ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

①韓国文学②韓国漫画③韓国のメディア観察④韓国語いろいろ⑤韓国映画⑥韓国の歴史・社会⑦韓国・朝鮮関係の本⑧韓国旅行の記録

​​​​​​​​​​​​​​​​​​他者と接して初めて自分が見えてくる(中)

2024-06-14 15:58:01 | エッセイ・雑文(韓国・朝鮮関係以外)
他者と接して初めて自分が見えてくる(中)

来日した外国人がビックリすること

 おはようございまーす。みんないるかな?
 さてと皆さん、ちゃんと朝ご飯食べてきましたか? あれ、君は? あ、ご飯じゃなくてパンですか。
 いやあ、思い出すなあ・・・、60年ばかり前の小学生時代ですよ。先生が授業の最初にクラスのみんなに朝ご飯をお茶碗何杯食べてきましたか?と聞いたんですよ。「1杯!」とか「2杯!」とか口々に答える中で、先生は一人黙っていたぼくに「あれ、あんたは?」と聞いたんです。で、ぼくが答えたのが「うちはパンだから・・・」だったわけ。今日と違うのはその時の他の生徒たちの反応でね、「オーッ!」という声が上がって、・・・って意味わかりますか? つまり、その当時はパンにバターに紅茶にといった朝食は高級なイメージがあったんですね、たぶん。名古屋から地方の小都市に引っ越してまもない頃で、他の男子がほとんど坊主頭の中でごく少数派の坊ちゃん刈りあだ名が「外国人」だったしねー。いや、名古屋ではべつに目立ってなかったですよ。
 食べ物関係の思い出はいろいろあるけど、あと2つだけ話すね。1つ目は中学か高校の頃、2歳上の兄貴が「おい知ってるか?」と真顔で聞くんです。何かと思ったら、「カレーライスは混ぜないで食べるのがふつうらしいぞ」。わが家では父が混ぜて食べてたんで、ずっとそれがふつうだと思ってたんですね。
 同じような例が大学に入ってからもありました。クラスの最初の親睦会がすき焼きパーティーだったんだけど、お膳の上の生卵を見てぼくは「何だ、これは?」と首を傾げました。というのもわが家にはすき焼きの具に生卵をつけて食べるという習慣がなかったのです。同じようなこと、君たちにもあるんじゃないの?
 といったところで、察しのいい人は気がついてるかもしれませんが、もう授業に入りかけてます。

 前回はアイデンティティという言葉について説明しました。その例として、高校に進学して最初はいろいろ戸惑ったりもしたのが大体はしばらく経つうちに新しい環境になじんでくるという話をしました。考えてみれば野良猫が人に拾われて飼い猫になるのも同じですね。家族の一員としてのアイデンティティがネコなりに確立されるわけです。
 人が赤ちゃんとして生まれた時は身の回りの世界しかありませんから、それが自分の標準になります。ただ、その身の回りの世界が他の赤ちゃんの場合とどれだけ重なっているかはわかりません。その後成長するにつれて世界が広がっていって、物事によってそれまで認識していた身の回りの世界がその外の世界と照らし合わせると例外的だったことに気づいて補正することもあり、あるいは反発して自分の「正しさ」にこだわり続ける場合もあります。
 日本全体で見ると、地方によって気候・風土の違いや食文化や方言などの違いはあるし風俗習慣や物の考え方なんんかも多少違うところがあるかもしれませんが、おおよそはかなり均質的な社会なので引っ越しをしてもショックを受けるほどのことは滅多にないんじゃないかな?
 しかし、海外に行くと驚くことがいろいろあるはずです。逆に日本に来た外国人が日本人にとっては思いもよらぬことで驚いたり疑問に思ったりしてるんですね。
 朝食の話のついでにひとつ質問しましょう。外国人観光客が日本の旅館に泊まった翌朝定番の朝食のお膳を見て首をかしげたモノは何でしょう? んーと、納豆? まあフツーの答えだけど、外国人のお客さんにあえて出すかねー? 一応正解は今話した生卵なんです。日本の卵は大丈夫ですが、他の国ではどこも食中毒の危険性があるので生卵を食べる習慣がないのだそうです。卵かけごはんを食べてる日本人を見ると気持ちが悪いという外国人はけっこう大勢いるそうですよ。
 ということで、ここでひとつ本を紹介します。大野力(つとむ)さんという方が書いた『ニッポン人はなぜ?』という本で「途上国青年との日本問答」と副題がついてます。1998年発行で25~6年も経ってるんで、今の外国人の皆さんの日本に対する理解度とはズレがあると思います。その点は念頭に置いて下さい。

 大野さんは海外技術者研修協会という財団法人の研修センターで講師を務めていました。発展途上国から産業技術研修生として来日した青年たちが六週間ほどセンターで日本語を教わるほかに、日本の社会や文化などについて説明をするのですが、その時に彼らの発する質問にとても懇切丁寧に答えるのです。意表を突く質問にすぐ答えるのはむずかしいのであれこれ考えなくてはならないですよね。で、考える。それが今まで考えたこともない日本再発見につながるわけです。
 じゃあ君たちならどう答えるか、やってみますか?
 まず第1問。「日本の男たちはなぜヒゲを生やさないのか?」
 これはサウジアラビア人。かなり真剣な顔つき。大野さんは生活習慣の違いの問題です。生やしている人もいますが、少数です」と答えますが、立派な口ヒゲをたくわえた彼らは半信半疑でショックを受けているようす・・・。以前ぼくの元同僚の先生がアラビア方面に旅行に出かける前、「ヒゲを生やしてないと一人前の男とは見られない」とかでヒゲを伸ばしてましたね。ただイスラム教国でもトルコやエジプトやインドネシアなど世俗主義の国は比較的寛容だそうです。
 第2問は自動販売機について「なぜ盗まれないのか?」とフィリピン人の質問。
 なぜですかねー? 大野さんは「手間や捕まるリスクを考えると割に合わない」と答えます。手間については、質問者の話では「いちいち現場で鉄板を切ったりしないでトラックで夜街を走り回って自販機ごとどんどん詰め込む」のだそうです。
 インドネシア人からはこんな質問もありました。「インドネシアでは街頭の物売りがたくさんいるが日本では見かけない。いったいどこへ行ったのか?」と、これも自販機がらみですね。さらにはインド人青年からも「日本では駅の改札も自動だしバスもワンマンだし、工場でもさかんにロボットを使ってる。失業者がたくさん出ると思うが、どう救済しているのか?」。
 この質問には大野さんも質問者が納得できる答えは出していません。恥ずかしながら、ぼくもです。面目ない。
 第3問はインドの青年の質問。「私は今東京の研修センターで日本語を習っていますが、技術研修は広島の会社です。東京の言葉は広島で通じますか? 文字は同じですか?」
 これは答は簡単ですが、皆さんもたぶん気づいているように、それぞれ自分の国が基準になってますね。地理か世界史かで習ったかもしれませんが、インドのお金の単位はルピーですね。そのルピー紙幣は表は英語とヒンディー語だけですが裏には15種類の言語で100ルピー等と書かれています。つまり主要言語だけでも17もあり、インド全土だと住民が母語として日常的に使用している言語はなんとその50倍くらいあるそうですよ。
 第4問もナイジェリアの青年の不意打ちのような質問です。「日本には部族がいくつありますか?」
 うーむ、なんと!ですねー。大野さんは、こう言うほかないと思って「現在の日本に部族と見られるようなものはありません」と答えますが、青年はすぐさま「それでは日本に部族がなくなったのは何年前からですか?」と折り返し問いかけてくるのですよ。
 大野さんは続けて「ここまで踏み込まれて、私は質問者の問題意識の、ただならぬ強さに気づかされる」と書いています。そしてナイジェリアという国の歴史を思い起こします。かつては奴隷貿易の根拠地。奴隷海岸という言葉、聞いたことあるでしょう。1960年に独立を果たしたものの、67年に始まったビアフラ紛争では飢えた子供たちの悲惨な写真が新聞に載って衝撃を受けました。スマホで「ビアフラ紛争」で画像検索してみて。今はナイジェリアはアフリカ有数のサッカー強国として知られているし、半世紀前とはずいぶん変わってるとは思いますが、なんせ250ほども部族があって、その間の紛争は絶えないようで、国政は安定にはほど遠いみたいですね。大野さんは、質問した青年が切実に部族のことを問いかけたのも、そんな背景があったんじゃないかと推察してその質問の背景へのこちら側の現実感の稀薄さ、ないしは欠如に思い至らざるを得ない」と記していますが、ぼくはその洞察力にひれ伏するしかありません。

 技術研修生の皆さんからの質問はここまでにしておきます。ぼくがなるほどなーと思ったのは、さっきも言ったように質問には自分の国のもろもろが反映されているということと、質問される日本人にとっては自分が生まれて以来当たり前過ぎて考えてもみなかった日本の独自性に気づくということ。お互いが相手を鏡として自分の姿を映しているようなものです。

 今日は食べ物の話が多かったね。ただ、食べ物だと自分が慣れ親しんできた味と違ったらすぐ気がつくけど、たとえばインド人青年が首をかしげるしぐさは疑問や不満ではなく「よく分かった」という意味だし、タイ人の社員のミスを上司が注意したら笑みをうかべて聞いているので「真面目に聞いてない!」と思われるが、それはタイ人にとってはふつうの表情だというように、動作や表情なども決して世界共通じゃないし、誤解しやすいかもねー。それから一般常識とか倫理道徳とかの違いとなると目に見えないし、かなり根の深い国民としてのアイデンティティにも関わってくるから厄介なところです。
 特に近年、主に先進諸国ではジェンダーフリーの風潮が一般化し、日本でも90年代には同性愛に否定的な見方が多数を占めていたのが今は大きく変わりました。しかし世界を見ると同性愛者を違法としている国は多く、石打ち刑を行っているブルネイ等死刑を科している国は世界で12ヵ国あり、10年~終身の禁固刑という国は28ヵ国あります。そこまでいかなくても取締りの対象となったり、家族からも排斥されるという国もあります。そんな世界の現況が一目でわかる<性的指向に関する世界地図>という資料があるのでぜひ検索して見てみて下さい。

 次回は今回とは逆にまた巨視的な観点から日本や世界の国々の人たちの価値観を比較して考えてみましょう。ハイッ、オシマイ!
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他者と接して初めて自分が見えてくる(上)

2024-06-12 15:36:40 | エッセイ・雑文(韓国・朝鮮関係以外)
他者と接して初めて自分が見えてくる(上)

「アイデンティティ」って何なの?

 さあ、始まるよー、席についてー。
 さてと、今日はいきなり難しい言葉について説明するところから始めます。どう難しいかというと、実はぼく自身もよく分かってないというレベルなんですよ、ハハハ(汗)。それで教えられるのかと言われそうですが、そこは「努力します」ということで・・・。これ、言い訳には便利な言葉だねー。テヘヘ、今日は暑いなー。
 で、その言葉なんですが、「アイデンティティ」という英語なんだけど、ずいぶん前からけっこうふつうに使われるようになってますね。あ、「アイデンティティー」と最後を伸ばしてもOKですよ。ところで、皆さんはこの言葉知ってましたか?
 え、お笑い芸人だって? 二人組の? ふうん、知らなかったな。そこまで一般的になってるんだねー。
 じゃあ会話の中でふつうに使ってる・・・というレベル、まではいかないですか?
 ぼくがこの言葉を最初に知ったのは高校時代。ということは、んー・・・ずいぶん昔ですよ。たしか倫理の授業で・・・。いや当時は倫理社会、略して倫社と言ってたね。今オジイサンから「オマエはリンシャをちゃんとベンキョーせんとあかんゾ」と言われても分からんだろなー。
 その高校の頃のリンシャの教科書でアイデンティティーがどんな日本語で説明されていたかというと「自我同一性」ですよ。または「自己同一性」。この用語は今も倫理用語集にありますね。しかし自我同一性と聞いて「そうか、なーるほど」とうなづく日本人がいるかねー? ぼくも分からなかったし、その後何十年経った今も分かりません。今の日本人も分からないからみんなアイデンティティというカタカナ語のまま使っているんでしょうね。
 同じアイデンティティという言葉を韓国ではチョンチェソン(정체성)、つまり「正体性」と言ってます。ぼくはコチラの方がずーっと良い訳し方だと思います。要は自分自身が一体何者なのかということを心の奥底でどのように認識しているかということですからねー。
 人間に化けた妖怪に「おまえの正体は何だっ?」と問いをぶつけると「フッフッ、ばれちゃあしょうがねーや」と笑いながらタヌキが正体を現す場面がアタマに浮かびますが、そんなようなものですよ。ん? タヌキは自分のことタヌキだという自己認識はあるのかな? ミミズなんかはなさそうか? 飼い犬は自分も家族の一員と思ってるのか? それとも・・・。フーム、動物のアイデンティティもおもしろそうだけど、まあ興味のある人は将来研究してごらんなさい。
 このアイデンティティという用語が広まったのは、アメリカの精神分析学者エリクソンが青年期の発達課題を説明する際に用いて1960年代頃から広く知られるようになって、その後意味も広がっていったようです。
 倫理の教科書のアイデンティティ関係のページにはアイデンティティ・クライシス、つまり「アイデンティティの危機」という用語も出てきます。生まれてからずっと自分の周囲のことを学習しながら適応することに懸命に生きてきたのが、成長して学校などで新しい人間関係もできて、外の社会についての知識も広がる中で自分を見失ってしまうことを指す言葉です。フランスの啓蒙思想家ルソーは著書『エミール』で人が青年期を迎える頃のその自己のめざめを「第二の誕生」と呼んだ、といったことも教科書に載ってます。
 ・・・って、今けっこうふつうに使ってる中二病となんか意味が重なってる感じじゃないですか? そう言えばTVアニメで「中二病でも恋がしたい!」というのを放映してましたが、そのテーマ曲のタイトルがまさに「INSIDE IDENTITY」だったんですね。これは最近知りました。
 さて、アイデンティティという用語を自我同一性じゃなくてもっとわかりやすい日本語で言うと、スマホでググってみれば「国・民族・組織などある特定集団への帰属意識」、「独自性」、「一致」、「身元」、「本質」等々の言葉が出てきます。
 まあ自我同一性よりはマシですが、イマイチですかねー。で、ぼくが独自に具体例を考えてみました。
 君たちがこの高校に入学して生徒証をもらって制服を着ても最初はしっくりこなかったでしょ? 話し相手も中学時代の友だちと「そっちのクラスのフンイキどうなの?」なんて情報交換したりして。それがしばらく経って、人にもよるけど一学期の末にはクラスの仲間の名前も憶えて高校生活に慣れてくる。これも人によりますがこの学校の部活が対外戦で活躍するとうれしく思ったりといった愛校心を持ったりもする。一方、中にはこの学校というよりも自分が入った部活に強い思い入れを持つようになる人もいるでしょ? あるいは、「この」学校というより希望する大学や職業をめざして本気で勉強することを最優先して日々がんばってる人もいる・・・かな? こうして、それぞれ中学生のこそして、まだ自分の居場所を見つけられない頃とは違う新たなアイデンティティを確立していきます。ただ中にはまだ不安定な精神状態の人もいるかもしれません。
 ところで、もし君たちが初対面の人に自己紹介するとしたらどんなことから話しますか? 「◯◯高校生です」とハッキリ言う人は◯◯高校の生徒であることに強いアイデンティティを持っているということ。「◯◯高校野球部でレギュラーやってます」と言えば当然その肩書きを誇らしく思ってるわけですね。そこらへんは本校生徒でもさまざまです。それから、もちろん人によっては学校以外の何か、たとえばピアノとかバレエとかの習いごととかサッカーのクラブチームのこととかの方がずっと重要だという人もいるでしょう。

 さて、やっとここから本論です。(えっ!
 一応この授業の看板は日本史なので、日本人としてのアイデンティティの形成をテーマに考えてみようということで、ここまではその前提なんですよ、ハハハ。すみませんねー。
 自己紹介の話の続きなんですが、もし海外旅行先で「どこの国の方ですか?」とか「何人ですか?」と聞かれたらどう答えますか? たぶん大方の日本人なら「日本です」と答えますね。しかしたとえばラモス瑠偉や元横綱の白鵬のように外国から来てその後日本国籍を取得した人の場合はどう答える? それ以前に自分自身ではどう認識しているのかな? ・・・という疑問も出てきます。それから、長く日本で暮らしている在日韓国・朝鮮人の人たちが大勢います。ルーツは戦前から日本にやってきた在日一世ですが、1965年の日韓基本条約以降は国籍の選択肢も韓国籍か日本籍か、でなければ従来の朝鮮籍(←これは北朝鮮のことじゃなく便宜的なもの)の三択になってもう半世紀以上になり、在日の主体も三世さらには四世になっているので、そのナショナル・アイデンティティつまり国民としての自己認識も多様化しているようですね。少なくともいわゆる嫌韓の人たちのイメージにあるような反日的な意見の持ち主はいたとしてもごく少数じゃないかなー? 日本人との結婚もふつうになってますが、純粋の韓国・朝鮮人だけの家庭でもある資料では九割ほどは日本語を話してますよ。日頃接するマスメディアも日本のテレビや新聞だしねー。

 日本人のナショナル・アイデンティティを考える時、念頭に置く必要があることを一つ言っておきます。それは「日本とはそもそも何なのか?」ということなんですが・・・、やっぱりキョトンとしてる人が何人もいますね。
 どういうことかと言うと、日本は①国の領土がほとんど日本列島という一目でわかる地理的な範囲と重なり、②ほぼ同じような顔つきと体格の黄色人種で構成されていて、③言語は日本語が全国的に用いられている、ということ。これらは日本人にとっては当たり前のことでしょうが、約200ヵ国ある世界の国々の中では非常に例外的と言っていいでしょう。またこれらに付随して④約二千年間日本国内で歴史が展開され、⑤衣・食・住、芸術、文学等々、独自の特色ある文化を育んできた、ということも特色として挙げられますね。
 それからもう一つ重要なことを言っておきます。それは日本人がいつ頃から「自分は日本人だ」と思うようになったのか?ということ。答は明治以降です。だから、大雑把に言ってまだ1世紀半くらいなものですね。つまり世界史的には1800年前後のイギリス、フランスを先駆けとする国民国家の成立とセットなんですが、この辺についてはあとで説明します。つまりは、日本だけではなく、世界を見てもほとんど全国民が「自分は◯◯人だ」という意識を持ったのはそんなに昔のことじゃないということです。
 この点については、専門の歴史学者でも間違った主張をする例をたまに見かけます。具体例をあげれば、90年代末頃から中国は「高句麗と百済と渤海は中国の地方政権であり、中国史の中に含まれる」と主張して韓国の歴史学者やマスコミ、そして一般国民の反発を招きました。「朱蒙(チュモン)」をはじめ高句麗関係の歴史ドラマが相次いだのもそのためです。ついでに言えば、日本史の教科書では高句麗・百済・新羅の三国時代の後は統一新羅の時代となっていますが、韓国では七〇年代から渤海と合わせて南北国時代と呼んでます。こうした中国と韓国の間の歴史認識論争に対して、韓国の少数派の歴史学者・林志弦(イム・ジヒョン)漢陽大教授は次のように語っています。
 「二千年も前の高句麗に現代の近代国民国家の概念をそのまま投影させてしまうのは時代錯誤です。タイムマシンに乗って当時の高句麗に行って「あなたは韓国人ですか?中国人ですか?」と聞いたら高句麗人は当然「何をわけのわからんことを言いなさるのか?」と言うんじゃないですか?」
 ぼくはこの見解には全面的に同意します。
 これ以外にも、歴史認識問題となるとそれぞれの国民の皆さんが「愛国心」に根差した主張を応酬し合う例は日韓間に限らずホントに多いですよね。しかし片方が相手方を「論破したぞ!」と思っても相手は「はい、おっしゃる通りです」なんて受け入れることはありませんよ。まさに自分たちのアイデンティティに関わる問題だから。そんなわけで、ほとんど解決は望めないというのがぼくの見方です。
 それでも、今日のテーマは相手と直接接して初めて相手の実像と、今まで気づかなかった自分の姿が見えてくるということで、戦争とか議論とかも直接接することだから、そう考えると得ることも多いと思いますよ。
 このテーマであと二回くらい続くかな? はい、ではまた今度。
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なが~いブランクのいいわけと、今後の抱負など

2024-04-17 15:17:22 | エッセイ・雑文(韓国・朝鮮関係以外)
 あ~あ。また1ヵ月以上の長~いブランクが生じてしまいました。
 1月末~3月末、とにかく仕事が忙しかったのがその理由です。
 基本的に無職なのですが、やるべきことはあるわけです。マンションの管理組合の役員等であればそれなりの手当が支給されたりしますが、私ヌルボの場合はそれも無し。収入に結び付くどころか支出に結びついたりして…(トホホ😢)。とくに痛かったのは好きな映画を観る回数が激減したこと。1月から3月末までに観た本数は計17本。「多いじゃないか!」と思われるかもしれませんが、この5年間はほぼ年間100本観ていたので、約3割減です。
 ツイてない時には不運が重なるもので、2週間ばかり前にここ(前の段落)のさらに続きまで新規投稿として入力したところ、私ヌルボとgooブログ管理担当(??)の合わせ技で全部消えてしまったのです(トホホ😢😢)。いつもならちゃんとWordで下書きを書いてミスがないか等確認した上で投稿するのですが…。
 言い訳&反省はここまで。
 4月以降は暗黒の2ヵ月のブランクを取り返すべく、それまで脳裏にはちらついていた懸案の映画を「観まくるゾ!」というキモチが先に立ってブログ更新は後回し(てへぺろ←死語だな)映画を優先。4月7~16日には計6本観ましたがな。
 で、映画作品等具体的な話はまた今度。
 映画以外にも世の中に叫びたいことは多々あるので、これからはあれこれ発信していきます。(暖かな陽気になっていっぺんに元気になった感じ。(ハハハ、虫とかと一緒やね♪)
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131日のブランク

2024-01-01 23:05:04 | エッセイ・雑文(韓国・朝鮮関係以外)
 うーむ、8月21日以来の記事か・・・。
 3ヵ月以上ホッタラカシにしていると、「何だ、これは!?」という異様な画面に代わることを2009年のブログ開設以来初めて知りました。
 その間、たまに顔を合わせる知人(複数)から「ブログはどうなってるんだ?」と訊かれたりもしました。ときおり本ブログを訪ねて下さってる皆さんにもご心配をおかけして大変申し訳ありませんでした。

 で、長期のブログ休眠の理由を一言で言うと「多忙!」です。月2回ハングルサークルに通ったり、月1度ささやかな同人誌に寄稿したり、定年退職して15年にもなるのにその延長のような無報酬の仕事に関わったり等々。・・・って、それらはとくにこの10年変わらずやってきたことではあるんですけどね(ありゃ?)。
 それから<健康上の問題>かなー・・・。<健康上の問題>というのは、いよいよ私ヌルボも認知症の気配が漂い始めたか?とも思ったのですが、どうも後述のコロナ感染の後遺症らしい。一番厄介な症状は足のふらつき。階段の上り下り、とくに下りでは手すりを握ってないと怖い。(という身になってみると、同様の年配の方々が世の中に大勢いらっしゃることに気付きました。)
 いやいや、一番のネックは打ち続く<災厄>かも・・・。最初は一昨年10月所用で鹿児島に行った時2日続けて仲間とはぐれてしまったこと(かな?)。続いて横浜に戻り1週間経たないうちに(たぶん自宅内で)スマホを紛失したこと。(実はまだ見つからないまま笑) 暮れには銭湯の浴槽で睡眠不足がたたってウツラウツラしてしまって溺れかけ、他の客に救出されて救急車を呼ぶ騒ぎになり、翌日コロナ感染が判明し、正月は自宅療養というトホホの日々を過ごして、これで災厄もオシマイかと思ったら、それさえもその後現在まで打ち続く災厄の連鎖の序章に過ぎなかったとは・・・!
 いやあ、こんなにひどい1年はこれまでの人生で初めてですがな😢 それらの災厄モロモロについては胸クソが悪くなる(笑)ので書きませんが、それでも10中8つばかり災厄があったとしても2つほどは良いこと、うれしいこともあるもので、それでなんとか乗り切っていけるものだなあと実感してます。(いや、鈍感ゆえに助かってる部分もあるかな?)

 そして、ちょうど年間100本観た映画が何と言っても大きなやすらぎになりましたね。
 戦争、大量殺戮、犯罪、差別、権力者の横暴等々、今の世界を反映した作品が多くていろいろ考えさせられましたが・・・。
 というわけで、<★2023年 ヌルボの個人的映画ベスト10>に続きます。
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高校生記者の皆さんへ① 新聞部員のためのメディア・リテラシー

2023-05-05 21:12:28 | エッセイ・雑文(韓国・朝鮮関係以外)
  高校新聞部員のためのメディア・リテラシー  

1.どんな記事を載せる?  そこに学校新聞の<姿勢>が表れる
  「記事がないよ~」と言ってる部員は「記事は足書く!」という鉄則を実践していませんね。あるいは日頃の観察力や、好奇心不足。ホントはネタは山ほどありますよ。紙面にとても載せきれないほど。
 そんなネタの山から何を選び取るか? そこからすでにあなた自身の目の付けどころと共に、その新聞の<姿勢>が表れます。意識している、いないかかわらず。
 あるいは生徒関係と先生関係の記事のどちらが多いてすか? それも新聞の一側面を表しています。また、あいかわらず多いのが定例の学校行事の記事を毎年当たり前のように1面トップに置いている新聞もよくありますね。大きな行事だからと言って興味を持って読まれるわけではありません。もしかして、学校の広報になっていませんか? 
 視野を広げ、極力いろいろなところに行ってみましょう。校外の記事はありますか? 学校の近所から、日本あるいは世界までも含めて、できるだけ直接足を運んで人の話を聞き、辺りをぐるっと見まわして写真を何枚も撮る。
 記事はこうして仕入れたネタを絞り込んで書きましょう。水増しではなく。
 
2.ウェブサイトに要注意!  その情報、信用できる?
 検索すればたいていのことがわかるインターネット。しかし、それは「どこの誰」が書いた記事? 別のサイトでは全然違う記事があるかも。
 新聞でもテレビでも、新聞社やテレビ局により報道内容に違いがあります。(皆さんは全国紙各紙とその系列のテレビ局の政治的立ち位置 は分かっていますか?
 インターネットでクロスチェックは絶対不可欠。ウィキペディアも便利ですが、必ずしも正しいとは限らず、必要なことが抜け落ちていることもあります。要はうのみにしないことです。
 スマホで見るニュースの見出し。いくつもある中に、実は商品の宣伝記事が混じっていることに気がついていますよね?

3.質問文や、選択肢の設定のしかた等によって結果が異なるアンケート
 「はい」と「いいえ」以外に「どちらともいえない」を設けるか否か? 調査用紙は全員提出? 55%で賛成多数と言える?
 調査方法・ワーディング(質問文の書き方)・分析の仕方などで結果は大きく違ってきます!
 数字という一見客観的データのように見えてしまう点も大問題。自分ではそれと意識しないで、だまし、だまされてしまうことのないように、要注意。

4.人選によって記事の内容・方向性が決まる
 取材対象者(一般生徒、先生、専門家など)として誰を選ぶか? 座談会の出席者をどう選ぶか? あるいは、街頭インタビューした多数の人の中から誰をピックアップするか?
 そこにも新聞部の意図、価値判断が働いています。もちろん、それを自覚していなくても。

5.記者は「何を書かないか?」も大切。読者は「書かれていないこと」も考えてみよう
 熱心に取材した部員ほど、自分が集めた多くの情報・資料をすべて記事の中につめ込もうと思うもの。結局社会科のレポートのように(?)読みづらい記事になりがちです。
 むしろ予定の字数の半分、あるいは4分の1だったら、何を書くかと考えると、自分の記事のポイントがはっきりしてきます。細かな枝葉の部分は思い切って棄ててしまった方が読者にはむしろ分かりやすい記事になります。
 一方、読者にとってはそこに書かれていることがすべてです。しかし、同じ素材を扱った一般紙を複数読み比べてみると、新聞によっては(自分の基準では)重要なことが抜けていることに気づいたりもします。何を書くか書かないかも、それぞれの価値判断で決まることです。

6.賛否が分かれる問題をどう扱う?  <中立>という立場はあるのか?
 かつての学校新聞では、賛成と反対の主張を紙面上でも同等の扱いにするのが<中立>を保つ上で適切だとされていたことがありました。(今でもあると思われます。)
 しかし、たとえば、圧倒的に賛成が多い事柄について「反対」の側にも「賛成」と同等の紙面を充てるのは優遇しすぎだとの意見もあるでしょう。
 一方、新聞部が少数意見でも注目に値すると判断したら、賛成よりもむしろ大きく扱うことが正しいという考え方は十分説得力があるのでは?
 それ以前に、そもそも<中立>を判定するモノサシなどあるのでしょうか?
 意見が分かれる案件について新聞部員たちが関係諸方面に取材し、人々の話を聞いたりもし、部内で十分話し合った上で「賛成」「反対」の一方を支持すると決めたらそれを非難する理由はありません。(もちろん相手側の意見もきちんと紹介した上で。)

7.同じ記事内容でも、見出しのつけ方で読者の印象は大きく異なる
 同じ野球の記事でも「スポーツ報知」は「巨人、まさかの逆転負け」で「デイリースポーツ」は「阪神、奇跡の大逆転サヨナラ」。これは親会社や読者層から当然。
 しかし全く同じ本文記事につける見出しも新聞部員によって違いが出てきます。その記事のキモは何なのか? 各部員の価値観の違いだけでなく、場合によってはここにも新聞部の<姿勢>が表れたりします。
 それ以前に、焦点がはっきりした記事を書くことが肝心ですが・・・。

8.同じニュース素材でも、新聞部や記者の<立ち位置>が表れる記事の文体
 5W1Hはたしかに基本。しかし、いつも「○月○日□□で△△が行われた」という書き方をすればいいというものではありません。
 次の[A]~[C]を比べてみましょう。
[A]7月13日午後1時30分から□□球場で開かれた○○大会1回戦で、本校△△部は××高校を5対0で破って2回戦に進んだ。
[B]本校△△部が5対0で快勝した。7月13日午後1時30分から□□球場で開かれた○○大会1回戦。ゲームセットの瞬間、観客席からは大きな歓声があがった。
[C]うわー、やったー! 昨日7月13日の○○大会1回戦。実は内心負けそうだなと思ってたけど、なんと、本校△△部は××高に5対0で勝っちゃいました!!

 [A]は客観的で、必要な事柄がきちんと書かれていますが、無味乾燥。
 [B]は客観的な書き方ですが、「勝ってうれしい」という雰囲気を漂わせています。
 [C]は感情丸出しで、報道文としては全然ダメですが、記事の種類によってはこういう書き方が読者にとっては親しみやすいかも。逆にいえば、このような文体に合うような記事もあった方がいいのでは?

9.ある出来事を伝える記事で、たくさんの写真の中からどれを選ぶ?
 たとえば野球部の試合。勝利の瞬間の選手たち・決勝打・ファインプレー・選手のインタビュー・応援のようす等々。
 写真は記事の付け足しではありません。インパクトの強い写真はそれだけで読者を引きつけ、その記事や紙面の印象を決定づけることもあります。
 撮る時には紙面のことも考えて右向き左向き、横長縦長、そして遠近等々、いろんなアングルと距離で撮っておくこと。
 また100枚撮った写真の中から1枚選ぶとしたらどれを選びますか? 2枚なら? 撮り方がまず大切ですが、選ぶ時も入念に。

10.同じ人物の写真でも、背景やアングル等で全然印象が違う
 新年度最初の学校新聞でよく見る新しい先生の紹介記事。しかし写真が証明書の写真(あるいは指名手配の写真?)のようになっていませんか?
 たとえば、選挙用のポスター等に用いる政治家の写真を考えてみましょう。候補者が商店街で笑いながら店の人と話している写真だと「庶民的」に見えます。背景が書斎の本棚だと「知的」に見えます。決然とした表情でこぶしを握って演説している姿を下から見上げるアングルで撮ると「決断力」のある「信念」の持ち主のように見えます。
 選挙や商品宣伝用のポスターは当然それを念頭に置いて作成しますが、学校新聞では単に「顔がわかる」程度の顔写真が多く、無意識のうちに読者に「特定の印象」を与えてしまうこともありそうなので配慮が必要です。
 少なくとも、先生方の人間性がうかがわれるような表情豊かな写真を撮ってほしいものです。
 なお、<型通り>といえば写真だけでなく先生方への質問項目も同様。「①教科②前任校③趣味・・・」等々あらかじめ用意した問いに対する答えを書いてもらうだけでは全然つまらない。趣味が「登山」ならこれまでどんな山に登ったか?とか、「落語」ならどんな噺がオススメか?とか、先生の返答からさらに話題を広げていくと、先生と記者生徒の間の相互理解にもつながり、気持ちのよい時間を過ごせることになるでしょう。


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キミのまわり、10人中好きな人が何人いる?

2022-11-03 23:52:38 | エッセイ・雑文(韓国・朝鮮関係以外)
キミのまわり、10人中好きな人が何人いる?
   高校を卒業する諸君へ

 とりあえず、卒業おめでとう! ほとんどが高校に進学した中3の時と違って今度は進学・就職・浪人とか人それぞれだし、生活の場所も変わる人も何人もいるよね。
 新しい生活に期待している人も多いだろうし、不安も当然あると思います。そこで皆さんにほぼ共通する話題ということで、人間関係についてちょっと話すことにしました。

 最近ぼく自身がふと考えたことがあるんですが、それは自分が属する雑多な集団の中で、気が合う人、ふつうの人、気が合わない人の比率はどれくらいなんだろう?ということ。「雑多な集団」というのは、たとえば学校のクラスや、職場の同僚のことです。
 クラスの場合、担任や生徒の顔ぶれによって雰囲気もけっこう違いますが、およそのところで皆さんもちょっと考えてみてください。40人だとめんどうなので仮に10人にしておきましょう。
 「気が合う人」と今言いましたが、「好きな人」と言っちゃいますか。そして「ふつうの人」に「好きじゃない人」。順に◯・△・✕と記号にして、それぞれ10人中何人になりますか? あ、皆さん、各自考えた数字は口に出さないでね。
 うーんと・・・標準がどんなものか見当がつきませんが、◯が3人、△が6人、✕が1人と仮定しますね。そこでぼくのアタマにひらめいたのは、「この◯△✕の数字は自分自身がまわりからどう見られているかを示している」ということ。つまり、10人中3人に◯をつけた人は10人中3人から好かれているのです。
 じっくり考えてみると、これは「自分が好感を持っている相手は、同様に自分に好感を抱いている。逆の場合も同じ」ということが前提になっているので、それなりの誤差はあると思います。しかしおおよそは間違ってないと思いますよ。

 ちょっと数学的に見てみますね。A君、B君からJ君まで10人いるとすると、2人ずつのペアは全部で何組になるかな? 順列・組み合わせのとこで習ったね。10×9÷2だから45組だよね。AからFまで10個の点を書いて、それぞれ線で結びます。A君はB君が「○」だとしたら青線にしましょう。この場合B君もA君が「○」というお約束ですよ。同様に「△」は黄色、「×」は赤にして、45本の線を全部引いてみます。3色テキトーに織り交ぜて引いていきますね。
 すると10人の中でも青線の多い人、少ない人などがいる全員の状況が視覚的にわかります。

 さて、皆さんの感想はどうですか? 「×が8人」と答えた人、もしかしたら内心あせるかもしれません。
 もしぼくが幼稚園の先生で、皆さんが園児だったとしたら、「自分から友だちに仲良くすると、友だちも君のことを好きになってくれるよ。みんな仲良くしようね」とでも言うところかもしれない。でも、そんなこと無理でしょ? 大体相性なんて理屈以前のものだし、努力してもどうにもならないし、そもそも努力する必要からしてあるとも思えないしねー。

 じゃあ、ぼくがなんでこんな話をしたかというと、ひとつは自分自身を客観的に見る手掛かりになるんじゃないか、ということ。
 ところで、つけた○の数がすごく多い人もいるでしょ? 8個以上とか・・・。そういう人はたぶん多くの人から好かれてうらやましがられるかもしれません。だけどね、最近(2021年2月19日)毎日新聞の人生相談を見たらこんなのがありました。高3の女子からの相談です。

 人に相談する勇気が出ません。私は優しい人になりたくて友達の相談にたくさん乗ってきました。でも、自分の相談を他の人にした時、それが相手に負担になってしまったら私は優しい人ではなくなってしまいます。また、もし真剣に考えてくれなければ私は自分の短所を打ち明けただけになってしまいます。どうしたら相談できるようになるでしょうか。

 うーん、みんなに好かれる人でも悩みがあるんですねー。これに対して、ジェーン・スーさんは次のように回答しています。ちょっと長いけど全文です。

 優しい人になりたくて人の相談に乗るのは疲れませんか? 自分の相談が相手の負担になると考えるのは、相談者さんがそう感じたことがあるからではないでしょうか。
 誰かに相談することを「短所を打ち明けただけ」にならないかと心配していらっしゃいますが、私はそうは思いません。悩みとは、能力不足の証しではないのです。そのあたりを理解してくれていると思われているから、相談者さんは友人から頼られるのではないでしょうか。あの子なら、弱みを見せても関係性は変わらないでいてくれると。
 まず、誰にでも「優しい人であろう」とすることをやめてみてはいかがでしょう。次に、「優しい人」の定義を更新してください。他者に一切迷惑を掛けないひとが「優しい人」ではないと思います。
 高校生なら、優しい人でいることが居場所づくりになることも、短所をさらけ出すことが命とりになることもわかります。しかし、このままでは息が詰まってしまう。優しくあるよりも、弱みを見せられる相手を見つけることにシフトチェンジしてください。相談者さんの役に立ちたいと思う友人も、必ず一人はいるはずです。

 なるほどなあ。皆から好かれているような人の中にも、問題を抱えている人がいないわけでもないんですね。このジェーン・スーさんにしてもヤマザキマリさんにしても、毎日新聞の人生相談はとても読みごたえがあります。

 次に、「自己認識」に続く2つ目の意図は、これから、あるいは近い将来仕事を持って社会に出てからの人間関係についての予備知識として。
 学校だと、部活とか、わりと同じような気の合う仲間が集まりやすいですが、会社や役所なんかだとそうもいきません。一部屋に10人足らずの同僚がいるとして、皆が皆○や△の人とも限りません。そういう中でも「ふつうに」つきあっていく。それが大人の人間関係というもので、もし好悪の感情を露わにすることがあったとすれば「大人げないない人」になってしまいます。また×の人であっても、「ふつうに」接してると、その中で仕事上のことでもそれ以外のことでもためになる話が聞けることもあるし、×の評価自体が変わることもあるかもしれません。

 そして3つ目、最後に言いたいことです。
 先にA君以下10人を3色の線で結んだじゃないですか。あの図だと決定的に抜けているところがあるんですよ。わかりますか? あの図は実は自己認識のためだけじゃないですよね。むしろ相互認識です。自己認識はもちろん自分が自分をどう見るかということですが、肝心なことは自分を集団全体を眺めるところから見つめ直すということです。
 ここで皆さんに質問します。自分自身に対しては○△×のどれをつけますか?
 自分に×をつけた人。ありきたりの言葉ですが「止まない雨はない」です。どんなにつらい時でも、ただ、いるだけでリッパに「それでいい」のです。すごくつらくて自殺しようと崖の上まで来たとします。そんな危機に立たされたら崖の下をのぞきこんだりしないで、ずっと遠くから崖の上にいる自分を見たらどう見えるか考えてほしいと思います。大空があって広い自然があって、世の中にはたくさんの人がいて、自分はその中のひとつの点ですよ。と考えると自分の悩みなんてあほらしく思えてくるんじゃないかな?
 もしかして他の9人に全員×をつけた人はいますか? たぶん9人から×をつけられた人。でも確固たる自己を持っているなら、それはすばらしいことですよ。まわりの人はメイワクでしょうが、ぼくはそういう人の味方でありたいです。隣りの席にそんな人がいて、実際ぼく自身がメイワクしてても・・・。
 それに、こんな話をして、最後にこんなことを言うのもヘンかもしれないけど、人が自分をどう見ているかなどということは、自分の仕事とは必ずしも関係するものでもないし、とくに目標、夢といった自分が実現したい生き方とはほとんど関係ないことだと思うよ。

 あ、今日も話が長くなっちゃったね。じゃあまた今度、っていつになるのかな?
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風呂の愉しみ

2022-07-12 23:43:33 | エッセイ・雑文(韓国・朝鮮関係以外)
   風呂の愉しみ

 もう二十年以上も前のことだ。たまに行っていた古書店で、ある日店主と常連と思しき客が実に楽しそうに話をしていた。少し離れた所でなんとはなしに聞いていると、風呂に浸かりながら本を読むという話だ。
 浴槽に肩から上が出せるほどのすき間を空けて蓋をして、その蓋の上には乾いたタオルを広げて乗せておく。自分は湯船に入って両手の肘を蓋の上に置き、本を持って読むのだ。
 ところが折しも冬。両手を湯から出すのは寒くてつらい。本は片手で持ち、もう一方の手は湯に入れる。そして本を持った手が疲れたり、冷たくなったりしてきたら左右の手を交代させる。その時に、濡れた手で本を持つわけにはいかないのでタオルで拭くというのである。
 というようなことを客が話すと、店主が「そうそう、私もそうしてますよ」と応じている。
 聞いていた私は内心驚いた。
 二人の変わり者ぶりに、ではない。実は私も、かねて以前からまったく同じようなことをやっていたからだ。もとより私は何事にも控えめな性格なので二人の話には加わらなかったが、読書癖のある人間の考えることは同じだと思ったものだ。
 もちろん湯気の立ち込める浴室内なので、本に湯が掛からなくても滴が天井から落ちてきたり、本全体がふやけたりするのは当然だ。したがって読む本も読み捨てお構いなしの雑誌やどこにでもある文庫本になる。ただ、油断してはならないのは分厚い文藝春秋だ。何日もかけて読んでいるうち重くなってくる。新聞を読むこともよくあるが、これも要注意だ。一日分はたいしたものでもないが、気がつけば処理が大変なほどの量になっている。新聞はそんな怖ろしさを本来的に秘めているのだ。
 ある日の入浴中のことだ。文藝春秋だの週刊文春だのがまとまって浴槽の蓋に乗っていたと思ってほしい。わが家のユニットバスの蓋はちょっと柔(やわ)だった。湿気を含んだ本の重みで撓(たわ)み、片側が浴槽の縁(へり)から外れてしまったのである。あろうことか、私の目の前で大きく傾いた蓋の上から何冊もの本や雑誌が湯の中に崩れ落ちていくではないか・・・。
 今でもその時の光景は、テレビ等で北極海での氷山崩落の映像を見る度に思い出す。

 と、ここまで読まれた方は「読書の話か」と思われるかもしれない。だが表題のようにテーマは「風呂の愉しみ」だ。
 風呂といっても家風呂の場合だが、少なくとも私にとっては読書がことほどさように代表的な愉しみなのである。

 読書よりももっと一般的な「風呂の愉しみ」としては「歌を歌うこと」を挙げる人が多いのではなかろうか? リラックスした気分の上、とくに自分の歌が上手く聞こえることが大きい。しかしこれは単に錯覚にすぎない。あるボイストレーナーはネット上で「お風呂で歌い、エコーがかかり上手く聞こえてしまう。そんな偽りの自分は捨ててしまいましょう」とまで厳しく注意している。

 家風呂の愉しみの三つ目はパズルだ。パズル本とエンピツを持って風呂に入るが、これも場合によっては危険だ。なかなか解けないとそれだけでも頭に血が上ってしまう。逆にゆったりしていると眠り込んだりする虞(おそれ)もある。いや実際にあった。わが家のユニットバスは長さが短く、全身を伸ばして入ることができない。小さな鍋でレトルトカレーを温めるようなもので、体全体が一度に温まらないのが残念至極だ。しかし、ぬるめの風呂で眠り込んだ時にはそれが幸いした。でなければ身体が丸ごと水没していたところだ。なんとなく蕪村の「温泉(ゆ)の底にわが足見ゆるけさの秋」云々という句が思い浮かんだ。(※実を言えば、信州へのスキー旅行の宿でナントカかるたの中にあった句で、「温泉の底に溺れた子供が沈んでる」という駄パロディを作ってややうけしたことを思い出した。)

 銭湯の場合は家風呂に比べはるかに多くの愉しみがある。
 東京での学生生活を始める前、母から銭湯の入り方を教わったのを憶えている。風呂付きの下宿ではなかったので、タオルを携行して学校帰りに銭湯に立ち寄ったこともしばしばあった。
 銭湯で楽しいのは、もちろん風呂絵だ。富士山をはじめとする風景は定番だが、その銭湯の地域に関わる絵柄は多い。神奈川で暮らすようになって半世紀近くになるが、その間入ったことがある銭湯は何十軒になるだろうか? 彼方の富士山の手前に相模灘が広がる絵があった。横浜市内では、明治維新頃の横浜港辺りの浮世絵。そして北斎のあの「神奈川沖浪裏」の見事なタイル絵などが印象に残っている。
 学生時代に見た銭湯絵で忘れられないのは、画面の右から中央に向かって巨大なバナナが空中を飛び、それを画面左側からスーパーマンならぬスーパーウーマンが少し胸をはだけ、やはり空を飛びながら拳を前に突き出して巨大バナナを迎え撃つという、なんともケッタイな絵である。思えばいかにも六〇年代末らしい、横尾忠則を思わせる絵だった。あの絵がその後どうなったか、少し気になる。

 地域性といえば、銭湯の客層がまさにそれを表している。横浜の街中にある私がよく行く銭湯では背中や二の腕に彫物を入れた客をよく見かける。三十代から七十代くらいまで、行けば大抵いる。話をしたことも幾度かあるし、恐いと思ったことはない。それも場所柄だろうか。女湯から韓国語だか中国語だかが聞こえてくることもある。
 ある銭湯では、脱衣場の上の方に力士たちの手形が押してある額が掲げられていた。よく見れば「昭和廿七年二月」のもので、横綱・羽黒山の他、名寄岩、時津山など立浪一門だなと相撲ファンだった幼児の頃の記憶がよみがえった。銭湯のおかみさんに尋ねると「亡くなった先代が相撲が大好きでねえ・・・」と喜んでくれた。そんなこともあった。

 この数十年の間に銭湯は激減した。今生き残っている中には、サウナや薬湯、気泡風呂に超音波風呂、それに露天風呂等々、スーパー銭湯並みの施設を備えた銭湯も少なからずある。それももちろん悪くはないが、私はどちらかといえば昔ながらのたたずまいと設備で客は少なくても健闘している銭湯に愛着を感じ、バイクに乗って行くことが多い。同好の士はけっこういるようで、ネット上には関係のブログやツイッターなども多い。

 風呂の愉しみについていろいろ書いたが、一番の愉しみはと言えばそれは「暖かい湯に浸かること自体」である。蒸し暑い夏も、そしてもちろん極寒の冬も。
 雪の降り積もっている中で湯に入っている地獄谷温泉の猿たちの至福の表情を見ると、「うん、そうだろう。気持ちいいよなあ」と、ヒトとサルという種を超えて共感を覚えるのである。
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読み書きができるということ[その3]= クラスに外国籍の生徒がいることが皆のプラスになるように =

2022-03-21 14:27:26 | エッセイ・雑文(韓国・朝鮮関係以外)
 → 読み書きができるということ[その1] = 文字を知れば、人生も世界の見え方も変わる =
 → 読み書きができるということ[その2] = 99%と、取り残された1% =

  読み書きができるということ[その3]

     = クラスに外国籍の生徒がいることが皆のプラスになるように =

 さあ始めるよー! はい、皆さんおはよーございまーす。
 うーん、まだまだ寝足りないって顔の人が何人もいるなー。朝飯はちゃんと食べてる? 朝抜きの人は・・・少しいるか。朝シャンしてる人は、それなりにいますね。ん? 朝シャンするとはげるって? そんなことないんじゃないの? しなくたってはげる人ははげるし・・・。
 その話題は避けよう。そもそも、なんで朝の話をしたかというと、君たちの中で新聞を少しでも読んでから家を出る人がどれくらいいるか知りたかったからなんですよ。手をあげて・・・。うーむ、ずいぶん少ないねー。漫画、TV欄、スポーツ欄・・・。それ以外は? えっ、ゼロ!?
 この頃は新聞を月極めでとっている家も6割くらいに減ったそうで、昭和の人間としてはさびしいかぎりです。・・・というと、「通学途中のバスや電車内でスマホでニュース見てるからダイジョブ」などと本気で言ったりするでしょ? 全然ダイジョブじゃないんだけどね。まあその件はいずれじっくり考えてみましょう。

 さてと。今日は「読み書きができるということ」の3回目です。1回目は、59歳になって初めて識字学級で文字を教わった高知県の女性のことを話しました。歯医者さんに行った時に初めて自分の名前を教わった通りに受付で書いて、その通りに呼ばれてうれし涙を流したという話、憶えてますか? 2回目は、江戸時代頃、日本の識字率は世界でもトップレベルにあったといわれるその背景を考えてみました。
 当初の予定ではその2回で終わりだったのですが、最近毎日新聞が新聞協会賞を受賞したという新聞記事を読んであと1回延長することにしました。

 新聞協会賞というのは、日本新聞協会・・・って全国の新聞社の連合組織ですけど、そこで毎年全国の新聞の記事や報道写真などの中でとくに優れたものを選んで表彰するものなんですが、2020年の企画部門で「にほんでいきる」という毎日新聞の企画連載記事が選ばれたんですよ。
 どんなシリーズかというと、日本国内で6歳から14歳なのに学校に通っているかどうかわからない子どもがたくさんいるという話。どんな子たちかわかりますか? 「にほんでいきる」というタイトルがヒント。そう、外国籍の子どもたちですね。
 17年末の時点で在留外国人、つまり中長期在留者の数は250万人を超えたと思ったら19年末にはもう290万人を突破したんですと。2年間で40万人増です。いわゆる在日韓国・朝鮮人の特別永住者約30万人は入ってないですよ。大阪市の人口はその間あまり変わりなくて21年で約275万人だから、在留外国人の数に追い越されたことになります。意外に多いですよね。だからその子どもも多くて、8万人くらいになるそうです。
 日本国籍の子なら義務教育だから当然のように学校に行ってます。さて皆さん、義務教育というけど、君たちは教育を受ける義務があるの?
 「高校生だからもうない」って、君誤解してないかい? 小中学生だって義務はないんだよ。あるのは権利の方。憲法第26条に「すべて国民は、(中略)ひとしく教育を受ける権利を有する」と記されてます。小中学生に限りません。義務教育というのは、保護者が子どもに普通教育を受けさせる義務を負っているということ。つまり保護者の義務なんですよ。同じ26条の②に書いてあります。政経の教科書すぐ出せるかな? 巻末の資料にあるでしょ? はい、マーカーで塗っておきなさい。

 では、日本で暮らしている約8万人の外国籍の子どもの教育はどうなっているんだろう? ・・・ということで、毎日新聞の取材チームはまずアンケート調査を実施するんです。対象はとりあえず外国籍の子どもの住民登録が多い上位100市区町を抽出して調査して、その結果が19年1月に始まった連載の最初の記事で公表されたんですよ。それによると外国籍の子どもの約2割、約1万6千人が就学不明だったとのことです。それでも調査をしてるだけでもマシ、って言えるかどうか、100自治体のうち約4割は就学不明の子どもの状況を全く調べていなかった。一方就学不明児の全数調査を実施している自治体は3割。つまり、事実上ほったらかしの自治体が非常に多かったということです。
 では、そんな自治体がなんでこんなに多いのかというと、外国籍の保護者は日本の「国民」ではないので、日本で暮らしていても子どもに就学させる義務からは除外されているから。・・・ということで、自分たち日本の公務員の職務の範囲外とされたようですね。もしかして、最初から「あ、外国籍の子? じゃ関係ないよ」と切り捨てられたのか、それとも意識もされず視野にも入っていなかったのかはぼくはわからないけどね。気にはなっても、上司からの指示もないし調査を実施したり子どものいる家庭を訪問したりしてわざわざ仕事を増やすことはなかろうと思ったんですかねー。

 もしかしたら、君たちの中にも「外国籍の親子には気の毒だけど、日本の側に彼らの教育の面倒を見る義務はないんじゃないの?」とか、「義務はないんだから、彼ら自身で好きなように育てればいい」と情に流されないで冷徹に考える人もいるかもしれません。どうですか?
 しかし、親の義務もさることながら子どもを主体に考えてみると、実は日本も批准している国際人権規約に「全ての子どもが教育を受けるべきだ」とちゃんと記されているんです。「全ての子ども」ですよ。国籍は関係ナシです。このことは、直接子どもの教育に関わっている公務員や教育関係者には周知されていなかったのでしょうね。一般人となると国際人権規約という言葉を知ってる人はずいぶん少ない感じがするしねー・・・。

 この毎日新聞の記事に国会議員も注目して、2週間後に衆議院で「就学不明ゼロを目指して取り組むべきだ」と文科省を追及します。文科省にとってもこの記事は「『1.6万人ショック』だった」そうで、さっそく検討チームを設置して全国的な調査に乗り出します。その結果は8ヵ月後の19年9月に出て、就学不明の外国籍の子どもの数は約2万2千人にのぼることが判明します。

 ところで、『1.6万人ショック』と言いましたが、なんでショックを受けたと思いますか?
 人数が多いから? たしかに大きな数字ですよねー。それだけの子どもがほったらかしになってたわけだからねー。でも日本人の学齢児童、つまり6歳から14歳までの人口は2020年度の統計によると約968万人なので、外国籍の子どもの8万人という数は大雑把に言って約1%。前の授業で「99%という大多数の側だけではなく、1%の少数者の方にちゃんと目を向けなさいという話をしました。とくに政治家と公務員、そして教員は・・・と強調しましたよね。外国籍の子どもはほぼ同じパーセンテージですよ。
 その約1%の中で就学不明の子どもは約2割、ざっと眺めただけだと気づきにくいかもしれない。
 しかし、本来なら気づくべき文科省が気づかなかった。前に話したたとえで言えば「森」は見えても「木」は見えなかった。見ようとしなかった。そんな彼らが毎日新聞の記事を読んで初めて自分たちが「職務の範囲外」などと考えて見逃してしまった「森」の中の「木」の1本1本が実は生身の子どもたちで、その5人に1人はおそらく日本語の読み書きもできないまま放置されてきたことを知らされ、自らの鈍感さを思い知ったんでしょうね。それこそが「ショック」の核心だったと思います。
 正直に言ってぼく自身も鈍感な1人でした。たしかに文科省は責められますが、むしろ毎日新聞の問題提起が「よくやった!」と思いますね。
 目の前に取り組むべき問題があっても、それを「問題」と捉える認識がなければ見てないも同然だよね。
 実は、この企画記事を担当した記者さんによると、2004年頃大学の授業で教授に連れられて外国人労働者の多い町の小中学校に行って南米から来た子どもたちの宿題を手伝ったり、「託児所」と言ってたアパートの一室ですし詰めになっている10人以上の外国籍の子どもと会ったりしたことが企画の原点だったそうです。
 この記者さんは08年に毎日新聞に入社しますが、18年に政府が入管法の改正案を示した時、学生時代に出会った子どもの顔が浮かんだと記しています。「このまま放置していてはいけない」という気持ちに突き動かされてこの企画記事を書こうと決心したそうです。
 やっぱり、直接そんな子どもたちと接すると「なんとか力になってあげよう」と思うじゃないですか。でもその気持ちをずっと持ち続けて10年後に自分の仕事と結びつけて、その結果政治を変え社会を変え、多くの外国籍の子どもたちの生活や未来までも変えていくことになったとはスゴいよね。記者さんはもちろんだけど、これはまさに新聞記事が行政を動かし社会をより良くする力となった事例で、とくに中学・高校の新聞部員の皆さんには大いに参考にしてほしいですね。

 毎日新聞の取材班は、その後各地の外国籍の子どもの実態を取材していきます。
 連載記事を一つひとつ読んでいくと感動的なエピソードもある一方でその反対の事例もあります。
 たとえば、中学3年生の時に来日した中国籍の少年のことなんですが、10年前から日本で働いていた父親を頼って日本に来て二人暮らしを始めたのです。日本語が話せないので学年を下げて中学2年に編入して、やはり中国から来た生徒と2人で日本語を教わったものの、担当の先生は中国語が話せないし、分かるのは「あいうえお」程度。他の授業はクラスメートと同じ教室で日本語オンリーだからほとんどわからないよね。クラスメートと親しくなるきっかけもないまま結局2ヵ月後から不登校になって、その後除籍を申し出ます。退学の日、担任は心配そうに日本語で話しかけてくれますが、その言葉も理解できませんでした。退学後は通っていた日本語教室で知り合った年上の中国人少年と繁華街で遊ぶようになって、やがて中国人仲間の暴行事件に加担して逮捕されて久里浜少年院に送られてしまいます。
 この少年院には全国で唯一、外国籍の少年を対象とした国際科があって、日本語のほか、ごみ出しのルールとかの日本の習慣や文化も教えているのですね。彼は言葉が少し分かるようになると興味も広がって、ベストセラーになった「君たちはどう生きるか」は何度も読んだそうですよ。将来インターネットショッピングの店を持つという夢もできた、と記事には書かれています。
 彼の場合は最終的には救われましたが、もっと早くなんとかならなかったのかと思いますねー・・・。
 事実上ほったらかしの自治体が多かったと先に言いましたが、中には就学不明の家庭を訪問して不就学の子がいたら通学を働きかけている自治体もちゃんとあるんです。
 松阪市もそのひとつで、09年からは年に1回、住民登録があっても学校に通っていない子どもの家を訪ねることになっているそうです。
 市教委の指導主事のNさんという人が市内のアパートで、小学校に通わずゲーム漬けになってるフィリピン国籍の兄妹を見つけたのもそんな訪問調査の時でした。両親は共働きで、1日15時間近くも家を空けざるをえない状況で、兄妹は「学校に行きたくない」と訴えるし、両親は学校に行かせたくても行政にどう訴えるかわからないままで、結局兄妹は部屋でゲームに熱中する毎日になっちゃったんですね。Nさんは兄妹と両親に心を開いて語りかけて通学を勧めます。で、1ヵ月後に兄妹は小学校に通うことになって、お父さんも兄妹が学校に慣れるまで一旦仕事を辞めて登下校に付き添ったり一緒に宿題に取り組むようになったそうですよ。その後兄妹は「学校に来て良かった。友だちができた」と話してるそうで、これは読み終えてホントに「よかったね!」という記事でしたね。
 でも、なんといってもやっぱり日本語の壁があるわけですよ。学校によっては保護者が入学を希望しても、最初から「本校では日本語教師がいないから」と入学を拒否したり、「日本語が話せない子どもは受け入れられません」と門を閉ざす学校もあるそうです。なんでそこでせめて「ここはだめですけど、こうすればいいですよ」という話ができないんでしょうね? また入学が認められても、日本語での授業についていけるかどうかも心配ですよね。日本語で知能検査をやったら出来が芳しくなくて特別支援学級に入れられたり・・・という事例も多いようですよ。
 それから、日本語の壁と共に大きな問題はいじめなんですよね、残念ながら。
 例を挙げていくとキリがないね。実はこの企画記事はその後「にほんでいきる」というタイトルの本にまとめられて刊行されたので、ぜひ読んでみてください。・・・ということで区切りを付けます。

 もうひとつ。毎日新聞の「にほんでいきる」が始まった2ヵ月後から、産経新聞で「夜間中学はいま」という連載記事が始まりました。これも夜間中学に対する関心を高めることになった記事で、20年以降3校が開校したのもその結果かもしれません。でも20年末の時点で全国34校なんですね。ずいぶん少ないなーと思いましたが、どうですか?
 この連載も、夜間中学に通っている人や卒業した人を大勢紹介しているんですが、実に多彩なんですよ。年齢は10代から90代まで。国籍は実にさまざまで、最近はその数も急増していて、外国籍の生徒の比率は約8割を占めているそうです。日本語は話せても文字の読み書きができないという在日2世の80代のおばあさんも紹介されていますが、かつて最も多かった在日韓国朝鮮人は激減しているそうです。今は在日も日本生まれの3世・4世が主体だし、日本語の読み書きは当然できるわけです。
 日本人で夜間中学に通っているのはどういう人たちかというと、年配の人は家庭の事情で学校にほとんど通えなかったという人が多くて、中には戦災孤児だったという人もいます。年齢を問わず多いのがさっき言ったいじめなんですよ。
 新聞の社会面にはあいかわらず学校でのいじめ関係の記事が後を絶ちませんね。これについて今回は深入りしませんが、せっかく学校に入ったのにいじめにあっている外国籍の生徒はずいぶんいるようです。外国から短期留学生として来た欧米の生徒は歓待されるのにねー・・・。直接外国のいろんな話を聞いたり、少しでも外国の言葉を教わったりするとすごく生きた勉強になりますよ。そんな経験ないですか? 先生方もそういうふうに外国籍の生徒と共に学ぶような雰囲気を作っていってくれればと思うんですけどねー。
 この先10年くらい経ったらどういうふうに変わってるのかな・・・。
 じゃあこのシリーズはここでおしまい。それにしても、世の中にはいろいろ気の滅入ることが多いねー。もしかしたら自分もその原因を作っちゃってるかも、と気がついたらなんとかしましょう。相手のたにも、自分のためにも、ね。
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読み書きができるということ[その2] = 99%と、取り残された1% =

2021-01-07 21:26:50 | エッセイ・雑文(韓国・朝鮮関係以外)
 → 読み書きができるということ[その1] = 文字を知れば、人生も世界の見え方も変わる =

  読み書きができるということ[その2]
     = 99%と、取り残された1% =

 さて、授業の前半では59歳になって意を決して識字学級に入って文字を習い始めた藤岡さんの話をしました。自分で書いた名前がちゃんと読まれた時の感動とか、学ぶ喜びのあふれる文章を読みましたが、藤岡さんの目の輝きが思い浮かぶようですね。君たちの目が輝くのは・・・、授業の終わりのチャイム、ですか。やれやれ。まあ半分かそれ以上はコチラにも責任がありますがねー。

 えーと、後半の本題に入りましょう。ぼくが初めて藤岡さんの文章を読んで授業で紹介した1990年は国連が国際識字年に指定した年だったんですよ。つまり、識字こそがその年世界的規模で取組むべき重要課題だとして掲げられたのですね。
 一応日本史の授業なんで、識字を歴史的に見てみましょう。
 日本では明治末頃には就学率も9割を超えて、大多数の国民が読み書きのできる社会になっていましたが、世界全体で見ればそれは決してふつうとは言えません。今も国によってずいぶん差があるし、男女差が非常に大きい国もあります。
 ぼくが大学時代にスペインの研究をしている先生から聞いた話なんですが、その先生が以前スペインに行ってタクシーに乗った時、紙に住所を書いて「ここに行ってください」と言ったら、運転手さんが「スペイン人の私が字を書けないのに、なんで外国人のあなたがスペイン語を書けるのか?」と驚かれたそうですよ。50年代か60年代の初め頃の話だったかな。ヨーロッパでも、国にもよるけど少し前はそんなだったということですよ。
 一方日本は、江戸時代ですでに読み書きができる人はふつうに大勢いて、識字率はイギリスなどをも上回って世界一だったとか言われてますね。正確な資料があるわけでもないので1位と断定はできないようだけど、江戸時代は文化史でやったようにいろんなジャンルの読み物があったじゃないですか。「東海道中膝栗毛」とか「南総里見八犬伝」とか。これはその当時の世界でとても注目すべきことなんです。何がって、身分を問わずそれだけ本が読める人がいたわけだから。木版でたくさん印刷されて出回るんです。浮世絵もそうですが、木版印刷があってこその庶民文化の発展なんですよ。
 読み物や浮世絵だけじゃないですよ。地方の村には高札場があって、村人たちがお触書を読んでる場面が時代劇でたまにあったりするじゃないですか。つまり町人や農民の中にも読み書きのできる人がたくさんいたんですね。
 ・・・と聞くと、皆さんなんか誇らしい気持ちになりませんか? 「おれたち日本人はやっぱりアタマがいいんだな」と思ったりして。でもね、そう思うのはちょっと無邪気すぎかもね。第一、だからって自分自身がアタマがいいとはかぎらないし、また何よりも識字率の高さには歴史的社会的な理由があるわけだし。
 江戸時代に寺子屋がたくさんできたということは前やりましたね。あ、前にも言ったけど寺にある小屋じゃないですよ。「寺子」で生徒という意味ね。多くの子どもたちが寺子屋で読み書き算盤を習いました。といっても都市と農村で差はあるし、男女でかなり差はあったんですけどね。
 この寺子屋が明治以降の小学校と決定的に違う点は何かわかりますか? ・・・そう、義務制じゃないこと。教科書なんかも自由だし誰が教師をやってもオーケー。今の学校よりも塾に近いね。
 ここに持ってきたのは往来物、つまり寺子屋の教科書の代表格の「庭訓(ていきん)往来」で、大分前にぼくが古書店で買ってきたものです。4千円くらいだったかな? 自腹ですよ、自腹!
 

 最初のページを開けるとまずは新年の挨拶です。「春始御悦」つまり「はるのはじめのおんよろこび」から始まってて、読み仮名も付いてますが、現代人は訓練しないと読めませんね。奥付(おくづけ)を見ると印刷は慶応3年9月だから、西暦だと1867年の大政奉還直前。裏表紙には筆書きで山梨縣上萩原邑(むら)の萩原黌(こう)という学校名と「廣瀬萬作」いう名前が達筆で書かれてますよ。「山梨縣」とあるから、もう明治時代に入ってますね。1世紀半前の廣瀬少年もこれを読んで勉強したんでしょうね。最近インターネットで調べたら萩原黌は今は甲州市立神金小学校という学校になってることがわかったんで、いずれ持って行ってあげようと思ってます。

 さてと、話は戻って、なぜ江戸時代の親が義務教育でもないのに子どもを寺子屋に通わせたかというと、生活に役立つから。商人にとっては算盤は必須だし、お金の貸し借りの際なんかでも証文が読めなかったらダメだよね。寺子屋の教科書をみると、儒学関係とかの倫理道徳書もありますが、実用的なものが目につきます。人名や地名、その他いろんな分野の物の名前、それから手紙の基本文例集などね。コチラ(→右)は「商売往来絵字引」という本の一部です。絵が付いてる字典で、このページは鳥の部と魚の部にまたがってます。「鳩」や「鯉」はいいとして、けっこうむずかしいですよ。
 江戸も後期になると農民も商人同様の知識は必要になってきます。商品作物は文字通り商品ですからね。また村ごとに高札場があって、村人たちがお触書を読んでる場面は時代劇でたまにありますね。長崎出島のオランダ商館長が高札の文字を庶民が読んでいるのを見て驚いて、手記に書き残したという話もあります。
 こういった資料を見ると、江戸時代の子供たちもずいぶん勉強してたんだなあと思うでしょ? そこで画家としても知られている渡辺崋山が描いた「一掃百態図」中の寺子屋の絵を見てみましょう。下左です。寺子屋のようすを描いた絵ですが、子供たちの騒ぎようがハンパないよねー。お師匠さん、八の字眉になってお手上げ状態です(笑)。ついでに右の絵も付けておきました。コチラは渡辺崋山より半世紀ばかり前に生まれた金弘道(キム・ホンド)という李氏朝鮮時代の有名な絵師が書いた書堂(ソダン)の絵。寺子屋のようなものですが、この絵でも先生の前で子供が叱られたんでしょうかね。泣いちゃって先生が困り果ててますよ。いつの時代もどこの国でも子供はそんなに違わない感じだねー。もちろんスパルタ教育たんてのもあったけどねー。
      

 ただ、書堂で漢字を学んだ朝鮮の少年たちは主に科挙の受験をめざす地方の有力者の子弟で、中国でも同様ですが中は。中国ではそんな支配者階級、知識人階級を文字通り「読書人」と呼んでいました。まさに、ですね。漢字の読み書きができることは特権階級の誇りだったわけです。中国や朝鮮・韓国で広く一般庶民に文字が浸透するのは中国では簡体字、朝鮮・韓国ではハングルを積極的に教育するようになった近現代からです。

 話がいろいろ広がりましたが、要するに、江戸時代の識字率が世界でもトップレベルだったということは、それだけ貨幣経済・流通経済が早くから発達していたということですよ。それって地理とか風土とかと大きく関わることじゃないですか。そんな条件に恵まれなかったらアタマがよくても文字は書けなかったり文字自体もないですよ。文字のない社会でもアタマのいい人がいたことは縄文人のいろんな発明や発見を考えてみればわかりますよね。
 それに、先に言ったように「おれたちはアタマがいいんだ」なんてことを他の人に言うのは絶対ダメ! 相手の怒りや反発を買ったり、軽蔑されたりするだけですからね。そんなことを言ったら恥ずかしいかぎりです。
 ところがところが、人もあろうに日本の総理大臣がそんな発言をしちゃったことがあるんですよ。
 1986年当時の首相、と言ってもわからない人が多いですよね。わりと最近、2019年の11月29日に亡くなった人。はい、中曽根康弘首相ですね。当時の政策で憶えてるのは国鉄の分割民営化でJRになったこと。あと専売公社と電電公社もJTとNTTになった。
 その中曽根首相が1986年に自民党全国研修会でこんなことを言ったんですよ。

 「日本はこれだけ高学歴社会になって、相当インテリジェントなソサエティーになってきておる。アメリカなんかよりはるかにそうだ。平均点から見たら、アメリカには黒人とかプエルトリコとかメキシカンとか、そういうのが相当おって、平均的にみたら非常にまだ低い。日本は徳川時代には識字率が50%もあったくらい教育が進んでいたが、その頃ヨーロッパの国々はせいぜい20から30%、アメリカでは今でも黒人では字を知らないのがずいぶんいる。」

 どうですか? ずいぶん失礼な発言ですね。アメリカの政府や市民からは抗議の声が上がって、中曽根首相は釈明したんだけどそれも問題があったり、結局はていねいに謝罪して一応は治まりましたが・・・。
 ここでぼくが君たちに言いたいのは、日本の識字率が99%だったとして、その99%という数字を誇ってはいけないということ。あなたが政治家や公務員の場合はとくに、です。
 なぜかこの頃生活保護を受けている人などの社会的弱者に対してずいぶん厳しい主張がSNSなどで目立つじゃないですか。「税金の無駄遣いだ」とか「自己責任だろ」とか非難したりして・・・。
 だけど、藤岡さんを見ればかるように、1%の人たちもそれぞれの事情があるわけだし、3割程度の少数派だったらまだ周りに自分と同じような人がいるけど、ごく少数だとはるかに大変ですよ。多くの人の目には見えにくい、そんな少数者に目を向けて必要な策を講じることこそ行政の役割じゃないですか。本当に援助の手を差し伸べてほしいのはそういう人たちだから。それに、今99%の側にいる人たちもいつ1%の方になっちゃうかわからないでしょう。そんな1%の人たちにちゃんと目を向けて手厚く支援することは、結局は99%の人たちにとっても大きなプラスになるんですよ。
 あ、ちょっと政治家の街頭演説っぽく熱弁を振るっちゃいましたね。
 ぼくら教師も政治家や公務員とじつは同様なんで、たとえば自分の担当クラスは平均点が高いなんて自分の手柄みたいに思ったり言ったりしちゃダメで、勉強に気持ちが向かわなくて成績もよくない生徒の面倒を見なければと・・・、いや、それがなかなか難しいというかなんというか、モゴモゴ・・・。

 話は少しそれますが、イエス・キリストの迷える羊の話知ってますよね。99匹を残しておいてでもいなくなった1匹を見つけるまで捜すという話。最初にこの話を知った時ぼくは「なんで大多数の方をほったらかしにするの?」と思って意味がわからなかったんだけど、今考えると多くの人々の心をとらえたのは、イエスの話を聞いた彼らは自分こそその1匹の羊、つまりずっと見棄てられてきた1%の側の人間だという思いがあって、そんな自分にこの人は初めて目を向けてくれたと思ったんでしようね。

 さて、識字についての授業はこれで終わり、・・・のつもりだったんですが、最近これと関連する問題があることに気がついたんですよ。たとえば藤岡さんのように義務教育をちゃんと受ける機会がなかった人などが勉強している夜間中学が全国に30数校あるそうですが、今そこにどんな人が多く通っているか知ってますか? わかる人もいるね。わからない人は以前のぼくと同じ。くわしくは次の授業でやることにします。
 はい、おしまい。

 → 読み書きができるということ[その3] = クラスに外国籍の生徒がいることが皆のプラスになるように =
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読み書きができるということ[その1] = 文字を知れば、人生も世界の見え方も変わる =

2021-01-06 23:51:14 | エッセイ・雑文(韓国・朝鮮関係以外)
  読み書きができるということ[その1]
     = 文字を知れば、人生も世界の見え方も変わる =

 はい、始めるよ。みんな席についてね。
 やっぱり教科書に沿ってた授業よりも、その合間にテーマ学習っぽい授業をやる方が楽しいね。君たちはどうですか?
 今日は、まず30年くらい前に別の高校でやった日本史の授業をほぼそのまま再現してやってみます。テーマは「読み書きができるということ」。皆さん、高校生だと、いや小学生でもみんな読み書きができるのはあたりまえと思っているでしょ? ところが・・・という話です。長くなりそうなので今回と次回の2回に分けることにします。

 まず、プリントを1枚配りますから読んでみてください。あ、冒頭部分だけ筆者が原稿用紙に書いたそのままのコピーが印刷されてますから、とりあえずそれを見て見てみましょう。

 一見して、どういう人が書いたと思いますか? 小学生? たしかに、率直に言って上手な字じゃないですよね。
 これはぼくが参加したある研究会で配布された資料集の中の文章です。なんということなく読み始めたんですが、その内容に引き込まれて、これだけですごく感動したんですよ。それでぜひ生徒諸君にも読んでほしいと思ったわけです。
 で、書いた人は小学生とかじゃないですよ。先を読んでいってください。年齢も書いてあるよね。そう、藤岡喜美さんという方ですが、この作文を書いた時が68歳ですよ。タイトルの「識字学級」はわかりますか? 読み書きができない大人に文字を教える学級。藤岡さんは1918(大正7)年生まれなんですが、9歳の時にお母さんが亡くなって、その後は炊事や洗濯、子守り奉公などで忙しくて全然小学校に通ったことがないのですよ。それで字も書けないまま何十年も過ごすのです。

 君たちは「その気になればいつでも勉強できたんじゃないの?」と思うかもしれない。でもね、ほとんど100%の人が読み書きできることが前提で動いてる日本の社会で、大人なのに字を知らないということがどんなに恥ずかしく、精神的な圧迫があるかはふつうの人にはわからない。だから、たとえば役場や病院に行ったら「ここにお名前を書いてください」とか言われるじゃないですか。そうするとごまかすしかないわけですよ。「眼鏡を忘れてきたので・・・」とか「指を怪我したので・・・」と言って代わりに書いてもらう。
 そんなふうにして長年文字を避けて暮らしてきた人が「よし、自分も文字を習うぞ」と決心することは、幼稚園や保育園などで文字を習い始めた子どもとは全然比較にならないほどの覚悟を要することなんです。
 作文の中で藤岡さんはその最初の時のことを書いてますね。読んでみましょう。

 わすれもしない(昭和)52年6月20日、ともだちや先生にさそわれて、しきじ学きゅうで、生まれてはじめてエンピツをとりました。まず私は、自分の名前もかけませんというと、先生のおどろいたような顔を、きのうのように思い出します。

 こうして藤岡さんが識字学級に入ったのが59歳の時です。やはり、仲間の存在が大きいかもしれませんね。名前の前に「高知県同教」とありますが、「同教」ってわかりますか? 地方自治体の同和教育研究会のこと。同和教育とは、被差別部落に対する差別をなくすことを目的とした人権教育。明治初期の四民平等政策や大正時代の水平社の所でやりましたね。それから島崎藤村の小説の・・・、そう、「破戒」でも。とくにそうした被差別部落の人たちの中に初等教育をちゃんと受けられなかった人が多いので、その組織内に識字学級が置かれているんです。高知県では1970年にスタートした・・・って、ずいぶん遅かった感じですよね。

 研究会の場で聴いた識字教育担当の先生の話では、それまでずっと文字や筆記用具を避けてきた人が初めてエンピツを持つと手が震えるんだそうです。横棒1本引くにもマス目から大きくはみ出したりして・・・。君たちはひらがなの勉強を始めた頃の記憶はありますか? ぼくはほとんど憶えてないけど、小さい子の書く字を見るとけっこうザツな書き方もありますね。「ま」の字の最後を逆に巻いたり、「ほ」の字の右側を「ま」にしちゃったりとか。ぼくが苦手だったのは「を」の字だね。そうそう、高校生の君たちの書いたひらがなにもたまに首をかしげるのがあるよ。「い」か「り」か見分けがつかなかったり、「や」かと思ったら「か」だったり。「れ」と「わ」と「ゆ」の3通りに読める字を見た時にはウームとうなりましたよ。

 識字学級で勉強を始めてしばらく経ったある日、藤岡さんは歯医者に行きます。受付でいつものように「目がみえんき、書いてください」と言うんですね。すると「備え付けの眼鏡を使ってください」と言われる。それで藤岡さんはしかたなく「いっしょうけんめい、はじめて」自分の名前を書きます。

 まっていたら、藤岡喜美さん、と、よんでくれました。自分でかいた字がちゃんと、つうようしたことが、うれしくて、うれしくて、なみだが出てきました。

 君たちは外国の人と英語で話したことがありますか? あ、君ある? うれしかったでしょ? ぼくも初めて独学してた朝鮮語が初めての海外旅行で北朝鮮に行った時、現地で通じてすごくうれしかったですねえ。しかし、藤岡さんが自分が書いた名前が通用した時の喜びははるかに大きかったんじゃないかなあ。
 受付の人はまさかこの人が字が読めないとは全然思ってもみないし、もちろんうれしくて涙が出たという気持ちもわかるわけはない。皆さん、この落差を考えてみてね。いや、感じ取ってほしい。藤岡さんという個人のこのエピソードに彼女の人生だけでなく、日本の近代史の中でなおざりにされてきた問題が凝縮されているように思います。

 こうして文字を習い始めた藤岡さん、テレビを見たり手紙を書いたりすることが本当にうれしくて、「生きがいをあたえてくれました」と記していますね。
 識字学級の遠足の時には「生まれてはじめて、しのまねごとが出きました」と、次のような詩を作文の中に書いています。

  えんそく
  やすいけいこくへ
  しゅっぱつ
  バスにゆられながら
  まどごしにながめる
  モミジのあざやかさ
  山はまっかに
  もえている
  私の心は
  ふうせんのように
  高く上る
  うきうき、ふわふわ
  たのしい一日でした


 おそらく、文字を知っていると文字が溢れている街の景色だけではなく、自然も含めて世界の見え方も違ってくるのかもしれませんね・・・。

 さて、皆さん。ここまでが約30年前の授業のほぼ前半です。

 この1990年という年はたまたま国連で「国際識字年」として指定された年だったんです。
 ということで、後半は世界に視野を広げて考えてみます。そして現在、つまり2020年代の日本と世界の識字をめぐる問題も考えてみることにします。

 → 読み書きができるということ[その2] = 99%と、取り残された1% =
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高齢者になって初めてわかった大切かもしれないこと

2020-11-29 23:26:03 | エッセイ・雑文(韓国・朝鮮関係以外)
高齢者になって初めてわかった大切かもしれないこと
     = 自分本位?のシニア向け公開講座 =

 こんにちは。今日はいつもの韓国・朝鮮の話じゃなくて、年の話をします。年齢のことね。あ、あまり楽しい話題じゃない?・・・ですよね。皆さんもほぼ私と同じ世代ですから。
 実は私、昨年一月満七十歳になったんですよ。還暦が数え年で六十一歳だから、古稀もてっきり数え年七十一歳つまり今年かと思ったら、古稀は数え七十歳、つまり一昨年だったんですね。初めて知りましたよ。

 それにしても、時間が過ぎるのが早いですね。最初三十歳頃に以前より時の過ぎるのが早くなってるなと思ったのですが、その後はどんどん早くなっていって、この十年なんかあっという間に過ぎた感じで・・・。
 もしかすると、身体の動きが鈍くなると時間を感じる密度もまばらになるんでしょうか? 小学生の頃は授業の合間の10分ほどの短い休憩時間にサッと外に出て遊んでサッと教室に戻ったりしてましたからねー。病院などの待ち時間など子どもが我慢しきれないのも当然でしょう。逆にこの年になるとボーとしてるだけで一時間なんかすぐ過ぎちゃいますよね。
 若い頃読んだ筒井康隆の短編小説で「急流」という作品があって、これが時間の進み方が加速度的に早くなる話で、「朝便所に入って出てくるともう夜になっている」とか、「家を出る時には雪が降っていて会社に到着した時は夏のまっさかりで汗びっしょり」というほどで、最後は「二〇〇一年から先に時間はなかった。そこでは時間が滝になってどうどうと流れ、落ちていたからである。」で終わるんですが、ホントにそんな感じ。([右]「筒井康隆全漫画」より)

 さて、年を取ると体が利かなくなってきたり、記憶力が衰えたりというのは当然のことで、皆さんも実感されているのではないでしょうか?
 人の名前が出てこないことはよくあるというか、ありすぎ。子どもの頃テレビを見ていて母親がよく、「ほら、あの女優よ、あの、・・・誰だっけ?」などと騒いでいた姿を思い出しますが、今は私の番。言葉のど忘れは固有名詞から普通名詞に進んでいきますが、今の私はまさにその段階です。
 私はもともと物覚えがよくなくて失敗談もいろいろありますが、二十年ほど前に愕然としたことがありました。
 ある日図書館にいた時、ど忘れしたことを思い出そうとしていたのです。ところが結局思い出せないまま外に出てまもなく、ふと今まで自分が何を思い出そうとしていたかが思い出せないことに気づいたのです。ややこしいですが、わかりますよね? いやあ、皆さんもそこまでいかなくても、それに近いことはあるんじゃないですか? 忘れちゃいけないと思ってメモしておいたのに、メモ用紙をどこに置いたか探したりとか・・・。そういえばバカボンのパパの名セリフに「忘れようとしても思い出せない」というのがありましたねー・・・。

 視力で、これも年のせいかな?と思ったのは、四十代だったか五十代だったか、「逢魔が時」とよく言われる淡い夕闇の時間帯がどうも短く感じるようになったんです。なんか明るかった状態がストンと暗くなる感じで。もしかして、と思い起こしたのは高校の生物の授業で習った視細胞のことですよ。視細胞には棒細胞と円錐細胞の二種類があって、棒細胞は明暗を感知し、円錐細胞は色彩を識別するということですが、今は桿体(かんたい)細胞、錐体(すいたい)細胞と言ってるようですね。で、この桿体細胞が衰えてきたというのがやっぱりこの原因のようですよ。皆さん、感じていましたか? 少し前、私よりそれなりに年下の美術の先生とそんな話をしていると、色合いの見え方も鈍くなるそうですよ。つまり錐体細胞の衰えですね。これは気づいてなかったです。そういえば、数年前に東京都美術館にモネ展を観に行ったことがありましたが、そこで初めて見た彼の最晩年の作品がなんかヘンなんですよ。明るく澄んだ色調という印象だったのが、暗くて濁った感じになっていて・・・。彼は白内障を患っていたそうで、それで見え方も変調をきたしたようですね。私も気づかないうちに色の見え方が変わっているのかもしれません。

 皆さん聴力はいかがですか? 小さい声が聞こえにくくなるだけじゃないんですね。何十年も前、テレビを見ていたら子どもから高齢者まで三十人くらいだったか集めて聴力検査をしてるんです。最初は全員手を上げていて、ピーという電子音を徐々に高くしていって、聞こえなくなった人は手を下ろすというものなんですが、手を下ろすのはまさに高齢者から順々になんですよ。私も中年グループの人たちとほぼ一緒に続いて手を下ろしましたが、小さい子はずっと手を上げたままなんですよ。
 そしてつい先日の話。「宮本から君へ」という映画を観に行ったら、登場人物が感情むき出しでやたらに怒鳴ったりするんですよ。実際そんな人が大勢いるものでしょうかねー?・・・という話は措(お)くとして、どうもその怒鳴り声が音が割れる感じで意味が聞き取れないんです。周りの人を見たらちゃんと聞き取って反応してるようだし、これも聴力の衰えのあらわれかなと帰ってググってみたら案の定でした。
 あるサイトに「加齢性難聴の4つの特徴」というのが上げられていました。
  ①高い周波数が聞えない-高い音から聞こえなくなる。
  ②リクルートメント現象-小さい音は聞こえにくく、大きい音はうるさく感じる。
  ③周波数分解能が落ちる-ぼやけた、割れた、歪んだ音に聞こえる。
  ④時間分解能が落ちる-早口の声は、分かりにくくなる。
 ・・・というもので、なるほど、思い当たることばかりですよ。

 ところで、皆さんの中で蚊によく刺される方はいらっしゃいますか? 私は十数年前から蚊に刺されなくなったなと思ってました。ところがある時自分の足の甲に蚊がとまっているのを見たんですよ。でも痛みも痒みもナシ。刺されなくなったんじゃなくて、刺されても感じなくなってたんですね。ハハハ。それも高齢化のためだと物識りの知人が言うので調べて見たら、過去何百回、何千回と刺されまくった高齢者は体内に免疫ができて痒さを感じにくくなるんですと。これっていいことのようにも思えますが、そうともいえないかもしれません・・・。

 と、ここまで高齢化による身体的衰えや感覚の衰えについていくつか話してきましたが、実はここまではなが~い前置きで、本論はここからなんです。すみません。

 この夏、名古屋に行った時久しぶりに学生時代の友人に会いました。クラス会の折に顔を合わせたりもしていますが、二人だけでいろいろ話したのは学生時代以来。つまり半世紀ぶりです。でも、何年経っても人は変わらないものですねー。いろんなことを昨日の話の続きのように話しましたよ。
 その当時、つまり一九七〇年頃、前後の脈絡は記憶にありませんが、彼の話した言葉は今も覚えています。
 「僕は大人になっても若者に対して『キミも大人になったら分かるよ』というような大人には決してならないぞ」
というのがその言葉です。
 私は高校教員という仕事柄ということもあって、座右の銘ということでもないですが、しばしばこの言葉を思い出しました。「キミも大人になったらわかるよ」という言葉は生徒とのコミュニケーションを自ら閉ざす「逃げ」の言葉になってしまいます。まだ大人になっていない若者に通じる言葉を、どこまでも探すのが教師の務めではないでしょうか。それで必ずしも通じるわけでもないですが・・・。

 そして今、先に言ったような高齢化による劣化を考えていてふと思い当たったことがあるのです。
 それは「大人になったら分かる」どころか、逆に「大人になって分からなくなってしまったこと」がたくさんあるんじゃないか?ということ。
 たしかに、長年生きてきた人は経験知を豊富に蓄積しているのは事実ですが、その一方でいろんな物事を感知する能力などは高齢者はあきらかに衰えている、あるいは失われているのではということですよ。
 視力や聴力が衰えたというだけじゃなくて、たとえば場の雰囲気を読むとか、人の心を推し量る感度なんかもそうかもしれませんね。それが劣化すると自分だけ我を通して周りの人たちを困らせたり、またそのこと自体に気がつかなかったり・・・。「頑固おやじ」というのも元々の性格よりもそんな年のせいかもしれません。それ以外に、芸術的感性、文学的感性なども同様でしょうね。若い時だから分かること、感じることができるものは必ずあった。それが失われただろうことは分かるとしても、それが何だったかはもう分からない。いや、おおかたの大人は、それが失われたことさえ気づいていないのではないでしょうか? さびしいことですけど、こればかりはどうしようもありません。ただそのことを多少なりとも自覚して若い人たちに接すれば少しはいいかも・・・。
 あまり経験知を振りかざさないことと関連して、最近何かで「年寄りは若者に教えたがる傾向があるが、それはやめることです」という注意を読みましたがごもっともです。私なんぞ、あきらかにその傾向がありますからねー。それからよく言われるのが高齢者の話は長いということ。私もよく言われますが、今回もずいぶん長くなってしまいました。どうもすみません。では終わります。あ、最後にひとつ付け加えますと・・・ってこれは冗談。
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江戸時代のB級文芸-黄表紙のおもしろさ

2020-04-20 23:50:02 | エッセイ・雑文(韓国・朝鮮関係以外)
  江戸時代のB級文芸-黄表紙のおもしろさ
     = 自分本位の仮想授業記録

 さあ、授業を始めるよー、席についてね。
 今日は学校の試験とか入試とかには関係がないし、みんなリラックスしていきましょう。
 あ、〇〇君、机の下の漫画はしまいましょう。見えなくてもわかるんですよ。君たちが真剣な顔で下を見てるのは漫画を読んでるかゲームをやってる時でしょ。

 さてと、今日のテーマは江戸時代の漫画・・・みたいな黄表紙のこと。たいていの人たちは初耳かな? 江戸時代の読み物のジャンルのひとつなんだけどね。日本史受験の人はもしかして憶えてるか。江戸時代の代表的な小説でたぶん知ってるのは・・・って知らないと困るのは上田秋成の『雨月物語』や滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』あたりかな? これらは読本(よみほん)ね。それから滑稽本の代表が十返舎一九の『東海道中膝栗毛』。しかし、こういうの古文の教科書にありますかねー? ああ、『雨月物語』の中の「浅茅が宿」が載ってる教科書があったか。だけど全般的に江戸時代の文学は芭蕉の『奥の細道』や井原西鶴があるくらいで、ほとんどは鎌倉時代までの、むずかしくてカクチョー高い作品が大半を占めているよね。なぜかというと国語教育の歴史と関係ありそうですが、その話はまた今度。
 で、これから見る黄表紙ですが、十八世紀の後期以降に流行した絵入りの読み物です。内容はいうと、「むずかしくてカクチョー高い」の正反対。だから教科書には載らないよね。でも多くの人に読まれたのは今の漫画と同じです。

 では実際にすぐ読めそうなのをひとつ読んでみましょう。はい、プリントを回してね。
 これは1780年刊行の『虚言八百万八伝』(うそはっぴゃくまんぱちでん)というホラ話を集めた本の抜粋です。「万八」とは、一万のうち八つしか本当のことを言わないほどの嘘つきという意味。「千三つ」と同じです。あ、せんだみつおは知ってる? この本の作者は四方屋本太郎(よもやほんたろう)なんですが、内容に合わせてつけた仮の名前みたいですね。
 万八が語るいろんなホラ話の中で多いのは動物を生け捕りにする方法。
 まず、スズメの捕り方からゆっくり読んでみましょう。原文のままですよ。

 万八がいはく、雀を捕るには、庭のくぼみくぼみへ酒をこぼし、また酒めしを沢山庭の内に散らしておけば、雀おびただしく集まり、酒めしをしたたか食い、さてかの酒を水と思ひ飲むほどに段々酔いが廻って、あまたの雀が足元はよろよろと、立つ事もならぬ様になるのを見すまし、カヤやナツメなどのたぐひを枕にしてこころよくねいります。みな皆いびきをかくのを合図に、高ぼうきにて掃き寄せてかごの中にパラパラパラ。

 どうですか? 笑ってるところを見ると意味わかったよね。君たち、ナマの古文を読んですぐわかったこと、今までにあったかな? 初めてだとしたら、それだけでも感動モノじゃないですか。
 絵を見てください。こんなくだらない(?)話でも、けっこう凝ってますね。当時は木版印刷ですよ。大勢の人が制作に関わって大量に印刷され、世間に出回るんです。カクチョー高くなくてもおもしろければけっこう・・・。しかし考えればたいしたものです。それだけ文字が読める人がたくさんいたんですから。パーセンテージでいえば当時世界一だったそうですよ。ページの大部分が絵で、今読んだ本文はどこだ、と疑問を持った人いませんか? いちばん上に注目。ミミズのはったような文字がありますね。かな文字ですが、今は使われていない文字が多いので読むには少し勉強が必要です。

   

 次もやはり鳥の捕まえ方。今度はワシです。

 鷲のとりやうは、猿の皮を丸むきにして、中へ砂利小石などを一ぱいつめこみ、石のこぼれぬやうに皮をぬひ、岩の下などに置ていきていたやうにうごかすと鷲が来て引き裂き、中の小石を猿の肉と思ひ、無性につめこむと、腹が重く成て、とぶ事もならずうっかりとあきれて「ホンニわしとした事が」と云ふをあいづに、いけどる。

 これまた前の話同様に、いやそれ以上に「そんなバカな!」という話ですね。よくこんなホラを思いついたものです。
 私思うに、なんと言ってもこの話のキモはワシが「ワシとしたことが」というこのオヤジギャグにありますね。しょっちゅうオヤジギャグを飛ばしてはヒンシュクを買っている私としては時代を超えて強い共感を覚えますよ。いいですか皆さん。私のオヤジギャグは過去何世紀にもわたる日本の庶民文化の伝統をちゃんと受け継いだものなんですよっ!

 すみません。ちょっとコーフンしすぎちゃいましたかね。
 『虚言八百万八伝』にはまだまだ紹介したい話があるんですが、時間の都合上別の黄表紙作品に移ります。

 今度はもう少し長めの『莫切自根金生木』(きるなのねからかねのなるき)。作者は唐来参和(とうらいさんな)で、刊行は一七八五年です。
 この書名を見て気づきましたか? そう、回文になってますね。君たち何か知ってるかな? しんぶんし、たいやきやいた、わたしまけましたわ・・・。スブタつくりモリモリ食ったブスなんてのも・・・。これ初耳ですか?
 この作品は内容だけ紹介しますね。
 主人公は大金持ちの商人萬々先生。黄表紙の代表作とされる恋川春町の主人公金々先生の隣の隣に住んでいます。ところがお金がありすぎて逆に万事がわずらわしいのが悩みのタネ。で願いはというのが「三日なりとも貧乏せば・・・」なんですよ。うらやましいですねー。そこで最初の絵を見てみましょう。部屋にはさすがに千両箱がたくさん積まれてますよ。中央、柱の向こうで萬々先生が拝んでいるのは貧乏神の絵像です。「をんぼろをんぼろ、貧乏なりたや、そわか」と唱えてます。左手の縁側では、それまで掛かっていた大黒様の絵像を女中が捨てています。右側の妻は「旦那のお顔も、このごろは貧相におなりなされた」とおべんちゃらを言ったりしてます。


 その後の萬々先生はなんとか財産を減らそうとあの手この手と苦心惨憺するんですよ。
 ところが遊郭に行って大金をばらまいたら逆に警戒されるし、その帰りに駕籠に乗ったら運悪く?先客の忘れ物の大金入り財布があるので知らんぷりして降りたら駕籠かきが追っかけてきて無理やり押しつけられたり・・・。
 あるいは米相場に手を出します。損をするのが目的なので、手代たちに命じて高い値で諸国の米を買い置きしますが、やがて大雨が降り続いて米価は高騰し大儲けとは、「こばんだものだ。困ったものだと聞こえるか」と萬々先生も低レベルのオヤジギャグを口にしてます。
 世間には富くじ、つまり宝くじですっからかんになる人もいるそうだからと、今度も手代たちに買いに行かせます。それも当たりそうにない番号を選んで。たとえば同じ数字が並んでるとか。確率的には同じなんだけど、当たる気がしないじゃないですか。ところがこれまたハズレなしで全部当たっちゃうんですよ。手代も「わたくしどもが不働き、申上げようもござりません」と謝ったりしてます。
 これ以外にもいろいろ散財をはかりますが、ことごとく裏目となった萬々先生、最後は蔵の金銀すべてを海へ捨てさせたところ、捨てた金銀が空中に飛び、世界中の金銀も集まって萬々先生の金蔵に押し寄せて来て「ウンウン」「ウンウン」とうなり声を上げたりといった事態となります。・・・って「ありえねー!」って言いたくなるよねー。やむなく萬々先生夫婦は夜逃げ?をはかりますが、先生に以前金を借りた後金持ちになった人たちが見つけて利息つきで返済金を押しつけて行きます。とことん金が入ってくる運命ですよ。妻いわく「ホンニ金持の女房には何がなるか」ですと。
 結局自分の家に帰った萬々先生夫婦、最後のページの絵のように千両箱で一杯の部屋であいかわらずの憂い顔ですよ。

 以上ですが、どうでしたか?
 一応日本史の授業なんで、当時の社会についてちょっと触れておくと、当時は幕藩体制の当初の基本だった「米&農」という時代から「金&商」が主流の時代になっていた、つまり金がモノを言う時代になっていたんですね。だからそれゆえの問題を幕府も諸大名も、そして多くの人々も抱えていたということです。
 ホントに荒唐無稽なホラ話ですが、これをまったく裏返しにしてみてください。すると紛れもない当時の現実が見えてくるはずです。
 じゃ今日はここまで。あ、オヤジギャグには寛容に、ですよ。

※オマケ。向学心旺盛な人のために、『虚言八百万八伝』からもうひとつだけ紹介します。信濃の冬の寒さを伝える「つらら酒」の話です。

 万八信濃の国に二三百年も住みける由。信濃はしごく寒い国にて、冬の内は酒屋で樽の飲み口を抜くとツツと走り出る酒が、ぢきにシャッキリと氷るゆへ、それを山刀にてポキポキと打ち折り、その折れた酒を縄にて五本十本ないし七本づつ編みて置けば、酒を一連取ってこい二連とって来いと買ひにやって、火で溶かして飲むといへり。
 ある時、何者か瀬戸口へよき酒を落とし置きたりとて拾ひとり、火に溶かして飲むに、とんと酒の味にあらず。よく聞けば熱病やみの小便のほこりたるなり。万八胸を悪くしてたちまちその小便を吐きしが、その反吐、下につかぬ内に又氷りついて、大いに困ったとのはなし。


 これはもう、なんともコメントしようがありません。ハハハ。
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≪論述問題(笑い話? クイズ?)から考える≫ 酒が気に入った村長が欲しがったのは水の入ったビンだった

2020-01-09 22:30:55 | エッセイ・雑文(韓国・朝鮮関係以外)
≪論述問題(笑い話? クイズ?)から考える≫

  酒が気に入った村長が欲しがったのは水の入ったビンだった


 前置きナシ。さっそく問題に取りかかってほしい。

 次の文章を読み、設問に答えよ。

 発展途上国の奥地。文明から取り残されたようなその村では、酒を造って飲むという文化がなかった。その村に入った日本人M氏は、リュックから焼酎のビンを取り出して村長の持つ器に注(つ)ぎ、水で割った。
 「おお、これは美味い! 身体が温まってきて舞い上がるようだ。」
喜ぶ村長に、M氏は別のビンを出しながら「では、これはどうですか?」と勧めた。中身は梅酒。度数が高かったので、同じように水で割った。
 「うん、これもすばらしい! 味も香りも申し分ない。」
 村長はその梅酒の水割りを飲みほした。
 酒のビンはもう一本あった。極上のウイスキーだ。M氏は水割りにして差し出す。
 「いやあ、本当にいい心持ちだ。こんなものを飲めるのは実にしあわせだ。ところで、もしよかったら、そのビンを私にくれないだろうか?」
 村長が指さしたビンは、酒が入った三本のビンではなかった。それは四本目のビン、すなわち水の入ったビンだった。

【設問一】なぜ村長は四本目のビンを欲しがったのか?
【設問二】村長彼自身はその選択が間違っていたことに気づいていない。では彼はなぜ間違えたのか? 論理的に説明せよ。


 この問題は、十数年ほど前だったか、ある大学の推薦入学試験で出題された論述問題をアレンジしたものである。
 とりあえず、解答例から。

【設問一】村長は、三種の飲み物に共通して入っている四本目の液体が自分を「いい心持ち」にしてくれたエッセンスだと思ったから。
【設問二】単純化すれば次のように数式化することができる。
 aは焼酎、bはブドウ酒、cはウイスキー、そしてxは水で、0は酔った状態を示す。
  ①a×x=0
  ②b×x=0
  ③c×x=0
 この①~③が成り立つ条件を考えてみよう。
 これは簡単。x=0 であればよい。・・・と多くの人は即座に答えるだろう。
 しかし、これだけでは不十分である。
 xの数値を問わずa=b=c=0 でもよいのだ。
 つまり、「いい心持ち」にさせるエッセンスは、第四のビンの液体に含まれているという見た目でわかる推定以外に、第一~第三のビン(a~c)のそれぞれに個別に含まれているという推定も可能なのだ。
 三種類の酒には、実は「いい心持ち」にさせる真の原因であるアルコールという共通成分が含まれているが、それが視認できないから村長は気づかなかった、と言ってもよい。


 上記の数式で、a、b、cのように違う文字だと、それらがすべて同じ数字で、それも0(ゼロ)という特別な数字だとは気づきにくいということだ。中学生レベルの決してむずかしくはないレベルの数学なのだが。
 一般に、人はすぐわかる共通点に目が行き、それぞれの事物がその共通要素によって特色づけられていると考えるものだ。しかし、いつもそうとはかぎらないのである。

 ここで連想したのは、アガサ・クリスティの有名な推理小説『オリエント急行殺人事件』である。くわしくは記さないが、ふつう関係がありそうもない人々が実は思いもよらぬ共通項を持っていたのである。
 たとえば現実の連続殺人事件や放火事件などの場合、各犯行現場に共通して存在が確認された人物が容疑者とされるのは自然な推定といえよう。しかし絶対ではない。そこにもひとつのミステリーのネタがありそうだ。たとえば、三件の犯行現場に居合わせた重要参考人Aは実は犯人に仕立て上げられた人物で、そのように仕組んだのは相互に関係はない被害者たちに共通に怨恨あるいは利害関係のあったBという人物だった・・・とか。
 いや、そんなフィクションだけの話ではなく、冤罪に関わる部分もあるかもしれない。

 もっと日常的な事例で考えてみよう。
 旅行好きの友人が国内の各地で撮った写真を見せてくれた。何枚もある写真の共通点は何だろう? 「山や海など風景が多い」「史跡が多い」等、被写体の特色はすぐわかる。カメラにくわしい人なら、色調や鮮明度などから使用したカメラのことがわかるかもしれない。あるいは、この撮影者に特有の構図のとり方に注目する人がいるかもしれない。また、ゴッホなどの絵画は何を描いたものでも彼の作品だとわかるが、そこまではいかないまでも撮影者の興味・関心、美的感覚、あるいは人となりといった「彼らしさ」が読み取れるかもしれない。
 次の例。ある会社で、同じ時期にいくつもの部署で同じような問題が発生したとする。原因は、会社の基本方針のような全体に関わるルールにあるかもしれない。いや、共通といえば同業他社にも同様のことが起こっていないか見てみる必要もある。逆に、各部署の個別の問題がたまたま同時期に起こったのかもしれない。目に映ったことだけで即断すると、先の話の村長のように間違うことが多い。
 最後はある高校での話。授業から戻ってきた先生が嘆いている。「あーあ、ここの生徒もやる気がないなあ。どのクラスに行ってもおしゃべりや居眠りばかりで、こっちもかったるくなるよ」。
 おそらく、一部の高校を除いてよくある光景ではないだろうか? ふつうに考えて、その要因は複合的だ。入試制度やカリキュラムなどの教育制度や教育内容、生徒を取り巻く社会や家庭の問題等々。その学校の教育方針のような個別の問題もあるかもしれない。
 しかし、この先生には尋ねたい。担当している三クラス以外でもおしゃべりや居眠りが蔓延しているのか? あるいはこの三クラスの他の科目の授業のようすはどうなのか?
 彼にとっては、生徒のおしゃべりや居眠りなどの「やる気のなさ」は一目でわかる全クラスの共通項ということか?
 彼は、もしかしたら自分自身が、(あるいは「自分も」)そんな状況を作ってしまっている可能性に気づいていないのかもしれない。先の話で、村長が三本のビンの液体に共通に含まれているアルコールに気づかなかったように。
 大切なことは、他の同僚の先生や当の生徒たちとのコミュニケーションを緊密にとって実際の状況の把握に努めること。つまりは教師としての基本姿勢だ。

 要はa~cのような個別のことと、xのような全体に共通することの間の関係性をどう理解するかということだ。目についたことだけで判断せず、視点を変えてみると、最初は見えていなかったものも見えてくる。さまざまな可能性を想定し、全体像を念頭に置きながら個別を緻密に見ることである。まあ、これも「言うは易くして・・・」の部類ではあろうが・・・。
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戦国時代の歌謡集『閑吟集』の魅力

2019-11-11 23:48:10 | エッセイ・雑文(韓国・朝鮮関係以外)
戦国時代の歌謡集『閑吟集』の魅力
     = 自分本位の仮想授業記録 =

 さあ、授業を始めるよー、席についてね。
 えーと、今日のテーマは戦国時代の歌謡ということで、『閑吟集』という歌謡集の中から作品をピックアップして見てみます。あ、〇〇君、「えーと」の数を数えるの、やめようね。
 さてと。作品といっても、今で言えば歌謡曲ね。だけど皆さん、音楽の授業で歌謡曲やったことある? そう、ないでしょ。なんでかというと、低俗な文化と見られているから。そういうものは学問・教育の対象としてふさわしくない、ということですよ、たぶん。歌謡曲にもじんとくる歌詞が一杯あるのにねー。「♪夜が冷たい 心が寒い」とか、って知らないか・・・。君たちのお父さんお母さんだったら『神田川』とか『天城越え』とかカラオケで歌ったりしてない? 他にもいろいろ・・・なんて言ってたらキリがないか。
 国語の教科書も大体音楽と一緒で通俗的なものはほとんど載ってません。たとえば落語とか、笑い話とかなぞなぞとか・・・。それに言葉あそび。地口って知ってる? 「その手は桑名の焼きはまぐり」とか言わない?・・・か。そうかそうか草加せんべい。
 で、国語で教わる歌集の系譜は『万葉集』『古今集』『新古今集』だよね。万葉以前にも『古事記』や『日本書紀』に俗謡っぽい歌がありますがね、「記紀歌謡」と言って・・・。
 『万葉集』には東歌・防人歌といった民衆の歌もあったというのは習ったね。それが平安時代以降になると和歌は貴族の文芸として、それも個人に属する表現様式として文学的に洗練されていきます。前に授業でやった藤原定家なんてホントにたいしたものですねー。
 では、その平安以降貴族じゃないフツーの人たちは歌と無縁だったかというと全然そうじゃないです。お百姓さんは田植え歌を歌ったり、祭の時にも歌は当然歌われたり・・・。そして旅回りの芸人なんかもいました。大体、洋の東西を問わず同じようなものじゃないですかねー。

 さて、やっと本題。『閑吟集』ですが、読みは「かんぎんしゅう」ね。「忙中閑あり」の「かん」。ヒマな時に歌う、といった意味かな。一五一八年成立っていうから、今から五百年くらい前ですね。応仁の乱が終わってからちょうど四十年後。秀吉の天下統一まで約五十年だから、戦国時代の真っただ中ですよ。これ、肝心!
 じゃ、最初の歌から。

 あまり言葉のかけたさに、あれ見さいなう、空行く雲の速さよ

 若い女性が、心ひそかに好意を持っている彼氏と一緒に歩いていると思ってください。二人きりか、もしかしたら何人か連れ立ってるかもしれません。
 彼女は、何か彼に話しかけたい。ところが話題が思いつかないんです。その時ふと目に留まったのが空の雲。それも、すごく速く風に流されて行くんですね。そこで思わず口をついて出た言葉が「あれごらんなさいよ、空を行く雲の早いこと!」。
 なんか微笑ましいですねー。恋愛初期の症状(?)をよく表してますね。僕が一番好きな小歌ですよ。あと紹介するのも全部自分好みね。それから、意味がわかりやすいこと。

 世間(よのなか)は霰(あられ)よなう 笹の葉の上の さらさらさつと 降るよなう

 この世はあられのようなものだ。笹の葉の上にさらさらさっと降っては過ぎてゆくなあ・・・。
 『閑吟集』の特色は、刹那的。そして感覚的。この小歌などはその典型ですね。あられも瞬時に消えて行くし・・・。「さらさらさっと」という擬態語が印象的ですね。なんだか、とても哀しい感じがしませんか?
 刹那的といえば「世間(よのなか)はちろりに過ぐる ちろりちろり」というのもありますよ。「ちろり」は、ほんの短い間。チラッと、という感じかな。こちらはなんとなくユーモラスですね。

 人は嘘にて暮らす世に なんぞよ 燕子(えんし)が実相を談じ顔なる

 なんせ戦国時代。下剋上の時代ですからねー。嘘がはびこる人間世界ですよ。そんな中で、梁だかに留まっている燕子(えんし)つまりツバメだけは真実を語り合っているようだ、というわけ。「嘘」の小歌は他にもありますよ。「梅花は雨に 柳絮(りゅうじょ)は風に 世はただ嘘に揉(も)まるる」。「柳絮(りゅうじょ)」は綿毛のついた柳の種。春に飛んでるのを見たことない?
 嘘もいろいろあって、政治家の嘘、商人の嘘、そして歌のネタでなんと言っても多いのが恋愛関係の嘘。だから今の歌謡曲にもずいぶん多いよね。「♪嘘と泪(なみだ)の しみついた どうせ私は 噂の女」なんて前川清も歌ってたねー。え、知らない? あ、そう。

 後影(うしろかげ)を見んとすれば 霧がなう 朝霧が

 これはもちろん後朝(きぬぎぬ)の歌ですね。なかにし礼作詞の「♪別れの朝~ふたりは~」という歌がありましたね。70年代初めか。その数年前に同じなかにし礼作詞で黛ジュンが歌ってヒットした「霧の彼方に」という歌がありましたが、そっちの方が合ってるかもね。「♪愛しながら別れた 二度と逢えぬ人よ 後姿さみしく 霧のかなたへ」というんですけどね。

 くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を 現顔(うつつがほ)して

 まじめくさった人なんて、見られたもんじゃない。夢の夢の夢のこの世の中を、さも冷めたような顔つきをして。
 「夢の」を三つも重ねちゃっていますよ。少なくとも、世の中をそう見る人にとってはまじめで分別くさい人は「見られたもんじゃない」となるわけです。うーむ、僕もそう言われそうだな、まじめだし・・・。あ、君なんで笑ってんの?
 では、どう生きればよいのかというと・・・。

 何せうぞ くすんで 一期(いちご)は夢よ ただ狂へ

 何になるのさ、まじめくさってみたところで。人の一生は夢さ。ただひたすら狂うことだよ。
 世の中をすごく否定的に捉えても、決して無常観に浸ったりしていませんね。逆に今という瞬間を懸命に生きようとしています。
 この「狂え」というのは必ずしも飲んで騒いでとかに限定しないで「風狂」と言った方がいいのかな。つまり「何か(風雅とか??)に徹する」といった意味が含まれていそう。
 この小歌は、『閑吟集』を代表する、いや、そればかりか、その当時の人々の感覚を象徴しているもののように思いますがどうでしょうかねー。

 むらあやでこもひよこたま

 なんかチンプンカンプンでしょ。これは逆から読むんです。「また今宵も来でやあらむ」。「彼氏はまた今夜も来ないのでしょうか?」です。これを逆にすることが彼氏が来るためのおまじないになるというわけ。そういう女性の俗信は昔からいろいろあったんですよ。小野小町の「いとせめて恋しきときはむばたまの夜の衣を返してぞ着る」という和歌は知ってるかな? 寝巻を裏返しに着ると恋しい彼の夢が見られるんですと。皆さん試してみたら? お母さんに見られたら「アンタ、どうしたの!?」ってなるから気をつけて。
 ひとつ前も夢の歌でしたが、皆さん、「はかない」って漢字書ける? にんべんに夢で儚い。漢字って深いなーってつくづく思うよ。
 夢の歌謡曲もいっぱいあるね。大瀧詠一の「夢で逢えたら」なんか名曲だよね。あれも歌謡曲って言っていいのかな?

 人買ひ舟は沖を漕ぐ とても売らるる身を ただ静かに漕げよ 船頭殿

 これはすごく気になっている小歌です。「どうせ売られてゆくこの身だから、せめて静かに漕いでください」という悲しい歌。人身売買で売られて行くこの女性が、これらの小歌を歌っている女性たちと重なるのですよ。人身売買というと、森鷗外の『山椒大夫』は読みましたか? あれも元は中世の話ですね。あの安寿と厨子王は地方の領主の荘園に奴隷として売られますが、芸人の女性もそういう人がけっこういたのでは、と思います。芸能人に対する差別はずっと昔からありました。歴史的に根の深い問題ですが、今はすっかりなくなったと皆さんは思いますか? この話は例の「慰安婦問題」にも絡んできそうですが、これ以上は今は措いておきます。少なくとも、いろんな事情で悲惨な境遇に生きてきた人を決して差別しないことです。

 えーと、今日は五百年という時代を超えて、もしかして現代の君たちにも直接通じるものがあるんじゃないかと思って戦国時代の小歌を紹介しましたが、どうだったかな?
 僕が残念なのは、どんなメロディで歌われたかよくわからないこと。伴奏楽器は尺八と、それから三味線は16世紀の後半頃からかなあ・・・。
 「歌は世につれ世は歌につれ」というけど、歌を中心にして歴史を見るのも楽しいよね、・・・と言いつつ、今回は個人的趣味に走って皆さんの知らない歌を歌ったりして悪かったですね。じゃ、おしまい。
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眼裏の風景

2019-07-16 21:30:32 | エッセイ・雑文(韓国・朝鮮関係以外)
眼裏の風景

 年に五、六回ほど神保町辺りを歩く。主目的は古書漁りだ。
 行く度に、街が少しずつ変わっていることに気づく。新しいたてものビルが建っていたり、店ができていたり・・・。だが、なじみの店がなくなったのでもないかぎり、新しい建物や店舗の場所に前は何があったかは思い出せない。
 しかし、全体として街のたたずまいはずいぶん小ぎれいになった。東京の他の街でも横浜でも同じことは言えるが・・・。
 今春地方から上京した新大学生たちはこの街にどんな第一印象を持っただろうか。
 私にとっては、駿河台~神保町界隈の原風景はちょうど半世紀前のそれである。以来、この街の過去の相貌は三種類眼裏(まなうら)に残っている。今の風景の背後に、いわば「レイヤーが重なっている」のだ。

 一九六八年。入学してまもなく先輩から古書展のことを聞き、東京古書会館に行ってみた。今の会館の近くにあった別の建物である。古書展では年配の愛書家の人たちが大勢本を物色していた。その姿はまさに今の自分である。
 付近一帯の学生街は当時「日本のカルチェ・ラタン」と呼ばれたりもしていたが、この言葉は今も生きているのだろうか?
 「カルチェ・ラタン」が日本で広く知られたのは、この六八年の五月、パリで起こった五月革命のニュース報道からだった。政治的な面よりも、反戦、マイノリティ重視、エコロジーへの関心などを訴えたこの運動の影響力は大きく、現代にまで及んでいると言ってよいだろう。
 当時日本では、前年十月の第一次羽田事件以来、いわゆる三派系全学連による学生運動の過激化が目立ってきた。そんな中、「神田カルチェ・ラタン闘争」と称される運動が展開されたのは五月革命の翌六月のことだ。
 中大に集まった社学同の学生たちが街に出て、持ち出した机などでバリケードを築いた。この時は機動隊がバリケードを解除したのだが、この六八~六九年の大学闘争の最高揚期、この一帯で明大、日大、中大等のデモ隊が投石で機動隊に対抗することがあった。当時の歩道には三〇センチ程度の敷石が敷かれていたが、それを剥がして車道で砕き、投げる。パリの学生街カルチェ・ラタンでは学生たちが道路の敷石を剥がして警官隊に投石したというが、これもそれをなぞったものだ。
 六九年一月一八日には、駿河台一帯では東大安田講堂の攻防に呼応して全共闘学生ら約二千人が機動隊と衝突した。今当時の報道写真を見ると、道路全面に石が散乱しているのがわかる。
 自分のことを言えば、上記のような投石の飛び交う現場に居合わせたことはない。元来小心者で、君子ではないが「危うきに近寄らず」を信条としていたからだ。「戦いのあと」を何度か見たくらいである。それでも、入学間もない頃の駿河台~神保町の景観を最初のレイヤーとすれば、二枚目のレイヤーだ。
 むしろ印象に残っているのは三枚目のレイヤーである。
 安田講堂落城後、各大学闘争は沈静化していった。一時全共闘側が占拠・封鎖していた明大の校舎は反全共闘派の学生と大学当局によって封鎖が解除され、そして「逆封鎖」された。
 七〇年代に入って時代の雰囲気は一変した。音楽だと、フリージャズからクロスオーバーの時代に。あるいは反戦フォークからいわゆる四畳半フォークを経てニューミュージックの時代に・・・。一言で言えば「明るくなった」。それも「虚ろな明るさ」だ。
 その七〇年代のある日、明大を見ると、かつてはなかった高い鉄柵がめぐらされていた。また、街の歩道に敷石はなく、アスファルト舗装になっていた。
 この殺風景な街の姿は心の空虚感とシンクロしていた。

 新宿東口も、駿河台一帯と同様に変貌してきた。
 私が東京暮らしを始めた頃は、「署名とカンパをお願いします」と呼びかける声がよく聞かれた。ところが、これも「闘争の時代」が終わると植え込みが造られ、そんな空間は失われた。
 六九年頃「西口広場」ではベ平連の青年たちが毎土曜日フォーク集会を開いていたが、これも規制を受け、抵抗もあったが結局七月一九日案内標示板が「西口通路」と書き変えられ、集会が開けなくなったことは、記憶している人も多いと思う。
 ヨーロッパの都市の広場は、憩いの場であるとともに集会の場である。儀式や行事が行われたり、権力者にも利用された。先頃三一運動百周年記念式が行われたソウルの光化門広場やソウル広場もそんな広場だろう。しかし日本にはヨーロッパ的な意味での広場は実在しないという。
 「その後の変貌」に驚いたのは安田講堂前も同じだ。
 六八年に五千人を超える全共闘系学生の集会も開かれた広場は、七五年地下に「当時としては類を見ない」学生食堂が作られた時に植え込みが造成され、大人数の集会は開こうにも開けなくなってしまった。

 闘争の時代のあと、このように取り急ぎ塗りつぶされたような風景は、九〇年代以降さらに上塗りが進められてきた。それが今の小ぎれいな街の景色だ。
 駿河台の明大は昔の建物も鉄柵等もなくなり、一九九八年にリバティタワーが竣工して付近も含め景観が一新した。歩道はきれいにデザインされた敷石で覆われている。そんな今の景色を、疑問を持って眺める人はまずいないだろう。
 しかし昨年、その表面が少し剥がれるような問題も表面化している。京大の立て看板をめぐる論議である。その後、早大でも問題提起があったという。「立て看板は街の美観を損ねる」というのが行政側の論理である。担当者による文を読む限り、かつてのような学生運動の規制といった意図はなさそうだ。しかし、「美観維持」が時として「美しくないもの」を排除する口実とされてきた歴史は知らなければならない。
 街の美化がもっと露骨に規制の手段として用いられている事例がある。大阪の釜ヶ崎地区だ。道路際に大きめのプランターがたくさん置かれている。しかし、花はきれいでも、並べ方が不自然だ。公報等には「環境美化の一環」とあるが、逆に美観を損ねているのでは、という所さえある。公共施設の塀には、一メートルほどの高さの所に壁掛け型プランターがいくつも架けられている。つまりは野宿できないようにするのが第一目的なのだ。

 今、半世紀前と比べるとはるかに小ぎれいになった思い出の街を歩くと、その間に消えてしまった、あるいは消されてしまった「大切なもの」に時おり思いが及ぶのである。
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