カッパのロードスター

幌を開ければFeelin`good。カッパーレッドの
路渡☆くんとの楽しいドライブ日誌。

ちょっといっぷく。

2012-06-20 23:01:29 | 京都徘徊記
間が開きましたが、ブログ上ではまだ清水寺にいます。(^_^ゞ

清水寺境内には何軒かお休み処がありますが、
その内の2軒の茶店が『舌切茶屋』、『忠僕茶屋』って名前のお店。
どちらも何かいわくのありそうな屋号です。



そんなことを思いながら、錦雲渓の崖っぷちに建つ「舌切茶屋」に入ってみました。







茶だんごと、ところてんです。歩き疲れた身体には甘いものが嬉しいね。
それで・・・「舌切すずめ」のお話と関係があるのかな?何て思っていたら、

これが、壮絶な幕末の話しになります。
前回に、清水寺の本坊塔頭「成就院」で西郷隆盛をはじめとする
勤皇の志士たちが密談を交わしたと書きましたが、
その頃の成就院の住職でもあった尊王攘夷派の僧侶、月照上人とその弟でもある
信海上人。そしてこの二人に仕えた近藤正慎(こんどうしょうしん)、
大槻重助(おおつきじゅうすけ)という人物が、この二つの茶屋の主人公です。



そう言えば成就院の近くに「勤王聖僧 月照信海両上人遺蹟」がありました。
中の石碑は、向かって左が信海上人、真ん中が月照上人の辞世の句歌碑です。
そして右には西郷隆盛の漢詩が刻まれた石碑が立てられています。

さて、気になる「舌切茶屋」のエピソードですが、幕府の大老であった井伊直弼が
反対派を弾圧、一掃するため断行した安政の大獄の際、捕らわれそうになった
月照は逃げ帰る西郷とともに薩摩に行きますが、どちらにつくか態度を決めかね
ていた薩摩藩から入藩を断られ、失望の末、西郷と共に薩摩潟に入水自殺をして
しまいます。西郷は奇跡的に助けられ一命をとりとめ、後に倒幕の大きな力と
なったことは衆知の通り。
その時、月照の友であり成就院の執事であった近藤正慎は幕府方に捕らわれ、
京都・六角牢獄で月照の行方を問われて拷問をうけます。
しかし正慎は決して白状することなく、自ら舌を噛み切り、牢獄の壁に頭を
打ちつけ、壮絶な最期を遂げたのです。これが「舌切」の由来なんです。



その近藤正慎の妻が開いたのがこの茶屋だったのです。
ちなみに俳優近藤正臣は、正慎のひ孫にあたるそうです。実は近藤正臣さんって、
私の高校の先輩だったりします。(^_^ゞ

もうひとつの茶屋「忠僕茶屋」は、というと・・・



まだ20代の若者だった大槻重助は、薩摩まで月照に付き従います。月照上人の
入水自殺後、遺品を持ち京都に戻りますが捕えられ、六角牢獄につながれます。
そこで同じく獄中にあった信海上人と再会。信海上人は後に江戸に送られ獄死。
重助は解き放たれますが、獄中で信海から後事を託されており清水寺に戻ります。
そしてここに茶屋を開き、生涯、月照・信海両上人のお墓を守り続けました。



「月照上人・信海上人慰霊碑」の左に立つ「忠僕重助碑」

幕末の動乱、命がけで自分の信念をつらぬいた人、それに従った人の物語が
こんな茶屋にも残されているのですね。
ふたつの茶屋はそれぞれの子孫が受け継ぎ150年。今は4代目が営まれています。

ちなみに先の3つ並ぶ歌碑を紹介すると
信海上人辞世の句「西の海 東の空とかわれども 心は同じ 君が代のため」
月照上人辞世の句「大君のためにはなにか 惜しからむ 薩摩の瀬戸に身は沈むとも」
西郷の詠んだ「相約して淵に投ず、後先無し。豈図らんや波上再生の縁。
頭を回らせば十有余年の夢。空しく幽明を隔てて墓前に哭す」(読み下し文)
この漢詩は重助が薩摩で月照上人を悼む西郷隆盛から託されたものだそうです。


気分を変えて、全く関係ない写真を・・・茶屋の近くで撮ったものです。(^_^ゞ



茶屋でいっぷく、元気を取り戻したので錦雲渓の下「音羽路」を散策してみました。



羊腸小径と言いますか、つづら折れの路を下って行きます。
降りれば登りが待っているということをとんと忘れていました・・・

実は飢饉や疫病、災害や戦乱などが何度も起こった都の長い歴史の中、
大量の死体がここへ運ばれてきており、舞台下の谷底には投棄された死体で
あふれかえっていたという時期もあったそうです。



ちょうどその谷の底辺りがここですねぃ・・・


ひゃぁ~ッ!で、出た~!!!



何やカッパちゃんかいな・・・って遊んでいる横で何やら家内が熱心に
シャッターを切っていましたよ。



(¨)nnnnnをこよなく愛すF氏に送るため・・・?





2012.5/20、音羽路から見上げた舌切茶屋。