少し前にNHK-TVで放映されて録画撮りストックしておいた番組を,昨晩,遅まきながら視聴した。「新日本風土記」シリーズの『絶景鉄道 只見線』というタイトルのドキュメンタリー番組である。ここ最近では,毎朝TV番組表を一応はチェックして,取りあえず気になったものを録画予約してはおくものの,それらのうち少なからぬモノは撮り溜めしたっきりずっと見ないままでいて,結局は後になってHDD容量確保のため削除廃棄してしまうのが毎度の習いとなっている(幾つになっても無駄を重ねるジンセイでして。。。) ただし,この『絶景鉄道』については改めてちゃんと視聴して正解であった。安物のT Vモニタ(32インチ)画面の映像を夜遅い時間に半ば寝ぼけ眼でボーッと眺めているうちに,ずっと昔に彼の地で経験したさまざまな出来事のあれやこれやが,ホロ苦い思い出としてボケた脳裏にジンワリ蘇ってきた。あぁ,懐かしの川よ,山よ!
番組のなかで,只見線がこの秋,約11年ぶりに全線再開通する運びとなり,現在そのことで地元では大層盛り上がっているらしいということを知った。そうかそうか,それは大変目出度いことだ。
大分以前に当ブログで一寸記したように思うが,今から20年以上もの昔,それは今世紀初頭の2001年のことなのであるが,只見川を含む福島県会津地方一帯を流れる阿賀川水系の河川・湖沼において,比較的大規模な魚類調査業務を請け負ったことがあった(1回の調査が2週間近い行程で,それを年に春・夏・秋の3シーズン実施)。さらに,その2001年度の調査からちょうど5年後の2006年度にも,ほぼ同様な設計仕様での魚類調査を再度行った。それぞれの現地調査を終えた後で行う膨大な量の生物分析,データ整理,ならびに大部な報告書作成等を含めると,それは工程的にも作業的にも非常に密度が濃く大変にシンドイ,しかしながらまことに充実した仕事であった。
そんなわけで,会津地方の川や湖,そこに生息する多種多様な魚類の分布生態,さらには魚類に限らず諸々の動植物全般や地形・地質などの自然,はたまたその土地で住み暮らす人々の生活文化や人情の機微等々については,かなりの事柄を身をもって経験し体感し,あれこれ試行錯誤を重ねながら理解し分析し,ときには困惑し懐疑し反発し,そして納得し得心し共有していったのである。要するにそれは,単に詳細な魚類調査を丹念に実施したということに止まらず,ある特定の地域全体を深く知り,それらを自らの一部に血肉化していくことに繋がっていったのだと思う。そうさな,例えていえば遅ればせながらの《不出来な地理学舎弟》として,そしていわゆる《かりそめのトコロジストもどき》として。実際,当時は憚りながらソレナリノ「会津フリーク」なんぞを自負していたほどだ(エヘン)。もっとも今では,それらの事どもはアラカタ,というかほとんどスッカリ忘れてしまいましたけどね。何せボケ老人真っしぐらの現在なもンですからネ(グスン)。
ここでは、魚採りにまつわる数々の興味深い事例などを示してもしょうがあるまいから(それはそれですこぶる刺激的かつ有意義なものではあったのだケレドモ),会津地方の数多の魅力的な土地やら風景やらのうちで私が特に印象的だった場所を一つだけ取り上げ,当時の記憶をウンウンとゴシゴシと絞り出すように思い起こしながら記しておくことにする。
只見川の中流域から山の方に少し上った山間部に沼沢湖という比較的大きな湖(火山に由来するカルデラ湖)がある。山奥にひっそりと静かに佇む,なかなか神秘的なおもむきのある湖だ。当時はその湖からすぐ近い場所に,ずっと以前に廃校となってしまった小学校をリニューアルして作られた「湖山荘」という名の宿があった(残念ながら現在ではもう跡形もない)。その建物は,多分は利用客に対する「受け・見栄え」を狙ったのだろう,一見するとスイスの山小屋ロッジ風の,何というか「雛には稀な」と申せばよろしいか,ちょっぴりハズカシイくらいに洒落た外観に改装されていた。もっとも内部はごくアタリマエの古びた小学校の教室,廊下のままでしたけど。確か町営(金山町)の施設だったと思うが,私どもが行っていた調査現場から比較的近く,おまけに宿泊費もかなり安かったので,我ら貧乏調査隊一行としては願ったり叶ったり,そこを常宿としていた。ただし,当の調査自体は会津地方のかなり広範なエリアを約2週間かけて少しづつ移動して行うものだから,各調査地点に応じて宿も点々と場所を変える必要があった。それで,その「湖山荘」は,1回の調査につきせいぜい2泊,それを春夏秋の3シーズン,さらに年度を改めて2年間実施した訳だから,合計して都合10泊くらいは利用したように思う。
宿の従業員(主として年配のオバちゃんたち)は,皆とても気立てがよくて親切で,我らムサクルシイ調査員どもから成る大所帯を快く受け入れて歓待された。まるで,季節ごとに律儀にやってくる行商人ないし出稼ぎ労働者をごく当たり前に迎え入れるかのように。当時,私自身は既に50を過ぎた中年で親方(現場監督)の立場であったが,他の調査員たちは20〜30代の元気な若手が多かった。昼間の調査が終わって現場から宿に戻った後,おそらく昔の状態そのままに残されていたに違いない小ぢんまりした校庭の片隅で,やおら投網や刺し網や定置網などの漁具をいっぱいに広げて補修作業に取りかかったり,現地でやり残した漁獲物の同定・計数作業を行ったり,標本の写真を撮り直したり,フォルマリンをサンプル瓶に追加補填したり,あるいは汚れモノの洗濯やら各種ゴミ処理やらの雑多な作業を行ったり等々,いわゆる観光レジャー目的の通常の宿泊客に比べると,我ら調査隊はさぞかしガサツで騒がしい「好ましからざる客」であったかと思うが,そのような些か異様な風体挙動の集団に対しても決して嫌な顔などおくびだに見せず,むしろ進んで様々な便宜を図って下さったりもした(未明時間からの早出調査,そのための早朝食&昼間の弁当作り等を含め)。ある時など,調査の途中で私だけが別のヤヤコシ業務のために急きょ帰京しなければならない事態が生じ,既にその日の現場(川の中)で作業している大勢の調査員を残したまま,宿のオバチャンに最寄りの只見線早戸駅までクルマで慌ただしく送っていただいたこともあった(何せ只見線は運行本数が非常に少ないので乗り遅れたら大変だ!)
そんななかでも忙中有閑,作業を終えた後の夏の夕暮れ時など,つかの間の休憩時間に,元気な者は旧小学校の小さな体育館でピンポンに興じたり,またある者は湖畔をのんびりと散策したり,湖面に釣り糸を垂れたり,はたまた山里の部落内を意味もなく徘徊したり,あげくに近くの「町営どら焼き工場」(地元名産品?)を覗いてみたりとか,とにかく昼間のハードな調査の疲れを癒すには最適な環境,絶好の宿であった。本当にその節は色々とお世話になりました。すっかり老いぼれてしまった現在においてもなお,その調査の折に受けた温かいオモテナシに対する感謝の気持ちは決して忘れることございません(完全にボケが来るまでは,デスガ)。重々,ありがとうございました!
同様にして,その大規模魚類調査の際に数多く利用した宿としては,只見町の「民宿松屋」が挙げられる。そちらもまた通算して10泊以上も宿泊し,宿の方々にはあれやこれやのメンドウ事を含め色々とお世話になっており,今でも感謝の念に絶えない。ただし,ここでそれらを具体的に逐一書き記しておくような元気ないし気力は現在の私にはありませぬゆえ,申し訳ございませんが御礼のみにて何とぞ御容赦下さいまし。
とまれ,そんな風にして昔々のある一時期,「只見川」という一種蠱惑的な川を通じて「会津」というすこぶる魅力的な地域と相まみえ,その風土と人々とに親しく接し,それらの経験値を自らの裡に後生大事に取り込んでいったのだった。そしてその背景にはいつだって,満々と水を湛えて悠然と流れる只見川に沿うて走るJR只見線の姿があった。ある場所では古びた橋梁で危なっかし気に川を渡り,またあるところでは急な崖沿いの隧道をいくつもくぐり抜けながら,只見川と付かず離れずケナゲにどこまでも並走するその姿があった。それはまるで「風景のサンクチュアリ」のような存在だった。さよう。良き経験,良き思い出はスベカラク今後の生きる糧となる,とばかりに,ワタクシは以後の貧しいジンセイを,そんな思いを心に懐きつつ何とか彼んとか継続し,細々と綿々と積み重ねていったのでありました。ヲイヲイ,そりゃ単なる老人のタワゴト,思い出の美化,記憶の変質,理性の崩壊,精神の衰退に過ぎないジャマイカ,ですって? あるいはそうかも知れない。いや,きっとそうに違いあるまい。キーボードの傍らで安らかに蹲っているレオンLéonをそっとナデナデしつつ,いま,貧困老人は静かな諦念の心をもて全ての来し方を受け入れているノダ(なんのこっちゃら!)
ところで,私どもが湖山荘に宿泊した頃からさらに遡ること7〜8年前には,沼沢湖を舞台にした映画が作られたということだった。タイトルは『あひるのうたがきこえてくるよ。』,監督はアノ著名な無頼派作家,椎名誠である。大勢の制作スタッフが1ヶ月近くも湖山荘に泊まり込んで撮影を続け,当時は近隣一帯が大変賑わったそうだ。出演する有名俳優たちも(主演の柄本明をはじめ,小沢昭一とか加藤武とか竹下景子とか高橋恵子とか),もちろん彼らはずっと泊まりがけという訳にはいかなかっただろうが,東京から何度か往復して来訪し撮影に参加したようなので,現地の観光宣伝に資すること頗る大であっただろう。何のことはない。私ら魚類調査隊一行(総勢7〜8名)がワイワイ,ガヤガヤと宿泊した時よりもずっと前には,シーナマコト映画隊御一行様(総勢数十名?)が,ユーメージンやスタッフを含めて私共の数十倍,数百倍もドンドン,パンパンと,その静かな山間の地を賑々しく騒がしく盛り上げていたのだ。まことに恐れ多い話である。確か小学校の体育館の一角にその時の顛末の記録が展示されていたように思う。ま,所詮は富める者による大掛かりな趣味道楽の域を出なかったのかも知らんが,結果的に地域振興には少なからず寄与していたのでありましょう。はい,どなた様も御苦労サマでございました。
爾来,いくつもの夜が訪れ,鐘が時を告げ Vienne la nuit, Sonne l'heure 幾年の長い月日が慌ただしく過ぎ去っていった。そうして現在,Google Earthなんぞで改めて件の場所を確認して見ると,当時の校舎,体育館等の建物や諸々の施設等は全て解体撤去され,単にアッケラカンとした広い空き地が示されるのみである。時代の流れとはそういったものだ。今の季節はさぞや夏草が一面に生い繁って,チョウやトンボやバッタの楽園と化していることだろう。まさに,ツワモノどもが夢の跡,ってわけか。(で、誰が強者?)
そうそう,そういえば最近,椎名誠と残間里江子の対談をどこかのネット記事で読んだ。それによれば,シーナ先生は昨年夏に新型コロナに感染してかなり酷い目にあったとのことだ。その記事に掲載されていた写真で御尊顔を拝見すると,まさに後期高齢者そのもの,すっかりヨボヨボジーサンの風貌になっていることに驚いた。嘗てはいかにも無骨で偉丈夫と見えた男が,なんだか元気のない欽ちゃん(萩本欽一)みたいな感じになっちゃったなぁ,と思った。(ああ,時が流れる,お城は見えぬ。。。)
また同じ頃,フォーク歌手・吉田拓郎の現在の様子をネット映像で拝見したが,こちらもまた静かで穏やかなヨボヨボジーサンとなりおおせている外観風采を否が応でも突きつけられてしまい,チョッピリ切なくなった。(無疵な魂は,何処いった?)
それにしても,まったくもって誰の為にもならぬであろうツマラヌ事どもを長々と書き記してきた挙句に,最後になって「落ち」がトンと浮かばない。「締めの言葉」がゼンゼン見つからない。今更ながらオノレの表現力の衰退,語彙の短絡化と自家撞着,無意味な鸚鵡返し,知力の劣化,精神の貧困化を感じてしまう(一応は未だ,それらを自覚するだけの頭はかろうじて残っているようだが)。なるほど,こうやって人は一歩一歩ゆっくりと墓場に近づいてゆくのかな,などと,椎名誠や吉田拓郎の近影を拝見しながらシミジミと思ったりする昨今なのであります。 ああ,レオンLéon!
番組のなかで,只見線がこの秋,約11年ぶりに全線再開通する運びとなり,現在そのことで地元では大層盛り上がっているらしいということを知った。そうかそうか,それは大変目出度いことだ。
大分以前に当ブログで一寸記したように思うが,今から20年以上もの昔,それは今世紀初頭の2001年のことなのであるが,只見川を含む福島県会津地方一帯を流れる阿賀川水系の河川・湖沼において,比較的大規模な魚類調査業務を請け負ったことがあった(1回の調査が2週間近い行程で,それを年に春・夏・秋の3シーズン実施)。さらに,その2001年度の調査からちょうど5年後の2006年度にも,ほぼ同様な設計仕様での魚類調査を再度行った。それぞれの現地調査を終えた後で行う膨大な量の生物分析,データ整理,ならびに大部な報告書作成等を含めると,それは工程的にも作業的にも非常に密度が濃く大変にシンドイ,しかしながらまことに充実した仕事であった。
そんなわけで,会津地方の川や湖,そこに生息する多種多様な魚類の分布生態,さらには魚類に限らず諸々の動植物全般や地形・地質などの自然,はたまたその土地で住み暮らす人々の生活文化や人情の機微等々については,かなりの事柄を身をもって経験し体感し,あれこれ試行錯誤を重ねながら理解し分析し,ときには困惑し懐疑し反発し,そして納得し得心し共有していったのである。要するにそれは,単に詳細な魚類調査を丹念に実施したということに止まらず,ある特定の地域全体を深く知り,それらを自らの一部に血肉化していくことに繋がっていったのだと思う。そうさな,例えていえば遅ればせながらの《不出来な地理学舎弟》として,そしていわゆる《かりそめのトコロジストもどき》として。実際,当時は憚りながらソレナリノ「会津フリーク」なんぞを自負していたほどだ(エヘン)。もっとも今では,それらの事どもはアラカタ,というかほとんどスッカリ忘れてしまいましたけどね。何せボケ老人真っしぐらの現在なもンですからネ(グスン)。
ここでは、魚採りにまつわる数々の興味深い事例などを示してもしょうがあるまいから(それはそれですこぶる刺激的かつ有意義なものではあったのだケレドモ),会津地方の数多の魅力的な土地やら風景やらのうちで私が特に印象的だった場所を一つだけ取り上げ,当時の記憶をウンウンとゴシゴシと絞り出すように思い起こしながら記しておくことにする。
只見川の中流域から山の方に少し上った山間部に沼沢湖という比較的大きな湖(火山に由来するカルデラ湖)がある。山奥にひっそりと静かに佇む,なかなか神秘的なおもむきのある湖だ。当時はその湖からすぐ近い場所に,ずっと以前に廃校となってしまった小学校をリニューアルして作られた「湖山荘」という名の宿があった(残念ながら現在ではもう跡形もない)。その建物は,多分は利用客に対する「受け・見栄え」を狙ったのだろう,一見するとスイスの山小屋ロッジ風の,何というか「雛には稀な」と申せばよろしいか,ちょっぴりハズカシイくらいに洒落た外観に改装されていた。もっとも内部はごくアタリマエの古びた小学校の教室,廊下のままでしたけど。確か町営(金山町)の施設だったと思うが,私どもが行っていた調査現場から比較的近く,おまけに宿泊費もかなり安かったので,我ら貧乏調査隊一行としては願ったり叶ったり,そこを常宿としていた。ただし,当の調査自体は会津地方のかなり広範なエリアを約2週間かけて少しづつ移動して行うものだから,各調査地点に応じて宿も点々と場所を変える必要があった。それで,その「湖山荘」は,1回の調査につきせいぜい2泊,それを春夏秋の3シーズン,さらに年度を改めて2年間実施した訳だから,合計して都合10泊くらいは利用したように思う。
宿の従業員(主として年配のオバちゃんたち)は,皆とても気立てがよくて親切で,我らムサクルシイ調査員どもから成る大所帯を快く受け入れて歓待された。まるで,季節ごとに律儀にやってくる行商人ないし出稼ぎ労働者をごく当たり前に迎え入れるかのように。当時,私自身は既に50を過ぎた中年で親方(現場監督)の立場であったが,他の調査員たちは20〜30代の元気な若手が多かった。昼間の調査が終わって現場から宿に戻った後,おそらく昔の状態そのままに残されていたに違いない小ぢんまりした校庭の片隅で,やおら投網や刺し網や定置網などの漁具をいっぱいに広げて補修作業に取りかかったり,現地でやり残した漁獲物の同定・計数作業を行ったり,標本の写真を撮り直したり,フォルマリンをサンプル瓶に追加補填したり,あるいは汚れモノの洗濯やら各種ゴミ処理やらの雑多な作業を行ったり等々,いわゆる観光レジャー目的の通常の宿泊客に比べると,我ら調査隊はさぞかしガサツで騒がしい「好ましからざる客」であったかと思うが,そのような些か異様な風体挙動の集団に対しても決して嫌な顔などおくびだに見せず,むしろ進んで様々な便宜を図って下さったりもした(未明時間からの早出調査,そのための早朝食&昼間の弁当作り等を含め)。ある時など,調査の途中で私だけが別のヤヤコシ業務のために急きょ帰京しなければならない事態が生じ,既にその日の現場(川の中)で作業している大勢の調査員を残したまま,宿のオバチャンに最寄りの只見線早戸駅までクルマで慌ただしく送っていただいたこともあった(何せ只見線は運行本数が非常に少ないので乗り遅れたら大変だ!)
そんななかでも忙中有閑,作業を終えた後の夏の夕暮れ時など,つかの間の休憩時間に,元気な者は旧小学校の小さな体育館でピンポンに興じたり,またある者は湖畔をのんびりと散策したり,湖面に釣り糸を垂れたり,はたまた山里の部落内を意味もなく徘徊したり,あげくに近くの「町営どら焼き工場」(地元名産品?)を覗いてみたりとか,とにかく昼間のハードな調査の疲れを癒すには最適な環境,絶好の宿であった。本当にその節は色々とお世話になりました。すっかり老いぼれてしまった現在においてもなお,その調査の折に受けた温かいオモテナシに対する感謝の気持ちは決して忘れることございません(完全にボケが来るまでは,デスガ)。重々,ありがとうございました!
同様にして,その大規模魚類調査の際に数多く利用した宿としては,只見町の「民宿松屋」が挙げられる。そちらもまた通算して10泊以上も宿泊し,宿の方々にはあれやこれやのメンドウ事を含め色々とお世話になっており,今でも感謝の念に絶えない。ただし,ここでそれらを具体的に逐一書き記しておくような元気ないし気力は現在の私にはありませぬゆえ,申し訳ございませんが御礼のみにて何とぞ御容赦下さいまし。
とまれ,そんな風にして昔々のある一時期,「只見川」という一種蠱惑的な川を通じて「会津」というすこぶる魅力的な地域と相まみえ,その風土と人々とに親しく接し,それらの経験値を自らの裡に後生大事に取り込んでいったのだった。そしてその背景にはいつだって,満々と水を湛えて悠然と流れる只見川に沿うて走るJR只見線の姿があった。ある場所では古びた橋梁で危なっかし気に川を渡り,またあるところでは急な崖沿いの隧道をいくつもくぐり抜けながら,只見川と付かず離れずケナゲにどこまでも並走するその姿があった。それはまるで「風景のサンクチュアリ」のような存在だった。さよう。良き経験,良き思い出はスベカラク今後の生きる糧となる,とばかりに,ワタクシは以後の貧しいジンセイを,そんな思いを心に懐きつつ何とか彼んとか継続し,細々と綿々と積み重ねていったのでありました。ヲイヲイ,そりゃ単なる老人のタワゴト,思い出の美化,記憶の変質,理性の崩壊,精神の衰退に過ぎないジャマイカ,ですって? あるいはそうかも知れない。いや,きっとそうに違いあるまい。キーボードの傍らで安らかに蹲っているレオンLéonをそっとナデナデしつつ,いま,貧困老人は静かな諦念の心をもて全ての来し方を受け入れているノダ(なんのこっちゃら!)
ところで,私どもが湖山荘に宿泊した頃からさらに遡ること7〜8年前には,沼沢湖を舞台にした映画が作られたということだった。タイトルは『あひるのうたがきこえてくるよ。』,監督はアノ著名な無頼派作家,椎名誠である。大勢の制作スタッフが1ヶ月近くも湖山荘に泊まり込んで撮影を続け,当時は近隣一帯が大変賑わったそうだ。出演する有名俳優たちも(主演の柄本明をはじめ,小沢昭一とか加藤武とか竹下景子とか高橋恵子とか),もちろん彼らはずっと泊まりがけという訳にはいかなかっただろうが,東京から何度か往復して来訪し撮影に参加したようなので,現地の観光宣伝に資すること頗る大であっただろう。何のことはない。私ら魚類調査隊一行(総勢7〜8名)がワイワイ,ガヤガヤと宿泊した時よりもずっと前には,シーナマコト映画隊御一行様(総勢数十名?)が,ユーメージンやスタッフを含めて私共の数十倍,数百倍もドンドン,パンパンと,その静かな山間の地を賑々しく騒がしく盛り上げていたのだ。まことに恐れ多い話である。確か小学校の体育館の一角にその時の顛末の記録が展示されていたように思う。ま,所詮は富める者による大掛かりな趣味道楽の域を出なかったのかも知らんが,結果的に地域振興には少なからず寄与していたのでありましょう。はい,どなた様も御苦労サマでございました。
爾来,いくつもの夜が訪れ,鐘が時を告げ Vienne la nuit, Sonne l'heure 幾年の長い月日が慌ただしく過ぎ去っていった。そうして現在,Google Earthなんぞで改めて件の場所を確認して見ると,当時の校舎,体育館等の建物や諸々の施設等は全て解体撤去され,単にアッケラカンとした広い空き地が示されるのみである。時代の流れとはそういったものだ。今の季節はさぞや夏草が一面に生い繁って,チョウやトンボやバッタの楽園と化していることだろう。まさに,ツワモノどもが夢の跡,ってわけか。(で、誰が強者?)
そうそう,そういえば最近,椎名誠と残間里江子の対談をどこかのネット記事で読んだ。それによれば,シーナ先生は昨年夏に新型コロナに感染してかなり酷い目にあったとのことだ。その記事に掲載されていた写真で御尊顔を拝見すると,まさに後期高齢者そのもの,すっかりヨボヨボジーサンの風貌になっていることに驚いた。嘗てはいかにも無骨で偉丈夫と見えた男が,なんだか元気のない欽ちゃん(萩本欽一)みたいな感じになっちゃったなぁ,と思った。(ああ,時が流れる,お城は見えぬ。。。)
また同じ頃,フォーク歌手・吉田拓郎の現在の様子をネット映像で拝見したが,こちらもまた静かで穏やかなヨボヨボジーサンとなりおおせている外観風采を否が応でも突きつけられてしまい,チョッピリ切なくなった。(無疵な魂は,何処いった?)
それにしても,まったくもって誰の為にもならぬであろうツマラヌ事どもを長々と書き記してきた挙句に,最後になって「落ち」がトンと浮かばない。「締めの言葉」がゼンゼン見つからない。今更ながらオノレの表現力の衰退,語彙の短絡化と自家撞着,無意味な鸚鵡返し,知力の劣化,精神の貧困化を感じてしまう(一応は未だ,それらを自覚するだけの頭はかろうじて残っているようだが)。なるほど,こうやって人は一歩一歩ゆっくりと墓場に近づいてゆくのかな,などと,椎名誠や吉田拓郎の近影を拝見しながらシミジミと思ったりする昨今なのであります。 ああ,レオンLéon!