もう9ヵ月も経ってしまったが、昨年6月所用で金沢に行った折、時間があったので内灘に行ってきた。
しかし、今「内灘」と聞いて「ああ、あの・・・」とわかる人は地元の人以外でどれほどいるだろう?
私の大雑把な見当では、かなり具体的な記憶がある人は80歳代半ば以上の一部、「聞いたことはある」「本で読んだ」等の記憶がある人もほぼ70歳以上ではないだろうか?
つまり、〈内灘闘争〉の内灘なのだが・・・。
内灘駅は、金沢駅から北陸鉄道浅野川線で20分あまり。金沢に近いが同市内ではなく、河北郡内灘町というベッドタウンだ。南北約9キロに伸びる内灘海岸に沿った幅約2キロの細長い町で、内灘駅はそのほとんど最南部に位置する。(※記事末尾の地図参照)
朝の天気は雨混じりの強風で、予定変更して映画館に行ったが、出た頃には好天になっていたので金沢駅から電車に乗り込んだ。もう午後2時だ。
内灘駅近辺を見回すと、人も商店も少ない、穏やかそうな街だ。とりあえずの目的地、〈道の駅 内灘サンセットパーク〉は駅から約3キロ。酔狂なことに歩いて行った。
道の駅の眼前の、河北潟放水路に架かる内灘大橋は、〈サンセットブリッジ内灘〉という愛称にふさわしい美しい姿で、町が観光スポットにしているのもうなずける。
〈内灘町歴史民俗資料館 風と砂の館〉は、その橋を渡ってすぐの所にある。
ここの展示のテーマは3つだ。凧と、粟崎遊園と、内灘闘争である。
粟崎遊園は初めて知った。1925年に地元の資産家がこの地に開設した広大な娯楽施設で、大劇場では宝塚に倣って少女歌劇団の公演もあったとか。また、この浅野川線自体遊園地用に敷設された鉄道だという。
凧についても知らなかったが、展示されている凧の数々のユニークさにはたしかに引きつけられる。
そして1952~53年頃の内灘闘争については、展示だけでなく往時の映像資料も見せてくれた。ただ、私は当時は幼児だったので記憶はなく、受験生時代日本史で内灘闘争という言葉を憶えたかどうかもさだかではない。
その少し後の砂川闘争(1955~57年)の頃は小学生で、児童用の学習年鑑に載っていた記憶が残っている。
その砂川闘争が米軍の立川基地拡張に対する規模の大きな反基地闘争だった。一方内灘闘争は、朝鮮戦争を背景に日本のメーカーからアメリカ軍に納入されることになった砲弾の性能を検査するための試射場として内灘砂丘が指定されたことに対する反対闘争である。53年3月に始まった試射は4月末で終わったが、6月に入って政府が試射場の再使用強行を決定すると、反対運動は地元住民だけでなく金沢大学の学生など支援者も増えてゆき、さらには私鉄総連や全学連といった全国組織の関与・支援も始まった。7月19日の金沢で開かれた日教組主催の集会には1万人が集まったという。
闘争は、結局は住民間の対立や民有地の買収等で終息してゆくのだが、戦後の一連の米軍基地反対運動の最初の闘争として位置づけられている。
ここまでは「80歳代半ば以上の一部」の人たちが体験したり新聞等の報道で知っていることである。以下は「本で読んだ等の記憶がある、ほぼ70歳以上」の一人である私自身の学生時代のことだ。
その本とは、五木寛之の小説「内灘夫人」である。
この小説は1968年8月~69年5月まで東京新聞夕刊に連載され、69年10月に単行本が刊行された。まさに全国的に大学闘争が沸騰していた時期に書かれたのだ。
冒頭は、活動家学生の一人、森田克巳が新宿駅東口広場で米軍野戦病院撤去のための署名運動をしている場面である。そこで彼に声をかけた30代の美人が沢木霧子。それを契機に、克巳とは深い関わりを持つようになる。表面的には金持ちの奥様の誘惑ということだが・・・。後で克巳がなぜ自分に声をかけたのか問うと、霧子はその場で答えず彼を空路小松空港へ、そしてタクシーで内灘に連れてゆく。若い頃内灘闘争に関わった自分たちと、今の克巳が重なって見えたからという。
霧子と夫の良平は、その内灘闘争に参加し結ばれた夫婦である。当時闘争に積極的だったのは良平の方だったが、今の良平は広告会社の社長で、運転手付きの黒塗りのベンツに乗っている身分だ。
かつて良平に誘われて内灘に出かけ、デモに加わり、抗議の座り込みにも参加した霧子は、今そんな良平との間の溝を感じている。
「おれは汚れてきたんじゃなくて、視野が広くなり、物の考え方に柔軟性が増しただけだ。内灘時代のおれたちは狭い世界のなかで甘ったれた感傷にひたっていただけなんだ」と言う良平に対し、霧子は「あの内灘時代は独りよがりの青臭いヒューマニズムに陶酔してた気恥ずかしい存在だったかもしれない。でもあそこには大事な物、美しいもの、一片の真実のようなものがあったと思うの」と言う・・・。
五木寛之は、その1953年当時はちょうど20歳で、早稲田大の学生だった。彼がその頃内灘闘争に関わりがあったかどうかはわからないが、68~69年の学生運動に全面的な支持というものではないにしても、シンパシーを感じていたことはこの作品から読み取れ、それは自身の青春時代が底流にあるのかもしれない。
この小説の最後で、霧子は新たな出発を決意する。それは、どのような仕事であれ、自分の力で仕事をはじめること。その出発にあたって霧子は、内灘闘争の時代を「青春」と呼び、それと決別するのである。このラストは、当時(今も)よくあった年配者による上から目線の若者評とは違っていて、納得できるものだった。
(余談だが、私も大学1年だった68年、新宿東口広場である署名運動に立ったことがあったが、霧子のような奥様から声がかかるようなことはあろうはずもなかった。)
内灘闘争関係の〈遺跡〉は今も多くはないが残っている。そのひとつが着弾地観測所跡だ。
地図を見ると歴史民俗資料館から2キロと離れていない。すぐ行き着けると思ったのだが、甘かった。霧子たちが座り込んだという権現森の砂丘にあるものと思っていたが、今は起伏のある雑木林だ。結局1時間ほどもかかり、たどりついた時はもう5時だった。
説明がないと着弾地観測所跡だとかは全然わからない。トーチカのようなもので、外のようすを見る隙間が開いているコンクリート製の建造物である。
そこから権現森海水浴場に下りようとしたが、これまた難儀をした。湘南海岸などでは松林のあたりから海岸まではすぐだが、ここは雑木林からまっすぐに下りる道がないのだ。結局直線距離で100メートルの所まで30分かかった。だが日が長い時期でよかった。6時を過ぎてもまだ明るい。
内灘の海岸は広かった。鎌倉~藤沢あたりの見慣れた海岸だと、海自体がなんとなく観光用のように見えてしまう。しかし内灘で見た海岸と日本海ははるかにスケールが大きく、自然の荒々しさを垣間見たように思った。
海岸には案の定韓国からの漂着物がすぐ見つかる。以前唐津の海岸を歩いた時もそうだった。日本海側の海岸ではむしろふつうのことだ。中国語のラベルがついたペットボトルもあった。
海を越えて来るものはゴミの類ばかりではない。
歴史民俗資料館の展示物の中に町指定文化財の〈室青塚(むろあおつか)〉の写真があった。「高句麗・渤海国使節らが室に漂着し、彼らの死去により築かれた塚であると古くから伝承され、江戸時代には青塚として地名になっていた」と説明にある。
ここからはまさに現在の話である。
近年北朝鮮の木造船が多数日本海側各地に漂着している。2013年の時点で年間の漂流・漂着数は80件あった。17年には漂流・漂着数104件で、遺体35体、確認された生存者は42人。そして18年は漂流・漂着数は225件に急増する。遺体は12体発見された。
報道によると北朝鮮が外貨獲得のため中国に漁業権を売ったことが背景にあるらしい。そこで能登半島沖合の好漁場である大和堆にイカ釣り漁船が押し寄せてくるのだそうだ。ところがその木造船というのが日本の漁師に言わせれば「百年前の船」という無謀な出漁で、同情の声も出ているという・・・。
石川県にはもちろん木造船の漂着は多く、この内灘町だけでも18~19年に計3件あり、また18年には砂浜上で遺体が発見されたそうだ。
しかし、ネット上には工作船ではないかと疑ったり、警戒する主張は多い。日本人と比べて、あるいは外国人の中でも国籍や民族によって命や人権の軽重が極端に異なることに疑問を感じない人がそんなにも多いのだろうか?
逆に海を越えて行った人で想起されるのは北朝鮮拉致被害者の人たちである。政府認定の拉致事件は1977年久米裕さんが拉致された宇出津(うしつ)事件だが、その宇出津は能登半島北部だ。しかし、そのずっと以前から北陸地方では時折不審者を見かけることがあり、ある記事によると「70年代まで、福井から能登、富山にかけての日本海側の浜辺には、地元警察署の不審者注意の看板がいたるところで目についた」という。
そして私にも関わるのは高校時代同学年だったS君のことである。非常に弁の立つ、しっかりした生徒会長だった。将来どんな政治家になるか期待していたのは私だけではなかっただろう。その彼が大学3年だった1970年2月行方不明になった。金沢市のユースホステルを出発して能登半島に向かい、輪島市で宿泊。その後また金沢市のユースホステルに戻って再度宿泊し、10日の朝出発したが以後消息不明となった。北朝鮮の拉致事件の一部が明るみに出てから彼の名は〈特定失踪者〉のリストに入っている。「拉致の可能性を完全には排除できない失踪者」のことだ。拉致問題関係のチラシやポスターには、今も昔のままの彼の写真が載っている。S君がいなくなってちょうど50年になる。高校時代、仲間の誰も彼にこのような将来が待っていたとは思いも及ばなかった違いない。
高校・大学時代から約半世紀。かつての友人たちにもいろんなことがあった。
冒頭に「所用で金沢に行った」と書いた。その所用とは、故郷の金沢で独居していた大学時代の学友が亡くなり、当時の仲間たちと墓参に行ったのである。いつも何事かに熱心に取り組む人だったが、富や栄達には生涯無縁だった。今にして思えば、彼も私も、そして共に墓参をした仲間たちも、〈全共闘世代〉のずっと後列で同じ時代に足掻いていた同志と言えるかもしれない。その時だけでなく、もしかしたら今に至るまでも・・・。
歴史・社会の一般的なことと個人的なこと、あるいは70年前・50年前・現在のことを織り交ぜて書き始めたら、さまざまなことが交錯してほとんど収拾がつかなくなってしまった。しかし、そんなもろもろの中心に今の私がいるのだということをあらためて実感することになった旅だった。
地図の横(南南西~北北東)は約9キロ、縦は3キロ弱。①内灘駅 ②道の駅 内灘サンセットパーク ③内灘町歴史民俗資料館 風と砂の館 ④着弾地観測所跡 ⑤権現森海水浴場 ※室青塚は⑤からさらに2キロほど右手の方なので行くことができなかった。
しかし、今「内灘」と聞いて「ああ、あの・・・」とわかる人は地元の人以外でどれほどいるだろう?
私の大雑把な見当では、かなり具体的な記憶がある人は80歳代半ば以上の一部、「聞いたことはある」「本で読んだ」等の記憶がある人もほぼ70歳以上ではないだろうか?
つまり、〈内灘闘争〉の内灘なのだが・・・。
内灘駅は、金沢駅から北陸鉄道浅野川線で20分あまり。金沢に近いが同市内ではなく、河北郡内灘町というベッドタウンだ。南北約9キロに伸びる内灘海岸に沿った幅約2キロの細長い町で、内灘駅はそのほとんど最南部に位置する。(※記事末尾の地図参照)
【石川県内灘町は日本海に面した町。(左) 金沢駅●から北北西に伸びる北陸鉄道浅野川線の終点が内灘駅●。】
朝の天気は雨混じりの強風で、予定変更して映画館に行ったが、出た頃には好天になっていたので金沢駅から電車に乗り込んだ。もう午後2時だ。
内灘駅近辺を見回すと、人も商店も少ない、穏やかそうな街だ。とりあえずの目的地、〈道の駅 内灘サンセットパーク〉は駅から約3キロ。酔狂なことに歩いて行った。
道の駅の眼前の、河北潟放水路に架かる内灘大橋は、〈サンセットブリッジ内灘〉という愛称にふさわしい美しい姿で、町が観光スポットにしているのもうなずける。
【〈サンセットブリッジ内灘〉(左)と〈内灘町歴史民俗資料館 風と砂の館〉】
〈内灘町歴史民俗資料館 風と砂の館〉は、その橋を渡ってすぐの所にある。
ここの展示のテーマは3つだ。凧と、粟崎遊園と、内灘闘争である。
粟崎遊園は初めて知った。1925年に地元の資産家がこの地に開設した広大な娯楽施設で、大劇場では宝塚に倣って少女歌劇団の公演もあったとか。また、この浅野川線自体遊園地用に敷設された鉄道だという。
凧についても知らなかったが、展示されている凧の数々のユニークさにはたしかに引きつけられる。
そして1952~53年頃の内灘闘争については、展示だけでなく往時の映像資料も見せてくれた。ただ、私は当時は幼児だったので記憶はなく、受験生時代日本史で内灘闘争という言葉を憶えたかどうかもさだかではない。
その少し後の砂川闘争(1955~57年)の頃は小学生で、児童用の学習年鑑に載っていた記憶が残っている。
【説明版には「15サンチ榴弾砲を射つ」(左)、「試射場正門前の座り込み小屋」(右)とある。】
その砂川闘争が米軍の立川基地拡張に対する規模の大きな反基地闘争だった。一方内灘闘争は、朝鮮戦争を背景に日本のメーカーからアメリカ軍に納入されることになった砲弾の性能を検査するための試射場として内灘砂丘が指定されたことに対する反対闘争である。53年3月に始まった試射は4月末で終わったが、6月に入って政府が試射場の再使用強行を決定すると、反対運動は地元住民だけでなく金沢大学の学生など支援者も増えてゆき、さらには私鉄総連や全学連といった全国組織の関与・支援も始まった。7月19日の金沢で開かれた日教組主催の集会には1万人が集まったという。
闘争は、結局は住民間の対立や民有地の買収等で終息してゆくのだが、戦後の一連の米軍基地反対運動の最初の闘争として位置づけられている。
ここまでは「80歳代半ば以上の一部」の人たちが体験したり新聞等の報道で知っていることである。以下は「本で読んだ等の記憶がある、ほぼ70歳以上」の一人である私自身の学生時代のことだ。
この小説は1968年8月~69年5月まで東京新聞夕刊に連載され、69年10月に単行本が刊行された。まさに全国的に大学闘争が沸騰していた時期に書かれたのだ。
冒頭は、活動家学生の一人、森田克巳が新宿駅東口広場で米軍野戦病院撤去のための署名運動をしている場面である。そこで彼に声をかけた30代の美人が沢木霧子。それを契機に、克巳とは深い関わりを持つようになる。表面的には金持ちの奥様の誘惑ということだが・・・。後で克巳がなぜ自分に声をかけたのか問うと、霧子はその場で答えず彼を空路小松空港へ、そしてタクシーで内灘に連れてゆく。若い頃内灘闘争に関わった自分たちと、今の克巳が重なって見えたからという。
霧子と夫の良平は、その内灘闘争に参加し結ばれた夫婦である。当時闘争に積極的だったのは良平の方だったが、今の良平は広告会社の社長で、運転手付きの黒塗りのベンツに乗っている身分だ。
かつて良平に誘われて内灘に出かけ、デモに加わり、抗議の座り込みにも参加した霧子は、今そんな良平との間の溝を感じている。
「おれは汚れてきたんじゃなくて、視野が広くなり、物の考え方に柔軟性が増しただけだ。内灘時代のおれたちは狭い世界のなかで甘ったれた感傷にひたっていただけなんだ」と言う良平に対し、霧子は「あの内灘時代は独りよがりの青臭いヒューマニズムに陶酔してた気恥ずかしい存在だったかもしれない。でもあそこには大事な物、美しいもの、一片の真実のようなものがあったと思うの」と言う・・・。
五木寛之は、その1953年当時はちょうど20歳で、早稲田大の学生だった。彼がその頃内灘闘争に関わりがあったかどうかはわからないが、68~69年の学生運動に全面的な支持というものではないにしても、シンパシーを感じていたことはこの作品から読み取れ、それは自身の青春時代が底流にあるのかもしれない。
この小説の最後で、霧子は新たな出発を決意する。それは、どのような仕事であれ、自分の力で仕事をはじめること。その出発にあたって霧子は、内灘闘争の時代を「青春」と呼び、それと決別するのである。このラストは、当時(今も)よくあった年配者による上から目線の若者評とは違っていて、納得できるものだった。
(余談だが、私も大学1年だった68年、新宿東口広場である署名運動に立ったことがあったが、霧子のような奥様から声がかかるようなことはあろうはずもなかった。)
内灘闘争関係の〈遺跡〉は今も多くはないが残っている。そのひとつが着弾地観測所跡だ。
地図を見ると歴史民俗資料館から2キロと離れていない。すぐ行き着けると思ったのだが、甘かった。霧子たちが座り込んだという権現森の砂丘にあるものと思っていたが、今は起伏のある雑木林だ。結局1時間ほどもかかり、たどりついた時はもう5時だった。
説明がないと着弾地観測所跡だとかは全然わからない。トーチカのようなもので、外のようすを見る隙間が開いているコンクリート製の建造物である。
【周囲の草木が時の流れを感じさせる着弾地観測所跡。入口の反対側。細いすき間から砲弾の的中率や爆発のようすを確認する。】
そこから権現森海水浴場に下りようとしたが、これまた難儀をした。湘南海岸などでは松林のあたりから海岸まではすぐだが、ここは雑木林からまっすぐに下りる道がないのだ。結局直線距離で100メートルの所まで30分かかった。だが日が長い時期でよかった。6時を過ぎてもまだ明るい。
内灘の海岸は広かった。鎌倉~藤沢あたりの見慣れた海岸だと、海自体がなんとなく観光用のように見えてしまう。しかし内灘で見た海岸と日本海ははるかにスケールが大きく、自然の荒々しさを垣間見たように思った。
海岸には案の定韓国からの漂着物がすぐ見つかる。以前唐津の海岸を歩いた時もそうだった。日本海側の海岸ではむしろふつうのことだ。中国語のラベルがついたペットボトルもあった。
歴史民俗資料館の展示物の中に町指定文化財の〈室青塚(むろあおつか)〉の写真があった。「高句麗・渤海国使節らが室に漂着し、彼らの死去により築かれた塚であると古くから伝承され、江戸時代には青塚として地名になっていた」と説明にある。
ここからはまさに現在の話である。
近年北朝鮮の木造船が多数日本海側各地に漂着している。2013年の時点で年間の漂流・漂着数は80件あった。17年には漂流・漂着数104件で、遺体35体、確認された生存者は42人。そして18年は漂流・漂着数は225件に急増する。遺体は12体発見された。
報道によると北朝鮮が外貨獲得のため中国に漁業権を売ったことが背景にあるらしい。そこで能登半島沖合の好漁場である大和堆にイカ釣り漁船が押し寄せてくるのだそうだ。ところがその木造船というのが日本の漁師に言わせれば「百年前の船」という無謀な出漁で、同情の声も出ているという・・・。
石川県にはもちろん木造船の漂着は多く、この内灘町だけでも18~19年に計3件あり、また18年には砂浜上で遺体が発見されたそうだ。
しかし、ネット上には工作船ではないかと疑ったり、警戒する主張は多い。日本人と比べて、あるいは外国人の中でも国籍や民族によって命や人権の軽重が極端に異なることに疑問を感じない人がそんなにも多いのだろうか?
逆に海を越えて行った人で想起されるのは北朝鮮拉致被害者の人たちである。政府認定の拉致事件は1977年久米裕さんが拉致された宇出津(うしつ)事件だが、その宇出津は能登半島北部だ。しかし、そのずっと以前から北陸地方では時折不審者を見かけることがあり、ある記事によると「70年代まで、福井から能登、富山にかけての日本海側の浜辺には、地元警察署の不審者注意の看板がいたるところで目についた」という。
そして私にも関わるのは高校時代同学年だったS君のことである。非常に弁の立つ、しっかりした生徒会長だった。将来どんな政治家になるか期待していたのは私だけではなかっただろう。その彼が大学3年だった1970年2月行方不明になった。金沢市のユースホステルを出発して能登半島に向かい、輪島市で宿泊。その後また金沢市のユースホステルに戻って再度宿泊し、10日の朝出発したが以後消息不明となった。北朝鮮の拉致事件の一部が明るみに出てから彼の名は〈特定失踪者〉のリストに入っている。「拉致の可能性を完全には排除できない失踪者」のことだ。拉致問題関係のチラシやポスターには、今も昔のままの彼の写真が載っている。S君がいなくなってちょうど50年になる。高校時代、仲間の誰も彼にこのような将来が待っていたとは思いも及ばなかった違いない。
高校・大学時代から約半世紀。かつての友人たちにもいろんなことがあった。
冒頭に「所用で金沢に行った」と書いた。その所用とは、故郷の金沢で独居していた大学時代の学友が亡くなり、当時の仲間たちと墓参に行ったのである。いつも何事かに熱心に取り組む人だったが、富や栄達には生涯無縁だった。今にして思えば、彼も私も、そして共に墓参をした仲間たちも、〈全共闘世代〉のずっと後列で同じ時代に足掻いていた同志と言えるかもしれない。その時だけでなく、もしかしたら今に至るまでも・・・。
歴史・社会の一般的なことと個人的なこと、あるいは70年前・50年前・現在のことを織り交ぜて書き始めたら、さまざまなことが交錯してほとんど収拾がつかなくなってしまった。しかし、そんなもろもろの中心に今の私がいるのだということをあらためて実感することになった旅だった。
地図の横(南南西~北北東)は約9キロ、縦は3キロ弱。①内灘駅 ②道の駅 内灘サンセットパーク ③内灘町歴史民俗資料館 風と砂の館 ④着弾地観測所跡 ⑤権現森海水浴場 ※室青塚は⑤からさらに2キロほど右手の方なので行くことができなかった。