ベニスの騒動(PART 1)

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デンマンさん。。。 どうしてわたしが“ベニスの騒動”に登場するのですかァ~?

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ジューンさんには身に覚えがないのですか?
ありませんわよう!。。。 もしかして、上の写真はヴェネチア国際映画祭の写真ではありませんか?
そうです。。。
わたしはヴェネチア国際映画祭に参加したことはありませんわァ~。。。
でも。。。、でも。。。、上の写真にはちゃんとジューンさんが写っているではありませんかァ!
それは、デンマンさんが またデッチ上げたのですわァ~。。。 んもおおおォ~。。。
あのねぇ~、この話は、ジューンさんが全く関係ないというわけでもないのですよ。
あらっ。。。 この話題に わたしが関係しているのですか?
もちろんですよ。。。 おととい、4月27日にジューンさんと次の話をしたばかりじゃありませんかァ!
本当に映画の心がわかる人

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松下電器とMCAの関係がまだ蜜月の頃、ひとりの女性がこの世を去っていた。
松下電器の国際契約部から、当時の平田副社長率いる特命チームに参画していた斎藤純子である。
映画作品への造詣が深かった斎藤は、MCAの保有する映像ライブラリーに関する克明な資料を作成し、特命チームの判断を助けた。
そしてMCAの買収契約が成立したのち、平田からワッサーマンに送る手紙の作成を依頼されると、その最後を「お楽しみはこれからだ」という台詞で締めくくった。
昭和2(1927)年に公開された映画『ジャズ・シンガー』で、主人公が語ったこの台詞は、無声映画からトーキー映画に切り替わった最初のスクリーンで観客に向けて発せられたものである。
映画史上に残る記念碑的な台詞を盛り込んだ手紙に、ワッサーマンはいたく感動し、「松下には、本当に映画の心がわかる人がいる」と語ったほどだった。
その斎藤が、ガンに侵され、死期が近づいていることを知ると、ワッサーマンは一通の招待状を送っている。
次年、1992年3月の
アカデミー賞授賞式には、
是非、斎藤純子さんを招待したい。
もし、体調がすぐれないようなら、
医師の許可をもらってくれれば、
ベッドのままアメリカに来られるように
チャーター機で迎えに行きます。
ルー・ワッサーマン
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だか、アカデミー賞の授賞式の約1ヵ月前、斎藤は31歳という若さで逝去した。
ハリウッドからは、「人が死んで残すものは、物質的なものではない。 心である」との哀悼のメッセージが届けられた。
斎藤純子の死は、あらたなビジネスモデルを成就させるべく奮闘してきた松下電器とMCAの関係者に忘れがたい記憶を残したが、その夢のビジネスモデルは、ついに花開くことはなかった。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
140-141ページ 『パナソニック人事抗争史』
著者: 岩瀬達哉
2015年4月15日 初版第3刷発行
発行所: 株式会社講談社
『映画を愛する薄命の女』に掲載
(2016年4月27日)

確かに、斎藤純子さんは31歳という若さで癌で亡くなってしまわれて、可愛そうだというお話を デンマンさんといたしましたわァ~。。。

そうでしょう!? だから、ジューンさんをまた呼び戻したのですよ。
。。。で、斎藤純子さんの事を持ち出してきて、いったい何が言いたいのですかァ~?
あのねぇ~、実は、僕も斎藤純子さんのように映画にハマっているのですよ。


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■『実際のリスト』

つまり、これは映画にハマっているデンマンさんが バンクーバー市立図書館でDVDを借りて観た 映画のリストですか?

そうです。。。
これまでに 1、289本もの映画を図書館で タダで観たということですわねぇ~? (苦笑)
そうです。。。 タダで 1,289本の映画を見てはいけませんか?
別にかまいませんけれど、その事と“ベニスの騒動”が関係あるのですか?
おとといの記事の中で 赤枠で囲んだ 1、288番目の映画、つまり、"The Jazz Singer"の話をしましたよねぇ~。。。

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■『実際のカタログページ』
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ええ、覚えていますわァ。

上の映画の中で主演のアル・ジョルソンが アーヴィング・バーリンの作詞作曲の歌“ブルー スカイ”を歌うのですよ。
この歌が“ベニスの騒動”と関係あるのですか?
いや。。。 直接には関係してないのです。。。 でもねぇ~、ジューンさんも僕の話を聞けば、納得できるほど関係してくるのですよ。。。
分かりましたわ。。。 じゃあ、余計な事は言わずに、細木数子さんのように なるべくズバリ!ズバリ!と核心に迫ってくださいなァ。。。
あのねぇ~、上の予告編でもアル・ジョルソンが“ブルー スカイ”を歌うのだけれど、僕は この歌のメロディーを聞いて すぐに、かつて何度も聴いたことがある曲だということがすぐに判ったのですよ。。。 それほど僕の耳に懐かしく響いたのです。
つまり、デンマンさんは“The Jazz Singer”が1927年封切られた頃に、“ブルー スカイ”をしばしば耳にしていたのですかァ~?
やだなあああァ~。。。 僕は戦後生まれですよ。。。 戦争を知らない世代なのです。。。 1927年には、まだ地球上に生を受けていません。
それなのに、“ブルー スカイ”を聴いたことが何度もあるのですかァ?
そうですよ。。。 ジューンさんだって、この曲を初めて聴くわけではないでしょう!?
そうですわねぇ~。。。 わたしも、けっこう何度か耳にしていますわァ~。。。
あのねぇ~、この歌は、1926年に作曲されたのですよ これはロジャーズ・アンド・ハート (Rodgers and Hart) によるミュージカル『Betsy』の完成間際に追加されたものです。 このミュージカルは、39回しか公演されなかったけれど、「ブルー・スカイ」はたちまち人気となり、初演の夜には主演のベル・ベイカー (Belle Baker) が24回もこの曲へのアンコールに応じて歌ったほどなのですよ。
あらっ。。。 それほど人気が出て 盛り上がったのですか?
そうなのです。。。 しかも、映画 ("The Jazz Singer")の中でアル・ジョルスンが歌ったことで、トーキー映画に取り上げられた最初の歌のひとつとなったわけです。 それで、当時の大手から安売り店向けのレーベルに至るまで、あらゆるレコード会社で録音された。 1935年にはベニー・グッドマンとその楽団がこの曲を録音した。 また、1946年には、この曲から題名をとりビング・クロスビーやフレッド・アステアが主演した映画『Blue Skies』が公開され、ポップ・チャートではカウント・ベイシー盤が8位、ベニー・グッドマン盤が9位まで上昇した。

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この曲は、ジャンルの違いを超え、1978年にはウィリー・ネルソン盤がカントリー・ミュージックのチャートで首位となった。 これ以前にも、1939年にムーン・マリカン (Moon Mullican) 盤、1962年にジム・リーヴス (Jim Reeves) 盤があり、この曲はウェスタン・スウィング (Western swing) やカントリー音楽においても既にスタンダード・ナンバーとなってしまった。 それほどポピュラーな曲になったわけですよ。

それで、デンマンさんも わたしも、何も知らずに“ブルー スカイ”を耳にしていたわけなのですわねぇ~。
そういうことですよ。。。
それで、この曲が“ベニスの騒動”と どういう関係にあるのですか?
ジューンさんは黒澤明監督が作った『羅生門』を観たことがあるでしょう?

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予告編
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全編
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もちろんですわ。。。 この映画は世界的に有名ですから、わたしもこれまでに3度ほど観たことがありますわ。
でもねぇ~、この映画が作られた時、日本では全く人気が出なかった。。。 次のような話が伝わっているのですよ。
伊丹万作唯一の弟子として指導を受けた橋本忍は、伊丹の死後佐伯清の弟子となり、サラリーマンをしながら脚本の勉強をしていた。
1949年(昭和24年)、橋本は芥川龍之介の短編小説『藪の中』を脚色した作品を執筆、佐伯にこの脚本を見せたところ、かねてから付き合いのあった黒澤明の手に脚本が回り、黒澤はこれを次回作として取り上げた。
橋本の書いたシナリオは京の郊外で旅の武士が殺されるという殺人事件をめぐって、関係する三人が検非違使で証言するが、それがみな食い違ってその真相が杳として分からないという人間不信の物語であったが、映画にするには短すぎたため、杣売りの証言の場面と芥川の『羅生門』のエピソードと、ラストシーンで出てくる赤ん坊のエピソードを付け足した。
当時黒澤は、東宝争議の影響で成瀬巳喜男、山本嘉次郎、本木荘二郎らと共に映画芸術協会を設立してフリーとなっていたが、同協会は大映と契約を結んでいたこともあり、同社で製作交渉を行った。
しかし、大映はこの難解な作品の映画化に首をひねったため、黒澤は社長の永田雅一に「セット一杯で出来る」と説得してようやく企画が了承された。
撮影は大映京都撮影所で行われた。
その撮影所前の広場に原寸大の「羅生門」のオープンセットを建設した。
完成された門はとても巨大なものになり、黒澤も「私もあんな大きなものを建てる気はなかった」と語っている。
大映重役の川口松太郎も「黒さんには一杯食わされたよ」と愚痴っている。
冒頭の雨のシーンでは、モノクロカメラで迫力のある雨の映像を撮るために、水に墨をまぜてホースで降らせたという。このやり方は『七人の侍』の豪雨の中の合戦シーンでも用いている。
ヒロインの真砂役は当初、原節子でいくつもりだったが、京がこの役を熱望して眉毛を剃ってオーディションに臨んだため、京の熱意を黒澤が買い、京に決まったという。

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8月25日、大映本社4階で試写会が行われた。
しかし、試写を見ていた永田社長は「こんな映画、訳分からん」と憤慨し、途中で席を立ってしまった。
さらに永田は総務部長を北海道に左遷し、企画者の本木荘二郎をクビにさせている。
この翌日8月26日に本作は公開されたが、難解な作品だということもあり、国内での評価はまさに不評で、この年のキネマ旬報ベストテンでも第5位にランクインされる程度だった。
興行収入も黒澤作品にしては少ない数字であった。
出典: 「羅生門」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

あらっ。。。 全くの不評だったのですわねぇ~。。。

そうなのです。。。 とにかく、この映画を作ったおかげで、企画者の本木荘二郎はクビにされ... 総務部長は北海道に左遷ですからねぇ~。。。 大変な事だったのですよ。
それが、どういうわけでヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞(グランプリ)を受賞したのですか?
だから、それが“ベニスの騒動”ですよ。。。 その騒動を読んでみてください。
ベニス映画祭の「羅生門」騒ぎ

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ベニスに行ったら、あなたも来てるだろうと思ったら、いやしない。
どうせ映画のことなんか馬鹿にしいるあなたのことだから、映画祭なんかどうでもよい、美術館を引っ張り廻してもらおうと思ったのよ。
ところがラショモン上映となったら大変。
日本国って変ね。
カンヌのときと同じように、何の前ぶれも、説明もなしに、映画をぽんと一本送っただけで……それもイタリーの映画商人の手を通してらしい。
サブタイトルはイタリー語なのよ。
馬鹿らしい。
いくらイタリー、ベニスでやるからといって、見てる各国の代表でイタリー語のわかる人間が幾人います?
国際語はフランスと言うことをご存じない……ところが、サブタイトルもなにも要りやしない。
撮影技術もモンタージュも、動作も断然世界一なのよ。
私達は、やっぱり日本映画というから、日本好奇趣味で期待していたんでしょう。
ところがそれどころの騒ぎじゃない。
皆がびっくり夢中になってしまって……一人の女が強姦されたという事実と、客観と主観の心理のこんがらかりをつかまえて、それぞれの者の観察というやつを、一つ一つ映すのだが、それが一つの事実、一つの物語であるくせに、画面に重複くり返しの退屈がない。
これには驚いた。
その上ね、心理経過の早い場面などは、早撮り式に写した。
この技巧をこういう面に使ったのは、ほかにかつてない……
ところでね、いよいよこのラショモンが映される日に、イタリーはフランスより もったいつける国でしょう。
桟敷の正面の席に、出品国の代表が座って、皆の挨拶喝采に応じることになっている。
ラショモンの日にね、桟敷の賓客席はがら空き。

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イタリー側が髪の毛をかきむしってね、これは本当よ、ほんとうにかきむしってね、「日本人はいないか? 日本人はいないか?」と探し廻った。
私のところへ駆けつけて来て、「あんたの日本人はどこにいる?」
「南仏海岸で遊んでいる」って云ったら、本当にフランス語で、「糞喰らえ!(メエルド)」とどなったわよ。
【昭和26(1951)年12月号】
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
109-110ページ
『「文藝春秋」で読む戦後70年』
【第1巻】終戦から高度成長期まで
編集人: 石橋俊澄
平成27(2015)年7月21日 発行
発行所: 株式会社 文藝春秋

上のエピソードに出てくる“私”というのは誰なのォ~?

実は、1951年に上のエッセイを書いたのは 戦前からパリで暮らしていた彫刻家の高田博厚氏なのですよ。。。 この人はヴェネツィア映画祭とは無関係だったけれど、カンヌ国際映画祭の日本代表を務めたことがあったので、日本映画が海外映画祭で初めて受賞した時に、上の大騒動に巻き込まれてしまったのです。
つまり、上のエピソードに出てくる“私”というのは彫刻家の高田博厚氏のことなのォ~?
いや、違うのです。。。 カンヌ国際映画委員会の課長で、パリの新聞「フランス・ソワル」と「フラン・ティリュ-ル」両紙の映画批評をやっている C・ド・R女史なのです。。。 この女性は、当然の事ながら昭和26年のヴェネツィア国際映画祭に参加していたわけです。。。 この女性は高田博厚氏とは師弟の関係にある人で、高田さん自身はエッセイの中で“彼女は肩書きはごてごてと偉そうだが、小っちゃい茶目っ子で私のお弟子である”と書いている。
要するに、ヴェネツィア映画祭で『羅生門』が金獅子賞(グランプリ)を受賞したけれど、会場には日本人が誰もいない。。。 それで、C・ド・R女史は、仕方ないので高田氏のところに取材に出向いたわなのねぇ~。。。
そういうことです。。。 昭和26年のヴェネツィア国際映画祭は、「羅生門」を日本からの招待作に決めたのだけれど、製作会社の大映は、どうせ出したところで落選すると思い込んでいたから辞退したのですよ。。。 だから、日本の映画関係者は誰一人ヴェネツィアへ行かないまま、映画祭のスタッフが自主的に上映した。
そしたら、日本の映画関係者の予想に反して、『羅生門』が金獅子賞(グランプリ)に選ばれたというわけねぇ~。。。
そういうことです。。。 つまりねぇ~、映画会社の大映の社長・永田 雅一(ながた まさいち)といえども、映画の素晴らしさが全く理解できなかったというお話ですよ。

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