ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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ドキュメンタリー映画「ワンダーランド北朝鮮」のあれこれ [その2]「美しい映像を撮りたかった」と監督は語ったが・・・

2018-05-27 23:44:52 | 韓国・北朝鮮に関係する映画
 → <ドキュメンタリー映画「ワンダーランド北朝鮮」のあれこれ [その1]北朝鮮の普通の人々と1対1で対話し、暮らしや仕事等を自然に撮る。 しかし、「疑念」もフツフツ・・・・>

「ルールさえ守れば安全な国」と監督。しかし、その「ルール」をどう考えるのか?

 先の記事でも書いたように、映画を観終わった時の印象は良かった方でした。ところが、その後シンポジウムでチョ・ソンヒョン監督の話を聞くうちに疑問が膨らんでいきました。
 とくに問題に思った発言を2つ紹介します。

 監督が「ふつうに生活している人々を撮りたかった」という意図に続いて語ったのは、撮影の事前打ち合わせのため北朝鮮を初めて訪れた前後のこと。で、実際に現地に降り立った時、まず目に入ったのは軍人たちの姿。他の同行者たちは先に行ってしまった1人残されたそうですが、入国審査のやり取りは、Q.どこで生まれましたか? A.プサン。Q.今は? A.ドイツで暮らしています。・・・と、それだけでOKだったそうです。
 事前に、周りの人たちからは「抑留されるよ」と言われたりしたそうですが、実際行ってみた感想は「ルールさえ守れば安全な所」というものでした。
 「郷に入っては郷に従え」ですから、それは当然。ところが、監督は続けて次のように言ったのです。
 「たとえば、サウジアラビアに行ったら「女性の肌の露出はダメ」といったルールのような・・・。」

 北朝鮮では、外国人旅行者が行ける所は限られているし、常に<案内員>が2人ついて回ります。
 外国人ばかりか、北朝鮮の一般の人たちも外国に行けないどころか、国内でさえも居住地域から離れる場合は通行証が必要で、それも親戚訪問等の理由がないと認められません。(危篤の母の家にかけつけようとしても認められなかったという脱北者の手記を読んだこともあります。)
 そのような<ルール>がはたしてイスラム国家の<女性の肌の露出はダメ>ということと同様のものとは、私ヌルボには思えません。
 「ふつうの人々の自然の姿を撮りたい」という監督の意図はわかるもものの、撮影に際して批判的視点をも封印して、あるものをあるがままに撮り、「ありのままを見て考えてくれればよい」と判断は観た人に丸投げするというのは、ドキュメンタリー映画の監督としての主体は奈辺にあるのかと問わざるをえません。(そもそも、撮影した映像というのも現場の一部を意識的・無意識的に「切り取った」ものなので、厳密な意味で「ありのまま」の映像はありえない。)
 ※ここで思い出したのが想田和弘監督の<観察映画>のことです。予断と先入観を排除して撮るというそのドキュメンタリーが実に厳しい方法論によって制作されているかは、本人による<観察映画の十戒>(→コチラ)を読めばわかります。(この方法では北朝鮮で撮ることはできませんが。)

「美しい映像」、「感じのいい人」を撮りたいという監督の意図からふるい落とされるもの

 取材対象者の1人に、万寿台(マンスデ)創作社の画家がいました。彼は紡織工場に足を運び、女性労働者にポーズをつけて写真を撮り、作業場でその写真を元に絵を描き進めるのですが、顔の部分だけは別の所で撮ったテニスをしている女性の顔に代えるのです。(この場面では、会場から笑い声が起こりました。) 「美人じゃないのが現実では?」との問いかけに、画家は「見苦しいものは描く気になりません」と、なんとも率直な返答。
 このことに関連して、シンポジウムの中でイ・ヒャンジン教授から監督に次のような質問がありました。
 画家が美人画に変えたことと、監督が「登場人物(主な取材対象者)を代える権利がある」と言って感じのいい人に代えたこととは同じではないですか? それだとステレオタイプになるのでは?
 私ヌルボ、これは鋭い指摘だと思いました。
 これに対し、監督は「きれいな顔に描くことに腹を立てる人はいない」とか、「北朝鮮は美しさを追求する社会だということが理解されればいい」等と答えていましたが、なんでそんなにも甘い見方ができるのでしょうか?
 では、北朝鮮で「美しくないもの」を撮ったり絵に描いたりすることがどれほど可能なのか? 監督も実は承知しているはずだと思いますが・・・。カメラマンの初沢亜利さんは北朝鮮を撮った写真集「隣人。38度線の北」の後書きの中で「本当は、トラックの荷台に乗っている人や牛車を押している人、路上でしゃがみ込んでいる群衆を撮ってほしくない、と思っていることが彼の背中から伝わってきた。」と記しています。
 そんな「感じのいい人」や「美しい映像」ではないものに監督はどれだけ目を向けようとしたのでしょうか? それは対象をより深く理解する姿勢であ姿勢であって、「北朝鮮に対する悪意」といったような皮相的なものではないはずです。「この映画は北朝鮮のいい所だけを見せているのでは?」という質問に対し、監督が「コチラは「お客さま」ですから」と答えているのも甘いな~といった感が否めませんでした。(前出の「甘い」もそうですが、これは北朝鮮に対する甘さではなく、ドキュメンタリー映画の監督としてのことです。)

北朝鮮側の担当者・同行者との信頼関係はうかがわれる

 監督の撮影には、高麗映画製作会社、万寿台創作社等の人たちがずっと同行したとのことです。
 ところが、実際にインタビューする段となると、彼らがいるため取材対象者の言葉がなかなか出てこないという事態になったとか。(まあ、そうでしょう。) そこで監督が求めたのは彼らに席を外してもらうこと。「このままだと「北側の人たちはみんな馬鹿か?」と思われてしまいます」と主張し、最後には「<祖国と民族のために>席を外してください」と言って、結局認められたとのことです。
 この話を聞いた時、<祖国と民族のために>と言ったのは要求を容れてもらうための方便と思ったのですが、どうも監督の本心でもあったようです。

  先に「訪朝した外国人には常に<案内員>が2人ついて回る」と書きました。
 基本的に<案内員>ガイド兼監視役で、2人いるのは相互監視のためですが、→コチラの詳しい記事の中にも「数多い制限の中で最大限の努力をしているように思う」とあります。また上述したように初沢亜利さんの案内員氏が内心「撮ってほしくない写真を「黙って撮らせてくれた」のも、案内員氏が初沢さんに「それでもみんな懸命に生きている。初沢さんだったらそれを悪いなく伝えてくれると私は信じました。・・・もしかしたら写真集が出ることによって私は職を失ってしまうかもしれません。私はもう老いぼれだから良いのですが・・・」と直接語ったほどの信頼関係ができていたことを物語っています。(<祖国と民族のために>という言葉よりも深い所で通じ合ったものがあった、とヌルボは思います。)

 当初1回読み切りの記事のつもりで書き始めたら、この[その2]でも収まらず。あと1回続きます。やれやれ。
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ドキュメンタリー映画「ワンダーランド北朝鮮」のあれこれ [その1]北朝鮮の普通の人々と1対1で対話し、暮らしや仕事等を自然に撮る。 しかし、「疑念」もフツフツ・・・・

2018-05-18 18:14:09 | 韓国・北朝鮮に関係する映画
 5月12日(土)、立教大学で開かれたシンポジウム「北朝鮮とコリアン・シネマ」に行き、そこで上映された映画「ワンダーランド北朝鮮」を観てきました。ドイツ国籍の韓国人女性チョ・ソンヒョン監督によるドキュメンタリーです。

 北朝鮮を撮ったドキュメンタリーでは、まず「金日成のパレード ~東欧の見た“赤い王朝“~」(1989年/ポーランド)が最初に広く話題を呼んだ作品でした。1988年9月の建国40周年を祝う100万人の大パレードの模様を「そのまま撮った」ものですが、北朝鮮当局の意に反して、そのマスゲームとパレードの映像から外の国の大多数の観客が感じたのは、これほどまでに統制された国家の異様さでした。
 近年で注目されたのは「太陽の下で-真実の北朝鮮-」(2015年)です。ロシアのスタッフが平壌で暮らす少女の一家に密着してドキュメンタリーの撮影を進めるうち、その一家(実は本当の家族ではない)が北朝鮮のシナリオに沿って演技をしていることが明白になり、以後はカメラのスイッチをonにしたまま置き去りにして撮り、その虚構の<北朝鮮の平均的家族の日常>を暴き出した作品です。


「北朝鮮もハードルが低くなったのかな?」と思ったが、監督さんの話を聞いたら・・・

 これらのある種<異様な>ドキュメンタリーに対し、「ワンダーランド北朝鮮」は内容も雰囲気もまさに対照的です。平壌だけでなく、むしろ地方の都市や農村での撮影が多く、また監督自身が現地の人と1対1で<自然に>話をしています。
 将子江(チャンジャガン)人民遊園地のプール監視員の青年とその家族、美谷(ミゴク)共同農場の農場員(農民)は家の中までいろいろ説明してくれてます。元山市の縫製工場の女性労働者とは一緒に元山の松涛園海水浴場(ただしオフシーズン)を一緒に歩きながら、将来の夢などを聞き出しています。(あ、松涛園海水浴場は、私ヌルボ1991年に行ったゾ。)
 そういうドキュメンタリーなので、観終わった時点での私ヌルボの印象は、「淡々と、穏やかに北朝鮮の景物をとり話を聞いた映画だな。北朝鮮側は「これはダメ!」というハードルをさげたのかな? 監督としてはもっと聞きたい話もあったのだろうけど、それは「寸止め」にしたんだろうな」といったものでした。
 ところが、上映後チョ・ソンヒョン監督のトークを聞いて、この作品についての疑問の多くが氷解するとともに、一方で別の疑念がフツフツとわき起こってきました。その後メモを元に細部を検証してみると、疑念はさらに膨らんでいきました。


「<ふつうの>北韓の人」というだけで韓国人がプラスイメージを持つ理由

 シンポジウムでは、チョ・ソンヒョン監督の他、主催団体の立教大学異文化コミュニケーション学部の浜崎桂子学科長、今年2月刊行された「コリアン・シネマ」(みすず書房)という大部の著者イ・ヒャンジン教授、同書の翻訳を担当した武田珂代子教授(司会)、そして通訳の方の計5人がステージに上がりました。このような全員が女性というシンポというのは私ヌルボ、初めてです。

 チョ監督が最初に語ったのは、上述のような<異様な>姿ではない、ふつうの北朝鮮を撮りたかったということでした。それにしても、釜山生まれの監督が北朝鮮で映画制作を⾏うため韓国籍を放棄してドイツ国籍を得て北朝鮮に⼊国したとは、たいした情熱です。
 「북한에서도 보통 사람이 살고있다.」(北朝鮮でもふつうの人が暮らしている。)
という言葉が監督の口から出てきました。

 私ヌルボの個人的な記憶がよみがえります。
 1992年夏、最初の韓国旅行。関釜連絡船から降り立った日、釜山の竜頭山公園に行った時、話しかけてきた韓国人と(日本語で)いろいろ話をした中で、ヌルボが「実は私、去年北韓に行ってきたんですよ」と言ったら、彼は別に驚くでもなく「北韓でもふつうの人々が暮らしているということですよ」という言葉を返してきました。なぜか気になったその言葉の背景がわかってきたのはかなり後でした。
 つまり、軍事政権の時代、反共教育の中で育った韓国人たちにとっては、北朝鮮の人は「悪魔といったイメージ」(イ・ヒャンジン監督)だったのです。「えっ、そんなお年なの?」と意外に思って後で探索したら1966年生まれでした。
 したがって、韓国人たちが、ふつうに話をし笑ったりする北朝鮮の人を見た時の反応も、特別なものがあるように思います。4月27日の南北首脳会談で金正恩委員長が「文大統領が、遠くから運んできた平壌冷麺をゆっくりと・・・。遠くからってのは、言っちゃまずかったか。とにかく美味しく召し上がっていただければ幸いです」などと語ったことだけでも彼の評価が急上昇したのも、そんな過去の反共教育も逆に作用したのではないでしょうか?
 ※関連過去記事 →<韓国歴史博物館で見た往時の反共展示物>


撮影地や取材相手の大枠は北朝鮮側が提示

 監督によると、事前にまず海外で作られた北朝鮮を撮った映画をすべて観た上、撮影に入る前に4回北朝鮮を訪れて打合せをしたとのことです。
 その際、「先手を打って提案した」という条件は次のようなことでした。
  ①「若い人」を主な取材対象とする。
  ②平壌ではない、地方の農家を取材する。
  ③港町の工場労働者に取材する。


 これらの提案は「細かいところまで同意された」そうです。
 取材対象者の「青年」については、当初金日成総合大学の教員や平壌国際サッカー学校の先生等が北朝鮮側から提示されましたが、結局大規模な遊園地のプール監視員の青年を監督が現地で選びました。基準はイケメン(!)とのこと。感じのいい独身青年です。
 元山の縫製工場の女性労働者の場合も、北朝鮮側推薦の女性はとても恥ずかしがり屋さんだったのでダメ出しをし、現地で「イメージに合う人」を2人推薦してもらって、うち1人を選んだとのことでした。
 こうした「作為」に対して、ドイツでは「個人的な尺度で撮るとはフェアではない!」との批判も出たとか。


北朝鮮当局が<見せたい所>はちゃんと入っている

 次に、地方の農家や、港町の工場その他、撮影地となった施設等について具体的に見てみましょう。
  ・将子江(チャンジャガン.장자강)人民遊園地(江界市)
  ・平壌国際サッカー学校
  ・金正淑平壌紡織工場

 これらは共に金正恩の時代になって建設された施設です。

 将子江((장자강.チャンジャガン)人民遊園地(江界市)は、韓国でもまだ大きくは報じられていないようです。韓国の脱北者新聞ニュー・フォーカス(代表:チャン・ジンソン)の2014年1月の記事(→コチラ)によると、前年(2013年)6月に江界市を訪問した金正恩が将子江の河畔に憩いの場を造るようにとの「貴重な教え」と、必要な建設資材を優先的に確保するように「温情深い措置」により、短い期間で完成したこと、金正恩がその報告を受けて喜びび、遊園地の名前までつけたことを「労働新聞」の記事に拠って伝えています。敷地面積は1万8千㎡で、ローラースケートリンク、バスやバレーボールのコート等々の施設などが整っているとも。
 「ワンダーランド北朝鮮」では、大規模なプールが大勢の人でにぎわっているようすが映されていました。個人的には、いろんな動物の人形(造形物)が韓国のものとよく似ていて興味を持ちましたが、それらは画像検索しても見つからないのが残念です。
 しかし、上記のイケメン青年が「1日に2万人が来場する」と説明していたのはホンマカイナ?といったところ。その彼がパソコンで仕事をしていたり、監督の「電気は?」との質問に待ってましたとばかり(?)「地熱を利用しています」と答え、「軍人たちが苦労して掘ったんですよ」等説明を加えていました。また「ある時、夜3時(!)に元帥様(金正恩)がいらっしゃったのですよ!」と弾む声でエピソードを話しています。「ここは、元帥様の愛と情熱(だったかな?)が感じられる場です」という言葉も、たしかに丸暗記などではない「自然さ」で発せられていたと思います。

 平壌国際サッカー学校は2013年5月に設立されました。日刊SPAの記事(→コチラ)によると、スカウト制で全国から選抜された(その時点で)8~15歳の男女生徒120人が在籍しているそうです。全員が全寮制で、最終目的は国家代表の選出だとのことです。この学校については、共同ニュースの動画(2013.→コチラ)や、ANNnewsの動画(→コチラ)でうかがい見ることができます。

 「地方の農村」として撮影地とされたのは平壌と板門店の中間にある美谷(미곡.ミゴク)共同農場(沙里院市)です。これも日本語のネット情報はほとんどありませんが2010年の時事ドットコムニュースの中に→コチラなど4枚の写真が見つかりました。
 そのキャプションには、この農場は「機械化農業のモデル農場」で、「今年(2010年)から有機農法を導入。除草剤代わりになる朝鮮タニシの養殖を始めた」こと、「昨年目標にしていた1ヘクタール当たり10トンの米の収穫を実現した」こと、「集合住宅から2LDKか3DKの戸建て住宅に変更が進んでいる」ことが記されています。
 「ワンダーランド北朝鮮」では、農場員が1人だけでコンバインで一気に収穫作業を終えるようすが撮られていました。
 監督はその中で「大勢でにぎやかに作業するものと思っていました」と驚いたように話していましたが、上記のような予備知識はなかってのでしょうか?
 なお、監督の「余ったお米はどうするのですか?」という問いに、「<愛国米>として国に捧げます」という答えが返ってきました。この<愛国米>ですが、監督はもしかして初耳だったのでしょうか? 北朝鮮ではすでに1970年代から食料不足に直面し、その中で一部の農民が自発的に国に収めた<愛国米>がその後積極的に奨励され、さらには人民に供与すべき規定の配給米まで最初から差し引かれるいていました。

 こうして見てみると、撮影場所はほとんど例外なく北朝鮮側が今=金正恩時代に宣伝したいことに直結した所だということがわかります。ということは、これらの施設や農場は北朝鮮の中で決して<ふつう>の場所ではないと言えます。
 そうした点で、プロパガンダ臭が感じられるのはむしろ当然です。ただ、そうしたことを監督自身がどう意識していたか(orしていなかったか)はわかりません。

 この先まだまだ続きそうなので、続きは[その2]で、ということにします。もしかして、いつものヌルボと違って(?)ハッキリとした主張を書くかもしれません。(・・・という書き方自体ハッキリしてないですね。)

 中休みとして作中でも流されていた北朝鮮歌謡「이 땅에 밤이 깊어갈 때(この地に夜が更けゆく時)」の動画を貼っておきます。金正恩の賛揚歌ですが、軍歌調ではなく、美しいメロディのうたで、私ヌルボも気に入りました。もちろん歌詞を除いてです。※歌詞と日本語訳は→コチラ

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北朝鮮の女の子の日常ではなく、北朝鮮当局の「ヤラセ」を暴露してしまったドキュメンタリー「太陽の下」

2016-05-03 23:32:15 | 韓国・北朝鮮に関係する映画
 4月27日、韓国でロシア・ドイツ・チェコ・ラトヴィア・韓国合作のドキュメンタリー太陽の下(韓国題:태양 아래.英題:Under the Sun)が世界で初めて公開されました。
 ロシアのヴィタリー・マンスキー監督が北朝鮮の8歳の女の子ジンミとその家族の日常>(??)を撮ったドキュメンタリーで、1ヵ月ほど前に開かれた<香港国際映画祭2016>のヤング・シネマ・コンペティション部門で審査員賞を受賞した作品です。ところが、その内容というのが北朝鮮当局の露骨な<ヤラセ>をそのまま映し出したものとなって話題となり、また問題にもなっています。
 私ヌルボ、昨年12月の<デイリーNK>の記事(→コチラ)を読んでこのドキュメンタリーのことを知りました。最近では、公開前日の4月26日の<聯合ニュース>にも記事(→コチラ)が載っていました。また、いつも重宝している<海から始まる!?>の記事(→コチラ)にもこの作品について詳しく記されています。
 これらを総合するとおよそ以下の通りです。
 ドキュメンタリーの(本来の)内容は、上記のように女の子ジンミちゃんとその両親という「平壌では一般的な」家庭の日常を描くというもの。ジンミが共産主義青年団に入り、太陽節(金日成の誕生日)の行事を準備する過程等が撮影されるというものだったのですが・・・。(※ある記事では光明星節(金正日の誕生日)の行事とありましたが、違うみたいかな?)
 マンスキー監督と北朝鮮当局の共同制作で、台本は北朝鮮が自由に変更できるようにし、ロケの場所も当局が選定して関係者の指導のもとに撮影され、すべて検閲を受けることとして撮影スタート。
 しかし問題は映画の全シーンが北朝鮮当局により演出されたもので、ジンミの父親が縫製工場の技術者、母親が豆乳工場の労働者という<模範的労働者>というのはウソジンミ一家が住んでいる平壌の新しいマンションも当局が用意した偽物。おいしそうな夕食ははたして<日常>なのか?
 監督は平壌に1年間滞在する中で徐々に考えが変わり、そして「ある手法」を使ってすべてを暴露することを決意します。その手法とは「カメラの録画スイッチを入れたまま放置する」こと。その結果、シーンの中に唐突に当局の人間だかが登場して撮り直しを要求する場面も映し出されています。あるいは出演者のセリフ、座る場所、微笑むタイミングなどを事細かく指導しているシーンなども。
 また、北朝鮮の担当者が金日成と金正日の銅像に捧げられた花を無造作に撤去するという舞台裏まで暴露したのは彼にとって「処刑されかねない」大問題、というのはマジでその通りでしょう。監督は、「真の北朝鮮の姿を込めた映画を撮りたかったが、あの国には我々の考えるような日常の風景は存在せず、あったのは『日常の風景というイメージ』だけだった。そこで私たちはその『嘘の真実』を映画にした」と述べたそうです。
 この作品の上映については当然北朝鮮が反対し、また資金を提供したロシアからも抗議が出ているそうです。

 これまでの北朝鮮のもろもろから考えると、とくに意外なこと・驚くことでもなく、「やっぱりなー」といったところです。しかし、慣れっこになってしまってはいけないと思います。公開処刑等々、かの国では「当たり前」になっているようなことでも、大多数の国同様に許してならないことは許してはならないのですから。

 ポーランドのアンジェイ・フィディック監督によるドキュメンタリー「金日成のパレード 東欧の見た“赤い王朝”」が注目されたのは1989年でしたが、この「太陽の下」は直接北朝鮮の体制の問題点を映し出している点がキモですね。
 日本でも上映してくれないかな?

※この映画の予告編がYouTubeにあったので貼っておきます。


2016年8月26日の追記
 本作品が「太陽の下で -真実の北朝鮮-」という邦題で2017年新春シネマート新宿等で公開されることが決まりました。

2016年10月11日の追記
 「太陽の下で 真実の北朝鮮」が2017年1月21日から東京・シネマート新宿、大阪・シネマート心斎橋ほか全国で順次公開されることが決まりました。。
コメント (2)
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ドキュメンタリー映画「李藝 最初の朝鮮通信使」、観客多数

2013-06-10 23:42:38 | 韓国・北朝鮮に関係する映画
 いやー、こんなに混んでいるとは思いませんでしたね。
 ヒューマントラストシネマ有楽町で、朝10:00から1度だけの上映で、ざっと数えたところ80人くらい。あ、6日(木)の話です。

 「李藝 最初の朝鮮通信使」という、勉強にはなりそうですが、娯楽性はまず期待できなさそうな映画なので、こんなに大勢の人が観に来るとは予想外でした。(私ヌルボの観に行く映画の観客数は平均15人くらいなので・・・。)

 この映画は、金住則行の著書(映画と同じ書名)が原作です。内容は、タイトルそのままに、最初の朝鮮通信使、つまり、1428年(正長元年)に足利義教の将軍就任に際して来日する等、43年間に40数回も日本や琉球に渡った李藝(이예.イエ.1373~1445)という世宗の時代の外交官の紹介と、彼のたどった対馬~京都の路程の要所要所を、ナビゲータ―として俳優ユン・テヨンが訪れるというもの。

 あ、「要所要所」というのは、具体的にはパンフに地図が載っていますが(下の画像)、①対馬に博多③下関④下蒲刈(呉市)⑤三原市⑥鞆の浦(福山市)⑦牛窓⑧室津(たつの市)⑨神戸⑩大阪(竹林寺)⑪京都(大聖寺・等持院)
 (あら、三原市(筆景山)とか竹林寺とか映ってなかったんじゃないの!?)

    
     【④~⑧は、行ってみたいと思いつつ、行ってないとこばかり。】

 しかし、鞆の浦といい室津といい、映像で見るかぎり瀬戸内の昔からの港町の佇まいというのはどこも似た感じです。狭い石畳の坂道等々。
 それら通信使ゆかりの町のお寺や、そこに伝えられている遺物等についてもいろいろ紹介されていましたがここではすべて省略します。

 ユン・テヨン氏、空いている鈍行列車の車内で、彼に気づいた韓流オバサンたちからサインを求められたり、お返しに吉備団子をもらったりしたのは、撮影にご協力したというJR西日本ロケーションサービスの情報によると「赤穂線で邑久駅に向かう車内」だったのかな? 他のところではちゃっかりハグをしてもらっちゃったオバサンもいて、いやー、けっこう知られているんですねー。
 この映画館の入りも、もしかしてそういうオバサマ方が大勢来てらっしゃるから? 映画を観たちょっと後に、韓流ファンのオバサマ方と話をしたら、顔は知ってるというレベルの方から「サムソンの副社長の息子で・・・」ということまでご存知の方までバラツキはあるものの、私ヌルボが思っていた以上に知名度は高いみたい。全然知らなかったという方は→ウィキペディア参照。手っ取り早く言えば、ドラマ「太王四神記」で主演のヨン様の敵役として知られるようになった俳優です。

 映画のパンフの最初の8ページは、各地で撮られた写真ばかり。(下の画像) それも「なんだ!? ユン・テヨンの写真集か?」と思ったくらい。

      
  【どういう所を訪れたかは一応わかるようにはなっています。】

 しかし、その後のページを見てみると、李藝や通信使についてのずいぶん詳細な解説がついていたりして・・・。
 っっと、あれれっ! 解説を書いているのは私ヌルボもよ~く知っているN先生ではないですか!! そーか、先生はかつて李藝について論文を書いたという、まさにご専門だったんですよね!?

 また、この映画では、在日韓国大使館の企画による「第3期SNSリポーター」として2012年夏韓国を訪ねた日本人大学生約20人の5日間の旅のようすも挿入されています。
 ソウル、聞慶(ムンギョン)、星州(ソンジュ)のチャメ(マクワウリ)畑、慶州、蔚山(ウルサン)、釜山、利川とは、ずいぶんせわしない旅だなー。
 釜山外国語大学の学生たちとの懇談会では、(案の定)「独島問題」を話題にされたりして・・・。「私たちは過去に被害を受けたという気持ちを忘れていない」と言う韓国の学生に対して「被害者意識をいつまでも持っていたら日本を超えられないと思います」という日本の学生の発言もあったりして・・・。ここらへんはどうも苦心して編集したんじゃないかな?
 そういえば「毎日新聞」の記事等によると、2011年12月に始まった撮影は両国関係の悪化で公開のめどが立たなくなり中断し、スタッフの人件費などが膨らんだため、ホームページなどで寄付を呼びかけりして日韓両国から約2000万円が集まったとか・・・。その間、映画の中身にも手を入れたようです。・・・というようなこともあって、当初の予定より4ヵ月遅れて公開に至ったとのことです。

 上記第3期SNSリポーターの皆さんによる韓国探訪の動画記録はYotubeにupされています。<芸術班>は→コチラ、<生活班>は→コチラ、<宗教班>(←ネーミングと内容が合ってないような・・・)は→コチラです。

 映画の冒頭で、SNSリポーターの皆さんが訪れた聞慶のセジェと、蔚山の石溪書院が映されていました。
 石溪書院のことは全然知りませんでした。李藝の出身地蔚山で、彼が祀られている施設です。(→参考(韓国語)。)
 2012年1月にはここで日韓同時発売されたこの映画の原作小説の奉呈式が行われ、著者・金住則行、本映画プロデューサー・益田祐美子両氏等が参加しました。李藝の第18代子孫という李秉稷(イ・ビョンジク)氏は蔚山韓日親善協会の会長とのことで、映画にも登場しています。
 李藝という人は韓国でもそんなに有名ということでもないような・・・。(少なくともユン・テヨン氏はご存知なかった。) 韓国ウィキペディア(→コチラ)にはそれなりに説明されていますが・・・。2005年に韓国文化観光部が今月の文化人物に、また 2010年には外交通商部が今年の外交人物に選定してます。

 聞慶(ムンギョン)は慶尚北道の北西端の市で、北の峠を越えれば忠清北道の忠州方面です。地理的に韓国の真ん中。そういえば、今読んでいるハン・ビヤさんの韓国徒歩縦断記録「風の娘、わが地に立つ」でも、半島南西端のタンクッから北東端の統一展望台までの道のりのちょうど半ばのこの聞慶で、ハン・ビヤさん一旦旅行を中断して、TVの録画撮り等のため数日ソウルに行ったりしてましたね。韓国の短い方の対角線・ソウル~釜山のほぼ真ん中でもあります。

     
   【聞慶の位置や、関門の写真もパンフに載っています。】

 さて、その峠というのが昔から難所として知られるセジェ(새재)。鳥(새)も越えられない峠(재)という意味だとよく言われていますが、他の説もあるようです。半島南部の人たちが都(ソウル)に上る時必ずここを通ったという由緒のある古道で、道立公園があり、またKBS撮影セット場もあったりして観光客も多く、修学旅行のバスも一杯、ということが上述のハン・ビヤさんの本に書かれていました。時代劇でおなじみの、なかなか見映えのいい3つの関門や城壁がありますが、第2関門の鳥谷関は1594年、主屹関(第1関門)と鳥嶺関(第3関門)は1708年に造られ、後に毁損しましたが1966年に史蹟に指定され、1976年に復元されました。
 南から科挙を受けるためセジェを発った人たちを想い、今そこの公園に「과거 길(科挙の道)」と刻まれた石碑が建てられています。(知らないと「過去の道」と読んでしまいそう。) しかし、ここはまた北から南に向かう通信使一行が通った道でもあったわけですね。(李藝の時代にはまだ関門等はなかったのですが・・・。)
 そういうわけで、映画の冒頭にこの石畳の古道が出てきます。「どれだけの人がここを歩いたのだろうか・・・、600年後にはまた、この石畳をどう歩いているのだろうか」というようなことをたしかユン・テヨン氏が呟いていた、かな?

 ※韓国書ですが、朝鮮内での通信使一行の路程について詳述した本が刊行されています。→コチラ

 ※2007年から1年おきに催している<21世紀の朝鮮通信使 ソウル-東京 友情ウオーク>というのがあるんですね。ソウル→東京を50日かけて歩くのですと! 今年2013年は第4次というわけですが、平均年令68歳とか。詳しくは→コチラ

 いやー、映画もベンキョーになりましたが、この記事作成にもちょっと深入りしてしまいました。本人もどーせじきに忘れるのに・・・。

★映画「李藝-最初の朝鮮通信使」ダイジェスト版 →コチラ

★映画「李藝‐最初の朝鮮通信使」予告編 →コチラ
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1月29日(土)「朝鮮の子」(1954年)上映 アムネスティ・フィルム・フェスティバルの中で

2011-01-26 23:50:16 | 韓国・北朝鮮に関係する映画
 2011年1月29日(土)・30日(日)、国際人権団体 アムネスティ主催のフィルム・フェスティバルが開かれます。
 上映8作品の中に、1954年のドキュメンタリー「朝鮮の子」(30分)があります。

 1952年、東京都教育委員会が都立朝鮮人学校の4年後廃校を通告すると、それに憤慨した在日朝鮮人たちが「民族教育を守れ」と朝鮮の子制作委員会を組織し、製作した貴重なドキュメンタリーです。「当時の都立朝鮮人学校の子どもたちの作文を基に制作されたもので、戦前の辛苦に満ちた生活を切々と語る神戸の祖母や、父親が仕事につけないため苦労する母親など、差別と抑圧とともに歩んできた民族の歴史が子どもの視点で捉えられ、語られている」とのことです。
 会場はヤクルトホール(東京都港区東新橋1-1-19 ヤクルト本社ビル)、「朝鮮の子」は29日(土) 13:30~14:00です。

 このフィルム・フェスティバルの上映作品では、「TOKYOアイヌ」も興味をひかれます。「首都圏にが暮らしているアイヌ民族は、5千人とも、1万人ともいわれる」とは、意外です。

 詳細は<アムネスティ>のサイト参照のこと。

 私ヌルボ、当日は他の予定もあるので「朝鮮の子」1本だけ観て帰るつもりです・・・が、チケットは当日券 一般3,000円を買うしかないのかなー、うーむ・・・。
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映画「ヒロシマ、ピョンヤン」 語られない多くの言葉

2010-08-05 23:51:51 | 韓国・北朝鮮に関係する映画
 一昨日シネマ・ジャックで「ヒロシマ、ピョンヤン」を観ました。
 北朝鮮に居住する朝鮮人被爆者の問題をとりあげたドキュメンタリー映画です。

 原爆投下により広島で約42万人、長崎では約27万人が被爆しました。
 その中に、広島では約5万人、長崎では約2万人の朝鮮人がいました。
 その生存者でその後朝鮮半島に帰国した人は、広島から約1万5千人、長崎からは約8千人。
 韓国へは約2万人、北朝鮮へは約3千人と推測されています。

 在外被爆者(帰国した外国人被爆者と、海外居住の日本人・日系人)の約90%を占める韓国・アメリカ・ブラジルの被爆者たちは、日本の被爆者と同じ援護措置を日本政府に求めて運動を続けた結果、自国でも日本政府からの手当を受けることができるようになりました。
しかし、手当申請の条件となっている「被爆者健康手帳」を、自国の日本大使館等で取得できるよう被爆者援護法が開成されたのは、なんと一昨年(2008年)のことだそうです。
 しかし、在外被爆者でも北朝鮮の被爆者の場合は何の措置も受けられない状態が続いています。
 2007年の調査では、確認された被爆者は1911人で、内1529人がすでに死亡。健在は382人となっています。

 この映画には、何人かの朝鮮人被爆者が登場しますが、中でも平壌に住む1941年生まれの女性・李桂先(リ・ゲソン)さんと、広島県大竹市に住む母親・許必年(ホ・ピルニョン)さんを中心に構成されています。

 必年さんが幼い桂先さんを連れて広島市内へは行ったのは原爆投下から12日目。残留放射能を浴びてしまいました。しかし、桂先さんは2004年に平壌に来たお母さんから話を聞くまで自分が被爆者だということを知らなかったそうです。
 娘に59年間も被爆の事実を伝えなかったのは「嫁いかれんけ」、桂先さんが北朝鮮で結婚した後、何回も平壌に会いに行った時も言わなかったのは「別れたらいけんけ」・・・。
また桂先さんも被爆していたことを子や孫には話していないそうです。

 この映画についての詳細は、<伊藤孝司の仕事>というサイト中の<ヒロシマ・ピョンヤン>のページをご参照ください。

 さて、この映画についての私ヌルボの感想はというと、語られない言葉、語ることのできない言葉があまりに多い、ということ。

 桂先さんは、民族教育に熱心な両親によって小中高はチマチョゴリを着て民族学校に通いました。そして帰国事業開始の翌1960年、アボジ(父)は溺愛する桂先さんを1人で帰国させます。
 その父が初めて訪朝して娘と再会したのが1975年。以後両親は何度も平壌を訪れます。

 ・・・母の必年さん、娘を1人北朝鮮に送ったことに対する思い(後悔?)や、北朝鮮での生活のようすやその感想等々、いろいろあるでしょうが、それらは語られません。
 桂先さんの暮らす部屋のようす等を見たところ、なかなか恵まれているようですが、必年さんからのプレゼントは画面で映されていたピカチュー等々の人形ばかりではもちろんないはずです。

 伊藤孝司監督の姿勢については「北朝鮮寄りすぎる」との声が聞こえてきそうです。しかし、そうでなければ彼の国でこれだけの映画は撮れないでしょう。
 ただヌルボが疑問に思ったのは次のナレーション。
 「私が朝鮮で会った被爆者は、誰もが自分の国のそうした選択を支持すると語る。核廃絶を願う私は、複雑な思いでそれを聞いた」。
 伊藤監督! 北朝鮮の国民が自国の政治を自由に批判できるわけないでしょう!?

 この映画のパンフの冒頭で、伊藤監督は「平壌から桂先さんに同行し、広島での(被爆者)手帳取得の一部始終と母親との再会を中心とした映画を考えた」とあります。しかし来日は実現せず。「日朝間に立ちはだかる壁は、予想以上に高かった」のです。
 ナレーションは次の通りです。
 「2007年11月、日本政府は「手帳」取得のための桂先さんの入国を受け入れると表明。ところが、付き添い人の日本への入国は認めなかった。隊長の良くない桂先さんが、一人で来日することは不可能であるため、この話は実現しなかった。厳しい日朝関係が、母と娘の願いを打ち砕いたのである」。・・・この辺の具体的説明はありません。<付き添い人>って、マズい言動をとらないよう見張る監視人のことじゃないの?という疑問は北朝鮮を知る人ならふつうに考えることでしょう。この親子のような事情があろうがなかろうが、日本に里帰りすることは認めてないし・・・。

 また伊藤監督がこの映画を撮るにあたって、北朝鮮の対外文化連絡協会との間にはややこしいやりとりが当然あったことと思います。
しかし、それも表に出せるわけないしねー・・・。

 たぶん第3者の立場からはいろんな感想・意見があると思います。北朝鮮政府が悪いのであって、日本政府を一方的に責めるのは間違い、とか・・・。
 ヌルボは、どっちの政府が何割とはいいませんが、どちらも責任はあると思います。
 娘を一人だけ北に送った親に対しても、判断ミスを責める向きもあるでしょうが、やはり国と国の間で翻弄されてきた、ということでしょう。
 たとえば「日本政府への要求」という公式的(?)な言葉の底に、もっと大きな声で叫びたい、しかし叫ぶことのできない本音がたくさんあるように感じられた映画でした。

昨年8月28日の記事でドキュメンタリー映画「ディア・ピョンヤン」を紹介しましたが、北朝鮮政府を批判した言辞はなくても、いろんなことを自然に撮り、語った結果、梁英姫監督は入国禁止になってしまってます。

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未見の方はぜひ観て! 映画「ディア・ピョンヤン」

2009-08-28 10:48:33 | 韓国・北朝鮮に関係する映画
 在日二世の女性・梁英姫(ヤン・ヨンヒ)監督が、10年間にわたって朝鮮総連の活動家だった父を撮ったドキュメンタリー映画「ディア・ピョンヤン」は2006年一般公開されて話題となり、いくつかの映画祭で賞を受けたりもしています。
 私ヌルボは、韓国オタク・映画オタクを自任している(?)にもかかわらず、見逃してしまっていましたが、先頃横浜のシネマジャック&ベティで、「よこはま若葉町多文化映画祭」という企画特集の中で上映していたので観てきました。

 梁英姫監督自身のナレーションで進行します。
 英姫さんは日本で一番の在日コリアンの集住地域・大阪市生野区で育ちました。
 彼女の父は大多数の在日と同じく<南>の出身(済州島)。しかし<北>の金日成を信奉し、長く朝鮮総連の幹部として活動してきました。
 
 1972年、英姫さんが幼いころ(6歳?)、3人の兄は帰国船で北朝鮮へ。下の兄は中学生でした。
※北朝鮮帰国事業関係の本を読むと、1959年に始まってから数年後にはもう北朝鮮の実情がわかって帰国者数は急減していったといいます。この父親の場合、内部にいながらもそれがわからなかったのか、疑問が残りました。(総連幹部としての立場もあったのか・・・。)
 
 英姫さんの初の平壌行きは1983年。兄たちとは12年ぶりの再会でした。
 祖国の窮状を知った両親は、息子たちにせっせと仕送りを始めます。(その回数と分量はハンパじゃない!)
 英姫さんは民族学校に通い、模範的両親の娘として模範的な生徒でしたが、その後北朝鮮への違和感を募らせます。それは父に対する反抗心となります。父を愛してはいても、祖国と金日成に絶対的な忠誠を捧げ続ける一面を理解することができない・・・。

 ところが・・・・、
 カメラ自身が持つ力、なんでしょうねー。
 以前「home」というドキュメンタリー映画が一部で話題になりました。日本映画学校の学生だった小林貴裕さんが「引きこもり」の兄にカメラを向けた映画です。執拗にとりつづける中で、閉ざされていた兄の心が徐々に開かれていく過程に、とても興味を覚えました。
 「ディア・ピョンヤン」でも、カメラを向けて撮り続ける中で、お父さんとと英姫さんの関係性が変わっていくんですね。お父さんも、総連の幹部だった人がこんなことを言ってしまっていいのか?ということまで口にするようになります。

 この映画は、「在日の家族の生活」「在日の韓国・北朝鮮との関わり」「北朝鮮の今の姿」「朝鮮総連」「北朝鮮帰国事業」等々に関心のある方なら、政治・思想的立場を問わず非常に得るところの多い映画です。

 ただ、この映画の<キモ>は家族愛なんですねー。ヌルボが「皆さんにお薦め!」という理由もそこにあります。
 映画の最初と最後に収められている娘から父親への<セベトン>(お年玉)のやりとりにも、ホントに気持ちがこもっている感じでよかったです・・・。

 この映画は韓国でも上映されました。ネットで検索して観た人の感想をいくつか読んでみましたが、
 「なんの事前情報もなく、偶然に観ましたが、後に何も残らない娯楽映画と違い、胸の奥に何か深く考えさせる、また静かな余韻を残してくれる映画でした」「わが韓民族の歴史的傷とその後遺症はまだ現在進行形だという考えがする」等々、至極まっとうなコメントが記されていました。

※シネマジャック&ベティでの上映は終わってしまいましたが、レンタル店でDVDがあると思います。

☆この映画に収められた映像中、<北>の実像を読み解こうという観点からの記事は、別立てで記事をアップします。
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