久しぶりに大船商店街に買い物に行くことになった
それではついでに大船観音様にお参りもしようと大船駅の西口に降りてみた。
観音様に行くのは二十数年ぶりだろう、確か二女が小学生のとき、
塾の試験に付き添って行き、試験の間、観音様の境内で時間を潰して以来である。
いつも当たり前のように電車から観音様を見ているせいか、
敢えて拝観する機会を作ろうとは思わないのであるが、買い物をすると同時に
何となく行ってみたいと思ったのである。
歩いて行くと、路地裏に観光地のような雰囲気が漂ってくる。
参道の入り口も佇まいが荘厳に思えてくる
階段の先に慈しむような観音様が現われる。
優しく迫力のある中々観ることのできない観音様、
以前も来ているのだが、こんな風に見えた記憶が残っていないのである。
何ともいえない表情が印象的である。
大船の観音様という風に呼んでいたので、
大船観音寺というお寺だったとは知らなかった。
世界恐慌や戦争を経て建立され、原爆慰霊など平和を祈願するお寺だった。
古くからの社寺仏閣の多い鎌倉において、近代信仰の象徴であろう。
大船は賑やかである。ここも鎌倉市という雰囲気ではないように感じる。
商店街は小町通りのように賑やかであるが、買い物の風情が全く異なり
生活感溢れる通り道の両側は、所狭しと商店が立ち並んでいて
市民の台所のような雰囲気が満ちあふれている。
そんな日常を観音様が見つめているような気がした日でした。
それではついでに大船観音様にお参りもしようと大船駅の西口に降りてみた。
観音様に行くのは二十数年ぶりだろう、確か二女が小学生のとき、
塾の試験に付き添って行き、試験の間、観音様の境内で時間を潰して以来である。
いつも当たり前のように電車から観音様を見ているせいか、
敢えて拝観する機会を作ろうとは思わないのであるが、買い物をすると同時に
何となく行ってみたいと思ったのである。
歩いて行くと、路地裏に観光地のような雰囲気が漂ってくる。
参道の入り口も佇まいが荘厳に思えてくる
階段の先に慈しむような観音様が現われる。
優しく迫力のある中々観ることのできない観音様、
以前も来ているのだが、こんな風に見えた記憶が残っていないのである。
何ともいえない表情が印象的である。
大船の観音様という風に呼んでいたので、
大船観音寺というお寺だったとは知らなかった。
世界恐慌や戦争を経て建立され、原爆慰霊など平和を祈願するお寺だった。
古くからの社寺仏閣の多い鎌倉において、近代信仰の象徴であろう。
大船は賑やかである。ここも鎌倉市という雰囲気ではないように感じる。
商店街は小町通りのように賑やかであるが、買い物の風情が全く異なり
生活感溢れる通り道の両側は、所狭しと商店が立ち並んでいて
市民の台所のような雰囲気が満ちあふれている。
そんな日常を観音様が見つめているような気がした日でした。