西陣にある真言宗智山派の名刹、瑞応山 大報恩寺(だいほうおんじ)。
『千本釈迦堂』と呼ばれています。承久3年(1221年)創建。
京都ではもうひとつ「嵯峨釈迦堂」があり、そちらは浄土宗
五台山 清凉寺(ごだいさん せいりょうじ)。寛和3年(987年)創建。
嵯峨釈迦堂の方が古いのですが、知名度は千本釈迦堂の方かな・・・
タクシーに「釈迦堂へ」と告げると千本釈迦堂へ向かうようだし。(^_^ゞ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/89/84a7cddabe78d61e421bcc6afd7d45d7.jpg)
ぶらぶら歩いて西門から入りました。
大きな樹が目を引きます。樹齢どのくらいだろ・・・
西門を入ればすぐに寺務所があり、拝観料600円で本殿・霊宝殿に
入れます。クルマで来ても境内に無料で駐車できるようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/c2/5a80f718a7e00d28c52ce6ebd25e0d1d.jpg)
霊宝殿には、快慶作「十大弟子像:重文」、定慶作「六観音像:重文」
などが間近に観られて、仏像ファンならずとも感動ものです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/f1/8054d2f16424e8920aee1db7b5a9cebc.jpg)
五辻通(いつつじどおり)からだと参道、山門を通って本堂正面に。
本堂までの左手に稲荷社、北野経王堂 願成就寺が並んでいます。
〈北野経王堂〉
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/ba/9b6723fb12c3d62ceb1ee3fd6accbbf7.jpg)
〈稲荷社〉
北野経王堂 願成就寺、現在は大きくもないお堂なんですが、
足利義満が明徳の乱で倒れた敵(山内氏清)味方の冥福を祈るため、
北野天満宮の門前に建立したもので、建立当時は東山三十三間堂の
二倍半もあるという大きなお堂だったといいます。
江戸時代、荒廃したお堂を縮小しここに移転されました。その際に
貴重な仏像や経典、義満の宝物なども移され、現在は霊宝殿に保存
されています。
稲荷社は茶吉尼天尊、天上多田稲荷大明神を祀る。
前に置かれている石には「千度石」と彫られていました。
お百度では済まないんですねぃ・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/1b/a8403fa6237c3bdeac4a57d3998097f9.jpg)
〈千体地蔵塔〉
本堂の右手、境内の一番奥にあります。近くには行けませんでした。
おそらく明治の廃仏毀釈で廃棄されたお地蔵さんを集めたものかな?
組体操、人間ピラミッド・・・いや、地蔵ピラミッド状態ですね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/00/f2fe3da1e401aa80a3ffeac2ca50d520.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/b3/0b872ac3e01ba92443116088ace4f2b9.jpg)
〈布袋尊像〉
本堂右にあり、立派な石像で目を引きますが、なぜ七福神が?
弥勒菩薩の化身とされているのでよいのかな・・・
それよりこちら♪ このお寺を有名にしているのは「おかめさん」。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/94/c84069d06fe4dc1ee1e0c300c6dfe5c3.jpg)
〈阿亀多福像〉
本堂造営の際の棟梁・長井飛騨守高次とその妻・阿亀(おかめ)の
悲しくも切ないエピソードが美談として伝えられています。
この横には高次が阿亀の菩提を弔うために建てた宝篋印塔があり、
このお寺は、おかめ伝説発祥の地なんです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/5f/9e8902f6aabedd3c4385f931fac2f2ff.jpg)
〈阿亀桜〉
本堂前の右手に樹齢90年ほどといわれるしだれ桜の大木が!
御室仁和寺(おむろにんなじ)の御室桜は背が低く花が低いところから
おたふく桜と呼ばれていますが、ここのおかめ桜は花が高く立派?
「わたしゃお多福 御室の桜、はなは低とも ひとは好く」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/e0/f93003873f7b331c73d2f2598ef840da.jpg)
黄桜、御衣黄桜も咲くようですね、お花見が楽しみ♪ すぐ近くには
境内全域に約60種類400本の桜銘木が咲く平野神社がありますしね。
さて、本堂へと・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/dd/dcc139a98c17a0287e8d41f3915dc158.jpg)
全景の写真を撮るのを忘れていましたw(^_^ゞ
承久3年(1221年)に義空上人により創建、本堂は800年ほど前に建て
られたそのままで、京洛の中でも最古の木造建築物。国宝に指定
されています。※もちろん、解体・復元の大修理はされています。
京都のお寺はそのほとんどが応仁の乱で焼失してしまい、その後も
幾度も大火に見舞われていますから意外と古い建造物は無いです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/91/a397bbdfe95c7d42b743011037848d3e.jpg)
ここももちろん、明徳・応永の乱(1391年・1399年)に始まり
応仁・文明の乱(1467-1477年)の戦乱の渦中にあり焼失を逃れたのは
奇跡的かも。そもそもこの界隈を西陣と呼ぶのは、応仁の乱の際、
西軍の陣が置かれたことが由来ですから、まさに戦禍の真っ只中だし。
西軍の大将・山名宗全の特別な計らいもあったとか・・・
とは言え、この本堂の柱には当時のおびただしい刀、槍の傷跡が
残っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/a9/e6e6f4dbbd82b728cbbf0ee64c2e5af6.jpg)
それにしても、室町幕府・足利氏、大内氏、山名氏、細川氏・・・
南北朝の動乱・・・この室町時代の争乱は脳がぐちゃぐちゃに?
大河ドラマ・花の乱を観なかったのが悔やまれる・・・(^_^ゞ
日本史上最大の内乱といわれる応仁の乱。京都は焼け野原となった
ことから、京都で「戦後」と言えば応仁の乱の後のことだか。
もう一つ言えば、京都人が腹黒なのはこの応仁の乱が原因だとも。
なにせこの戦乱、日本全国を二分しただけじゃなく親兄弟まで分裂
どちら側かが問われ、裏切り寝返りが当たり前。
腹の内、本音を言おうものならどうなることやら・・・
ちなみにこれがきっかけで日本は下克上、戦乱の世になります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/54/eb76dd5cf6ae59e14e05e9f0c1679aa9.jpg)
この桔梗紋は、真言宗智山派の宗紋ですね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/0e/9edb8d20246e7ac851e71f6ba39fdeb9.jpg)
さて、本堂でもあちこちに「おかめ(=お多福)」さんのお姿が
見られます。
おかめさんに関する話題は次回に・・・(^_^ゞ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/ca/a113d767f6f36c65704f6b9c2194d656.jpg)
2016.1/24、千本釈迦堂にて。
『千本釈迦堂』と呼ばれています。承久3年(1221年)創建。
京都ではもうひとつ「嵯峨釈迦堂」があり、そちらは浄土宗
五台山 清凉寺(ごだいさん せいりょうじ)。寛和3年(987年)創建。
嵯峨釈迦堂の方が古いのですが、知名度は千本釈迦堂の方かな・・・
タクシーに「釈迦堂へ」と告げると千本釈迦堂へ向かうようだし。(^_^ゞ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/89/84a7cddabe78d61e421bcc6afd7d45d7.jpg)
ぶらぶら歩いて西門から入りました。
大きな樹が目を引きます。樹齢どのくらいだろ・・・
西門を入ればすぐに寺務所があり、拝観料600円で本殿・霊宝殿に
入れます。クルマで来ても境内に無料で駐車できるようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/c2/5a80f718a7e00d28c52ce6ebd25e0d1d.jpg)
霊宝殿には、快慶作「十大弟子像:重文」、定慶作「六観音像:重文」
などが間近に観られて、仏像ファンならずとも感動ものです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/f1/8054d2f16424e8920aee1db7b5a9cebc.jpg)
五辻通(いつつじどおり)からだと参道、山門を通って本堂正面に。
本堂までの左手に稲荷社、北野経王堂 願成就寺が並んでいます。
〈北野経王堂〉
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/ba/9b6723fb12c3d62ceb1ee3fd6accbbf7.jpg)
〈稲荷社〉
北野経王堂 願成就寺、現在は大きくもないお堂なんですが、
足利義満が明徳の乱で倒れた敵(山内氏清)味方の冥福を祈るため、
北野天満宮の門前に建立したもので、建立当時は東山三十三間堂の
二倍半もあるという大きなお堂だったといいます。
江戸時代、荒廃したお堂を縮小しここに移転されました。その際に
貴重な仏像や経典、義満の宝物なども移され、現在は霊宝殿に保存
されています。
稲荷社は茶吉尼天尊、天上多田稲荷大明神を祀る。
前に置かれている石には「千度石」と彫られていました。
お百度では済まないんですねぃ・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/1b/a8403fa6237c3bdeac4a57d3998097f9.jpg)
〈千体地蔵塔〉
本堂の右手、境内の一番奥にあります。近くには行けませんでした。
おそらく明治の廃仏毀釈で廃棄されたお地蔵さんを集めたものかな?
組体操、人間ピラミッド・・・いや、地蔵ピラミッド状態ですね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/00/f2fe3da1e401aa80a3ffeac2ca50d520.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/b3/0b872ac3e01ba92443116088ace4f2b9.jpg)
〈布袋尊像〉
本堂右にあり、立派な石像で目を引きますが、なぜ七福神が?
弥勒菩薩の化身とされているのでよいのかな・・・
それよりこちら♪ このお寺を有名にしているのは「おかめさん」。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/94/c84069d06fe4dc1ee1e0c300c6dfe5c3.jpg)
〈阿亀多福像〉
本堂造営の際の棟梁・長井飛騨守高次とその妻・阿亀(おかめ)の
悲しくも切ないエピソードが美談として伝えられています。
この横には高次が阿亀の菩提を弔うために建てた宝篋印塔があり、
このお寺は、おかめ伝説発祥の地なんです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/5f/9e8902f6aabedd3c4385f931fac2f2ff.jpg)
〈阿亀桜〉
本堂前の右手に樹齢90年ほどといわれるしだれ桜の大木が!
御室仁和寺(おむろにんなじ)の御室桜は背が低く花が低いところから
おたふく桜と呼ばれていますが、ここのおかめ桜は花が高く立派?
「わたしゃお多福 御室の桜、はなは低とも ひとは好く」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/e0/f93003873f7b331c73d2f2598ef840da.jpg)
黄桜、御衣黄桜も咲くようですね、お花見が楽しみ♪ すぐ近くには
境内全域に約60種類400本の桜銘木が咲く平野神社がありますしね。
さて、本堂へと・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/dd/dcc139a98c17a0287e8d41f3915dc158.jpg)
全景の写真を撮るのを忘れていましたw(^_^ゞ
承久3年(1221年)に義空上人により創建、本堂は800年ほど前に建て
られたそのままで、京洛の中でも最古の木造建築物。国宝に指定
されています。※もちろん、解体・復元の大修理はされています。
京都のお寺はそのほとんどが応仁の乱で焼失してしまい、その後も
幾度も大火に見舞われていますから意外と古い建造物は無いです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/91/a397bbdfe95c7d42b743011037848d3e.jpg)
ここももちろん、明徳・応永の乱(1391年・1399年)に始まり
応仁・文明の乱(1467-1477年)の戦乱の渦中にあり焼失を逃れたのは
奇跡的かも。そもそもこの界隈を西陣と呼ぶのは、応仁の乱の際、
西軍の陣が置かれたことが由来ですから、まさに戦禍の真っ只中だし。
西軍の大将・山名宗全の特別な計らいもあったとか・・・
とは言え、この本堂の柱には当時のおびただしい刀、槍の傷跡が
残っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/a9/e6e6f4dbbd82b728cbbf0ee64c2e5af6.jpg)
それにしても、室町幕府・足利氏、大内氏、山名氏、細川氏・・・
南北朝の動乱・・・この室町時代の争乱は脳がぐちゃぐちゃに?
大河ドラマ・花の乱を観なかったのが悔やまれる・・・(^_^ゞ
日本史上最大の内乱といわれる応仁の乱。京都は焼け野原となった
ことから、京都で「戦後」と言えば応仁の乱の後のことだか。
もう一つ言えば、京都人が腹黒なのはこの応仁の乱が原因だとも。
なにせこの戦乱、日本全国を二分しただけじゃなく親兄弟まで分裂
どちら側かが問われ、裏切り寝返りが当たり前。
腹の内、本音を言おうものならどうなることやら・・・
ちなみにこれがきっかけで日本は下克上、戦乱の世になります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/54/eb76dd5cf6ae59e14e05e9f0c1679aa9.jpg)
この桔梗紋は、真言宗智山派の宗紋ですね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/0e/9edb8d20246e7ac851e71f6ba39fdeb9.jpg)
さて、本堂でもあちこちに「おかめ(=お多福)」さんのお姿が
見られます。
おかめさんに関する話題は次回に・・・(^_^ゞ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/ca/a113d767f6f36c65704f6b9c2194d656.jpg)
2016.1/24、千本釈迦堂にて。