次に行くのは、
73番の出釈迦寺です。
え~っと、釈迦の出る寺ですか?
ありがたい名前のお寺ですねえ。
そう、そうなんです。
このお寺の名前は、
空海の子どものころの
伝説に基づいたお寺なんです。
このお寺の裏には
我斬濃山(わしのやま)という
山がありました。
そこにジダンが昇って行った
んではなく
「真魚(まお)」という名を持つ
7歳の空海が昇って行ったんだそうです。
そして山の頂に立ち、
「仏門に入っていろんな人を救いたい。
もしその願いがかなうなら、
釈迦如来よ現れたまえ。
もしかなわないなら
一命を捨ててこの身を仏に供養する」
と言い、身を投げたんだそうです。
ああ~ジダンも今度は
崖っぷちでしてみてください。
すると、空海の場合、
釈迦如来が現れ、天女が真魚を
抱きとめたんだそうです。
いやあ、無茶な子だったんですねえ。
なにか似たようなものを
崖っぷちから飛ばしたら、
トンビが加えていった、
まあそんな逸話がこうなったの
かもしれませんがね。
でもまあこういう話は
ありがたい連想で包んでおきましょうか。
将来、釈迦を刻んで本尊とし、
出釈迦寺としたということです。
そしてこんな事件もあったから
その我斬濃山は我拝師山と
名付け変えられたようです。
絵を描くのはやはり
お寺から見上げたこの山の姿ですねえ。
ウヒャー、山頂下に
見事な岩場が出ていますねえ。
山頂から見下ろしたら
さぞかし怖い山でしょう。
絵でもわかると思いますが、
山頂の右下のコルに小さな祠がありますね。
これがこの山の禅定なんです。
そうそう、この話の最初に
「真魚」という子供のころの
名前が出てきましたよねえ。
ちょっと、この四国巡りの
同行使である「弘法大師」のことに
触れておきましょう。
彼は善通寺で生まれた後、
15歳まで讃岐にいました。
しかし、15歳で京都に上り、
18歳から大学に入って
勉強をし始めました。
だが彼は、そんな勉強だけでは
人は救えないと大学を呼び出し、
四国で修業を積んだ後、
22歳で受戒し、
名前を「空海」と名付けたそうです。
その辺のことはまだまだ
ずっと先の24番最御崎寺あたりで
わんさか出てくることでしょう。
なので活動する彼の名前は
「空海」とこれからも書いていきます。
あとまあ、彼の呼び名には
「弘法大使」というのもありますが、
まあこれは死後というか、
高野山で入定後100年経過したくらいに
与えられた名なので、
彼の行動を実績として書くときなどは、
「弘法大使」この名前を
使うことになるでしょうね。
「弘法大師、筆の誤り」
とか
「弘法、筆を選ばず」
といった具合に彼の場合
よく出てくるのが、
彼の「書」のきれいなこと。
確かに彼が書いた文章などは
様々なシーンで残っています。
そのどれもが非常にきれいな文書、
見事な文書構成力など、
確かにすばらしい文書なわけです。
ここへきて彼の生前の歴史や
中国での大活動、密教の開始者
としての実績を学んでいくにつれ、
いかに日本の上人の中でも、
一人とびぬけた
すさまじいものを持っていた
ことがよくわかります。
四国八十八か所めぐりは、
もしかしたらそんな彼の
心に触れる旅なのかもしれませんね。
坂の上の本堂、太子堂で
ここもしっかりお参りしていきます。
般若心経を唱える前に、
我々は
「開経偈」、「懺悔文」、「三帰」、
「三きょう」、「十善戎」などを
先達に続いてあげていきます。
そして「発菩提心真言」、
「三摩やがい真言」をあげたら、
そこから般若心経が始まります。
で、さらにその納経が終わったら、
「ご本尊ご真言」、「虚空蔵菩薩」、
「光明真言」、「大師宝号」、
「廻向」を唱えて、一クールです。
それを二か所で行うから2クール。
いやあ、こうして書いてあるのを
見るだけでも大変そうでしょ。
たしかにまあ、大変なんですが
近頃はそういう時間も
あまり苦にならないように
なってきていますから不思議です。
続く