熱い長恨歌 (PART 1 OF 4)

日付: Sun, 7 Jun 2009 19:45:39 +0900 (JST)
(バンクーバー時間: 6月7日 午前3時45分)
差出人: "domini@yahoo.co.jp"
宛先: "green@infoseek.jp"

件名:毎日 勉学 えらいね。
はい 山の家から もどり
本は 1度よりも 2度よんだほうがイイね。
映画もね。
毎日 勉学 えらいね。
山小屋のコケに 悪い 奴が入ってる。すごい繁殖で
山小屋から 10キロ 以上離れた ホームセンターで 薬を買ったけれど
コケ類全部を殺してしまうのです。
考えて 考えて すこし 霧吹きでスプレーして
「ゼニゴケ(扇ゴケ)」 どうして 嫌われるか?
冬になると 死んで 枯れて 汚い コケになって 取るに 取れない
良いコケに混ざり 春になっても 茶色に そめてしまう。
ずーっと 取ってました。草取りより ツライ。
ダウンタウンは 日本人の学生やワーホリも多いから、焼きそば売れてしまうね。

夕べ デンマンさんが珍しく 夢に来たよ、主人もダブって。
まずーい 感じでした。
なんだ~ 変な夢、
でも主人は私にピッタリ くっ付いて。
続きはまた後で 子供がそばで 何かオモチャが見つからない っと
ウルサイ。
さゆりより

『軽井沢タリアセン夫人 (2009年6月12日)』より

デンマンさん。。。小百合さんに褒(ほ)められて鼻の下を伸ばしているのでござ~♪~ますわね?

いけませんか?うししししし。。。
そのように自慢げにしていると『小百合物語』の読者の皆様方も呆れ返ってしまいますわよう。
小百合さんに褒められたからといって僕は別に自慢しているわけではないのですよう。
でも、鼻の下が伸びておりますわ。
うへへへへへ。。。僕の鼻の下はもともと伸びているのですよう。
分かりましたわ。。。んで、小百合さんのビキニ姿をトップに貼り付けて、今日は楊貴妃が夏、九龍湖で泳いだことをお話しするのでござ~♪~ますか?
いや。。。楊貴妃は九龍湖で泳いだことはないと思いますよう。
どうして泳がなかったのでござ~♪~ますか?
楊貴妃は温泉に浸(つ)かったことはあるけれど、泳いだなんて、どこにも書いてありませんよう。
長恨歌(ちょうごんか)

華清池は秦の時代(前221~前207年)から続く温泉地で、唐代(618~907年)中期には玄宗皇帝がここに華清宮を建てた。
華清池の中には華清池という池があるわけではなく、この楊貴妃の像は九龍湖の中に立っていた。
(この時、2006年3月、池は改修中で楊貴妃像は引っ越して陸に上がり、花壇の真ん中に立っていた)
九龍湖は規模としては湖と言うより池である。
上の写真の奥には、九龍橋や龍石舫がある。
背後の驪山にはロープウエイが山頂に向かって伸びている。
中国の四大美人(西施,王昭君,貂蝉,楊貴妃)の1人として名高い楊貴妃が華清池で温泉に入り、皇帝の寵愛を受けたことで知られる。
1986年には2人が使用したと思われる浴槽が発掘された。
現在残っている建物は、清朝末期に西太后が築いたもの。
華清池があるのは西安市。
日本語読みでは「せいあん」
中国語では「しーあん」と呼ばれる。
中華人民共和国陝西省の省都であり、古くは中国古代の諸王朝の都となった長安である。
【解説】
長恨歌は中国・唐の時代、白居易(白楽天)によって作られた長編の漢詩である。
唐代の玄宗皇帝と楊貴妃のエピソードを歌い、平安時代以降の日本文学にも多大な影響を与えた。
806年(元和元年)、白居易(白楽天)が盩厔県(陝西省周至県)尉であった時の作。
七言古詩(120句)。
【あらすじ】
漢の王は長年美女を求めてきたが、どの女性にも満ち足りないものを感じていた。
ところが、ついに探し求めていた美女に出会った。楊家の娘だった。
それ以来、王は彼女にのめりこんで政治を忘れたばかりでなく、その縁者を次々と高位に取り上げる。
その有様に反乱(安史の乱)が起き、王は宮殿を逃げ出す。
しかし楊貴妃をよく思わない兵は動かず、とうとう王は兵をなだめるために楊貴妃殺害を許可する羽目になる。
結局、楊貴妃は殺されてしまった。
反乱が治まると王は都に戻ったが、楊貴妃を懐かしく思い出すばかりでうつうつとして楽しまない。
道士が術を使って楊貴妃の魂を捜し求め、苦労の末、ようやく仙界にて、今は太真と名乗る彼女を見つけ出す。
太真は道士に、王との思い出の品とメッセージをことづける。
それは「天にあっては比翼の鳥のように」「地にあっては連理の枝のように」
かつて永遠の愛を誓い合った思い出の言葉だった。
【史実との相違】
時代が唐代から漢代に変えられている。
長恨歌が発表されたのは安禄山の蜂起に始まった安史の乱が終結して間もなくのことであり、現政権に遠慮してのことであろう。
楊貴妃は、そもそもは玄宗皇帝の子息の一人の妃であった。
さすがに息子から妻を奪うのをはばかり、いったん道士となった後で玄宗の後宮に迎え入れられている。
太真は楊貴妃の道士時代の名。
【楊貴妃の美】
■ 「温泉水滑洗凝脂」「雪膚」
温泉の湯水がなめらかに凝脂を洗う、と表現されるように、むっちりとした白い肌の持ち主だった。

■ 「雲鬢花顏」「花貌」「芙蓉如面柳如眉」
ふんわりとした髪の生え際、芙蓉の花のような顔だち、柳のようなほっそりとした眉、など顔のパーツも重要であったようだ。
■ 「侍兒扶起嬌無力」「金歩搖」
侍女に助け起こされてもぐったり、歩くに連れてかんざしがしゃらしゃらと揺れる、といった感じで、北宋ごろから流行しだした纏足(てんそく)という習慣にも見られるように、いかにもなよなよとした頼りなげな様子が女性らしいしぐさとして愛されたらしい。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『武蔵と卑弥子さん (2009年6月20日)』に掲載
でも、今日のタイトルは“熱い長恨歌”でしょう。。。楊貴妃が泳いだとしても誰も迷惑する人は居ませんわ。
あのねぇ、“暑い長恨歌”ではないのですよう。楊貴妃が暑くて泳いだ話ではなく、“熱い長恨歌”とは、楊貴妃が情熱的に玄宗皇帝と愛し合ったという意味ですよう。そのぐらいのことは京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授ならば分かるでしょう!
また、あたくしの職業を持ち出してきて精神的なプレッシャーをかけるのでござ~♪~ますか?
違いますよう。僕は、おととい卑弥子さんと「源氏物語と長恨歌」について語り合って、卑弥子さんはさすがに古典研究家だと改めて尊敬し、感心したばかりですよう。。。それなのに、またトンチンカンな事を言って世界のネット市民の皆様の失笑を買うのですか?
あたくしは、それ程可笑しな事を申し上げたのでござ~♪~ましょうか?
今日は、当然おとといの話の続きをするのですよう。。。それなのに、楊貴妃が暑くて玄宗皇帝と一緒に九龍湖で泳いだなんて言ったら、ミーちゃんハーちゃんにバカにされますよう。
そうでしょうか?
そうですよう。僕は卑弥子さんの学識を見直したばかりですよう。それなのに。。。また、笑ってもらおうと思ったのか、卑弥子さんは可笑しなことを言う。。。少しは准教授らしい話をしてくださいよう。
分かりましたわ。。。んで、デンマンさんは何がおっしゃりたいのでござ~♪~ますか?
あのねぇ、紫式部を調べ、宮本武蔵を調べてみると二人は密接に関係していることが分かったのですよう。
どうして、密接に関係しているのでござ~♪~ますか?生きている時代がまったく違っておりますわ。手短に説明してくださいな。
あのねぇ~、紫式部と宮本武蔵は『長恨歌(ちょうごんか)』にめちゃハマッていたのですよう。卑弥子さんは武蔵の事は良く知らなくとも、源氏物語研究家として紫式部が『長恨歌』にハマッていた事は知っているでしょう?
ハマッていたかどうかは知りませんわ。。。でも、紫式部は『長恨歌』を間違いなく読んでいたのでござ~♪~ますわ。
どうして分かるのですか?
紫式部は次のように『長恨歌』から引用しておりますわ。
(すぐ下のページへ続く)