カッパのロードスター

幌を開ければFeelin`good。カッパーレッドの
路渡☆くんとの楽しいドライブ日誌。

道草、寄り道、帰り道。

2012-06-21 23:28:11 | しゃじ
やっと清水寺を出ます。(^_^ゞ
と言っても表参道からではなく裏門?、南門・・・?
知る人ぞ知る出入口です。京男さんから聞いていた門だと思われます。
子安の塔、泰産寺の奥、境内南東の角になります。



清水寺は本堂(舞台)は拝観料が要るのですが、境内は無料。
だからこの裏門も午前6時から午後5時半までは開いているようです。
清水寺の南東に位置する我が家へ徒歩で帰るには便利な出口でした♪
ただしここへ来るには徒歩か自転車かな。
自宅へ戻るには自転車ならほとんど漕がなくても帰れそうな下り坂が続きます。







門を抜けると静かな林道、東山風景林。この道は「歌の中山」と呼ばれています。
桜と楓の林で風光明媚、かつては多くの歌人が歌を詠んだと言うことらしいですが
昔の話のようです・・・










『清閑寺』に寄ってみることに。・・・えらい登りやん!
今は侘びた小さな古寺ですが、全盛期は清水寺に並ぶ大寺院だったとか。
山号は「歌中山」、延暦21年(802)に天台宗の寺として紹継法師によって創建。
今は真言宗智積院の末寺となっていますが、和歌や古典文学に名高い由緒あるお寺です。
拝観料は志納、「観光寺院では無いので参拝以外の方は入山お断り」とも・・・




宝篋印塔(ほうきょういんとう)が二つ並んでいますが、小さい方が
平家物語に登場する小督局(こごおのつぼね)の宝筺院塔です。
視聴率が上がらない大河ドラマ「平清盛」をご覧の方にはちょうどタイムリーかも。
それでは平家物語とどうゆかりがあるのかを分りやすく解説(できるかな?)

高倉天皇の奥さんである徳子(建礼門院)さんに仕えていた女官に小督ちゃん
って美女が居りまして、高倉くん手を出してしまったんですな、それを聞いて
怒ったのが徳子のお父ちゃん平清盛、小督ちゃんを宮中から追放!
それでも忘れられなかったのか高倉くん、小督ちゃんを見つけ出し、ついに
女の子まで産ませてしまいます。当然またまた激高した清盛、遂に小督ちゃんを
尼さんにしてしまい、この清閑寺に入れてしまった。って話です。
高倉くん、死ぬ時には小督ちゃんのいる清閑寺に葬って欲しいと遺言。
小督ちゃんは生涯、高倉くんのお墓を守ったとさ・・・

かんたんな話やん、それで高倉天皇陵がすぐ隣りにあるのですね。







先代の六条天皇も同じ御陵に葬られています。

ちなみに六条天皇(79代)は生後7ヶ月と11日(数え年で2歳)で即位、
在位2年8ヶ月で叔父である高倉天皇に譲位、満年齢11歳8ヶ月で崩御されています。
高倉天皇(80代)はと言えば、父は後白河天皇、母は平滋子(たいらのしげこ)
清盛の妻、時子の妹です。うむ?奥さんの徳子は清盛と時子の子ですよね・・・
7歳で即位、在位は12年間。20歳で崩御されてます。

ちょっとややこしくなってきました・・・

高倉天皇の中宮(妻)である徳子=建礼門院の間に安徳天皇(81代)を
もうけられますが、19歳の時の子ってことになります。徳子は25歳でした。
安徳天皇は壇の浦の戦いで徳子と入水、5歳で没します。
徳子は生き残り京へ送還されて出家、建礼門院となり大原寂光院で
安徳天皇と一門の菩提を弔ったといわれています。

高倉天皇の寵姫小督局はと言うと、清盛と手を組み、政の実権を握った
信西の孫だったということです。


平家物語はこの辺にしておいて・・・






鐘楼の奥に茶室「郭公亭(かっこうてい)」跡というのがありました。
ここでも西郷隆盛と清水寺成就院住職の月照上人が勤皇の謀議を重ねていたようです。
それにしても石碑に「大」って何?「大西 郷月」って誰や思いましたよ(笑)







境内もこぢんまり、伽藍といっても鐘楼とこの本堂くらいしかありません。
がら~んとしてますな。(^_^ゞ 
本堂には菅原道真が梅の木で彫ったという十一面観音菩薩を本尊としています。

あと、本堂より大きな社務所?おそらく住職の住居かな?
そこには焼き物が展示販売されていました。清閑寺焼発祥の地となっています。
清閑寺窯から発展して、清水焼、粟田焼、御室焼、仁和寺焼などの焼き物が
生まれ、これらを総称して「京焼」といいます。京焼の元祖ですね。




要石(かなめいし)ってのがあるらしい・・・



これがその要石。この石の位置から市内を見ると扇を広げた様に見え、
ちょうど扇の要にあたるのでこのように呼ばれています。




ほとんど観光客の来ない穴場スポット、大きな楓の樹があったので
紅葉の季節には超穴場かも知れません。





2012.5/20、清閑寺にて。