今日は東京思風塾6月例会でした。またたくさんのことを学ばせていただきました。メモをとりましたので、よろしかったらご覧ください。これは私のメモですので、思風先生のおっしゃっている学問とは異なる部分も多々あることをご了承ください!!(笑)
東京思風塾6月例会
人生の鉄則→成功への鉄則
あらゆる生命の目的はふたつに集約される。自己保存と種族保存
そのふたつが人間といういのちから現れるとき、自己保存の欲求は意志となり、種族保存の欲求は愛となる。
人生とは、意志と愛のドラマなのである。
≪第一原理≫
人生の舞台は社会(娑婆)。その人生における幸せ・成功とは、他人から信頼され信用される存在となること。『信じるに足る自己をつくる』ということ。
信じるに足る自己とは、いのちから自信が湧き上がってくるもの。意識・作為を超えたもの。⇒いや~、いいなぁ!この言葉、『信じるに足る自己とは』だが、自信だけでは自信過剰となり傲慢になる。『自信』と『謙虚さ』が一対となって初めて、現実を生きる力となる。謙虚さだけでもダメ。弱さやこびへつらいとなる。
『自信』→人間は不完全である。人間的な自信。人間的な自信とは、理性・感性・肉体という3つの要素が有機的につながって相乗効果を生み出す。
理性的な自信→学問的な自信をもつこと。あらゆる学問とは物事に根拠をもたせるもの。体験だけの自信は個の限界を持つ。学問的根拠に根差した体験こそ、真の自信となる。⇒なるほど!!!!学問は人間に強さを与える。現実的に言えば、目の前の仕事(家づくりという仕事)の学問的な知識を学び続けることによって、理性的な確固たる自信を持って仕事に臨むことができる。
感性的な自信→感性とは感じる力。人間における感性とは『こころ』という次元にまで成長した感性。人間のこころとは、『意味と価値を感じる感性』である。人間以外の生命における感性は意味や価値を感じることができない。感性の究極は、『このためなら死ねる』という感性。いのちは、生きたい生きたいと思っている。しかしそのいのちが最も激しく燃えるのは『死んでもいいと思える対象と出会ったとき』。⇒人生は一度だ。燃えてこそ人生。だからこそ、『このためなら死ねる』という対象を求め求め、そして出会って燃え尽くす人生を歩め。死に得るものとの出会いこそ最高の人生。
それは他所にあるのではない。目の前の仕事の中に、他に替えがたいその仕事だけの意味や価値や素晴らしさが必ずある。その意味と価値を見い出す力を養え。
肉体的な自信→肉体というものを持っている人間的な価値とは、『体験』である。体験とは真実を語る力。学問的に知っているだけでは真実を語れない。生まれてからずっと我々は『体験』を通して真実を語る力を成長させてきている。体験を通して人間的な自信を積み重ねていくことによって、他人から信頼され信用される存在となる。
滲み出てくる謙虚さ、とは。
不完全性を自覚する。神(という言葉含む)も動物も不完全性を自覚することができない。神は完全であり、動物は完全を意識することができない。
『自覚』だけでは知識であり意識であり作為である。それが滲み出て、肉化されるためには。弱さでなくこびへつらいでない人間らしい『謙虚さ』とは。
謙虚さ⇔傲慢さ
人間として傲慢さほど恐ろしく醜いものはない。
人間は誰でも、長所半分短所半分なんだ、という深い理解。(対原理・動的平衡という宇宙摂理)人間らしいとは、短所があること。短所はなくならないし、必要だし、なければならない。
短所がその人間を謙虚にする。短所が無くなったら(なくそうとしたら、なくなったと思ったら)人間は傲慢になる。短所は相手の長所を生かす素晴らしい能力だ。助けることと助けてもらうことは、同じだけの価値があるんだ。『活人力』。
自分の短所をさらけだして、自分の不得手な部分を助けてもらうことによって人が育ち、活力ある組織となる。自己の短所を活かすんだ。支配と命令と管理の縦型社会から、愛と対話とパートナーシップの横型社会へ。長所は人の役に立つためにある。短所は人を活かすためにある。
理性革命
人間の本質は理性である。理性を原理とした合理化こそ真理であるという現代社会の猛省。離婚・虐待・自然の破壊・人間性の破壊・戦争・・・・。理性は画一性を追求する。ジャッジする。
現代人は理性に支配され、理性の奴隷となっている。理性とは合理的に考えることのできるすばらしい能力であるが、合理的にしか考えることのできない有限で不完全な能力である。人間は肉体がある以上、その位置からしか見えない。だから、偏見がある。偏っている。正しいけれど偏っている。理性的に物事を歪めているのだ。有機性を分断するのだ。生まれた時は感性と肉体。成長と共に言語を通して理性を獲得する。言語とは抽象であるから、実態とは異なる。したがって理性は有限で不完全な能力であるといえる。その有限で不完全な能力に支配されることなく、積極的に使いこなしていくためには。
理性の半分は本当のことを言える。もう半分は事実でないことを言える。理性とは、事実でないことや将来に向かっての夢や希望を語ることができる能力である。人類は理性能力による事実に拘束されない能力(嘘をつく能力)によって発展してきたといえるのである。
理性とは客観性と普遍性の能力という限界がある⇒ひゃ~!!難しくなってきたぁ!!!渦中にある問題を客観的に見ることができる。自分の欲求だけでなく全体を見ることができるという普遍性。
感性論哲学も偏見である。理性社会から感性社会への移行に必要なだけ。時代とともにまた新たな原理が必要とされる。
理性社会が生まれた背景→中世の非合理で不合理な抑圧社会から、合理への欲求が目覚めた。やがて理性的で合理的な社会の限界→感性社会への欲求の目覚め。
いくら理性的に正しいとわかっても、得だとしても、いのちから湧いて出てくるものでなければ、燃えない。
理屈を超えて生きるとは、『矛盾を内包した真実に生きる』ということだ。⇒これだ!!
理性は矛盾を排除しようとする。感性は異なるものを有機的に結び付ける。性格の違う人、考え方の違う人、宗教の違い思想の違いを超えて結びつけることができるのは、感性以外にない。対立とは、自分にないものを相手が持っているという証。自分にないものを相手から学ぶという謙虚さが、異なるものを結びつける。対立の原因5つ。
① 体験 ②経験 ③知識情報 ④解釈 ⑤出会い
『夫婦関係とは、最も困難な人間関係である』
東洋的対立解決法→『三人寄ればもんじの知恵』自分はこう思う、あなたはこう思う、あの人はこう思う。その知恵を有機的に結び付けて統合して結論を出す。西洋にはない発想。
急がば回れ、大器晩成等々、東洋には古来より矛盾を活かす生き方が伝えられてきた。
愛は矛盾を生きる力。真実の愛とは矛盾を生きる力なんだ。矛盾だらけだからこそ、愛が必要なんだ。問題が起こらず、矛盾がないならば愛は必要ない。理性的に完結する。愛は対立を乗り越える力だ。愛は矛盾を生きる力だ。
≪第二原理≫
ほんとうに納得のいく人生を送るためには、自分で自分を教育する。
① 理想を持つこと 理性で持つ理想は作為的だから窮屈だ。つらく苦しい。欲求として理想を持つ。欲求とはいのちがしたいこと。いのちから湧き上がってくる欲求を理想として持つ。⇒いいね、いいね、いいねぇ~!!したいことをしてこそ人生。いのち掛けで成し遂げたいことをやってこそ人生。
② 問いを持つこと 問いがないと成長が止まる。常に問いを抱え、問題を乗り越えることで成長するんだ。感性で感じる『現実の異和感』。問題を避けてはならない。恐れてはならない。
③ 成長意欲を持つこと 人間としてもっともっと成長したいという欲求をもつ。いのちは停滞することをしない。停滞は死だ。感性は常に変化を求める。より良い方向への変化を求める。
≪第三原理≫
限界への挑戦。知力の限界、気力の限界、体力の限界への挑戦。限界に挑戦する意志の強さは、いのちから湧いてくる欲求欲望の強さである。欲求欲望の強さは、その対象の意味や価値の成長の度合いによって強まる。だから、意味や価値をどれだけ深めることができるかによって、欲求欲望の強さが成長する。
限界への挑戦によって、いま自分が持っている(気づいている)能力ではいかんともできない問題を超えることができる。限界を超えることによって潜在意識から答えが引っ張り出される。
いのちにはいのちを生かす力が働いている。寝ていても死なない。意識を超えた存在がある。
≪第四原則≫
決断にかける 人生はどんな道を選択しても問題は起こる。『問題のない現実はない』⇒これ大好き!!自分が選んだ道から起こる問題を乗り越え続ける以外に、人生を幸せに豊かにする道はない。問題がないことを願うのは、楽をしたいだけだ。逃げたいだけだ。問題のない現実はないんだ。
『決断』とは、選び取ることだけではない。決断とは、『断』である。⇒すばらしい!!あらゆる可能性を断ち切る。起こる問題を片っ端から乗り越えていく以外に、ない。それが結果として人間的な成長となる。
≪第五原則≫
意味と価値の確認 人間が意味と価値のある人生を送りたいと思ったら、その意味と価値を感じ、深めていかなければならない。無意味なことには何一つない。
自分のことで想う。同じ家づくりをしてきていたのに、6年ぐらい前からまったく変わった。それは、この『家づくりという仕事』の中に、ぼくのいのちから湧き上がってくるほどの欲求と共に、意味と価値が現れた。そしてそれがどんどん深く濃くなって、いま家づくりの仕事が大好きでたまらない。それは、『家』という建築物ではなかった。その建築物の先に在るものがはっきりと見えたから。
今回もいっぱいお勉強しました。(笑)
ではまた。
おさむ
東京思風塾6月例会
人生の鉄則→成功への鉄則
あらゆる生命の目的はふたつに集約される。自己保存と種族保存
そのふたつが人間といういのちから現れるとき、自己保存の欲求は意志となり、種族保存の欲求は愛となる。
人生とは、意志と愛のドラマなのである。
≪第一原理≫
人生の舞台は社会(娑婆)。その人生における幸せ・成功とは、他人から信頼され信用される存在となること。『信じるに足る自己をつくる』ということ。
信じるに足る自己とは、いのちから自信が湧き上がってくるもの。意識・作為を超えたもの。⇒いや~、いいなぁ!この言葉、『信じるに足る自己とは』だが、自信だけでは自信過剰となり傲慢になる。『自信』と『謙虚さ』が一対となって初めて、現実を生きる力となる。謙虚さだけでもダメ。弱さやこびへつらいとなる。
『自信』→人間は不完全である。人間的な自信。人間的な自信とは、理性・感性・肉体という3つの要素が有機的につながって相乗効果を生み出す。
理性的な自信→学問的な自信をもつこと。あらゆる学問とは物事に根拠をもたせるもの。体験だけの自信は個の限界を持つ。学問的根拠に根差した体験こそ、真の自信となる。⇒なるほど!!!!学問は人間に強さを与える。現実的に言えば、目の前の仕事(家づくりという仕事)の学問的な知識を学び続けることによって、理性的な確固たる自信を持って仕事に臨むことができる。
感性的な自信→感性とは感じる力。人間における感性とは『こころ』という次元にまで成長した感性。人間のこころとは、『意味と価値を感じる感性』である。人間以外の生命における感性は意味や価値を感じることができない。感性の究極は、『このためなら死ねる』という感性。いのちは、生きたい生きたいと思っている。しかしそのいのちが最も激しく燃えるのは『死んでもいいと思える対象と出会ったとき』。⇒人生は一度だ。燃えてこそ人生。だからこそ、『このためなら死ねる』という対象を求め求め、そして出会って燃え尽くす人生を歩め。死に得るものとの出会いこそ最高の人生。
それは他所にあるのではない。目の前の仕事の中に、他に替えがたいその仕事だけの意味や価値や素晴らしさが必ずある。その意味と価値を見い出す力を養え。
肉体的な自信→肉体というものを持っている人間的な価値とは、『体験』である。体験とは真実を語る力。学問的に知っているだけでは真実を語れない。生まれてからずっと我々は『体験』を通して真実を語る力を成長させてきている。体験を通して人間的な自信を積み重ねていくことによって、他人から信頼され信用される存在となる。
滲み出てくる謙虚さ、とは。
不完全性を自覚する。神(という言葉含む)も動物も不完全性を自覚することができない。神は完全であり、動物は完全を意識することができない。
『自覚』だけでは知識であり意識であり作為である。それが滲み出て、肉化されるためには。弱さでなくこびへつらいでない人間らしい『謙虚さ』とは。
謙虚さ⇔傲慢さ
人間として傲慢さほど恐ろしく醜いものはない。
人間は誰でも、長所半分短所半分なんだ、という深い理解。(対原理・動的平衡という宇宙摂理)人間らしいとは、短所があること。短所はなくならないし、必要だし、なければならない。
短所がその人間を謙虚にする。短所が無くなったら(なくそうとしたら、なくなったと思ったら)人間は傲慢になる。短所は相手の長所を生かす素晴らしい能力だ。助けることと助けてもらうことは、同じだけの価値があるんだ。『活人力』。
自分の短所をさらけだして、自分の不得手な部分を助けてもらうことによって人が育ち、活力ある組織となる。自己の短所を活かすんだ。支配と命令と管理の縦型社会から、愛と対話とパートナーシップの横型社会へ。長所は人の役に立つためにある。短所は人を活かすためにある。
理性革命
人間の本質は理性である。理性を原理とした合理化こそ真理であるという現代社会の猛省。離婚・虐待・自然の破壊・人間性の破壊・戦争・・・・。理性は画一性を追求する。ジャッジする。
現代人は理性に支配され、理性の奴隷となっている。理性とは合理的に考えることのできるすばらしい能力であるが、合理的にしか考えることのできない有限で不完全な能力である。人間は肉体がある以上、その位置からしか見えない。だから、偏見がある。偏っている。正しいけれど偏っている。理性的に物事を歪めているのだ。有機性を分断するのだ。生まれた時は感性と肉体。成長と共に言語を通して理性を獲得する。言語とは抽象であるから、実態とは異なる。したがって理性は有限で不完全な能力であるといえる。その有限で不完全な能力に支配されることなく、積極的に使いこなしていくためには。
理性の半分は本当のことを言える。もう半分は事実でないことを言える。理性とは、事実でないことや将来に向かっての夢や希望を語ることができる能力である。人類は理性能力による事実に拘束されない能力(嘘をつく能力)によって発展してきたといえるのである。
理性とは客観性と普遍性の能力という限界がある⇒ひゃ~!!難しくなってきたぁ!!!渦中にある問題を客観的に見ることができる。自分の欲求だけでなく全体を見ることができるという普遍性。
感性論哲学も偏見である。理性社会から感性社会への移行に必要なだけ。時代とともにまた新たな原理が必要とされる。
理性社会が生まれた背景→中世の非合理で不合理な抑圧社会から、合理への欲求が目覚めた。やがて理性的で合理的な社会の限界→感性社会への欲求の目覚め。
いくら理性的に正しいとわかっても、得だとしても、いのちから湧いて出てくるものでなければ、燃えない。
理屈を超えて生きるとは、『矛盾を内包した真実に生きる』ということだ。⇒これだ!!
理性は矛盾を排除しようとする。感性は異なるものを有機的に結び付ける。性格の違う人、考え方の違う人、宗教の違い思想の違いを超えて結びつけることができるのは、感性以外にない。対立とは、自分にないものを相手が持っているという証。自分にないものを相手から学ぶという謙虚さが、異なるものを結びつける。対立の原因5つ。
① 体験 ②経験 ③知識情報 ④解釈 ⑤出会い
『夫婦関係とは、最も困難な人間関係である』
東洋的対立解決法→『三人寄ればもんじの知恵』自分はこう思う、あなたはこう思う、あの人はこう思う。その知恵を有機的に結び付けて統合して結論を出す。西洋にはない発想。
急がば回れ、大器晩成等々、東洋には古来より矛盾を活かす生き方が伝えられてきた。
愛は矛盾を生きる力。真実の愛とは矛盾を生きる力なんだ。矛盾だらけだからこそ、愛が必要なんだ。問題が起こらず、矛盾がないならば愛は必要ない。理性的に完結する。愛は対立を乗り越える力だ。愛は矛盾を生きる力だ。
≪第二原理≫
ほんとうに納得のいく人生を送るためには、自分で自分を教育する。
① 理想を持つこと 理性で持つ理想は作為的だから窮屈だ。つらく苦しい。欲求として理想を持つ。欲求とはいのちがしたいこと。いのちから湧き上がってくる欲求を理想として持つ。⇒いいね、いいね、いいねぇ~!!したいことをしてこそ人生。いのち掛けで成し遂げたいことをやってこそ人生。
② 問いを持つこと 問いがないと成長が止まる。常に問いを抱え、問題を乗り越えることで成長するんだ。感性で感じる『現実の異和感』。問題を避けてはならない。恐れてはならない。
③ 成長意欲を持つこと 人間としてもっともっと成長したいという欲求をもつ。いのちは停滞することをしない。停滞は死だ。感性は常に変化を求める。より良い方向への変化を求める。
≪第三原理≫
限界への挑戦。知力の限界、気力の限界、体力の限界への挑戦。限界に挑戦する意志の強さは、いのちから湧いてくる欲求欲望の強さである。欲求欲望の強さは、その対象の意味や価値の成長の度合いによって強まる。だから、意味や価値をどれだけ深めることができるかによって、欲求欲望の強さが成長する。
限界への挑戦によって、いま自分が持っている(気づいている)能力ではいかんともできない問題を超えることができる。限界を超えることによって潜在意識から答えが引っ張り出される。
いのちにはいのちを生かす力が働いている。寝ていても死なない。意識を超えた存在がある。
≪第四原則≫
決断にかける 人生はどんな道を選択しても問題は起こる。『問題のない現実はない』⇒これ大好き!!自分が選んだ道から起こる問題を乗り越え続ける以外に、人生を幸せに豊かにする道はない。問題がないことを願うのは、楽をしたいだけだ。逃げたいだけだ。問題のない現実はないんだ。
『決断』とは、選び取ることだけではない。決断とは、『断』である。⇒すばらしい!!あらゆる可能性を断ち切る。起こる問題を片っ端から乗り越えていく以外に、ない。それが結果として人間的な成長となる。
≪第五原則≫
意味と価値の確認 人間が意味と価値のある人生を送りたいと思ったら、その意味と価値を感じ、深めていかなければならない。無意味なことには何一つない。
自分のことで想う。同じ家づくりをしてきていたのに、6年ぐらい前からまったく変わった。それは、この『家づくりという仕事』の中に、ぼくのいのちから湧き上がってくるほどの欲求と共に、意味と価値が現れた。そしてそれがどんどん深く濃くなって、いま家づくりの仕事が大好きでたまらない。それは、『家』という建築物ではなかった。その建築物の先に在るものがはっきりと見えたから。
今回もいっぱいお勉強しました。(笑)
ではまた。
おさむ