和泉式部は浮かれ女?(PART 1)
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Subj:紫式部ならば、僕の言う「広い愛」を
理解してくれるだろうと思います。
きゃはははは。。。

Date: 05/05/2009 1:25:50 PM
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(日本時間: 5月6日 水曜日 午前5時25分)
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ゴールデンウィークよりもっと楽しめるように、明日楽しい記事を書きますよ。
期待して待っててねぇ~♪~。
きゃはははは。。。

ウン。
あまり期待せずに待ってますゥ。
はい、期待しなくてもいいから、ぜひ読んでみてね。
夕べは、5月8日の記事『デンマン批判』を書き上げてからベッドにもぐって
源氏物語を読み進めました。
■ 『デンマン批判 (2009年5月8日)』
卑弥子さんに馬鹿にされないために、一生懸命読んでいます。

“デンマンさんは、源氏物語の本質を
見抜いているのでござ~♪~ますわね!?
おほほほほ。。。”
卑弥子さんと源氏物語を語り合うときに
卑弥子さんの口から感嘆の声が出るようにと、源氏物語の行間まで読んでいます。

う~♪~ん。
紫式部と言う女性は、本当に素晴しいと思いますね。
紫式部ならば、僕の言う「広い愛」を理解してくれるだろうと思います。
でも、めれんげさんは「広い愛」が理解できません。
それで次のように言ったのです。

「馬鹿馬鹿しい!男女の愛は
閉鎖的にきまっておろうがア!
わたしまでが馬鹿になってしまうので、
あたたと別れますゥ!
デンマンさんは
いじわる星人でやんなった。」
『不倫の愛から広い愛へ (2009年5月4日)』より
めれんげさんは、このように言ったのですよう。うへへへへ。。。
もちろん、めれんげさんだって「広い愛」が理解できるのです。
そのうち、「また短歌の交換しましょうね」と小野小町のような事を書いてくれるはずです。
うしししし。。。
小百合さんも、どこかで「デンマンさんは いじわる星人でやんなった。」と言っていたなあああぁ~
しかし、小百合さんは紫式部のように「広い愛」を理解していると、僕は信じることができます。
小百合さんならば、間違いなく、素直に理解できるはずです。
卑弥子さんは理解しているけれど、感情的に受け入れる事ができそうにありません。
その卑弥子さんをうならせるような事が言えるように源氏物語をしっかりと読んでいるのです。
(中略)
じゃあね。

『猫の記憶 (2009年5月9日)』より

紫式部のことを話題にしているのに、どうして急に和泉式部が出てくるのでござ~♪~ますか?

卑弥子さんの疑問に答えるためですよう。
あたくしの疑問でござ~♪~ますか?
そうですよう。卑弥子さんは次のように言っていたでしょう!?
紫式部は妾だったのでござ~♪~ますか?

卑弥子さんは藤原家に伝わっている“バイブル”を知っていますよね?

あのォ~。。。道長様はキリスト教徒だったのでござ~♪~ますか?
やだなあああぁ~。。。、んも~~。。。とぼけた事を言わないでくださいよう。卑弥子さんは、僕の歴史サイトのマスコットガールも務めているのですよう。次の記事を読んだことがあるでしょう?

■ 『マキアベリもビックリ、
藤原氏のバイブルとは?』
もちろん読みましたわ。
だったら、“藤原氏のバイブル”がキリスト教とは関係ないことぐらいは知っているでしょう?。。。笑ってもらいたくって、愚かな質問をしたのですか?も~~
うふふふふ。。。ど忘れしていたのでござ~♪~ますわぁ。ごめんあそばせぇ~。。。んで、そのバイブルがどうしたのでござ~♪~ますか?
あのねぇ~、“バイブル”の中には「八徴の法」という人物の本性を見抜く八つの方法が載っているのですよう。
「八徴の法」
1) 質問してみて理解の程度を観察
2) 追及してみてとっさの反応を観察
3) 間者をさしむけて内通を誘い誠実かどうかを観察
4) 秘密を打ち明けてその人徳を観察
5) 財政を扱わせて正直かどうかを観察
6) 女を近づけてみて、人物の堅さを観察
7) 困難な任務を与えてみて勇気があるかどうかを観察
8) 酒に酔わせてみてその態度を観察
なんだか、エゲツナイことが書いてござ~♪~ますわねぇ~。
そうでしょう。。。でも、人間の本質を突いていると思いませんか?人間の弱いところ、痛いところを見極めて、なかなか意味のあることを言っています。もちろん、まともなことも、たくさん書いてあります。くだらないことばかり書いてある本だとしたなら、藤原鎌足が見向きもしなかっただろうし、結局、現代まで伝わらなかったでしょう。
それで、上の「八徴の法」がどうだとおっしゃるのでござ~♪~ますか?
6番ですよう。
「女を近づけてみて、人物の堅さを観察」でござ~♪~ますか?
そうですよう。藤原家は『六韜(りくとう)』の教えを忠実に守ってきた。だから、平家のように滅びる事もなかった。「八徴の法」も『六韜(りくとう)』に書いてある。
それで。。。?
つまり、弱みを見せてはダメなのですよう。藤原氏の間でも権力闘争が続いていた。道長の系統は藤原北家だけれど、それ以前に権力を握っていたのは藤原南家だった。
藤原南家は権力の座から落ちてしまったのでござ~♪~ますか?
そうなのですよう。南家の仲麻呂(なかまろ)は術に溺れてしまった。
具体的には、どのように没落したのでござ~♪~ますか?
仲麻呂の子供には藤原朝狩(あさかり)のように壮大なビジョンを持っている人が居た。人の扱いもうまくて、その当時大和朝廷が頭を痛めていた荒蝦夷(あらえびす、あらえみし)とも戦わずして服従させる事ができた。たぶん、生きていれば東日本連合王国を築いていたかもしれませんよう。
。。。んで、どうなったのでござ~♪~ますか?
藤原仲麻呂の乱で仲麻呂も朝狩も殺されてしまった。朝狩は父親よりも頭が良くて、人の扱いもうまかった。血がつながっていなかったら父親と行動を共にしなかったでしょう。でも、仕方なしに父親に従ったのですよう。詳しい事は次の記事を読んでみてください。

■ 『枕詞とロマン (2009年5月15日)』
仲麻呂は術に溺れたと、デンマンさんは見ているのでござ~♪~ますか?
そうですよう。
“策士、策に溺れる”
自分の一族の失敗から充分に学んでいる道長は、自分の弱みを見せない。弱みを見せれば付け込まれる事を知っている。道長は権力闘争の真っ只中に居ましたからね。。。
それで、女性に対しても慎重だったと、デンマンさんはおっしゃるのでござ~♪~ますか?
その通りですよう。もし、道長が平清盛のように女性に対して、すぐに手を出すような男なら、また、仲麻呂のように策を弄しすぎたとしたら、藤原北家は現在まで生き残れなかったでしょう。
藤原北家は、現在でも存続しているのですか?
そうですよう。昭和時代に近衞文麿(このえ ふみまろ)首相を出した近衛家は藤原北家の主流ですよう。

つまり、藤原家を存続させるために道長様は自重自戒(じちょうじかい)しながら政権を維持したとデンマンさんは見ているのでござ~♪~ますか?
そうですよう。道長が女性にだらしなかったら、藤原北家は、現在まで存続できなかったでしょう。
そうでしょうか?
平清盛と比較してくださいよう。僕よりも、卑弥子さんの方が詳しいでしょう?どうなのですか?
分かりましたわ。でも、なんだかデンマンさんの理屈に巻かれてしまったような気が致しますわ。
卑弥子さんは、僕のこじ付けだと言うのですか?
いいえ。。。こじつけとは申し上げませんわ。でも、もっと道長様の身近なところに証拠があるのならば、すぐに納得がゆくのですけれど。。。
分かりました。だったら、身近な証拠も見せますよう。。。でも、記事が長くなったから、その証拠は別の機会に書きますねぇ。
『紫式部は妾か? (2009年6月2日)』より
つまり、デンマンさんは身近な証拠のために和泉式部さんを持ち出してきたのでござ~♪~ますか?
そうですよう。卑弥子さんが身近な証拠を見せて欲しいと言ったからですよう。平清盛だとか藤原氏のバイブルとか、卑弥子さんにとっては縁の薄いものよりも、和泉式部なら、源氏物語研究者の卑弥子さんにとっても身近な存在だし、紫式部にとっても身近な存在でした。そうでしょう?
確かに、平清盛のおじ様よりも和泉式部さんの方があたくしにとって身近に感じられますわ。おほほほほ。。。
だから和泉式部を持ち出したのですよう。
でも、今日のタイトルは“和泉式部は浮かれ女?”というものでござ~♪~ますでしょう?
そうですよう。いけませんか?
でも、和泉式部さんはマジで浮かれ女だったのでござ~♪~ますか?
もちろん、僕がそう言っている訳ではないのですよう。
どなたが、そのような悪口を言っているのでござ~♪~ますか?
実は、藤原道長がそう言っていたらしいのです。ちょっと読んでみてください。
和泉 式部

生没年不詳。
平安時代中期の歌人。
天元元年頃(978年?)出生とするのが通説。
中古三十六歌仙の一人。
『小倉百人一首』56番「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな」の作者。
越前守の大江雅致の娘。
和泉守の橘道貞の妻となり、夫の任国と父の官名を合わせて「和泉式部」の女房名をつけられた。
道貞との婚姻は後に破綻したが、彼との間に儲けた娘小式部内侍は母譲りの歌才を示した。
はじめ御許丸(おもとまる)と呼ばれ太皇太后宮昌子内親王付きの女童だったらしい(母・平保衡女が昌子内親王付きの女房であった)が、それを否定する論もある。
まだ道貞の妻だった頃、冷泉天皇の第三皇子為尊親王(977年 - 1002年)との熱愛が世に喧伝され、身分違いの恋だったとて親から勘当を受けた。
為尊親王の死後、今度はその同母弟敦道親王(981年 - 1007年)の求愛を受けた。
親王は式部を邸に迎えようとし、正妃が家出する因を作った。
親王の召人として一子永覚を儲けるが、親王は寛弘4年(1007年)に早世した。
寛弘末年(1008年 - 1011年)、一条天皇の中宮藤原彰子に女房として出仕。
40歳を過ぎた頃、主君彰子の父藤原道長の家司で武勇をもって知られた藤原保昌と再婚し、夫の任国丹後に下った。
万寿2年(1025年)、娘の小式部内侍が死去した折にはまだ生存していたが、晩年の詳細は分らない。
京都の誠心院では3月21日に和泉式部忌の法要が営まれる。
恋愛遍歴が多く、道長から「浮かれ女」と評された。
真情に溢れる作風は恋歌・哀傷歌・釈教歌にもっともよく表され、殊に恋歌に情熱的な秀歌が多い。
その才能は同時代の大歌人藤原公任にも賞賛され、正に男女を問わず一、二を争う王朝歌人といえよう。
敦道親王との恋の顛末を記した物語風の日記『和泉式部日記』があるが、これは彼女本人の作であるかどうかが疑わしい。
ほかに家集『和泉式部正集』 『和泉式部続集』や、秀歌を選りすぐった『宸翰本和泉式部集』が伝存する。
『拾遺集』以下、勅撰集に二百四十六首の和歌を採られ、死後初の勅撰集『後拾遺集』では最多入集歌人の名誉を得た。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
あらっ。。。道長様から「浮かれ女」と言われたのでござ~♪~ますわね!
そうなのですよう。当時、和泉式部は男の目を惹くような美人だったと思うのですよう。また、本人も情熱的なところがある。だから、恋愛遍歴が多かったのですよう。
つまり、道長様が浮気をするのであれば、紫式部さんよりも和泉式部さんを選んだろうと、デンマンさんはおっしゃるのでござ~♪~ますか?
そうですよう。上の説明を読んだだけでも、和泉式部が男の興味をそそるような女性であったことがよく分かりますよう。
紫式部さんは、あのォ~、ブスだったのでござ~♪~ますか?
結婚したのが29歳ですからねぇ~、当時、早い人は30代になると夫との性生活を止めたのですよう。だから、29歳で結婚生活に入るというのは、現在で言えば女性が40歳で初めて結婚するようなものですよう。
つまり、紫式部さんは才能はあったけれど、かわいい女性ではなかったのでござ~♪~ますか?
かわいいかどうか?それは男の目によって違ってくるだろうけれど、男にあまり縁がなかったことは確かですよう。
どうしてでござ~♪~ますか?
(すぐ下のページへ続く)