けるときはあなたのことを思い出して / 憂いてばかりのこの心情を揺らすのか
  畦のメンコンイよ、お前はどうして泣くのか / 憂いてばかりのこの心情を揺らすのか
  メンよコンよ / お前まで鳴き/ やれやれメンコンよ、どうすればいい


  열무김치 담글 때는 님 생각이 절로나서 / 걱정많은 이 심정을 흔들어주나
  논두덕에 맹꽁이야 너는 왜 울어 / 아~음 걱정 많은 이 심정을 흔들어주나
  맹이야 꽁이야 / 너마저 울어 / 아이고 데고 요,맹꽁이 어이나 하리


 ・・・というわけで、つまりは産卵期のメンコンイの鳴き声に心をかき乱される女性の歌です。

 もうひとつのメンコンイ打令は、京畿道に伝わるフィモリ雑歌(휘모리잡가)という伝承歌謡というかなんというか・・・。まあ聴いてみればおよそわかる、ということで、これも動画を貼っておきます。別に男性3人が座ったまま歌っているものもあって、たぶんそちらが本来の形と思われますが、視覚的に美しい女性のステージの方にしました。


 歌詞は画面隅にありますが、かなりむずかしい感じ。ソウルのいろんな所に住むメンコンイの暮らしぶり(?)をおもしろく描いている感じかな?

 いずれにしても、このメンコンイというカエル、あの昔話(→コチラ参照)で有名な青ガエルには及ばないにしても、昔から韓国の人たちには親しまれてきた生き物のようです。

 このシリーズ、2回だけで終わるつもりだったのですが、さらに全然性格の違うネタがまだ残っているので、もう1回続けることにします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安倍能成がうるさがった「メコン蛙」の正体とその現在[1] メコン川は関係ナシ

2016-02-06 23:55:48 | 韓国・朝鮮関係の知識教養(歴史・地理・社会等)
 鄭大均「日韓併合期ベストエッセイ集」(ちくま文庫)を今読んでいるところです。
 この書名や、在日2世で2004年に日本国籍を取得した著者の意図等について、人によっては問題にするでしょう。(※この本の内容については→コチラ参照。)
 とりあえずそれはおくとして、1910~45年の日本統治下の朝鮮についていろんな人たちがリアルタイムでいろんなことを書いています。(日本に来た朝鮮人が書いたものもありますが・・・。)
 その中で、安倍能成(あべよししげ.1883~1966)が書いた文章が7編あります。安倍能成は1926~40年京城帝国大学教授の職にあり、その当時の朝鮮についていろいろ記していますが、私ヌルボ、これまで読んだ記憶がなく、短いエッセイばかりですが今回興味をもって読むこととなりました。

 その7編の中に「京城の夏」があります。文字通り京城の夏の景物、動植物や人々の衣服等について自然な筆致で書きとどめた、深い観察眼が読み取れる一文です。

 この初めの方に、次のような記述がありました。(・・・と、ここから本論。)

 ・・・・六月になって雉子は聴かないが、閑古鳥はつい二三日前にも聴いた。月の半ば頃に蛙の声を聴いたことがある。それはメコン蛙と呼ばれるもので、日本で聴きつけたのに比べると、その鳴声が如何にも駄目をおすように尻の方にエムファシスが強い。

 「メコン蛙」というのは初めて見ました。後の方にも、南山の斜面に住む人の家で「梟の声を軽く短くしたような・・・・南山蛙の声」を聴き、「朝鮮にはだめを押すようにしつこく鳴くメコン蛙というのも居るが、この南山蛙というのがどういう種類の蛙かは知らない」と記していますが、それ以上は言及していません。

 さて、この「メコン蛙」とはどんな蛙なのか? たぶんないだろうなと思いつつも検索をかけてみると案の定ヒットは皆無。しかし私ヌルボ、若干の手がかりはないでなし。というのは、2012年に書いた<韓国漫画名作100選② 専門家が選んだベスト10>という記事(→コチラ)の中で漫画家ユン・スンウォンによる往年の人気漫画「メンコンイ書堂(맹꽁이 서당)」について書いたことがありました。その説明文(一部略)は次の通りです。

 書堂(学塾)の先生が弟子たちに歴史を教えるという形式の、歴史学習漫画の元祖。 「メンコンイ(맹꽁이)」はアマガエルの一種のジムグリガエル。孔子(コンジャ.공자)と孟子(メンジャ.맹자)の名から1字ずつ取った「孔孟書堂(コンメンソダン.공맹서당)」が本来の書堂の名ですが、それをふざけて逆にしたもの。
       
【「「メンコンイ書堂」第1巻(左)と、富川市・ミュージアム漫画奎章閣にあるメンコンイ書堂の展示物(右)。】
 ・・・ということで、このメンコンイで間違いないですね。もしかして安倍能成センセイ(か、在朝鮮の日本人)はこの蛙をメコン川と関係があると思っていたのでしょうか?

 この「ジムグリガエル」で検索すると、2010年の「中央日報」(日本語版)に<ジムグリガエルの集団移住>と題したおもしろい記事が見つかりました。(→コチラ。原文は→コチラ。)

 実はこの記事にメンコンイについての多角的なネタがほぼ包括されています。以下、順次韓国サイト等で知り得たことも含めて、6つの項目に分けてメモしておきます。

①昔の人も鳴き声に悩まされた!
 安倍能成は「だめを押すようにしつこく鳴く」と控えめに書いてますが、「中央日報」は次のような言い伝えを記しています。
 高麗の時代、契丹軍の侵略を防いだ姜邯賛(カン・ガムチャン)将軍が黄海道海州(ヘジュ)に赴任した時、その地の住民が夜昼かまわず鳴くメンコンイのため眠りにつけず悩まされていた。姜将軍は黄色い護符を取り出し、呪文を唱えて「もう泣かないでくれ」と叫ぶと静かになった。池からメンコンイを引き上げてみたら、口がきけなくなっていたという話。
 ウィキペディアの<アジアジムグリガエル>の項目(→コチラ)によると分布地域は中国南部から東南アジア、インド方面で、日本も韓国も記されていません。こういった地域の人たちはその季節になると大勢不眠症になるのでしょうか? ちょいと探してみたら、バリ島とかカンボジアに行った人が「カエルの鳴き声がうるさい!」と書いてましたね。

②メンコンイという名は鳴き声に由来している。
 1匹が「メン」といえば、他のメンコンイたちが「コン」と答え、まるで輪唱するように「メンコンメンコン」と鳴くところから「メンコンイ」という。
 ・・・ということですが、YouTubeにいくつかある動画から1つ、とくにやかましそうなのを貼っておきます。

 しかし、はたして本当に「1匹が「メン~」といえば、他のメンコンイたちが「コン~」と答え」ているのかどうかは聴き取れないんですけど・・・。もちろん、「メン」となくグループと「コン」となくグループが最初から二分されているのかどうかというのも分かるはずはありません。
 それ以前に、くちびるを閉じてmの音を発音できるわけでもないのに、なんで「メン」と聞こえるのか疑問です。(笑) まあイヌの鳴き声も「モンモン」と聞こえるのが韓国の人たちですから・・・。

     

【地面を這うメンコンイ(ジムグリガエル)。右は1979年発行の切手。】
カエル(개구리.ケグリ)ヒキガエル(두꺼비.トゥッコビ)との違いは、小さめで丸まっこい体。
 体長は4~5㎝程度でヒキガエルと間違えやすいが、頭が短くて体が丸い。黄色の体に青い光あるいは黒い光柄がある。動きが鈍いので、言葉や態度がもどかしい人のことを指して「メンコンイみたいだ」という。
 ・・・両生綱カエル目[無尾目]の、アカガエル上科のヒメアマガエル科に属するれっきとしたカエルの仲間なのですが、足には水かきはなく、蛙跳びはできず、這い回るだけなのだそうです。
 学名はKaloula borealis、英名はNarrow-mouthed Toad(またはBoreal digging frog)なのだそうですが、日本ウィキペディアの<カエル>(→E3%82%A8%E3%83%AB#.E7.B3.BB.E7.B5.B1">コチラ)と、韓国ウィキペディアの<맹꽁이과>(→コチラ)のそれぞれ最下段にある系統樹を対照してもよくわからず。カエルがこんなに細かく分類されているとは知りませんでした。韓国人でもケグリやトゥッコビとの区別がよくわからない人がふつうにいるというのもうなずけます。
 人に対するニックネーム(別称?蔑称?愛称?)としては、バラエティ番組「無限挑戦」(MBC)で共同MCのパク・ミョンスが歌手のイ・ジョクに「メンコンイ」というニックネームをつけて以来それがかなり一般化しているようですよ。(→関係記事。) 顔だか体形だか動作等だか理由までは調べてませんが。
 ※韓国語での各種カエルの名称等を確認しようとあれこれ探したら、<日韓ちゃんぽん>というブログ中に50種以上の両生類・爬虫類の韓国名・和名・学名の対照表というのがありました。(→コチラ。) いやあ、毎度のことながら、どんな分野にも専門家(or専門家ハダシ)がいらっしゃるものです。

④南京錠のことをメンコン錠(맹꽁이 자물쇠)という。
 古代ローマにはすでにあったという南京錠ですが、私ヌルボ、この日本語名は南京虫に形が似ているから(どこが!?)かな?となんとなく思ってきました。(笑) 実は、外国由来のものや珍しいもの、小さいものが<南京>を冠して呼ばれたことに由来するのだそうです。
 では、韓国ではなぜ南京錠をメンコン錠(맹꽁이 자물쇠)というのか? ・・・いやあ、ちょっと調べればわかるかと思ったら、意外に難航してまだわからないのです。錠のことだけになかなか解けない、なんちゃって・・・。 続き(あと1回)までにわかればソチラで書きます。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする