今日は、ぼくの所属する東京思風塾2月例会でした。その記録を添付したいと思います。
これはぼくの主観が相当入ってますので、思風先生の感性論哲学とはずれている部分があるかもしれません。ご容赦ください。
でも、仲間と共に学べるこの会は、ほんとにすばらしいなぁ!!(笑)
東京思風塾 2月例会
年間テーマ ~問いを持って生きる~
問いを持つ大切さ。ほとんどの人は『答えを求めて生きる』ことによって、自分が持った答えに縛られる。答えに執着する。答えに支配される。異なる答えの他人と対立する。
問いを感じる→人間としての成長のために感性が感じる。
『答え』→有形の知。カタチあるもの。有限であるということ。しかし実際には時代によって、自分の状態によって、『変化する』
『問い』→無形の知。無形であるがゆえに変化成長できる。永遠の知。ゆえに、答えに縛られない自由な生き方ができる。
現実を生きるためには答えも必要であるが、答えを持つことによって、答えが固定化されることによって。傲慢になる。対立を起こす。
問題は自分を成長させるために起こる。感性が問題を感じる。問題は発展変化成長させるために起こる。問題とは、自分の持っている力では解決できない事象。つまり、次の時代を生きる力を生み出すために、『問題』というカタチになって起こる。この『問題』は過去になく、未来にない。いま必要だから起こる。必然として起こる。
人類史は、人間の持つ潜在能力を、問題の発生ということによってその能力を顕在化させながら時代を発展させてきた。歴史は常に、『不可能を可能に』しながら変化成長してきた。
学問とは、『体験に根拠を与える』→自信を持って生きることができる。
人生とは、経営とは、生きるとは、『問題を乗り越え続けることである』。病気という問題は、死ぬ前に、ものの見方や考え方、生活の仕方等々に何か問題があるのだということを気づかせてくれるもの。気づかせるために『起こる』。自分に降りかかる問題とは、その問題を通して何かに気づかせようとしているのだ。何かを学ばせようとしているのだ。つまり、その問題の意味と価値を気づかせようとして起こるのだ。
宇宙に偶然という現象はない。すべての現象は『必然』であって、意味と価値がある。意味や価値を感じると、いのちが喜ぶ。いのちが燃える。生命力が刺激され、人間力が活性化する。病気が治る。
病気を治そうとする。→問題を排除しようとすること。
病気を治してもらおうとする。→問題を外に置くこと。
いのちの有機性の混乱が病気をつくる。自分の意識の中に対立構造をつくるから病気になる。会社経営も、家庭家族の関係性も、みな同じ。
宇宙の摂理を身近に感じる方法→『寝てても死なない』(これほんとだよね!!)意識でコントロールできるものなど限られている。髪やつめが意識を超えて伸びる。心臓を止めようとしても止められない。宇宙の摂理の中に生かされているという事実。
抵抗要因、阻害要因は生命力を強くするために必要。苦難や困難があるからこそ、変化成長できる。人生における問題や悩みにこそ、変化成長のための意味と価値があることを知る。ゆらぎゆらいで、悩み悩んで、、、ある時理屈を超えた答えに出会う。
しかし、答えを手にしても尚、更にゆらぎながら問い続け、その答えをも変化成長させていくのだ。
≪ほんものの人間とは≫
第一原則
不完全性の自覚からにじみ出る謙虚さ
一般的に言って、人類史400万年。そのうち、380万年は旧人類。
20万年以前には、宗教的儀式の痕跡がない。20万年より宗教的儀式の痕跡がある。
人類は20万年前ごろより、『超越的存在』を意識した。
動物は、目の前に見える現実だけ。
20万年前の人類は、目に見える背後に、目に見えざるものを意識した。抽象的な概念が生まれた。目に見えざるものに支配されているのでは?。この抽象概念によって『言葉』が生まれた。地震や火山や病気の蔓延などの遭遇により、『問い』をもった。『何でこんなことが起こるんだろう?』→擬人的類推
恐れ→宗教的儀式の発祥。
目に見えざるもの→未来・過去・希望・先祖・神・・・・・・
超越的存在は完全なもの、という対比によって、人間は不完全であるといえる。不完全であることを自覚しただけではなく、それが肉化され、にじみ出てこそほんものであり、それがいのちから湧き出る謙虚さとなることによってほんものといえる。肉化されるとは。
① 人間とは必ず長所半分、短所半分あるんだ。(宇宙の摂理からして)という深い理解。
長所も短所も生かし切ってこそ、宇宙の摂理にかなう。
こうあるべき、こうでなければならない!!という、理性によるいのちの抑圧から、『○○したい!!』といういのちの働きによる欲求や感情や感性を実現する生き方をしていく。理性と感性を有機的につなげる。理性を手段能力として、感性を実現していく。
② 謙虚な理性が必要。理性革命が必要だ。近代は理性に対して傲慢であった。理性万能主義。よって人間性の破壊、環境の破壊、違いによる対立・戦争が起こっている。『理性って、ほんとうに正しいの?』
体験は真実を語る力。体験なしには真実を語れない。理性は発生学的に言葉の持つ限界をもつ。理性は合理的に考えることのできるすばらしい能力だけれども、理性は合理的にしか考えることのできない有限で不完全な能力である。不完全な理性をどう使うか!
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『円熟と角熟』
仏教の世界で、短所が見えなくなり、人様の役に立ち、あらゆる局面に適切に対応できる悟りの境涯を「円熟」と称す。これは、人間が神仏の境涯に立たんとするものであり、「人でなし」の境涯である。感性論哲学では、短所をも生かしてこそ本物の人間であるとする。短所は、他者の長所を生かす能力である。更に、長所が際立って生かされることで、短所は「人間味」となる。ほんものの人間は角ばったまま熟していく。これを「角熟人生」という。
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第二原則
より以上を求めて生きる
人間はどこまでいっても不完全である。がしかし、完全を目指す存在でもある。でも完全完璧にはなれない。神(という言葉の存在)は、すでに完全かつ完璧である。固定された存在である。動物は人間と同じく不完全であるが、完全であることを求めることができない。人間だけがより以上を求めて生きることができる。
より以上を目指して生きるには、夢や理想・目標という高次な対象を掲げる。→ついつい人間はこれを理性で考える。結果、夢に縛られ、理想や目標に縛られる生き方を強いられる。ほんものの人間は、夢や理想・目標が『いのちから湧き出る欲求』として現れる。いのちから湧き出る欲求とは、『ほんとうにしたいこと!!』。それを導く3つの問い。
① どんな人間になりたいのか。
② どんな仕事をしたいのか。
③ 将来どんな生活がしたいのか。
夢や理想・目標とは、いまを生きる力である。欲求こそ、いのちから湧き出る私そのもの。
より以上を求めて生きるためには、『問いをもって生きる』こと。問題があるから夢や理想・目標を持つことができる。問題には夢がある。問題には希望がある。問題がない方がいい、問題がなくなってほしいと思うのは、ただ『楽がしたいだけ』。実力を伴った成長は、問題を乗り越える体験を通してしか得られない。問題がない道を選択するのは、堕落した人生を選択するに等しい。問題がなことは不幸なことだ。気づいていないだけだ。問題のない現実はない。
問題には答えがある。どんな困難な問題にも答えがある。答えがあることを信念としてできるまでやる。失敗してもやる。失敗は成功への確率を高める。必ずできる。
量的な拡大から質的な向上をもって成長・発展とする時代になった。『質の向上』は無限である。
第3原則
人様の役に立つ存在になる(愛)
社会性の中に生きる人間として、『自分の価値は他人が評価する』という現実。人の役に立つことを喜びとする感性→『愛』
職業こそ、人を幸せにすることによって私が幸せになるという『愛の実践の場』。
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不完全性の自覚からにじみ出る謙虚さ より以上を求めて生きる 人の役に立つ存在になる(愛)これが、『ほんものの人間』の3つの条件であるけれど、『順番』が大切だ。これすごく重要。
中でも、『不完全性の自覚からにじみ出る謙虚さ』が本質中の本質ではないか。
これはぼくの主観が相当入ってますので、思風先生の感性論哲学とはずれている部分があるかもしれません。ご容赦ください。
でも、仲間と共に学べるこの会は、ほんとにすばらしいなぁ!!(笑)
東京思風塾 2月例会
年間テーマ ~問いを持って生きる~
問いを持つ大切さ。ほとんどの人は『答えを求めて生きる』ことによって、自分が持った答えに縛られる。答えに執着する。答えに支配される。異なる答えの他人と対立する。
問いを感じる→人間としての成長のために感性が感じる。
『答え』→有形の知。カタチあるもの。有限であるということ。しかし実際には時代によって、自分の状態によって、『変化する』
『問い』→無形の知。無形であるがゆえに変化成長できる。永遠の知。ゆえに、答えに縛られない自由な生き方ができる。
現実を生きるためには答えも必要であるが、答えを持つことによって、答えが固定化されることによって。傲慢になる。対立を起こす。
問題は自分を成長させるために起こる。感性が問題を感じる。問題は発展変化成長させるために起こる。問題とは、自分の持っている力では解決できない事象。つまり、次の時代を生きる力を生み出すために、『問題』というカタチになって起こる。この『問題』は過去になく、未来にない。いま必要だから起こる。必然として起こる。
人類史は、人間の持つ潜在能力を、問題の発生ということによってその能力を顕在化させながら時代を発展させてきた。歴史は常に、『不可能を可能に』しながら変化成長してきた。
学問とは、『体験に根拠を与える』→自信を持って生きることができる。
人生とは、経営とは、生きるとは、『問題を乗り越え続けることである』。病気という問題は、死ぬ前に、ものの見方や考え方、生活の仕方等々に何か問題があるのだということを気づかせてくれるもの。気づかせるために『起こる』。自分に降りかかる問題とは、その問題を通して何かに気づかせようとしているのだ。何かを学ばせようとしているのだ。つまり、その問題の意味と価値を気づかせようとして起こるのだ。
宇宙に偶然という現象はない。すべての現象は『必然』であって、意味と価値がある。意味や価値を感じると、いのちが喜ぶ。いのちが燃える。生命力が刺激され、人間力が活性化する。病気が治る。
病気を治そうとする。→問題を排除しようとすること。
病気を治してもらおうとする。→問題を外に置くこと。
いのちの有機性の混乱が病気をつくる。自分の意識の中に対立構造をつくるから病気になる。会社経営も、家庭家族の関係性も、みな同じ。
宇宙の摂理を身近に感じる方法→『寝てても死なない』(これほんとだよね!!)意識でコントロールできるものなど限られている。髪やつめが意識を超えて伸びる。心臓を止めようとしても止められない。宇宙の摂理の中に生かされているという事実。
抵抗要因、阻害要因は生命力を強くするために必要。苦難や困難があるからこそ、変化成長できる。人生における問題や悩みにこそ、変化成長のための意味と価値があることを知る。ゆらぎゆらいで、悩み悩んで、、、ある時理屈を超えた答えに出会う。
しかし、答えを手にしても尚、更にゆらぎながら問い続け、その答えをも変化成長させていくのだ。
≪ほんものの人間とは≫
第一原則
不完全性の自覚からにじみ出る謙虚さ
一般的に言って、人類史400万年。そのうち、380万年は旧人類。
20万年以前には、宗教的儀式の痕跡がない。20万年より宗教的儀式の痕跡がある。
人類は20万年前ごろより、『超越的存在』を意識した。
動物は、目の前に見える現実だけ。
20万年前の人類は、目に見える背後に、目に見えざるものを意識した。抽象的な概念が生まれた。目に見えざるものに支配されているのでは?。この抽象概念によって『言葉』が生まれた。地震や火山や病気の蔓延などの遭遇により、『問い』をもった。『何でこんなことが起こるんだろう?』→擬人的類推
恐れ→宗教的儀式の発祥。
目に見えざるもの→未来・過去・希望・先祖・神・・・・・・
超越的存在は完全なもの、という対比によって、人間は不完全であるといえる。不完全であることを自覚しただけではなく、それが肉化され、にじみ出てこそほんものであり、それがいのちから湧き出る謙虚さとなることによってほんものといえる。肉化されるとは。
① 人間とは必ず長所半分、短所半分あるんだ。(宇宙の摂理からして)という深い理解。
長所も短所も生かし切ってこそ、宇宙の摂理にかなう。
こうあるべき、こうでなければならない!!という、理性によるいのちの抑圧から、『○○したい!!』といういのちの働きによる欲求や感情や感性を実現する生き方をしていく。理性と感性を有機的につなげる。理性を手段能力として、感性を実現していく。
② 謙虚な理性が必要。理性革命が必要だ。近代は理性に対して傲慢であった。理性万能主義。よって人間性の破壊、環境の破壊、違いによる対立・戦争が起こっている。『理性って、ほんとうに正しいの?』
体験は真実を語る力。体験なしには真実を語れない。理性は発生学的に言葉の持つ限界をもつ。理性は合理的に考えることのできるすばらしい能力だけれども、理性は合理的にしか考えることのできない有限で不完全な能力である。不完全な理性をどう使うか!
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『円熟と角熟』
仏教の世界で、短所が見えなくなり、人様の役に立ち、あらゆる局面に適切に対応できる悟りの境涯を「円熟」と称す。これは、人間が神仏の境涯に立たんとするものであり、「人でなし」の境涯である。感性論哲学では、短所をも生かしてこそ本物の人間であるとする。短所は、他者の長所を生かす能力である。更に、長所が際立って生かされることで、短所は「人間味」となる。ほんものの人間は角ばったまま熟していく。これを「角熟人生」という。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
第二原則
より以上を求めて生きる
人間はどこまでいっても不完全である。がしかし、完全を目指す存在でもある。でも完全完璧にはなれない。神(という言葉の存在)は、すでに完全かつ完璧である。固定された存在である。動物は人間と同じく不完全であるが、完全であることを求めることができない。人間だけがより以上を求めて生きることができる。
より以上を目指して生きるには、夢や理想・目標という高次な対象を掲げる。→ついつい人間はこれを理性で考える。結果、夢に縛られ、理想や目標に縛られる生き方を強いられる。ほんものの人間は、夢や理想・目標が『いのちから湧き出る欲求』として現れる。いのちから湧き出る欲求とは、『ほんとうにしたいこと!!』。それを導く3つの問い。
① どんな人間になりたいのか。
② どんな仕事をしたいのか。
③ 将来どんな生活がしたいのか。
夢や理想・目標とは、いまを生きる力である。欲求こそ、いのちから湧き出る私そのもの。
より以上を求めて生きるためには、『問いをもって生きる』こと。問題があるから夢や理想・目標を持つことができる。問題には夢がある。問題には希望がある。問題がない方がいい、問題がなくなってほしいと思うのは、ただ『楽がしたいだけ』。実力を伴った成長は、問題を乗り越える体験を通してしか得られない。問題がない道を選択するのは、堕落した人生を選択するに等しい。問題がなことは不幸なことだ。気づいていないだけだ。問題のない現実はない。
問題には答えがある。どんな困難な問題にも答えがある。答えがあることを信念としてできるまでやる。失敗してもやる。失敗は成功への確率を高める。必ずできる。
量的な拡大から質的な向上をもって成長・発展とする時代になった。『質の向上』は無限である。
第3原則
人様の役に立つ存在になる(愛)
社会性の中に生きる人間として、『自分の価値は他人が評価する』という現実。人の役に立つことを喜びとする感性→『愛』
職業こそ、人を幸せにすることによって私が幸せになるという『愛の実践の場』。
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不完全性の自覚からにじみ出る謙虚さ より以上を求めて生きる 人の役に立つ存在になる(愛)これが、『ほんものの人間』の3つの条件であるけれど、『順番』が大切だ。これすごく重要。
中でも、『不完全性の自覚からにじみ出る謙虚さ』が本質中の本質ではないか。