サモトラケのニケとミロのヴィーナス
(PART 1 OF 3)
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デンマンさん。。。 今日はあの有名な“サモトラケのニケ”と“ミロのヴィーナス”のお話ですか?
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いけませんか?
かまいませんけれど、どうして急に世界的に有名なギリシャ彫刻を持ち出してきたのですか?
あのねぇ~、最近 太田将宏老人のことを頻繁に書いているので、僕も飽きてきたのですよ。。。 太田老人本人だってぇ、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながら僕のブログを読んでいるはずです。
でも。。。、でも。。。、太田将宏老人が 老婆に成りすまして笑うのは面白かったですわァ~。。。 うふふふふふふ。。。
そうですかァ~。。。 ジューンさんが面白いと言うならば、その部分をもう一度ここに書き出しますよ。
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デンマン注:
上の写真をクリックすると太田将宏が
ばあさんに成りすまして笑います。
別窓が開きます。 この男はオツムの回転が鈍いので
笑うまでに少し時間がかかります。
ちょっとの間、辛抱(しんぼう)してくださいね。
とにかく、虫唾(むしず)が走るようなうウザったい笑いです。
あなたも笑えますよ。 (爆笑)
Identity theft を続けている
デンマンこと加藤明さんについて
コメント記入者: (A. I.)
2016-06-07 23:59:30
皆様、まずは、何らの具体的な根拠のない太田さんの精神についてのデンマンこと加藤明さんの言いがかりについてなのですが、それは、太田さんの紀要論文自体を少しでも読まれれば、全てがデンマンこと加藤明さんの太田さんへの故ない単なる悪意によると分別されると思われます。
もし太田さんがデンマンこと加藤明さんの中傷どうりであるならば、太田さん自身があのような終始一貫した論文を書けるわけがないでしょう。
また、その中での<<書簡集>>を眺められるならば、デンマンこと加藤明さんの仲良しクラブ内での互いの傷の舐めあいでの付合いではなく、高い精神にての太田さんの多くの友人たちとの交友が読取られるのではないでしょうか。
デンマンこと加藤明さんは、自分が意味不明の駄文を書くのみでなくて、人様の文章をまともに読むことすらもできない知能程度なのですね。
彼は太田さんの紀要論文を一行も理解できないのでしょう。
(中略)
(此処で、爆笑、爆笑、爆笑と書いても私は太田さんではありません)。
デンマンこと加藤明さんは、書けば書くほど自分自身の恥をさらしているということが分からないのですね。
そんなデンマンこと加藤明さんを相手にし続けるのは、私たち三人ともやめることで合意致しました
(太田さんご自身は既に、とっくに、デンマンこと加藤明さんなんぞは相手にされていませんが)。
ただ、私、A.I.も私たち三人を代表しているわけではないのでご報告に留めておきます。
A. I.
『孤独で寂しい太田将宏(PART 1 OF 3)』のコメント欄より
(2016年3月31日)
でも。。。、でも。。。、80歳になろうという老人を あまりイジメては可哀想ですわァ~。。。
ジューンさんは、意外に心優しいのですねぇ~。。。 僕が知る限り、これまでに太田将弘老人をかばってあげたのはジューンさんだけですよ。。。 もしかして太田将弘老人がジューンさんのブログに、コメントでも書き込んだのですか?
いいえ。。。 たぶん書いてないと思いますわ。。。 最近 忙しくって自分のブログを見る暇さえないのですわァ~。。。 そんなことよりも、どういうわけで世界的に有名なギリシャ彫刻を取り上げる気になったのですか?
あのねぇ~。。。、太田将宏老人のことをちょっと考えただけでもムカついてくるので、精神的に良くないから、夕べ僕は高尚な気分に浸ろうと思ってバンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。
サモトラケのニケとミロのヴィーナス
「サモトラケのニケ」は、正しくは「サモトラケの勝利の女神」となっている。
翼を広げた女神で、首と腕は破損してない。
もちろん大理石である。
それがこのルーヴル美術館のいちばん壮麗な大階段の踊り場に置かれている。
放射状の階段、高いドーム型の天井、天井の丸窓からの柔らかい光、といった申し分のない空間の中心地点に位置し、そこで臆することなく見事に力を発揮しているのだから、やはり「サモトラケのニケ」は名優である。 名品である。
ちょっと出来すぎの感じさえする。
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それに較べると「ミロのヴィーナス」は地味なのである。 (略)
「サモトラケのニケ」には一種スポーツカーのような派手な美しさがある。
それに較べたら「ミロのヴィーナス」には、秋の日を浴びている丸干し大根のような、地味でいてしかし力強い美しさがあるのである。
その美しさが、私には謎だ。
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(中略)
人間というのは謎を解きたがる。
そして完成を欲しがるものだから、この未見の両腕に関してはさまざまな考察がなされてきたようだ。
もげた左腕は上方に高く掲げられ、切断された右腕は体の前を横切って左の腰に軽く触れていたのではないかという。
その想像図を模刻して両手を付けた五体満足のミロのヴィーナスもあった。
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それを写真で見て、何かがっかりしたのを覚えている。
何だかつまらないのだ。
いまの姿の「ミロのヴィーナス」は名品だと思うけのだけれど、五体満足になるとぜんぜん名品とは思えない。
ただの上手なだけの凡庸な彫像である。
その両手の位置の推理は恐らく正しく、模刻も丁寧にされているのだけれど、何かそれではありきたりの彫刻になるのだった。
突然ではあるが、ここで思い当たるのが、日本の安土桃山時代である。
千利休をはじめとするあの時代の茶人たちの好んだ侘び茶碗である。
正円ではなく歪んだ茶碗の美しさ、欠けた茶碗の美しさ。
古びて思わぬ染みがつき、擦り傷がつき、そうやって人口の力を超えてあらわれたものの美しさ。
つまり「ミロのヴィーナス」の美しさは、西洋の感じた「侘び」なのだと思い至ったときに、私には「ミロのヴィーナス」が一段と身近なものに感じられてきたのだった。
この彫像は、両腕が欠けているから美しいのである。
それによってこそ、本来この彫像が持っていたわずかな体重のずれとバランスが際立ち、そうやって欠損を抱えて、綱渡りのように立ちつづけている物にこそ、生命の繊細な気配が宿るのである。
ここでおそらく西洋の人々は、完成を回避するものの美しさを感じたのだろうと思う。
付け加えるのであはなく削り落としたものの美しさといってもいい。
あるいは人間の人口の力を外れて偶然がもたらしてくれる心地よさといったものを感じたのではないだろうか。
ただ違うところは、日本の茶人たちは「侘び」という、あるいは「寂び」という言葉を持って、その感覚を意識の上に留めたのに対し、西洋の人々はそこに言葉を見出さぬままに、その感覚は放浪することになったのである。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
74-77ページ 『ルーヴル美術館の楽しみ方』
著者: 赤瀬川原平 熊瀬川紀
1997年2月20日 第11刷発行
発行所: 株式会社 新潮社
あらっ。。。 デンマンさんは『ルーヴル美術館の楽しみ方』という本を借りて読んでいたのですか?
僕はパリには何度か行ったことがあるけれど、“ルーヴル美術館”は、余りにも有名なので敷居が高く感じられ、これまでに一度も館内に足を踏み入れたことがないのですよ。
それで、本を読みながらルーヴル美術館の展示物を楽しんだわけなのですか?
そうです。。。 YouTube で美術館ガイドも見つけて、楽しみました。
(すぐ下のページへ続く)