隠元豆と国性爺合戦(PART 1)
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デンマンさん。。。、どういうわけで 隠元豆と国性爺合戦 というタイトルにしたのでござ~♪~ますかァ?
面白いと思いませんかァ~。。。
確かに、ちょっとばかりミステリーっぽい感じがして面白そうですわァ~。。。 でも、タイトルを見て、つまらなそうなので他のブログに飛んで行ってしまったネット市民もいると思うのですわァ~。。。
そういうネット市民もいるでしょう。。。 実は、バンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。。。
明から清へ
1715年(正徳5)11月、忍び寄る寒さを打ち払う熱気が、ここ大阪道頓堀にはあった。
竹本義太夫の起こした竹本座で、折しも初演の「国性爺合戦(こくせんやかっせん)」は、近松門左衛門の作品でありながら、それまでの近松の「曽根崎心中」(1703年[元禄16]初演)で遊女と手代の男女の情愛を切々と伝えたものや、「堀川波鼓(ほりかわなみのつづみ)」(1707年[宝永4]初演)で武家の妻の女の性を艶(なま)めかしく描いたものとは異なり、別世界の唐国と日本を股にかけた広大なスケールの躍動的な活劇であった。
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「国性爺合戦」の上演は年を越しても人気を博し、ついに2度目の正月を迎え翌々年1717年3月まで続く空前の長期興行となった。
大阪の町人たちは「国性爺合戦」のどこに魅力を感じて、竹本座に足を運び続けたのであろうか。
繰り人形の所作の巧みさや、義太夫の節回しもあったであろうが、なにより近松の描く筋立てそのものに心揺さぶられたのであろう。
(2ページ)
明清交替が日本に与えた影響に、黄檗宗を開いた明人隠元隆琦の来日がある。
1592年(万暦20)に中国福建省福州府に生まれた隠元は、明朝が武力で制圧される様子をつぶさに見て慨嘆する中、承応3年(1654)7月に、長崎の興福寺住持や町人たちの度重なる懇請に応え、鄭成功の仕立てた船で20人あまりを随従させて長崎に着いた。
時に隠元は、齢63歳を越えていた。
そこから延宝元年(1673)に示寂(じじゃく)するまで20年間、隠元は日本を離れることなく、人々に大きな影響を与えた。
(134ページ)
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
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『天下泰平の時代』
著者: 高埜利彦
2015/3/21 発行
発行所: 株式会社 岩波書店
でも。。。、でも。。。、上の文章にはインゲン豆は出てないじゃありませんか! インゲン豆と国性爺合戦 はマジで関係あるのでござ~ますかァ?
関係あるのですよ。。。 ちょっと次の説明を読んでみてください。。。
国性爺合戦
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近松門左衛門作の人形浄瑠璃。のちに歌舞伎化された。全五段。
正徳5年(1715年)、大坂の竹本座で初演。
江戸時代初期、中国人を父に、日本人を母に持ち、台湾を拠点に明朝の復興運動を行った鄭成功(国性爺、史実は国姓爺)を題材にとり、これを脚色。
結末を含め、史実とは異なる展開となっている。
和藤内(鄭成功)が異母姉の夫・甘輝との同盟を結ぶ「甘輝館」が有名。
初演から17ヶ月続演の記録を打ち立てた。
あらすじ
今日歌舞伎で演じられるのは主として三段目の一部である。
一段目
明朝第17代皇帝思宋烈(崇禎帝)の妃華清は臨月。そこに華清を賜れとの韃靼王の使者が。
李蹈天は賛成するが、呉三桂は反対する。李蹈天は自らの左目をくりぬいて使者に渡し、当座を切り抜ける。この功に皇帝は妹を李蹈天に与えようとするが当の栴檀皇女が承諾しない。
皇帝は官女に梅と桜の花を持たせて戦わせ、梅が勝ったら承諾するようにと命ずる。
この花いくさの最中に韃靼の軍が宮廷に攻め入る。李蹈天が裏切ったのだった。皇帝は李蹈天に殺害される。
華清妃は呉三桂の手引きで逃れるが、海登の湊でついに砲弾に倒れる。呉三桂は死んだ妃の腹から皇子を取りだし、代わりに殺した我が子を身代わりとして腹に入れる。
栴檀皇女は呉三桂の妻、柳歌君に守られながら、海に逃れる。
二段目
栴檀皇女が小舟で平戸に打ち寄せられたのを明の元役人鄭芝龍が見つける。
鄭芝龍は二十数年前に勅旨により日本に渡って、この地で漁師として老一官を名乗り、日本人の妻をめとっていた。
老一官夫婦と子の和藤内は、和藤内の妻小むつに栴檀皇女を預け、明朝の復活のため、中国に渡る。
一方、鄭芝龍が大陸に残した先妻・渚との娘、錦祥女は、韃靼の将軍、甘輝の妻となっていた。
3人は、甘輝に協力を求めるため、甘輝の館である獅子ヶ城へ向かう。
3人は二手に分かれたが、和藤内と母は千里ヶ竹に迷い込む。ここで虎を退治した和藤内は、韃靼兵を手下にしてしまう。
三段目
3人は獅子ヶ城にたどり着く。警護は対面を許さなかったが、楼門に登った錦祥女は、3人との対面を果たす。錦祥女は老一官が父であることを確認するが、甘輝は不在であった。
警護により3人が城内にはいることは拒絶されるが、3人のうち母だけは縄付きとなることを条件に館に入ることを許される。
錦祥女は甘輝が味方するかどうかを、味方するなら白粉を、そうでなければ紅を堀に流すことで合図することにする。
城に帰った甘輝は、「いったん韃靼の王に忠誠を誓った者が、妻の縁で味方になっては義が立たない。そう言われないようにするためには、味方になるのなら、錦祥女を殺してからだ」と答える。
しかし甘輝は妻を殺せない。錦祥女は紅を流す。
怒った和藤内は甘輝の城へ向かうが、紅と思ったものは錦祥女が自害して流した血であったと知る。
さらにその母・渚(和藤内の母とするものもある)も後を追って自害した。
妻の情に心を打たれた甘輝は韃靼征伐を決心し、和藤内に「延平王国性爺鄭成功」の名を与える。
四段目
神意を得た小むつは栴檀皇女とともに平戸から中国(浙江省)松江の湊に渡る。一方、呉三桂は皇子をかくまい、山中で暮らしていた。そこに鄭芝龍、小むつ、栴檀皇女が現れる。
敵兵に攻められるが、雲の掛橋の計略によって難を逃れる。
五段目
和藤内、甘輝、呉三桂が竜馬ヶ原で再会する。そこに鄭芝龍が韃靼を攻めに南京城に向かったという知らせが入る。
一同は後を追い、南京城を攻める。ついに敵を倒して、皇子を位につける。
登場人物
和藤内:中国人を父に、日本人を母に持つ。のち国性爺。超人的活躍で明朝の復興に尽くす。
実在の人物鄭成功(国姓爺)がモデル。
なお、和藤内とは、「和(日本)でも藤(唐、中国のこと)でも内(ない)」という洒落。
小むつ:和藤内の妻。
鄭芝龍:和藤内の父。明の臣。日本に渡ってからは老一官と名乗る。
栴檀皇女:明の皇帝の妹。
甘輝:将軍。
呉三桂: 将軍。明の忠臣。敵弾に倒れた帝の寵妃華清婦人の腹の太子と自らの子を入れ替え、太子をつれて山々を逃げ九仙山に隠れる。
錦祥女: 甘輝の妻。鄭芝龍の先妻の娘。
李蹈天: 明の佞臣。左目を抉り取って韃靼にくみする。
出典: 「国性爺合戦」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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でも。。。、でも。。。、『国性爺合戦』の説明にもインゲン豆は出てこないではござ~♪~ませんかア!
あのねぇ~、僕は隠元豆が国性爺合戦に出てくるとは言ってません。。。 でも、インゲン豆と国性爺合戦 はマジで関係あるのです。。。
どのように。。。?
だから、『国性爺合戦』の主人公のモデルになった実在人物の鄭成功の仕立てた船で 隠元和尚が20人あまりを随従させて長崎に着いたのですよ。。。
。。。で、この隠元和尚がインゲン豆を日本に持ち込んだのでござ~♪~ますかァ?
そうなのです。。。
隠元隆琦(いんげん りゅうき)
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誕生: 文禄元年11月4日〈1592年12月7日〉
寂滅: 寛文13年4月3日〈1673年5月19日〉
明末清初の禅宗の僧。
特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師、勅賜として真空大師、華光大師
日本黄檗宗の祖。
福建省福州府福清県の生まれで、その俗姓は林である。
隠元自身は臨済正宗と称していたが、独特の威儀を持ち、禅とさまざまな教えを兼ね併せる当時の「禅浄双修」の念仏禅や、「禅密双修」の陀羅尼禅を特徴とする明朝の禅である「明禅」を日本に伝えた。
また、道者超元と共に当時の禅宗界に多大な影響を与え、江戸時代における臨済・曹洞の二宗の戒律復興運動等にも大きな貢献をした。
なお、明代の書をはじめとして当時の中国における文化や文物をも伝え、隠元豆の名称に名を残し、日本における煎茶道の開祖ともされる。
生い立ちから渡来前
1592年、福建省福州府福清県万安郷霊得里東林に生まれる。俗名は林曽炳。
10歳で仏教に発心する(16歳という説もあり)が、出家修道は母に許されなかった。
21歳の時に消息不明の父を浙江に捜したが果たせなかった。
23歳の時、普陀山(浙江省)の潮音洞主のもとに参じ、在俗信者でありながら1年ほど茶頭として奉仕した。
29歳で、生地である福清の古刹で、黄檗希運も住した黄檗山萬福寺の鑑源興寿の下で得度した。
33歳の時、金粟山広慧寺で密雲円悟に参禅し、密雲が萬福寺に晋山するに際して、これに随行した。35歳で黄檗山の費隠通容から印可を受けた。
38歳の時、密雲は弟子の費隠通容に萬福寺を継席して退山したが、隠元はそのまま萬福寺に残り、45歳で費隠に嗣法した。
その後、萬福寺を出て獅子巌で修行していたが、費隠が退席した後の黄檗山の住持に招請されることとなり、明崇禎10年(1637年)に晋山し、黄檗山の主を7年間つとめた。
後に退席したが、明末清初の動乱が福建省にも及ぶ中、順治3年(1646年)に再度晋山し、再び9年間つとめた。
渡来以降
江戸時代初期、長崎の唐人寺であった崇福寺の住持に空席が生じたことから、先に渡日していた興福寺住持の逸然性融が、隠元を日本に招請した。
当初、隠元は弟子の也嬾性圭を派遣したが、途中船が座礁して客死したため、やむなく自ら良静・良健・独癡・大眉・独言・良演・惟一・無上・南源・独吼ら二十人ほどの弟子を率いて、鄭成功が仕立てた船に乗り、承応3年(1654年)7月5日夜に長崎へ来港した。
月洲筆「普照国師来朝之図」にこのときの模様が残されている。
隠元が入った興福寺には、明禅の新風と隠元の高徳を慕う具眼の僧や学者たちが雲集し、僧俗数千とも謂われる活況を呈した。
明暦元年(1655年)、崇福寺に移る。
同年、妙心寺元住持の龍渓性潜の懇請により、摂津嶋上(現在の大阪府高槻市)の普門寺に晋山するが、隠元の影響力を恐れた幕府によって、寺外に出る事を禁じられ、また寺内の会衆も200人以内に制限された。
隠元の渡日は、当初3年間の約束であり、本国からの再三の帰国要請もあって帰国を決意するが、龍渓らが引き止め工作に奔走し、万治元年(1658年)には、江戸幕府4代将軍・徳川家綱と会見した。
その結果、万治3年(1660年)、山城国宇治郡大和田に寺地を賜り、翌年、新寺を開創し、旧を忘れないという意味を込め、故郷の中国福清と同名の黄檗山萬福寺と名付けた。
寛文3年(1663年)には、完成したばかりの法堂で祝国開堂を行い、民衆に対しては、日本で初めての授戒「黄檗三壇戒会」を厳修した。
隠元豆
隠元が来日した際に日本に持ち込んだためにその名が付いたとされるインゲンマメは、中南米原産のマメ科の作物。
ヨーロッパに伝わった後、ユーラシア大陸を横断して中国から日本に伝来した。
ただし、隠元が持ち込んだのは、現在のフジマメ(藤豆)だという説もあり、関西ではフジマメのことをインゲンマメと呼ぶ。
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フジマメ(藤豆)
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出典: 「隠元隆琦」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
つまり、隠元和尚が中国からインゲン豆を日本に持って来たという事を言うために、これほど長々と他の記事から文章を引用して、わざわざ記事を書いたのでござ~♪~ますか?
卑弥子さんは、なんだか呆れた表情を浮かべて、「バカじゃなかろうか!?」と言おうとしてますねぇ~。。。
誰だって、ここまでの長い説明を聞かされたら、そう思うものでござ~ますわァ~。。。
あのねぇ~、インゲン豆は、話の都合上、オマケみたいなものですよ。。。 僕が不思議に思ったのは、近松門左衛門の作品は、それまでは「曽根崎心中」で遊女と手代の男女の情愛を切々と伝えたものや、「堀川波鼓(ほりかわなみのつづみ)」で武家の妻の女の性を艶(なま)めかしく描いたもので人気を得たのですよ。。。 つまり、昭和時代で言えば、「ストリップ」や「日活ロマンポルノ」で男性たちの興味を引いたようなものですよ。。。
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ところが、「国性爺合戦」は、エロ話でも、ポルノでもない! ましてや、ストリップなどじゃない! それにも拘(かかわ)らず1715年(正徳5)11月に初公演してから年を越しても人気を博し、ついに2度目の正月を迎え翌々年1717年3月まで続く空前の長期興行となった。。。
つまり、17ヶ月続いたロングランだったのでござ~ますわねぇ~。。。!
そうですよう。。。 当時は、日本は鎖国をしていた。。。 テレビや映画もない時代に、海外の情報は庶民には届かなかったに違いない!
それなのに、どうしてストリップでもロマンポルノでもない「国性爺合戦」が、ミーちゃん、ハーちゃんの庶民の間で それほどの人気になったのでござ~ますかァ?
あのねぇ~、「国性爺合戦」は実際の出来事と実在の人物に基づいた人形浄瑠璃だったわけです。。。
でも。。。、でも。。。、それほど人気が出た人形浄瑠璃だったのでしょうけれど、あたくしは京都に生まれ京都で育ったにも拘らず、いまだに「国性爺合戦」を浄瑠璃でも、歌舞伎でも、テレビでも映画でも観たことがござ~ませんわァ~。。。
それは、当然のことですよ。。。 僕だって、この記事を書くために、初めてYouTubeで観たのだから。。。
それなのに、鎖国時代の大阪や江戸で、どうしてそれほどの人気が出たのでござ~ますかァ~?
言ってみれば、「国性爺合戦」は、江戸時代の「真珠湾攻撃」か? あるいは江戸時代の「9.11同時多発テロ」を演劇にして見せたようなものだったのですよ。。。
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テレビや映画がなかった時代に、お隣の中国の大事件をニュースとして演じたようなものだったのでござ~ますか?
その通りですよ。。。 しかも、主人公・国姓爺のモデルになった実在の人物鄭成功は、中国人を父に、日本人を母に持つ人物だった。。。 だからこそ、鎖国をしていた当時の日本では、その浄瑠璃を観ながら、観客は自分が中国に渡って戦争をしていたような思いでワクワクしながら観たに違いない。。。
そうでしょうか?
だってぇ~、もしもですよ、「9.11同時多発テロ」を起こしたグループの中に、日本人が混じっていたとしたら、日本人のたくさんの映画監督が、その日本人を主人公にした映画を たくさん作っていたはずですよ。。。
つまり、当時の人形浄瑠璃は、庶民の「知りたい」という要求を満たしてくれる「マスメディア」だったのですわねぇ~。。。
そうですよ。。。 いまでは、それが こうしてインターネットに取って代わられているわけです。。。
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