という次第で,現在の小生にあっては,ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)なるシロモノは,殆ど他人事に等しいほどの限りなく縁遠いシステム,有体に申せばスコブル悍ましい周辺環境としての存在である。そりゃまぁ,冷静に考えて見れば,昨今の複雑怪奇なる現代世界において,政治やら経済やら文化やら風俗やらの組成や構造,それらの展開と消長,さらには多国間の国際関係における諸々多々の機微なんぞまでもがSNSによって日々大きく左右されている,なんてぇことは,老いたる愚生とて何とはなしに得心いたしております。されどもしかれども,何時の頃からか,アレヨアレヨと思う間もなくそんな風に変貌してしまった現今世界の不様で無惨なアリサマが,残された僅かな老年期をカツカツに生きる身にとっては只々鬱陶しい限りなのだ。
いわゆる文字系とされるXだとかFacebookとかLINEとか,あるいは写真系のInstagramとか,さらには動画系ではYoutubeとかニコ動だとかTikTokとか,それらすべての媒体が,汎世界的なインターネット通信網を介して,老いも若きも富める者も貧しき者も,はてまた善人をも悪党をも,なべての見知らぬ人々同士をヤヤコシイまでに繋ぎ絡ませ,喜怒哀楽をイタズラに助長させ,挙句の果てに,僅かばかりの快楽や利便性と引き換えに,数多無用の不幸なる厄災を星の数ほど招いている。 ああ,ウットウシイ!
「だったら四の五の言わずトットと斃リヤガレ!」,といった世間の側からの冷酷・的確かつ無慈悲な批判が,主としてSNS方面から冷たいビル風のようにコチラ側に吹き返して来るかも知らんが,そんな木っ端風に対しては馬耳東風,水辺に自生する楊の老木のごとく静かに構えつつ,そういった風々を受け止めんとしている我が心境でございます。ま,ゆっくり死なせて下さいな。Mourrons pour des idées d'accord, mais de mort lente D'accord, mais de mort lente!
それでも実際のところは,かく申す愚生自身にしてからが,決してそれらと全く無縁で日々を過ごすわけにもゆかぬ現状であるというのが忌々しくも口惜しいところだ。例えば,現在デザイナーを生業にしているウチの長男が,主たる情報発信ツールとしてインスタグラムInstagramを利用しているので,そのサイトを時おり閲覧しては近況確認をしてみたり,あるいは,ラインLINEという名の朝鮮系の怪しげなツールを,不承不承ながらもスマホを介して,ごく限られた身内間の相互メッセージ交換や無料音声通話として時折使ったりしている。いずれも不本意ながら,ではありまするが。
それ以外のシロモノについては,エックスX(旧ツイッターTwitter)にしろフェイスブックFacebookにしろ,いずれも小生には昔も今も全く無縁の存在である。それらの価値を評価することさえできないし,そもそも認めようとも思わない。しかしながら,どうやら世間のトレンドってぇ奴は違うらしい。卑近な例を挙げれば,私と同年代の著名人であるカノ「内田樹」センセイとその御仲間あたりがずっと昔からツイッターに御執心であることは仄聞しており,まぁ然もありなん、アーヤダヤダ,などと冷たい眼で遠目に眺めている程度だったのであるが,それがつい最近になって,同じく同年代であるアノ「矢作俊彦」センセイまでもがエックス(ツイッター)に手を染めていることを偶然知ることとなり,結果,何とも言い様もなく薄ら寂しく物悲しい気分になったものだ。ま,所詮はそれぞれが「他人の領分」でありますからして,傍からドウノコウノ申す筋合いでもなかろうが。。。 しっかし,世界はそこまで変わっちまったのかぃ!
その他,YouTubeやらニコニコ動画やらについては,もっぱらテレビの代替品的には利用している。そもそも私自身は,本邦バカ・メディアの最たるものとしてのテレビ放送というヤツは国営・民間に限らず基本的に見ないので(特に偏向報道ニュース,オチャラケ・バラエティなどは目を覆うほどの為体ではアルマイカ!),本来であればテレビという公共電波から得られるであろう筈の「まっとうな情報」を多少なりとも修正・補完するという意味でそれらを視聴している程度だ。ただし,それとて極めて玉石混交のガラクタ玉手箱のごときものゆえ,常に眉に唾して見ております。なお付言すれば,YouTubeにおける「健康関係」,「筋トレ・ストレッチ関係」などの配信動画なんぞは,特に最近ではかなり積極的に多くを視聴していることを正直白状せねばならないが,それとて単に,溺れる者が藁をも掴む,の類に過ぎないことは重々承知の上でのことだ(恥)
要するに,世の中から取り残され忘れ去られた,フツーに孤独な老人,どこにでもいるような雑草的マイノリティという立ち位置の自分なのであります。はいはい。こりゃやっぱ,トットと斃るのが相応しかるべき存在なのだろうて。 D'accord, mais de mort lente!
。。。そんなわけで,ここ最近では,遥か昔の忘れ形見,今を去ること半世紀近くも前の昭和の時代に,ラジオ番組からカセットテープに録音した種種雑多な音楽ソースなんぞを押し入れの中からゴソゴソと引っ張り出してきて,雑用的デスクワークのBGMに流したりしていることが多い(あれ?以前にもこんなことを書いたことがあったっけかな?)
それらのテープ類は,量にして120サイズのコンテナ2箱ばかりにドッサリと,それこそ山ほどもある(何せ捨てるに忍びなく。。。) そのなかでも特に私がお気に入りなのは,NHKラジオで毎週日曜日に蘆原英了というオジイサン(著名な芸能評論家)がやっていた『午後のシャンソン』という,シャンソン(仏蘭西歌謡)に特化した歌番組だ。当の番組自体は1960年代から70年代にかけて10年近くもの長きにわたって続いていたようだが,私が熱心に聞いていたのは70年代初頭から半ば頃までで,そのうちテープに録音し現在でもそれが手元に残っているのは1974年の夏から1976年の3月(最終回)までの分に限られる。それでも曲目にすれば約500曲に近い数になるほどだから,そのストック数はバカにならず,それらの歌々を,老いさらばえたジジイが独りポツネンと,閑散とした部屋のなかで,ボーッとしながら,あるいはウットリと夢心地で,ときには耳を欹てて舐めるようにして聴いているような次第であります(藁)
ちなみに,蘆原先生がラジオから退いた後は,同じく評論家の永田文夫氏が『世界のメロディー』とタイトルを変えて同種の番組が引き継がれたが,そちらの方は私の嗜好に少しばかり合わなかったのか,あんまりキッチリと録音せずにいて,そのうちに時は過ぎゆき季節は巡り,数年後に番組自体を聞くことも止めてしまったようだ。
とまれ,今改めて『午後のシャンソン』をランダムに聞き直してみると,どの曲もどの歌手も大変に懐かしい。蘆原さんのボソボソとした独特の語り口調を背景に,半世紀も昔のさまざまなシャンソン・シーンの喜怒哀楽の人生模様が,我がモノクロームの古びたスクリーンに次々と展開されてゆく。身体の奥底や脳の隅っこがムズムズと刺激されるようで,コソバユイほどにも懐かしい。それはまるで,今は亡き吉田健一翁が20代の後半に蓄膿手術をした後に感じたという「青春のハジマリ」みたいなものを探し当てたように(ちょっと例えが変か?),ハズカシイほどに懐かしい。そうか,懐かしいなどという歴史認識を背景とした感覚,それを呼び起こす記憶回路の覚醒が,現在の私には未だかろうじて残っているンだ。それは私にとっての想い出の旅路,センチメンタル・ジャーニー。 しかしそれらもまた,流れに漂う泡沫のごとく,やがてはなべて露と消え去りゆく定めなりけり。しかり。こんなのが「私の座敷ぼっこ」ではなかろうか。「私にとってのSNS」というわけではアルマイカ! と,なんとも時代錯誤で意味不明な与太話を晒した次第ではありますけれども,こんな風にして一歩一歩,ヒトは墓場への道を辿ってゆくのだろう。 de chrysanthèmes, en chrysanthèmes…
ショボイ繰り言は大概にして,それら数多の楽曲のなかから一つだけ,私にとっての印象的な歌,センチメンタルの極みとでも言える歌を以下に引用しておきましょうか。それは1976年6月13日(日曜日)の番組で放送された,ダニエル・ギシャールDaniel Guichardの《T'en souviens-tu Marie-Hélène》という題の歌だ。 あぁ,菊から菊へ,ブレルBrelからギシャールGuichardへ!
マリ・エレーヌ,君は覚えているだろうか?
それから シルヴィ,イレーヌ,そしてマドレーヌも
みんな 思い出してごらん
ずっと昔,学校が休みだった木曜日のことを
セーヌ川を眺めて過ごしたね
君たちはそこで お伽の国の女王になった
ファビエンヌの世界
僕が話す物語を聞きながら
今でも僕は その場所にときどき出かける
川面を吹く風の音が聞きたくなって
すると,そこでは小さな子供たちが遊んでいて
その子らは 何だか昔の君たちみたいに見えてくる
僕は思わず微笑んでしまう
あの頃のことを思うたびに
ちょっと不思議な気分になる
そう,少しだけ恋するみたいな それは不思議な気持ちだ
マリ・エレーヌ,覚えてるかい?
それから コリーヌ,そして マルレーヌも
何だか照れくさかったね
おたがい 手を取り合ったとき
君たちが 物悲しくなったときには
僕らは,ギリシャのアテネとか
それからもっと遠くの島々にも出かけたね
歌の世界のなかで
今でも僕は その場所にときどき出かける
川面を吹く風の音が聞きたくなって
すると,そこでは小さな子供たちが遊んでいて
その子らは 何だか昔の君たちみたいに見えてくる
僕は思わず微笑んでしまう
あの時代のことを思い出すたびに
ちょっと不思議な気分になる
そう,少しだけ恋するみたいな それは不思議な気持ちだ
マリ・エレーヌ,君は覚えているかい?
それから シルヴィ,イレーヌ,そしてマドレーヌも
みんな 思い出してごらん
ずっと昔,学校が休みだった木曜日のことを
セーヌ川を眺めて過ごしたね
君たちはそこで お伽の国の女王になった
ファビエンヌの世界
僕が話す物語を聞きながら
ララララ,ララ,ラ
ララララ,ララ,ラ
そう,少しだけ恋するみたいな それは不思議な気持ちだった...
ところで,この歌をラジオで聞いた1976年の6月,その頃の自分はさて一体全体何をしていたっけか,と,やおら手元にある備忘録を繰って一寸顧みてみれば,そうだ,それはちょうど私の環境コンサルタント新米修業の時代であったのだ。そして,その年の晩春から夏場にかけての時期には,横浜港の大黒埠頭の岸壁で,海洋付着生物,とくにムラサキイガイの生態調査などを定期的に行っていた。異なった材質からなるさまざまな付着基盤を埠頭の岸壁から海面の潮間帯エリアに吊下して設置し,それらを毎週一度の間隔で定期的に取り上げては,各基盤ごとのムラサキイガイ付着状況(付着場所や増減,移動等)を観察・記録するといった,それはまことに地味で単調な作業だった。
当時は横浜ベイブリッジがまだ着工する前のことで,首都高速の横羽線も横浜駅近くの金港JCT止まりで大黒埠頭方面には伸延しておらず,そもそも調査フィールドに指定されたその大黒埠頭にしてからが未だ建設途上の状態にあった。島式埠頭のかなりの部分は既に埋め立てられてはいたものの,ほぼ出来上がった人工島の上面は,一部に倉庫等の建屋が何棟か建てられていた程度で,広大な敷地の大部分は閑散とした更地のまま,新規埋立地に特有の殺伐とした風景が広がっていた。運輸省委託の請負業務であったがゆえ私ども調査員はその禁断の敷地内に立ち入ることを許可されていたのだが,そんな人気のない埠頭岸壁の一隅でチマチマとコツコツと,汗かきベソかき3K的汚れ仕事を一心不乱に行っていたのが20代後半の私であった。
けれども,そんなショボい日々を汲々と過ごしているような若年期の私に向かって,埠頭を渡る海風は,とてもやさしく吹いていた。そっと慰めるように,何かを諭すように,どこまでもやさしく吹き付けていた。多分はそれがオマエに向けての応援歌だったのサ。などと,壊れかけた記憶の回路が現在の私に対して無造作に反応する。実際には,梅雨時の叩きつけるような雨と共に強い風が吹いていた日にも時には遭遇したのかも知らんが,センチメンタルな回路はそれらの記憶をどうやら都合よく遮断しているようで,そんな風景はさっぱり表層に浮かび上がって来ない。恐らくは潮下帯の下方に沈んだままなのだろう。そう,年を取るのはステキな事です,そうじゃないですか。。。 とかなんとか,今になって,その頃の自分の様を思うと,ちょっと不思議な気持ちになる。半世紀という歳月は,吹けば飛ぶよな物語の重層的積算でしかない。ちょうど岸壁に必死で付着しているムラサキイガイの群体みたいに。さよう,すべては物語なのである。 あぁ,レオン Léon!
いわゆる文字系とされるXだとかFacebookとかLINEとか,あるいは写真系のInstagramとか,さらには動画系ではYoutubeとかニコ動だとかTikTokとか,それらすべての媒体が,汎世界的なインターネット通信網を介して,老いも若きも富める者も貧しき者も,はてまた善人をも悪党をも,なべての見知らぬ人々同士をヤヤコシイまでに繋ぎ絡ませ,喜怒哀楽をイタズラに助長させ,挙句の果てに,僅かばかりの快楽や利便性と引き換えに,数多無用の不幸なる厄災を星の数ほど招いている。 ああ,ウットウシイ!
「だったら四の五の言わずトットと斃リヤガレ!」,といった世間の側からの冷酷・的確かつ無慈悲な批判が,主としてSNS方面から冷たいビル風のようにコチラ側に吹き返して来るかも知らんが,そんな木っ端風に対しては馬耳東風,水辺に自生する楊の老木のごとく静かに構えつつ,そういった風々を受け止めんとしている我が心境でございます。ま,ゆっくり死なせて下さいな。Mourrons pour des idées d'accord, mais de mort lente D'accord, mais de mort lente!
それでも実際のところは,かく申す愚生自身にしてからが,決してそれらと全く無縁で日々を過ごすわけにもゆかぬ現状であるというのが忌々しくも口惜しいところだ。例えば,現在デザイナーを生業にしているウチの長男が,主たる情報発信ツールとしてインスタグラムInstagramを利用しているので,そのサイトを時おり閲覧しては近況確認をしてみたり,あるいは,ラインLINEという名の朝鮮系の怪しげなツールを,不承不承ながらもスマホを介して,ごく限られた身内間の相互メッセージ交換や無料音声通話として時折使ったりしている。いずれも不本意ながら,ではありまするが。
それ以外のシロモノについては,エックスX(旧ツイッターTwitter)にしろフェイスブックFacebookにしろ,いずれも小生には昔も今も全く無縁の存在である。それらの価値を評価することさえできないし,そもそも認めようとも思わない。しかしながら,どうやら世間のトレンドってぇ奴は違うらしい。卑近な例を挙げれば,私と同年代の著名人であるカノ「内田樹」センセイとその御仲間あたりがずっと昔からツイッターに御執心であることは仄聞しており,まぁ然もありなん、アーヤダヤダ,などと冷たい眼で遠目に眺めている程度だったのであるが,それがつい最近になって,同じく同年代であるアノ「矢作俊彦」センセイまでもがエックス(ツイッター)に手を染めていることを偶然知ることとなり,結果,何とも言い様もなく薄ら寂しく物悲しい気分になったものだ。ま,所詮はそれぞれが「他人の領分」でありますからして,傍からドウノコウノ申す筋合いでもなかろうが。。。 しっかし,世界はそこまで変わっちまったのかぃ!
その他,YouTubeやらニコニコ動画やらについては,もっぱらテレビの代替品的には利用している。そもそも私自身は,本邦バカ・メディアの最たるものとしてのテレビ放送というヤツは国営・民間に限らず基本的に見ないので(特に偏向報道ニュース,オチャラケ・バラエティなどは目を覆うほどの為体ではアルマイカ!),本来であればテレビという公共電波から得られるであろう筈の「まっとうな情報」を多少なりとも修正・補完するという意味でそれらを視聴している程度だ。ただし,それとて極めて玉石混交のガラクタ玉手箱のごときものゆえ,常に眉に唾して見ております。なお付言すれば,YouTubeにおける「健康関係」,「筋トレ・ストレッチ関係」などの配信動画なんぞは,特に最近ではかなり積極的に多くを視聴していることを正直白状せねばならないが,それとて単に,溺れる者が藁をも掴む,の類に過ぎないことは重々承知の上でのことだ(恥)
要するに,世の中から取り残され忘れ去られた,フツーに孤独な老人,どこにでもいるような雑草的マイノリティという立ち位置の自分なのであります。はいはい。こりゃやっぱ,トットと斃るのが相応しかるべき存在なのだろうて。 D'accord, mais de mort lente!
。。。そんなわけで,ここ最近では,遥か昔の忘れ形見,今を去ること半世紀近くも前の昭和の時代に,ラジオ番組からカセットテープに録音した種種雑多な音楽ソースなんぞを押し入れの中からゴソゴソと引っ張り出してきて,雑用的デスクワークのBGMに流したりしていることが多い(あれ?以前にもこんなことを書いたことがあったっけかな?)
それらのテープ類は,量にして120サイズのコンテナ2箱ばかりにドッサリと,それこそ山ほどもある(何せ捨てるに忍びなく。。。) そのなかでも特に私がお気に入りなのは,NHKラジオで毎週日曜日に蘆原英了というオジイサン(著名な芸能評論家)がやっていた『午後のシャンソン』という,シャンソン(仏蘭西歌謡)に特化した歌番組だ。当の番組自体は1960年代から70年代にかけて10年近くもの長きにわたって続いていたようだが,私が熱心に聞いていたのは70年代初頭から半ば頃までで,そのうちテープに録音し現在でもそれが手元に残っているのは1974年の夏から1976年の3月(最終回)までの分に限られる。それでも曲目にすれば約500曲に近い数になるほどだから,そのストック数はバカにならず,それらの歌々を,老いさらばえたジジイが独りポツネンと,閑散とした部屋のなかで,ボーッとしながら,あるいはウットリと夢心地で,ときには耳を欹てて舐めるようにして聴いているような次第であります(藁)
ちなみに,蘆原先生がラジオから退いた後は,同じく評論家の永田文夫氏が『世界のメロディー』とタイトルを変えて同種の番組が引き継がれたが,そちらの方は私の嗜好に少しばかり合わなかったのか,あんまりキッチリと録音せずにいて,そのうちに時は過ぎゆき季節は巡り,数年後に番組自体を聞くことも止めてしまったようだ。
とまれ,今改めて『午後のシャンソン』をランダムに聞き直してみると,どの曲もどの歌手も大変に懐かしい。蘆原さんのボソボソとした独特の語り口調を背景に,半世紀も昔のさまざまなシャンソン・シーンの喜怒哀楽の人生模様が,我がモノクロームの古びたスクリーンに次々と展開されてゆく。身体の奥底や脳の隅っこがムズムズと刺激されるようで,コソバユイほどにも懐かしい。それはまるで,今は亡き吉田健一翁が20代の後半に蓄膿手術をした後に感じたという「青春のハジマリ」みたいなものを探し当てたように(ちょっと例えが変か?),ハズカシイほどに懐かしい。そうか,懐かしいなどという歴史認識を背景とした感覚,それを呼び起こす記憶回路の覚醒が,現在の私には未だかろうじて残っているンだ。それは私にとっての想い出の旅路,センチメンタル・ジャーニー。 しかしそれらもまた,流れに漂う泡沫のごとく,やがてはなべて露と消え去りゆく定めなりけり。しかり。こんなのが「私の座敷ぼっこ」ではなかろうか。「私にとってのSNS」というわけではアルマイカ! と,なんとも時代錯誤で意味不明な与太話を晒した次第ではありますけれども,こんな風にして一歩一歩,ヒトは墓場への道を辿ってゆくのだろう。 de chrysanthèmes, en chrysanthèmes…
ショボイ繰り言は大概にして,それら数多の楽曲のなかから一つだけ,私にとっての印象的な歌,センチメンタルの極みとでも言える歌を以下に引用しておきましょうか。それは1976年6月13日(日曜日)の番組で放送された,ダニエル・ギシャールDaniel Guichardの《T'en souviens-tu Marie-Hélène》という題の歌だ。 あぁ,菊から菊へ,ブレルBrelからギシャールGuichardへ!
マリ・エレーヌ,君は覚えているだろうか?
それから シルヴィ,イレーヌ,そしてマドレーヌも
みんな 思い出してごらん
ずっと昔,学校が休みだった木曜日のことを
セーヌ川を眺めて過ごしたね
君たちはそこで お伽の国の女王になった
ファビエンヌの世界
僕が話す物語を聞きながら
今でも僕は その場所にときどき出かける
川面を吹く風の音が聞きたくなって
すると,そこでは小さな子供たちが遊んでいて
その子らは 何だか昔の君たちみたいに見えてくる
僕は思わず微笑んでしまう
あの頃のことを思うたびに
ちょっと不思議な気分になる
そう,少しだけ恋するみたいな それは不思議な気持ちだ
マリ・エレーヌ,覚えてるかい?
それから コリーヌ,そして マルレーヌも
何だか照れくさかったね
おたがい 手を取り合ったとき
君たちが 物悲しくなったときには
僕らは,ギリシャのアテネとか
それからもっと遠くの島々にも出かけたね
歌の世界のなかで
今でも僕は その場所にときどき出かける
川面を吹く風の音が聞きたくなって
すると,そこでは小さな子供たちが遊んでいて
その子らは 何だか昔の君たちみたいに見えてくる
僕は思わず微笑んでしまう
あの時代のことを思い出すたびに
ちょっと不思議な気分になる
そう,少しだけ恋するみたいな それは不思議な気持ちだ
マリ・エレーヌ,君は覚えているかい?
それから シルヴィ,イレーヌ,そしてマドレーヌも
みんな 思い出してごらん
ずっと昔,学校が休みだった木曜日のことを
セーヌ川を眺めて過ごしたね
君たちはそこで お伽の国の女王になった
ファビエンヌの世界
僕が話す物語を聞きながら
ララララ,ララ,ラ
ララララ,ララ,ラ
そう,少しだけ恋するみたいな それは不思議な気持ちだった...
ところで,この歌をラジオで聞いた1976年の6月,その頃の自分はさて一体全体何をしていたっけか,と,やおら手元にある備忘録を繰って一寸顧みてみれば,そうだ,それはちょうど私の環境コンサルタント新米修業の時代であったのだ。そして,その年の晩春から夏場にかけての時期には,横浜港の大黒埠頭の岸壁で,海洋付着生物,とくにムラサキイガイの生態調査などを定期的に行っていた。異なった材質からなるさまざまな付着基盤を埠頭の岸壁から海面の潮間帯エリアに吊下して設置し,それらを毎週一度の間隔で定期的に取り上げては,各基盤ごとのムラサキイガイ付着状況(付着場所や増減,移動等)を観察・記録するといった,それはまことに地味で単調な作業だった。
当時は横浜ベイブリッジがまだ着工する前のことで,首都高速の横羽線も横浜駅近くの金港JCT止まりで大黒埠頭方面には伸延しておらず,そもそも調査フィールドに指定されたその大黒埠頭にしてからが未だ建設途上の状態にあった。島式埠頭のかなりの部分は既に埋め立てられてはいたものの,ほぼ出来上がった人工島の上面は,一部に倉庫等の建屋が何棟か建てられていた程度で,広大な敷地の大部分は閑散とした更地のまま,新規埋立地に特有の殺伐とした風景が広がっていた。運輸省委託の請負業務であったがゆえ私ども調査員はその禁断の敷地内に立ち入ることを許可されていたのだが,そんな人気のない埠頭岸壁の一隅でチマチマとコツコツと,汗かきベソかき3K的汚れ仕事を一心不乱に行っていたのが20代後半の私であった。
けれども,そんなショボい日々を汲々と過ごしているような若年期の私に向かって,埠頭を渡る海風は,とてもやさしく吹いていた。そっと慰めるように,何かを諭すように,どこまでもやさしく吹き付けていた。多分はそれがオマエに向けての応援歌だったのサ。などと,壊れかけた記憶の回路が現在の私に対して無造作に反応する。実際には,梅雨時の叩きつけるような雨と共に強い風が吹いていた日にも時には遭遇したのかも知らんが,センチメンタルな回路はそれらの記憶をどうやら都合よく遮断しているようで,そんな風景はさっぱり表層に浮かび上がって来ない。恐らくは潮下帯の下方に沈んだままなのだろう。そう,年を取るのはステキな事です,そうじゃないですか。。。 とかなんとか,今になって,その頃の自分の様を思うと,ちょっと不思議な気持ちになる。半世紀という歳月は,吹けば飛ぶよな物語の重層的積算でしかない。ちょうど岸壁に必死で付着しているムラサキイガイの群体みたいに。さよう,すべては物語なのである。 あぁ,レオン Léon!