かの思い出の地が,現在では「恋する遊び島」だと

1998年08月04日 | 日々のアブク
 これも夏休みのお約束,横浜市金沢区の「海の公園」及び「八景島シーパラダイス」に家族で出掛けた。金沢八景の地は,今から約四半世紀ものムカシムカシに私が約5年の年月を過ごした,いわば思い出の土地である。

 家から車で,東名高速→保土ヶ谷バイパス→横浜横須賀道路を経由して行ったのだが,金沢文庫~金沢八景に近づくにつれて,付近一帯の街並みが当方の予想をはるかに超えてすこぶる立派な様子になっていることに驚いた。なまじ,所々の断片的な風景にムカシの面影が残像のように蘇るだけに,その周囲の全体的景観にはより一層の違和感を覚え,車を運転しながらほとんど浦島太郎状態に陥ってしまった。

 それにしても何という都市景観,何という大規模開発,住・商・工の整然とした混在,リゾート風の海辺の街路,海上に浮かぶレジャーランド,新しい時代の大衆娯楽の殿堂。ん? (何てったって“恋する遊び島”だかんね) しかし,あの三方を山に囲まれ鄙びた風情の漁村であった柴町の変わりようは何だ! 責任者出てこい!

 70年代の初め,改革と挫折,野心と大敗もとい頽廃,思い出すだに恥かしい時代,しかし確かに信じるべき明日が何処かに存在し,その意味では牧歌的な時代であった。その頃の我々は,いや少なくとも私とその周辺にいる同年輩の者たちは,みな一様に貧しかった。何しろ,例外的に軽のワンボックス・バンなぞを所有(ただしボロボロの中古)していた仲間の一人を,他の者たちはみな,指をくわえるように拝むように眩しい思いで眺めていたくらいだから(だいたい,車の免許を取る金すらなかった)。

 やがて高度経済成長からオイルショックをへて再度の上昇的加速,新しい時代の趨勢に巻き込まれるようにして,近傍の山々はザックザックと切り開かれ,道路が舗装・拡張され,高層住宅群や小ぎれいな個人住宅団地が次々に築かれ,巨大マーケットが立地し,地域の様相は徐々に変貌してゆく。なかでも特に,大規模宅地造成による丘陵部の侵食ぶりは凄まじかった。

 そして今にしてみれば驚くべきことではあるが,当時はそのような地域開発行為は,総論としては行政サイド・市民サイドを問わず大部分の人々から素直な歓迎(誇らしげな歓迎,と言ってもいい)をもって迎えられたのだ。後世における矢作俊彦の嘆きなんぞ何処吹く風,まさに進歩が躊躇なく信じられていた時代であった。

 今,苦い気持ちとともに思い出す。当時,金沢文庫の駅裏から鎌倉・天園へと続く丘陵づたいのハイキングコースを,すぐ真近にまで音たてて迫っているブルドーザーやパワーショベルの緑地侵食を見やりながら,身を削がれるような思いで歩いていたのは恐らく私だけではあるまい。けれど,それに対する表立った異議申し立ては,結局何も出来なかったのだ(ああ,恥かしい)。

 そして,金沢文庫から金沢八景へと続く海岸には,まるで様々な開発の免罪符であるかのごとく“人工干潟”なるものが造成される(今では格段珍しくもないが,当時は実に“珍なるもの”に思えたものだ)。私事になるが,コンサルタント修行時代の70年代後半,横浜市港湾局からの委託で海の公園人工干潟の造成に係る「アサリ定着検討試験」なる業務に携わった。八景付近と類似環境にある谷津坂あたりの既存干潟に10箇所程度の方形区を設定して,そこに白ペンキで番号を付けたアサリを沢山埋め込んで,個々のアサリの移動状況を経時的に追跡したりして。はい,結果として人工干潟の将来性にお墨付きを与え,微力ながら開発の片棒をかついだ次第です(ああ,恥かしい)。

 それが金沢八景と接触した最後であった。80年代以降は私の生活領域のなかから金沢という土地は消失する。

 そして今日,八景島のアクア・ミュージアムという名の立派な水族館に入ったら,入場料家族4名で約7,000円也。そのあと,メキシコ料理の店で昼食を食べて約6,500円也。二,三の遊具に乗って約4,000円也。実に浦島太郎は戸惑うばかりである。ああ,遥か彼方に来つるものかな。

 唯一の救いは子供らの喜ぶ顔である。などといえば聞こえはいいが,実際のところは子供なんぞ近所の公園で遊んだって喜ぶんだしね。いやまったく“世間並みの暮し”を暮すのも大変なことである。
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