杜の都で食べる PART 1 of 4
[694]小百合さん!楽しい思い出をありがとう!
Name: 伝万 (HOME) E-MAIL
Date: 11/28/2008 19:56
(バンクーバー時間: 11月28日 午前2時56分)
命の洗濯ができました。
しかも“山の家”で入った露天風呂は最高でした。
ちょっと小さくて小百合さんと一緒に入る事が出来ませんでしたが、
山深い里の木立の中で、せせらぎの流れを聞きながら命の洗濯をした思いでした。
月は出ていなかったけれど、
2つの大きな照明灯が、まるで夜空の中に浮かんだ2つの月のように見えて格別でした。
大自然の中で、あんな贅沢な気分に浸(ひた)ったのは久しぶりでした。
その翌日のバーベキューも格別でした。
僕はあまり肉は食べないのだけれど、
あのバーベキューの焼肉は食欲をそそる匂いに包まれて、
衝動的に食べてしまうほど旨い物でした。
(中略)
とにかく、小百合さんのおかげで、楽しい思い出深い日本滞在になりました。
ありがとう。
『小百合さん!楽しい思い出をありがとう!』より
『山の家と露天風呂 (2008年12月6日)』にも掲載
デンマンさん。。。どうして、また露天風呂を持ち出してきたのでござ~♪~ますか?
露天風呂って、やっぱりイイですよう。
カナダにも露天風呂って、あるのでござ~♪~ますでしょう?
あるけれど、カナダの露天風呂って、まず例外なく水着着用ですよう。しかも、日本の温泉と比べるとぬるくて、まるで温水プールですよう。だから、日本の露天風呂の気分なんて全く味わえない。
そういうものでござ~♪~ますか?
銭湯もカナダにはありませんからね。
それで、仙台の銭湯・「開福湯」が、とりわけ懐かしいのでござ~♪~ますか?
そうなのですよう。でも、この「開福湯」も2003年の12月で廃業してしまったから、仙台を訪れても、もう、入る事ができません。
明治の面影残す銭湯消える
仙台の「開福湯」廃業
2003(平成15)年12月26日 金曜日
仙台市内でただ一つ、明治時代から営業してきた銭湯「開福湯」(青葉区五橋)が廃業を決め、このほど市に届けを出した。
建物の入り口の屋根などは明治時代のままで、天井も高い。
古き良き時代の薫りを漂わせてきた銭湯の廃業に、常連客や同業仲間から惜しむ声が寄せられている。
SOURCE: 宮城県仙台市 河北新報ニュース
『懐かしい杜の都 (2009年2月28日)』より
。。。んで、今日のタイトルは『杜の都で食べる』ですけれど、また五右衛門ラーメンのお話でござ~♪~ますか?
■ 『仙台辛味噌ラーメン (2009年2月24日)』
■ 『愛のラーメンと杜の都 (2009年2月26日)』
五右衛門ラーメンは、すでに上の記事で充分に語りつくしたから、今日は「公孫樹(いちょう)食堂」について話しますよう。
■ 『思い出の曲とふるさと (2009年1月9日)』
【 仙台での学生時代の思い出 】
昼ごろ片平丁に出かけ公孫樹食堂で定食か、カレーか、うどんを食べ、
研究室へ行って机の上に置いてある洗面器と手ぬぐいを持って近くの風呂屋へ行く。
帰ってくると研究室の壁に貼り付けたヌードが迎えてくれる。
そのヌードは僕がFORTRANで文字を重ね打ちして描いた等身大のものだった。
上の記事でも書いたけれど、お昼は、たいてい片平丁キャンパスにあった公孫樹(いちょう)食堂で食べたものです。
どのようなものをいただいたのでござ~♪~ますか?
定食か、カレーか、うどんでしたね。それから研究室へ行って机の上に置いてある洗面器と手ぬぐいを持って「開福湯」へ行ったものですよう。
午前中は。。。?
僕は夜型の人間だから、試験以外の時には午前中は寝ていますよう。昼ごろ起き出してバイクでキャンパスに向かい、それから僕の一日が始まるのですよう。うしししし。。。
。。。んで、お昼ご飯を食べたあとにお風呂ですか?
いけませんか?
学校に居る間にお風呂屋さんに行く人なんて聞いた事がござ~♪~ませんわア~!
卑弥子さんが「日本文化と源氏物語」を講義している京都の女子大学の学生は昼ごろにスーパー銭湯に行かないのですか?
行きませんわよう。聞いた事も見た事もござ~♪~ませんわア。
卑弥子さんが知らないだけですよう。最近の女子学生はずいぶんと飛んでいると言うじゃありませんかア~
あたくしが教えている女子学生には、そのような変わり者、飛んでいる者は居ないはずでござ~♪~ますわ。。。んで、公孫樹(いちょう)食堂は、デンマンさんが居た研究室から近いのでござ~♪~ますか?
僕は上の地図の下の方に見える電気通信研究所の大泉・野口研究室に居たのですよう。そこから歩いて5分です。
デンマンさんは、しばしば公孫樹(いちょう)食堂で食べたのでござ~♪~ますか?
とりわけ旨くは無かったけれど、とにかく安かった。だから、よく食べに行きましたよう。でもねぇ、初めのうちは公孫樹(いちょう)食堂で食べる気がしなかった。
どうしてでござ~♪~ますか?
公孫樹(いちょう)食堂
この写真で見ると、けっこうきれいな建物に見えるのだけれど、前の通りを歩いてみただけでも古い建物だと言うことがすぐに見て分かった。しかも、食堂と言う感じではないのですよう。建物の表情がいかめしい。どう見ても古い校舎を改造して食堂にしたような印象を受けたのですよう。
それで、入る気が起こらなかったのでござ~♪~ますか?
そうですよう。昼飯(ひるめし)を食べるのに、わざわざ講義室のような建物で食べる気が起きなかったのですよう。しかも古くて旧式な建物で、入れば黴(カビ)臭い匂いが漂ってくる気がして、ルンルン気分になれなかった。
いつ頃に建てられた建物なのでござ~♪~ますか?
明治か大正時代に建てられたと思っていたのだけれど、調べたら太平洋戦争中と、それに続く戦後、昭和30年代の中頃まで、中央講堂として使われていたのですよう。おそらく1935(昭和10)年頃に建てられたのでしょう。。。案の定、講堂として使われていたのですよう。。。そんな所で昼飯(ひるめし)を食べる気になれないのも無理ないですよう。卑弥子さんだって、そう思うでしょう?
それで、なぜ公孫樹(いちょう)食堂で食べるようになったのでござ~♪~ますか?
理由の一つは、その名前ですよう。僕は公孫樹を“いちょう”と読むとは思っていなかった。
デンマンさんは、なんと読んでいたのでござ~♪~ますか?
僕のオツムの中では“こうそんじゅ”と読んでいたのですよう。もちろん、その漢字が銀杏(いちょう)と同じものだとは夢にも思わなかった。
それで。。。?
公孫樹という漢字から、なぜか魯迅が連想されたのですよう。
どういう訳で。。。?
魯迅の本名は周樹人なのですよう。どちらも“樹”を含んでいる。公孫樹と言う呼び方は魯迅を尊敬して、記念して、そう読んでいるのではないか?!僕は、そんな風に連想していたようです。しかも、建物も明治時代に造られたのだと思われるぐらいに古い。壁の白いペンキなどが古くなって、灰色に変色して剥(は)げ落ちそうになっていた。僕は魯迅先生にハマッていたので、もしかすると、この建物は魯迅先生に関わっていたのではないだろうか?
中に入って調べてみようと思ったのでござ~♪~ますか?
そうですよう。もしかすると 『かつて、この建物で魯迅が講義を受けました。。。』 なんて言う説明が壁に貼ってあるかもしれない。そう思ったのですよう。
でも、時代が違うのでしょう?
それは調べてみて分かった事で、僕がこの食堂で食べていた当時でも、明治時代に建てられたと言われたら、なるほど、と思うほど古い建物だったのですよう。魯迅と公孫樹食堂の建物は、僕のオツムの中では同時代のモノとして共存していたのですよう。
魯迅 (ろじん)
簡体字表記:鲁迅
ピンイン: Lǔ Xùn
1881(明治14)年9月25日に浙江省紹興市で生まれる。
1936(昭和11)年10月19日に亡くなる。
中国の小説家、翻訳家、思想家。
本名は周樹人(ピンイン:Zhōu Shùrén)
字は豫才。
ペンネームの魯は母親の姓だという。
4歳下の弟にやはり文学者・日本文化研究者の周作人がいる。
代表作に『阿Q正伝』、『狂人日記』など。
特に狂人日記は、文語主体の旧来の中国文学を口語主体とする点で画期的だった他、被害妄想に駆られている狂人の心理を実にリアルに描写する点においても、わずか15頁の短編作ではあるが近代中国文学の最高傑作ともいわれ、日本のみならず欧米諸国の中国文化研究者間では高く評価されているようである。
なお、魯迅自身が若い頃日本の仙台医専(現在の東北大学医学部)に留学した経験もあるが、彼の親戚に、本物の被害妄想患者が存在し、彼を見聞したことが、この作品を着想するヒントとなったと言われている。
【人物・経歴】
松本亀次郎の下で日本語を学び、1904(明治37)年9月から仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に留学する。
当時は日露戦争の最中であり、町で戦争報道のニュース映画を観る機会があった。
その映画では、ロシア軍スパイの中国人が日本人によって、間諜(軍事スパイ)として処刑され、さらに同胞である中国人が処刑される様を喝采して見物する姿があった。
それを見て、中国人を救うのは医学による治療ではなく文学による精神の改造だと考えたのだという(『吶喊自序』『藤野先生』)。
当時の官立の学校では中国からの留学生の入学は清国公使の推薦状で入学が許され、周は無試験で入学している。
このため学力不足の留学生は途中で挫折している。
特に医学のような学問修得に特別の忍耐と努力を必要とする分野では、卒業にまで漕ぎ着けるのは至難の技であった。
当時周には多額の奨学金が支給されており、授業についていけず町で遊興に耽ることもあり、やがて学問に対する興味も薄れていったと考えられる。
ニュース映画の場面は多感な年代の彼に大きな影響を与えたことは否定できないが、医学に挫折する自分に対する心理的な合理化(言い訳)としての側面も否定出来ないであろう。
1906(明治39)年3月に仙台医専を退学し、東京での生活を経て帰国。
杭州・紹興などを経て、1912年、南京において中華民国臨時政府教育部員となる。
さらに政府の移転に伴い北京へ転居。
1918(大正7)年雑誌『新青年』に『狂人日記』を発表する。
以来、「魯迅」およびその他多くのペンネームを用いて文筆活動を本格化した。
【魯迅と仙台】
紹興市から仙台市に送られた魯迅像(仙台市博物館)仙台医専時代の魯迅を描いた作品に太宰治の『惜別』がある。
この「惜別」ということばは、仙台医専時代に、魯迅に個別添削を授けるなど何かと気を配っていた恩師、藤野厳九郎が最後に魯迅に渡した写真の裏に書いたことば。
藤野との関係は、小説『藤野先生』にも書かれている。
魯迅は、1904(明治37)年9月から1906(明治39)年3月までの約1年半しか仙台にいなかったが、仙台市や東北大学では、様々な面で魯迅を通じた交流を中国と行っている。
中国人にとっては、東北大学・片平キャンパスにある(旧)仙台医専の「階段教室」が観光地となっており、1998年11月29日には江沢民・中華人民共和国主席も訪問している。
訪問した中国人は、魯迅がいつも座っていたとされる同教室の中央帯、前から3番目の右端近くでの記念撮影をしている。
その他、同キャンパス内に「魯迅先生像」(1992年10月19日設置)、仙台城三の丸の仙台市博物館敷地内に「魯迅の碑」(1960年12月設置)と「魯迅像」(2001年設置)がある。
また、「魯迅旧居」が片平キャンパス正門近くに残されている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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