雨森芳洲庵でたくさん展示されていた本の中に、初めて見た絵本がありました。「風の吹いてきた村」という本です。
読んでみると、明治後期に日本海で遭難し、漂流していた韓国船の93人の乗員を、現小浜市の泊村の村民が救出し、8日間手厚く保護して彼ら全員を無事韓国に返したという史実を絵本にしたものです。
後で調べると、この本は広く市販されている本ではありませんが、<泊へようこそ>というサイト中の<海は人をつなぐ>というページに、表紙や各ページの絵とともに、物語のあらすじが掲載されていました。
あらすじの「あらすじ」は以下の通りです。
日清戦争(1894~95年)と日露戦争(1904~05年)の間1900(明治33)年のことです。大韓帝国咸鏡道(現北朝鮮)の吉州・学洞社村の四仁伴載という名の船は、商人や乗組員93人を乗せロシアのウラジオストク港を出航しましたが、厳冬の日本海で遭難。15日間漂流し漂っているところを、1月12日泊村の村民たちに救出されました。
うねる波の中、小船を出して乗員を岸まで運んだ村民たちは、彼らを各家に分宿させ、食べ物を与えて保護しました。8日の間、言葉は通じなくても手厚くもてなされた韓国の乗員が泊村を離れる時には、村民ともども、親子兄弟のように涙を流して別れを惜しみました。乗員たちは「このもてなしの心を忘れません」と言葉を残し、帰国の途についたのでした。、
このページからは、ハングル版もリンクされています。 →コチラ
ハングル版の方には絵はありませんが、本文9ページ分全部載っています。中級の入口くらい(ハン検4級程度)でも読める平易な韓国語なので、学習者の皆さんは読んでみてください。
<海は人をつなぐ>のページの後半に、「本編集のエピソード」が記されています。また同サイトの<風の吹いてきた村>というページ、さらに「広報おばま」の2010年7月号に掲載されている「泊の歴史を知る会」の紹介記事を読むと、この絵本誕生の経緯は次のようなものです。
ふるさとの崩壊に危機感を持った区の有志が1995年に「泊の歴史を知る会」を結成し、泊の歴史・文化などを次世代に伝えていくため、史跡巡り、自主講座の開催、資料収集等々の活動を始めます。集めた資料で最も多かったのが上記の韓国船救護についてのもので、ある家の土蔵からは「海よりも深く、山よりも高い恩は孫子の代まで永劫に忘れない」との心のこもった礼状も見つかったそうです。また「船小屋下浜へ区民一同老若男女子供に至るまで全て集まり、韓人達に別れを告げるが、その様子は実に親子の別れと同じであった。韓人らが眼に涙すると区民も共に涙を流し、袖をしぼる程に泣きながら別れを告げ・・・」という別れの場面を描写した区長文書も・・・。(絵本の記述は想像・脚色ではなかったんですね。)
2年間調べた末1997年「韓国船遭難救護の記録」を自費出版。この本を読んで感動した韓国・全北大学の鄭在吉(チョン・ジェギル)教授が泊を訪問して交流が始まり、救護からちょうど100年後の2000年に百周年記念事業を盛大に開催しました。そして救護の現場を望む海岸に記念碑を建立(下の写真)し、この絵本「風の吹いてきた村」を出版した、ということです。以後、韓国の高校生が毎年訪れる等々、「文字どおり国際交流の風が吹いてきた」とのことです。
・・・ということで、私ヌルボ、たまたま1冊の絵本が目にとまった偶然からいろんなことを知りました。
それにしても、江戸時代の朝鮮学者雨森芳洲に注目することから始まった雨森のとりくみと、この明治時代の遭難救護の記録発掘に始まった小浜市の泊のとりくみと、共通点が多いですね。
昔のことが今の町づくり村づくりのテコになり、また草の根レベルの日韓交流につながり・・・。またどちらも国内から多くの人が訪れるようになった、というのもわかるような気がします。 (雨森の平井さん、泊の大森さんの果たしてきた役割も大きいのでは、と思われます。)
ヌルボが今まで泊のことを知らなかったのは、韓国オタクとしては情報に疎かったということ? 「民団新聞」にも関連記事(ハングル)が載ってたし・・・。
今回の高月→舞鶴の旅では、小浜は素通りしてしまいましたが、いずれぜひ行ってみたいものです。
※小浜水産高校と韓国の浦項海洋科学高校は姉妹校になっているようで、→コチラとか、→コチラ に交流のようすが紹介されています。
※<風の吹いてきた村>という大森さんのホームページのなんと盛り沢山というか、複雑というか・・・。ヌルボのようにただ読んだり見たりした感想等や、単にコピペでページの大半を埋めているのではなく、多くがご自身のアイディア+行動に結びついているのがスゴイです。
※100年前の韓国の商人&船乗りは、漢字で筆談できたんですね。礼状も全部漢字だし・・・。当時はさほど識字率は高くはなかったのですが・・・。今は無理でしょう。英語で話す?
※遭難船救助が契機となった国際交流といえば、幕末の伊豆半島戸田(へだ)村のロシア船救助&新船建造の話は以前本で読んだことがあります。概略は→コチラ。
※北海道の大雪青年の家のサイトによると、「日本の地方自治について研究している全北大学鄭在吉教授が韓国文化等についての研修講座を行った」とありました。だから地元以外のフツーの日本人でもあまり知らない情報に接していた、ということですかねー。
※今でも北朝鮮方面から韓国への漂流船のニュースはしばしば伝えられていますが、中には「冬の新潟に北朝鮮の衣服を着た遺体が新潟県方面に相次いで漂流」という記事も・・・。
※漂着ゴミ回収に取り組む南ソウル大の学生たちを迎える催しの記事もありました。→コチラ。
朝鮮半島からのゴミに着目したブログもいろいろあるようです。たとえば→コチラ。
(ヌルボも昨年5月唐津の海岸で韓国の肥料の袋を拾ったという記事を書きました。)