愛の会話 (PART 2 OF 3)
このことが「広い愛」と関係あるのですか?
あるのですよう。 「腐りかけているモノ」とは、破局を迎えた、めれちゃんの人間関係ですう。
あたしとデンマンさんの関係のような。。。?
めれちゃんが、そう思っているのならば、そう考えてもいいでぇ~
。。。で、「酢」とは、何でおますのォ~?
それこそ、「広い愛」の基調やがなぁ~。つまり、お互いに人間として尊重し合って、許し合えるという事やないかいなぁ~!敬愛と許容の精神やがなぁ~
どう言う事ですか?
破局を迎えるような関係でも、敬愛と許容の精神を忘れずに、冷静になって考えてみれば、そのような関係の中にも幸せを見出せると言うことやがなぁ~。めれちゃんのおばあちゃんは、その事を言ってるのやがなぁ~。
それは、論理の飛躍ですわ。
■ 『鈍い心の恋人 (2009年3月15日)』
飛躍ではあらへんでぇ~。上のSanaさんとAdnanさんのエピソードを読めば分かるこっちゃぁ~。。。破局を迎えるような不幸な結婚生活を送っていた二人が、ネットの上ではお互いの中に“心の恋人”を感じていた。ふたりが、「広い愛」を持っていたなら、現実の世界で出合って相手の正体が分かったとしても離婚せずに、前向きに、素晴しい幸せな関係を築く事ができたのやがなぁ~。
そうでしょうか?
めれちゃんは、まだ分からないのんかぁ~?
イマイチですわ。
愛あらば
他の女性と関わるなかれ
そのひとと睦まじきを見て
われはきみより去る
めれんげ
あのなぁ~。。。めれちゃんがこういう気持ちになるのは「狭い愛」に固執しているからやでぇ~
デンマンさんは、「広い愛」、「狭い愛」と、何とかの一つ覚えのように、ゆうてはりますけれど、あたしにはイマイチ、よう分かりませんわぁ~。
だったらなぁ~、めれちゃんにも、すぐに分かる例えをここに書き出すから、読んでみィ~なぁ。
恋愛は、年頃の男女が肉体に
触発された心理現象?
音楽は、けっして、世界共通の言語などではない。
異なる時代にも亘る言語ですらなかった。
それでは、ヨーロッパ音楽の伝統とは、
そもそも、いったい何であったのだろうか。
小澤征爾が言っていたことであるが、彼が若い頃、
東洋人がヨーロッパの音楽をする意味、
可能性について問われたとき
(そういうことを聞く田舎者が
世界のどこにもいるものである。)、
音楽は、世界の共通の言語であるからと、
(当たり障り無く)返事をしていたところが、近頃では、
何か自分が壮大な実験をしているのではないか、と思うようになってきたそうである。
壮大な実験、これは、彼だけのことではないであろう。
ようやく我々が西洋音楽を扱うことに関して
欧米(を超える)水準に達した今日の、この倦怠は何であろう。
かといっても、我々が邦楽に戻るなどとは、
一般的にいって、非現実的であり、できない相談である。
バスク語を話せ、と言われた方が、まだしも抵抗が少ないのではないか。
(中略)
いつだったか、小澤征爾と H.V.Karajanの指揮する M.Ravel の
“Bolero” を聞き比べたことがあった。
小澤の演奏は、英語で言う too square であったが、
Karajanのそれは、なんとも sexyで妖艶ですらあった。
フランス人でもないのに。
やはり、小澤のような指揮者でさえ日本人では及びがたいところが今なおある。
(中略)
わたしは、何々至上主義、といったものが嫌いである。
例えば、恋愛至上主義。
大体、
恋愛感情などというものは、ある年頃の男女が肉体に触発された心理現象にすぎないのではないか。
そもそも、成熟した夫婦が、夫婦であるのにもかかわらずに仲が良い、などというのは、どこか異常ではないか。
長い間、生活を共にしていて、まだ互いにsexualityを感じたとしたならば、それは近親相姦に近くはないか。
J.S.Bach は、
前妻、後妻と共に仲が良かった様子であるので、
私はここを書いていて、少し、困っているが。
芸術至上主義も同じ。
人生は芸術を演出する時空ではない。
pages 5 & 6 間奏曲集 (主題なき変奏) その2
著者: 太田将宏 初版: 1994年1月 改定: 2006年6月
『お願い、骨まで愛して (2006年10月15日)』より
つまりね、太田さんが言おうとしていることは、芸術は芸術としてのみ命を持っているモノだということだと思いますよ。それを人生と同一視しようとすると問題がある。なぜなら、人生と芸術は本質的には人間が生み出すものという意味で同じようなものであるかもしれないけれど、現実には別物だと言うことでしょう。要するに芸術を至上と考えるのは行き過ぎではないのか?僕はそのように読み取ったのですよ。恋愛も至上と考えることは行き過ぎだと言いたいために、僕は引用したわけです。
それで、デンマンさんは何が言いたいのォ~?
太田さんは“恋愛感情などというものは、ある年頃の男女が肉体に触発された心理現象にすぎないのではないか”と考えている。つまり、恋愛感情を本能的で、欲情を満たすという意味で利己的で、生理的な欲求に刺激されるという意味で衝動的なモノとして考える人も居るのですよう。
。。。で、デンマンさんもそう思っているのォ~?
だから、めれんげさんが感じている「狭い愛」が、まさに太田さんが言おうとしている恋愛感情だと僕は思ったのですよう。
レンゲさんは、何と言ったのですか?
レンゲさんと僕は次のように話し合った事がある。読んでみてくださいね。
恋愛至上主義のレンゲさん
■ 『お願い、もう一度抱きしめて』
レンゲさんが書いた上の詩だって、愛の詩として鑑賞するから興味深いわけですよ。それを、いくら仲の良い夫婦だからといって、15年連れ添って、しかもレンゲさんが書いたような詩を妻が夫に向かって書くことは、まず考えられないだろうし、そういう夫婦が目の前でいちゃついているのを見たら、白けるというか、興ざめするというか。。。
でも、そういう御夫婦がいたとしたら、あたしはうらやましいですわ。
だから、レンゲさんのように考える人も居るわけですよ。そういう考え方が悪いと言っているわけじゃない。しかし、太田さんのように芸術至上主義、恋愛至上主義が嫌いで、受け付けたくない人も実際居るわけですよ。
デンマンさんは?
僕も、恋愛が至上だとは考えていませんよ。恋愛至上主義を実践している50才の夫婦が、目の前でいちゃついて、ベタベタ、ネチネチ抱き合ってキスしているのを見たら、白けますよ。
洋ちゃんがあたしの詩に興味を示さないのは恋愛を至上とは考えていないからだとおっしゃるのですか?
当然ですよ。レンゲさんだって、その程度のことは理解しているでしょう?清水君は“愛”を心で感じるタイプというよりも、太田さんのようにオツムで理解するタイプですよ。
デンマンさんもあたしの詩をオツムで理解しているのですか?
どちらかといえば、僕も“愛”をオツムで理解するタイプですよ。でも、レンゲさんの生い立ちや、レンゲさんの人格障害を理解しているから、僕にはレンゲさんの詩は特別ですよ。つまり、レンゲさんをもっと知りたいから、僕にとってレンゲさんの詩は、レンゲさんと同じぐらいに愛(いと)しいものですよ。でも、残念ながら清水君には、レンゲさんの詩がそのようなものとして感じ取れない。そういうわけで、レンゲさんは清水君とは“水と油”で心が通わないものだと思い込んでしまう。そういう時に“下つき”と言われたりするから、ますますレンゲさんは清水君との心理的な距離を感じてしまう。それが“見捨てられ感”と結びついてレンゲさんは清水君から離れてしまった。僕は、そのように見ているんですよ。
だから、あたしはデンマンさんとならうまくゆくんです。
それは、僕がレンゲさんと心の恋人としてうまくやろうとしているからですよ。
あたしだって、そう思ってデンマンさんとうまくやろうとしています。
でもね、レンゲさんは恋愛至上主義なんですよ。詩に書いてあることをそのまま現実化させようとする。僕が鼻の下を伸ばしてぇへらぇへら笑いながらレンゲさんを抱いたら、そのまま不倫になってしまう。
『お願い、骨まで愛して (2006年10月15日)』より
これに対して太田さんが次のようなコメントを書いてくれたんです。
恋愛、は否定しなくとも、
それを至上とするのは、
傍から見ていると、醜悪
Name: 太田将宏
Date: 2006/10/14 00:15
私は、“芸術”と人生は、緊張関係にあるのが、それぞれのあるべき姿であろう、と思っているだけです。
私の拙文でそれが伝わらなかったとしたならば、その責は、私にあります。
しかし、ただ頭で考えた結果ではない、ということは、文章全体で明らかではないでしょうか。
恋愛についても、すべて人の思いは、相対的であって、
何らの客観性のないのは、何のことはない、本能至上主義ではないですか。
恋愛、は否定しなくとも、それを至上とするのは、傍から見ていると、醜悪ではないですか。
これは、知的怠慢だ、と私は思います。
私も、H.v. Karajanの指揮、演奏する M. Ravelの“Borero”に
Erosを感じる感性は持っている上で書いているつもりですが。
『お願い、骨まで愛して (2006年10月15日)』より
僕はさっそく次のような返信を書きました。
レンゲさんの悲劇とは、
正に、レンゲさんが
変わらないところにある
Name: デンマン
Date: 2006/10/14 06:28
太田さん、コメントありがとう。
この記事に太田さんからコメントがもらえてうれしいですよ。
期待していませんでした。
> 私は、“芸術”と人生は、緊張関係にあるのが、
> それぞれのあるべき姿であろう、と思っているだけです。
> 私の拙文でそれが伝わらなかったとしたならば、
> その責は、私にあります。
> しかし、ただ頭で考えた結果ではない、
> ということは、文章全体で明らかではないでしょうか。
もちろん、僕は理解しているつもりですよ。(笑)
> 私も、H.v. Karajanの指揮、演奏するM. Ravelの
> “Borero”にErosを感じる感性は持っている上で
> 書いているつもりですが。
僕も太田さんの“感性”を“感じ”ていますよ。
> 恋愛についても、すべて人の思いは、相対的であって、
> 何らの客観性のないのは、何のことはない、
> 本能至上主義ではないですか。恋愛、は否定しなくとも、
> それを至上とするのは、傍から見ていると、
> 醜悪ではないですか。
その通りです。同感ですよ!
> これは、知的怠慢だ、と私は思います。
僕もそう思います。
実に同感です。
僕が“心で理解するタイプ”と“オツムで理解するタイプ”と言った事は。。。
> 恋愛についても、すべて人の思いは、相対的であって、
太田さんがこのように書いているように、結局、恋愛についてばかりではなく、思想だとか、人生観、。。。そう言ったもろもろの思考自体が、結局、突き詰めてしまえば“相対的”である、と言う事ではないでしょうか?
> しかし、ただ頭で考えた結果ではない、
> ということは、文章全体で明らかではないでしょうか。
その通りです。
ただし、僕の“オツム”で上の記事を書いたときに、太田さんが書いた上の文章の部分から、“相対的”に“オツムで理解するタイプ”と感じ取ったわけです。
太田さんの文章の受け止め方も、人によってまちまち、つまり相対的であり、他の人と比較した時に、太田さんが“心で理解するタイプ”なのか?それとも“オツムで理解するタイプ”なのか?
このことも極めて相対的な判断です。
当然のことながら、その受け止め方の違いで“誤解”が生じる事がある。
そして、その誤解は、このような形でコミュニケーションをとる事によって、より深い理解に到達する。僕は、そのように思っています。
誤解は人の世の常。
それをコミュニケーションんによって解決できないときに、
戦争が起こってしまう。
ちょっとこれは飛躍しすぎました。(爆笑)
> ただ頭で考えた結果ではない、
分かっています。
> “Borero”にErosを感じる感性は持っている上で
> 書いているつもりですが。
分かっているつもりですよ。(微笑)
とにかく太田さん、コメントありがとうございました。
ところで、夕べ間奏曲集のAribert Reimann を読みました。
34ページに次のように書いてありました。
"King Lear" の悲劇は、Lear一族の絶滅にあるのではない。
それは、人間とは、Learとは限らずに、変わらないものである、
という処にある。
この部分を読んでかなり考えさせられたのです。
なぜなら、レンゲさんのこれまでの恋愛の破綻を考える時に、
レンゲさんの悲劇とは、正に、レンゲさんが変わらないところにあるように思えたからです。
いずれにしても、間奏曲集を興味深く読ませてもらっていますよ。
日本から戻ったら、太田さんの作品を読んだ感想を元に記事を書きたいと思っています。
では。。。
また、気が向いたらコメントを書いてください。
ありがとうございました。
『お願い、骨まで愛して (2006年10月15日)』より
(すぐ下のページへ続く)