見逃してしまっていた8月14日(水)放映の「NHKスペシャル 知られざる脱出劇~北朝鮮・引き揚げの真実~」を2週間遅れでやっとNHKオンデマンドで見ました。
※実はYouTubeにもアップされています。(→コチラ。)
番組全体は、鳥瞰図的な視点と、個別の事例という「虫瞰図」的な視点という両面で構成されています。
私ヌルボとしては、「知られざる」とは具体的にどういうことを指しているのかに興味がありましたが、それが具体的に語られるのは、番組のちょうど中ほど、慶北大のチョン・ヒョンス(田鉉秀)教授がロシア国防省公文書館で見つけた資料について説明する辺りからです。
※この番組の内容には直接関係ありませんが、チョン・ヒョンス教授は進歩陣営の立場を表明している人で、昨年の大統領選では当初安哲秀、彼が下りてからは文在寅支持を言明していました。
引き揚げについて、鳥瞰図としては、番組の冒頭部分で、1945年8月の敗戦当時海外に400万人近くの日本人民間人がいたことや、うち北朝鮮には20万人以上いたこと、その北朝鮮にいた人たちのほとんどが自力脱出に追い込まれ、3万5千人という多くの人が脱出できずに死亡したことが説明されます。
そして「なぜそのような多くの命が失われたのか?」という疑問が提示されて、その「70年間近く謎とされてきた」ことが、上記の新資料によって「知られざる」裏事情が明らかになった、というわけです。
その「70年間近く謎とされてきた」こととは、要約すれば次のようなことでした。
[チョン・ヒョンス教授によれば・・・]
①ソビエトは早い時期から日本人の状況悪化を把握していた。
(1945年9月に北朝鮮北部で288人の日本人が餓死したとの報告があった。また平壌周辺で毎日のように餓死者が出ていること等も。)
②1946年1月米ソが北朝鮮の日本人についてふみこんだ話し合いをしていたが、ソビエト側は日本人が食べる米の費用をアメリカに押し付けようとして拒否され、アメリカ側は釜山からの帰国船は自分たちが担当するが鉄道輸送はソビエトが担当することを求めたが、これはソビエト側が拒否して協議は決裂した。
[国文学研究資料館の加藤聖文助教が今年3月ロシアで発見した新資料によれば]
③1946年4月、ソビエト外務省の求めで海軍は23万人の日本人引揚げに必要な船の数を6千トンの船50隻と試算。しかしその1ヵ月後、船の用意は海軍ではなく国防省の管轄では、と手紙。こうしたソビエト内部でのやりとりの間、引き揚げはさらに遅延。つまりは、現場でただちに対応・解決できないというソビエトの体制に起因する問題である。
[「初めて見つかった」というアメリカ軍がソビエト軍に送った書簡](←誰がどこで見つけたのかな?)
④北から脱出してきた膨大な数の日本人の保護と輸送にかかる巨額の費用や持ち込まれる伝染病に苦慮したアメリカ軍は、ソビエト軍に38度線を厳しく封鎖することを求めた。そして6月上旬には1日4800人を超える日もあった北からの日本人ま数は6月下旬には激減し、わずか2人という日も。
その後アメリカ軍は、ソビエト軍に「協力的な行動に感謝を表明」する手紙を送っている。
・・・最近明らかになったこととはいえ、ソビエトについては「さもありなん」といったところです。しかし、アメリカがソビエトに38度線封鎖の強化を求めていたというのはオドロキでしたね。
しかし、考えてみれば「人道」とか「良識」とかを全面に掲げていたとしても、およそ国としては費用や軍事・外交等の国益が最優先であることは今も変わりはないでしょう。
当時の日本政府も、大量の日本人が海外から引き揚げてきたら、国内の仕事や食糧や住宅等々の問題が一層深刻化するということで「北朝鮮の日本人保護に積極的に動かなかった」とのことで「現地で共存してほしい」(!)(←内務省の文書)などという方針を打ち出したとか・・・。
北朝鮮からの引き揚げについては、本ブログでも2011年4月の記事<駒尺喜美「雑民の魂」を読む - 五木寛之の強烈な朝鮮原体験(3)>で書きました。
そこで私ヌルボ、それがとくに苛酷だった理由を3つあげました。
①8月8日の宣戦布告以降「満州」・朝鮮北部に侵攻してきたソ連軍により多数の日本軍人が抑留され、ロシア人兵士による略奪、放火、殺人、暴行、強姦のような蛮行が甚だしかった。現地の朝鮮人に保護された日本人もいた一方、一部朝鮮人による暴行や家財略奪の事例も多い。
②南朝鮮ではアメリカ軍政による計画輸送により1946年3月にほぼ引き揚げを完了したのに対し、北朝鮮ではソ連軍が38度線を封鎖して公然の南下を許さなかった。そのため多くの日本人は命がけで38度線を越えなければならず、その過程で多くの犠牲者を出した。
③捕虜収容所に収容された日本人たちは、ふとんや衣服も不十分な中で、零下20度以下にもなる厳寒の冬を越さなければならず、また発疹チフスの大流行によっても多くの犠牲者が出た。
これらについてもこの番組で説明されていましたが、新たに次の次の項目を追加します。
④日本人の状況を知りながらも、軍や政府の内部の問題で速やかな引き揚げを行わなかったソ連の責任は非常に大きく、また日本政府も積極的に手を差しのべることなく、アメリカ軍の対応も不十分で、大多数の日本人は自らの判断、自らの体力・精神力で帰国を試みるしかなかった。
続きでは、「個別の事例という「虫瞰図」的な視点」について書く予定です。
※実はYouTubeにもアップされています。(→コチラ。)
番組全体は、鳥瞰図的な視点と、個別の事例という「虫瞰図」的な視点という両面で構成されています。
私ヌルボとしては、「知られざる」とは具体的にどういうことを指しているのかに興味がありましたが、それが具体的に語られるのは、番組のちょうど中ほど、慶北大のチョン・ヒョンス(田鉉秀)教授がロシア国防省公文書館で見つけた資料について説明する辺りからです。
※この番組の内容には直接関係ありませんが、チョン・ヒョンス教授は進歩陣営の立場を表明している人で、昨年の大統領選では当初安哲秀、彼が下りてからは文在寅支持を言明していました。
引き揚げについて、鳥瞰図としては、番組の冒頭部分で、1945年8月の敗戦当時海外に400万人近くの日本人民間人がいたことや、うち北朝鮮には20万人以上いたこと、その北朝鮮にいた人たちのほとんどが自力脱出に追い込まれ、3万5千人という多くの人が脱出できずに死亡したことが説明されます。
そして「なぜそのような多くの命が失われたのか?」という疑問が提示されて、その「70年間近く謎とされてきた」ことが、上記の新資料によって「知られざる」裏事情が明らかになった、というわけです。
その「70年間近く謎とされてきた」こととは、要約すれば次のようなことでした。
[チョン・ヒョンス教授によれば・・・]
①ソビエトは早い時期から日本人の状況悪化を把握していた。
(1945年9月に北朝鮮北部で288人の日本人が餓死したとの報告があった。また平壌周辺で毎日のように餓死者が出ていること等も。)
②1946年1月米ソが北朝鮮の日本人についてふみこんだ話し合いをしていたが、ソビエト側は日本人が食べる米の費用をアメリカに押し付けようとして拒否され、アメリカ側は釜山からの帰国船は自分たちが担当するが鉄道輸送はソビエトが担当することを求めたが、これはソビエト側が拒否して協議は決裂した。
[国文学研究資料館の加藤聖文助教が今年3月ロシアで発見した新資料によれば]
③1946年4月、ソビエト外務省の求めで海軍は23万人の日本人引揚げに必要な船の数を6千トンの船50隻と試算。しかしその1ヵ月後、船の用意は海軍ではなく国防省の管轄では、と手紙。こうしたソビエト内部でのやりとりの間、引き揚げはさらに遅延。つまりは、現場でただちに対応・解決できないというソビエトの体制に起因する問題である。
[「初めて見つかった」というアメリカ軍がソビエト軍に送った書簡](←誰がどこで見つけたのかな?)
④北から脱出してきた膨大な数の日本人の保護と輸送にかかる巨額の費用や持ち込まれる伝染病に苦慮したアメリカ軍は、ソビエト軍に38度線を厳しく封鎖することを求めた。そして6月上旬には1日4800人を超える日もあった北からの日本人ま数は6月下旬には激減し、わずか2人という日も。
その後アメリカ軍は、ソビエト軍に「協力的な行動に感謝を表明」する手紙を送っている。
・・・最近明らかになったこととはいえ、ソビエトについては「さもありなん」といったところです。しかし、アメリカがソビエトに38度線封鎖の強化を求めていたというのはオドロキでしたね。
しかし、考えてみれば「人道」とか「良識」とかを全面に掲げていたとしても、およそ国としては費用や軍事・外交等の国益が最優先であることは今も変わりはないでしょう。
当時の日本政府も、大量の日本人が海外から引き揚げてきたら、国内の仕事や食糧や住宅等々の問題が一層深刻化するということで「北朝鮮の日本人保護に積極的に動かなかった」とのことで「現地で共存してほしい」(!)(←内務省の文書)などという方針を打ち出したとか・・・。
北朝鮮からの引き揚げについては、本ブログでも2011年4月の記事<駒尺喜美「雑民の魂」を読む - 五木寛之の強烈な朝鮮原体験(3)>で書きました。
そこで私ヌルボ、それがとくに苛酷だった理由を3つあげました。
①8月8日の宣戦布告以降「満州」・朝鮮北部に侵攻してきたソ連軍により多数の日本軍人が抑留され、ロシア人兵士による略奪、放火、殺人、暴行、強姦のような蛮行が甚だしかった。現地の朝鮮人に保護された日本人もいた一方、一部朝鮮人による暴行や家財略奪の事例も多い。
②南朝鮮ではアメリカ軍政による計画輸送により1946年3月にほぼ引き揚げを完了したのに対し、北朝鮮ではソ連軍が38度線を封鎖して公然の南下を許さなかった。そのため多くの日本人は命がけで38度線を越えなければならず、その過程で多くの犠牲者を出した。
③捕虜収容所に収容された日本人たちは、ふとんや衣服も不十分な中で、零下20度以下にもなる厳寒の冬を越さなければならず、また発疹チフスの大流行によっても多くの犠牲者が出た。
これらについてもこの番組で説明されていましたが、新たに次の次の項目を追加します。
④日本人の状況を知りながらも、軍や政府の内部の問題で速やかな引き揚げを行わなかったソ連の責任は非常に大きく、また日本政府も積極的に手を差しのべることなく、アメリカ軍の対応も不十分で、大多数の日本人は自らの判断、自らの体力・精神力で帰国を試みるしかなかった。
続きでは、「個別の事例という「虫瞰図」的な視点」について書く予定です。