goo blog サービス終了のお知らせ 

城ヶ島への道 La route à JOHGASHIMA

2007年12月14日 | 自転車ぐらし
 先頃,TVのニュースで,神奈川県三浦半島の先端にある城ヶ島県立公園において,松にワラを巻き付ける 「薦巻き」の作業を行っている様子が報じられていた。海岸線にウミウが飛来しはじめて冬の到来の近いことを告げる頃,公園の松も冬支度を行う。それは害虫対策であるとともに,冬の風物詩として情緒ある景観を生みだすことも期待されているのだという。そんなローカルな話題を微笑ましく眺めていながら,ふと,三浦半島南部の起伏に富んだ丘陵地の農道を自転車でエッチラオッチラ走っている自分の姿なんぞを想像してしまった。でも,何故に? それは三年前に不慮の事故で死んだ私の兄の想い出に由来している。

 14才の夏休みのある日,兄は当時住んでいた神奈川県川崎市内の自宅から三浦半島先端の城ヶ島まで,自転車で日帰り単独ツーリングを行った。朝の大変早い時間,誰も気付かぬうちに家を出発し,帰ってきたのは夜も真っ暗になった時刻であった。私自身,その時のことは現在ではほとんど覚えておらず,何だか顔や腕やフトモモを真っ赤に日焼けさせて全身グッタリ疲れた様子で帰ってきたようだったなぁ,という程度の記憶しか残っていない。そもそも兄は子供の頃から自らの考えや行動,体験等を人に対して語ることを好まぬタイプ(いわゆる不言実行型)であったので,こちらからも敢えてツーリングの内容について尋ねることはしなかった。また,行く先々で記念写真を撮ってきた訳でもなく(だいたい中学生の分際でカメラなんて持っていなかった!),その自転車旅行の行程,行状ないし武勇伝?は現在にいたるまで謎のままである。恐らく兄の奥さんや娘たちにもその時のことは話していないように思う。それにしても,何故に? それまでの日常生活のなかで特に自転車を好んでいたようには思われず,また,過去に自転車で遠出をしたという経験も実績も全くなかった少年が,急に何かに憑かれたようにそんな大層なツーリングを,しかもたったひとりで実行する気になったのだろうか? 当人に直接問い質すことが叶わぬ今となっては,あれは単に元気中学生による「夏の一日大冒険」ということだったのか,と自らを納得させるくらいしかできないのである。

 兄の死後しばらくたってから,今年84才になる老母から当時のことについて改めて聞いてみたことがある。それによると,あのとき母は一日中ずっと心配していたそうだ。「横須賀の方に行ってくるから!」と言い残して早朝に家を出たっきり,夕方を過ぎても一向に戻ってこないし,電話連絡などもないし,途中で事故にでも巻き込まれたんじゃないだろうかと,本当に気が気でなかったという(何しろそれより5年前の夏,父がやはり自転車に乗って道路を走っているとき,居眠り運転のトラックに撥ねられて事故死しているのだ)。でも,いったん言い出したら聞かない子だし,遊びに行く時はいつだって鉄砲玉のように飛び出していっちゃう子だし,事前にたしなめることも引き留めることも出来ず,ただただ道中の安全を祈るだけだった。夜遅くになってケガもなく何とか無事に戻ってきた姿を見たときは,心底ホッとしたそうだ。

 母の回想談に耳を傾けるなかで,こんなエピソードがあったことを初めて知った。自転車旅行の途中,三浦半島のどこかの広大な畑作地帯のなかを通じる農道の端で一休みしているとき,近くの畑で野良仕事をしていたらしき百姓が兄のほうに寄ってきて,どっから来たのか? どこまで行くのか? 年はいくつか? 連れはいないのか? などといろんなことを尋ねたという。そして,「まぁ,これでも食べて頑張りな!」と,スイカを手渡され,それを道端で一緒に食べたということだ。何しろ三浦半島は《スイカの名産地》なのである。それにしても,14才と50才(推定)の見ず知らずの二人が,真夏の真っ昼間,路傍に並んで腰を下ろして無心にスイカに食らいつくといった図は,想像するだに思わず心が和んでしまう。 男兒立志出郷關 人間到処有青山!

 14才の時のそのような体験は,後年,ヨーロッパ・アフリカ放浪時代のある時期に,スペインは地中海沿岸バレンシア地方のどこかの果樹畑で,モロッコ,チュニジアなど北アフリカの人々と一緒に季節労働者としてオレンジの収穫作業に毎日汗を流し,愉快に楽しく働いていたという,そういった兄の経歴のルーツ形成に与っていたのかも知れない。さらに解説を加えれば,その短い収穫の時期が終わると,国に帰る季節労働者とともにモロッコ,モーリタニア方面へと足を伸ばし,そこで何やらアヤシゲな宝飾品の原材料を仕入れたのち再びヨーロッパに戻り,南ドイツあたりの景勝地でニワカ露天商となって,観光客を相手に素人加工になるアヤシゲな指輪や腕飾りなどを売りつけて糊口を凌ぐ,そういった類の暮らしを20代の前半には続けていたということだ。いわゆる狩猟遊牧民の血筋なのだろう。車寅次郎の系譜,とでも言えるかもしれない。その性格ないし性分は,30半ばで所帯を持ってひとまず身を固めたかのように見えたのちも,本質的にはずっと変わることがなかった。

 ところで,川崎から城ヶ島まで自転車で往復するといっても,この方面の地理に疎い方々にはあまりピンとこないかも知れないが,たとえば『ゼンリン電子地図Zi』なるPCソフトで川崎の自宅から城ヶ島までのルート探索を行ってみると,片道で63.5km(自転車の平均時速15km/hとして4時間14分)と瞬時に計算表示される。それも最短ルートを自動選択したうえでの計測だろうから,実際には往復で140km近くを走行したのではなかろうかと推測される。中学生がたった一人で,まったく初めての道を一日で走りきるには非常に難儀な距離である。ちなみにその頃の兄は,見かけは植村直己タイプ(いわゆるドングリ型)で骨太のガッチリした体格をしていたが,背丈は150cmそこそこのチビッ子であった。そしてカンジンの自転車であるが,当然ながら軽快なスポーツバイクや旅行用のランドナーなんぞが当時のビンボーな我が家にあろうはずもなく,ごく普通の子供用自転車だったのだ。

 ここで往時の走行ルートを推測し,その時の状況を私なりに再構成してみよう。

 兄の自転車ツーリングの行程は,途中で寄り道,迷い道があったかも知れないが,基本的には川崎市南部の自宅から国道15号(第一京浜)を横浜方面に向かい,横浜の中心部で国道16号に入って,あとは16号をただひたすら南下していったのだろうと思う。時代は昭和30年代の中頃,東京オリンピック開催よりも前のことである。当時の道路事情はどんなだったろうか? 車両の通行量はどの程度だったろうか? 子供自転車に乗ったチビッコ中学生は,ときに乱暴な自動車に威嚇されたりしながら,それでも果敢に車道を走り続けていったのか。それとも状況に応じて車道を走ったり歩道を走ったりをチョコマカ繰り返していたのだろうか? 

 川崎から鶴見,新子安,東神奈川を経て横浜へと至る第一京浜国道は,旧東海道とほぼ同じルートであるとともに京浜工業地帯の中枢部を貫く動脈としての主要国道であり,沿道の様子は現在とさほど変わらぬままに産業都市特有の活気と喧騒に満ち溢れていたことと思われる。臨海部を通じてはいるものの,海を望むことはほとんどできず,自転車で通るにはいささか味気ないだだっ広い道路だ。そして旅はまだ始まったばかりである。人家や商店,工場,倉庫等が密集するゴミゴミした朝靄の市街地のなかを,遙か彼方の目的地めざして,少年は元気に力強くペダルを漕ぎ出していったに違いない。

 横浜駅から桜木町,関内,曙町,吉野町を経て,そこから堀割川に沿って磯子へと抜ける国道16号は,横浜の中心部,ビルの建ち並ぶビジネス街,繁華な商業地,そして人家の密集する下町へと続く古くからの市街地を形成する地域を通っている。恐らく少年の目には,彼が住み慣れた川崎の市街地とはまた一風異なる,いわば「大人びた」街並みに映じたものと思われ,そのような沿道の賑々しくも華やかな様子を,驚きと好奇のまなざしでキョロキョロ眺めやりながら走り過ぎていったと想像する(でも,車にはくれぐれも気をつけて!)。 関内やその周辺部の幹線道路には路面電車が縦横に走り廻っていた古き良き時代のことだ。尾上町や長者町,板東橋の交差点などでは路線の異なる市電の交差がみられ,車両がカーブするときのレールの軋む音があたりに響き渡っていていたことだろう。すこし先の磯子の滝頭には大きな市電の車庫があった。また,市電通りに沿った南区の蒔田には戦前まで母方の実家があったように聞いていた。ただし,髪結屋を営んでいたというその大きな家屋敷(部屋数が10幾つもあり,近くにあった旧制・横浜工専の学生を何人も下宿させていたらしい)は,戦争末期,昭和20年5月29日の横浜大空襲により全て跡形もなく焼失してしまった。

 自転車のルート追跡に話を戻そう。 堀割川沿いを南に進んで,その河口部付近で広く開けた根岸湾のほとりに出た途端,恐らく街道の光景は一変したはずだ。根岸湾の本牧から根岸,磯子,杉田にかけての海沿い一帯は,大正,昭和初期の古くから埋立開発が進められた川崎・鶴見地区の臨海部とは異なり,戦後しばらくたってから埋立が始まった新しい臨海工業地域である。工事年代記録をひもといてみると,少年が自転車で通り抜けた昭和30年代の中頃は,磯子から杉田にかけての海面埋立事業がちょうど完了した時期に相当するようだ。すなわち,工場やコンビナートの建設は未だ着手に至らず,海沿いには平坦で広大な空き地(工業用地)が帯状に延々と広がっていたものと想像される。その広大な空き地の向こう側には東京湾のキラキラ光る青い海面が地平線を真横に区切るように見渡せ,さらにそのずっと先には房総半島の低い山並みもぼんやりと望むことが出来ただろう。

 夏の暑い太陽が照りつける真昼時,南ないし東南方向から陸地へと向かって吹く海風は,未来の発展を確実に約束された場所であるところの「ペッタンコの埋立地」を一気に通り抜けて海沿いの国道16号に至り,その道路上でウンセウンセと汗かきながら必死で自転車を漕ぎ続けている少年の全身にも容赦なく吹きつけただろう。その強い海風は,彼にとっては辛い向かい風であったのか,あるいは有り難い追い風として働いたのか。そしてそのとき,孤独で無防備な14才の少年の未来は既にして予見されていたのだろうか? 

 根岸から磯子にかけての沿岸部の地形は標高40~50m程の丘陵地からなり,丘陵の末端部は海蝕崖となって長く続いている。その頃,根岸の丘の上には旧競馬場跡の広大な原っぱや瀟洒な米軍住宅群が立地していた。「山手のドルフィン」は多分まだ出来てはいなかっただろう。また,堀割川を隔てた磯子の丘の上には旧華族邸の流れをくむ古風にして流麗な横浜プリンスホテルや,歌手・美空ひばりの敷地900坪にも及ぶ豪壮な「ひばり御殿」などがあった。国道16号はそんな崖のすぐ下の海沿い低地を通っているのだ。磯子付近の崖下を自転車少年が必死で走り過ぎてゆくとき,間坂の丘の上なる「ひばり御殿」の広い庭の一隅では,ひょっとすると御年25才の美空ひばりが,超過密スケジュールの合間につかのま休息のときを過ごしていたかも知れない。そして,庭の樹木越しにはるか崖下の国道16号を走る車の往来や,さらには自転車に乗った少年などをも!ボンヤリと眺めていたかも知れない。人の歴史は邂逅と離別の交錯したつづれ織り(二重螺旋)であることを思えば,それはあながち突拍子もない空想とは言えないだろう。

 磯子から屏風ヶ浦へと海沿いの低地をさらに走り,やがて国道は市電の終着地であった杉田の町へと至る。そこから先の富岡,谷津坂,金沢文庫,金沢八景へと向かう沿道の光景は,海岸埋立や丘陵部の大規模宅地造成などの巨大開発によりすっかり変貌してしまった現在の状況とはまったく異なり,その当時はまだまだ昔と変わらぬ優美な自然海岸と明るくのどかな農村景観が保たれたままで存在していたはずである。遠く鎌倉時代の面影すら仄かに感じさせるような,野趣溢れる懐かしい風景が少年の眼前に次々と展開していったことだろう。

 ここまで来れば,うん,もう大丈夫だ。あとはローカルな街道が追浜,田浦,横須賀へと続き,そこから国道134号に移って久里浜,野比,津久井浜,三崎を通過し,そうして目的地の城ヶ島まで自然に,ごく自然に自転車少年を導くだろう。途中,大小の丘陵起伏が形成されて坂道の上り下りが繰り返されたり,あるいは横須賀の中心市街地のゴチャゴチャしたストリートを通過したりもするが,道路自体は全体にノンビリとした田舎道だ。気持ちの良い沿道風景に後押しされ,魅力的な風土景観にさらなるチカラを授けられ,目的地までもう少し,もう少しと,少年は最後のチカラを込めてペダルを踏み続けたことだろう。

 城ヶ島に着いたのは,その日の何時頃だったろうか。昼を大分回っていたかも知れない。城ヶ島大橋の高い橋梁をゆっくり渡るとき,ここまでの約70kmにも及ぶ行程を走りぬくことが出来たという達成感,充実感で全身満たされていたに違いない。シアワセは自らが汗水流して勝ち取るものである。しかしながら,人生はそんなに甘くないことを,少年はそのすぐ後に知ることになる。その日のうちに,その同じ距離を再び戻らねばならないのだ!

 ところで兄さん,お昼ごはんは何を食べましたか? 恐らく兄のことだから,通りがかりで見付けたパン屋さんで大きなコッペパンを1個買って,その店でコロッケを売っていればそれも1個買って,お店の人に頼んでソースをタップリかけてもらって,それをどこか町中の小さな公園のベンチに座ってムシャムシャ食べたんじゃなかろうかと,そんな気がする。多分水筒は持参したはずだから,公園の水飲み場で水道水をタップリ補給してゴクゴクと浴びるほど水を飲んだことだろう。そんな気がする。

 大体ざっとそんなところが私の想像する「14才の夏の大冒険」である。老いたる私のアタマの中を駆けめぐる自転車少年の残像の断片である。あっているかも知れないし,間違っているかも知れない。けれど正解・不正解なんてことは私にはドーデモイイことなのだ。自転車という魅力的なヴィークルを介して,時空を超えて同一経験を共有できればそれで満足なのだ。

 現在,兄の墓は東丹沢の山麓,伊勢原は日向薬師近くの霊園にある。そこの墓石には, という一文字だけが刻まれている。残された妻子がいろいろ考えた挙げ句にそのように決めたという。ハヤテのように現れて,ハヤテのように去ってゆく。。。 というヤツである。季節の節目などには,現在私が住まうこの盆地の町から自転車に乗って峠を二つばかり越えて墓参に出掛け,そしてその「颯」という文字と向かい合う。一陣の疾風のごとく,鋭く,激しく,慌ただしく,そして気がつけばあっけらかんと潔く消えてしまった。まったくピッタリだ!と,兄の50余年の人生を回想しながらシミジミと思うのである。 いや,お墓の前で泣いたりはしませんけどネ。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« “天之妙見宮”について | トップ | 山岳国道の憂欝 »
最新の画像もっと見る

自転車ぐらし」カテゴリの最新記事