平御幸(Miyuki.Taira)の鳥瞰図

古代史において夥しい新事実を公開する平御幸(Miyuki.Taira)が、独自の視点を日常に向けたものを書いています。

「イツマデモ…」カール・ベーム来日公演

2010-10-26 04:50:47 | 芸術
 1975年3月の、カール・ベーム&ウイーンフィル来日公演のDVDを頂いたので、さっそく観てみました。反日のNHK版なので君が代演奏はカットされていましたが、ベームがアンコールの終りに聴衆に向けた「イツマデモ…」のシーンは入っていました。僕が録音したFMでも、ヨハン・シュトラウスの常動曲の終りに聞こえていた言葉です。

 カール・ベームは、拍手が鳴り止まない日本の聴衆に感激して、次回の来日を約束した熱い魂の人です。彼が若かった時代の、音楽で討論を戦わした熱情を日本に見たようです。今の日本の、戦うことを避ける、飼い慣らされた犬のような集団にはガッカリするかもしれませんね。

 1975年3月と言えば、僕が芸大2年の時で、芸大寮が建て替えられている最中かもしれません。僕は、夏のアルバイトでFMチューナーを買い、アンプやスピーカー等をローンで揃えていました。それで、この公演のライブ放送や再放送などを、必死にカセットに録音したものです。そのテープの最後に再アンコールの常動曲が入っており、ベームの言葉がちゃんと録音されていたのです。このテープは失ってしまいましたが。

 ベームは、常動曲という何時までも続く曲を選び、自分のメッセージを日本に残したのです。いつまでもこのようでありたいと願うベームは、実に多くのものを遺してくれました。照明や指揮台に注文をつけるリハーサルや、あるいは神社で手を洗ったり、あるいは日本のファンから花束を受け取るシーン一つでも、本当に観る価値があります。今から思えば、本当に奇跡的な出来事でした。

 当時の日本は、モナリザが上野で公開されたり、ベームが来日したり、僕にとっては貴重な時間の連続でした。カセットテープがステレオ化され、オーディオに使える音質を獲得したのもこの時代です。しかし、DVD(音はFMのものを映像に重ね)ではテープヒスノイズをカットしているために、肝心のトライアングルの音までもカットされています。NHKには「死ね」と言いたいですね。

 ワーグナーのニュルンベルクのマイスタージンガーは、このトライアングルの連打が花なのですが、見事にカットされているので、せっかくのヤマハのトゥイーターが泣いています。トライアングルを美しく再生できるのがヤマハJA0506なのです。送ってくれた読者はLPも届けてくれるそうなので、そちらに期待してみます。

 カール・ベームは法律の学校を出た異色の経歴ですが、音符やパートを吟味して、一つ一つに丹念な意味付け(必然性)を与えています。流して美しく聴かすという手法は取らないので、聴けば聴くほど深みが理解できてきます。ブラームスの交響曲第1番は、楽譜とにらめっこしながら毎日のように聴いていますが、それでも飽きることはありません。

 少し前に、N響を振った、ネヴィル・マリナーのブラームス交響曲第1番を放送していましたが、途中で録画をやめました。聴くに耐えなかったからですが、ベームがレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画なら、マリナーはモノクロ写真のような感じです。神秘も深みもない、ナルシシストの自己満足でしたね。

 黄金の時代のベームやカラヤンを理解するには、当時に頂点を究めた日本のFETアンプの相性が良いと思います。僕のミカエル型のバックロードホーンは、そういう意味でも、僕が35年も追い続けた音かもしれませんね。ということで、板取(910×1820 12ミリ厚合板)と音道の見取り図をアップしました。板取図には書いてありませんが、僕は側板に13ミリ厚の桐の集成材(910ミリ×350ミリ)を使いました。どこでも手に入るわけではないので、高さと奥行きが一緒なら15~21ミリ厚の合板で構いません。

 底板の階段は余った板を有効利用したので、図とは違います。短い板でも、見えないところに空間を作るように組み合わせれば、階段は何とか作れます。ホーンの広がり方が自然になるように工夫してみてください。フロントバッフルは接着しなければ交換式に出来ます。なお、音道を15ミリ厚で構成すればベターなので、その時は奥行きが長くなり、音道を構成する板も変更する必要があります。その辺は、試行錯誤で独自色を出してください。本当は、奥行きがもう少しあれば設計も楽だったのですから。

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マーラー的難解さ

2010-09-26 22:06:53 | 芸術
 サザエさんちのタラちゃんが旋律を口ずさんでいます。なんという曲でしょう。

①タラララーン
②タララ タララッタ タララ ラララー
③タラララ タラララ タラララ ラーララー

 クラシックファンなら簡単ですね。上から順に、ベートーヴェンの交響曲第5番『運命』、第6番『田園』、第9番『合唱』の冒頭ですね。このように、ベートーヴェンの曲は極めて分かりやすい旋律で作られています。この平易さはモーツァルトも同じです。

 しかし、バッハの場合は旋律の行方が予測できません。シャコンヌなどは典型ですが、どうやってまとめるのかと心配すると、見事にサラッとまとめてみせるのです。バッハはやはり大天才です。ところが、マーラーの交響曲は口ずさめる旋律が皆無の上に、極めて長い無駄な時間を拘束される感覚に陥ります。マーラーの交響曲は、起承転結のない下手な演説に似て、自分でもまとめられなくて饒舌になり、勿体ぶって難解さを売りにしている小説に似ているのです。

 ところが、このマーラーの交響曲を弟は好きなのです。ショスタコーヴィッチの交響曲も聴いているようですが、弟は典型的なコンプレックスの塊で、マザコンとファザコンと兄弟コンプレックスを網羅。東南アジアでシャチョーさんと呼ばれ、尊大になってなけなしの金を置いてくるタイプです。どうも、コンプレックス人間とマーラーは相性が良いと思わざるを得ません。

 音楽の世界でも、大半の人はさまざまな限界の中で蠢いているコンプレックス予備軍です。そういう人種にとって、大天才の曲は精神の負担になりこそすれ、なかなか救いにはならないのではないでしょうか。大天才の曲は、聴く人の霊格によっては、救いや目標ではなくプレッシャーにもなりますから。人生の逃げ場が必要な人には、モーツァルトやベートーヴェンとは違う、完璧ではない音楽の方が楽なのです。その不完全指向の受け皿として、マーラーなどは存在するのではないでしょうか。僕には退屈でイライラしますが。

 さて、このようなコンプレックスと音楽の関係を語るのは、実は絵画の基本にも当てはまるからなのです。前に提示した花のデッサンですが、ある読者はガクや花の付け根が全く見えない、円形の花の構図で描いてきました。菊やコスモスなどの、花弁が放射状のモチーフでは、上から見る(円形)のではなく、横から観て描いたほうが絵になりやすいのは明白です。

 実は、児童画協会の会長でもあった浅利篤という中学の先生は、子供の絵で、向日葵(ひまわり)や菊は父親を表し、チューリップは母親を表すと解説しています。これを山に例えれば、富士山の尖った形は父親で、丸い山は母親を表すのだそうです。先の読者は、無意識のうちに父親との葛藤を描いていたので、絵にならない難しい構図を取ったのです。

 このように、デッサン力というのは精神の健全性の証でもあるのです。ゴッホのデッサンは異常者のそれですから、僕は好きではありません。平易というのは、イエスの平らな道と同じく、精神が健全な者が選択するように出来ているのです。

 煎餅ババアと悪口を言われる、煎餅をバリバリと音を立てて食べる婆さんは、不平や不満が一杯で、そのはけ口として固いものを食べたがるのです。僕の知っている喉頭癌の人(前のマンションの管理人)は、いかにも愚痴が多くて、素直に人の話を聞くことが出来ないタイプでした。口から出る言葉と、飲み込むもの(納得)に難があるから、神様は病気で教えているのです。固いものを送ってきた読者は、自分か家族が不平不満で一杯なのです。

 ということで、絵の上達の近道は、素直さや健全さなのです。家族関係は難しいですけど、それは自分で解決するしかなく、それが出来ない人は自分で壁を作ったも同然なのです。厳しいですけど、難しいことを選択する人に、救いの手を差し伸べても無駄なのです。簡単なことを簡単にする難しさ。モーツァルトはピアノでそれを教えているのです。

 <∩`∀´> なお、リンク先を開いてずっこけても、ウリは謝罪と弁償はしないニダよ ホルホル。

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ブラームスのデリカシー

2010-07-06 02:45:03 | 芸術
 もうすぐ参院選の投票日ですが、人事を尽くして天命を待つの心得で、ジタバタしないで粛々と行動するのが吉かと。今年は豪雨や地震などの災害が多いので、できるなら当日ではなくて、期日前投票を済ませておくと良いと思います。マスゴミによる捏造支持率も、現実の支持率を無視できなくなってきましたから、自民関係者はダメを押すつもりで頑張って欲しいですね。

 ところで、秋田大学に勤務する同級生と長電話してから、どうも芸術家の虫が目覚めて、学生時代に放送されたカール・ベームの「ブラームス 交響曲第1番」ばかり聴いています。当時はNHKのFM放送だったのですが、ライブ盤としてCDが出ているので手に入ります。僕は相模大野の図書館で借りてきました。

 CDの印象ですが、昔はもっと音質が良かったと記憶しています。とは言ってもカセットに録音した物ですが、今回はノイズが目立ってヒステリックに聞こえます。エンジニアの腕が悪いのでしょう。

 「ブラームス 交響曲第1番」というと、『のだめカンタービレ』で千秋君が指揮した曲ですが、彼の指揮はカラヤンを参考にしていると思います。カラヤンの指揮は、振り下ろした下限でアクセントのドンが鳴るタイミングです。これが素人には分かり難いんですね。タイミング的には、指揮棒が曲より一拍早く動く感じです。ですから、オケのメンバーの中で、弦楽器奏者は耳を頼りにして指揮棒をろくに見ていません。指揮棒を見ているのはもっぱら打楽器と管楽器の奏者です。

 ウイーンフィルの演奏でもそうなのですから、カラヤンの指揮は難解です。対して、5月にN響を振ったヘルベルト・ブロムシュテットは、弦楽器の弓の動きと一緒に指揮棒を振る、極めて分かりやすい指揮です。でも、分かりやすいから良いとは限らないんですね。芸術の難しい所です。

 カラヤンのように、リズムのドンで合わせる指揮は、実はガリー船(古代の奴隷船)の太鼓叩きと同じなのです。奴隷は、太鼓がドンとなるタイミングで櫂を引き寄せる。カラヤンが指揮棒を振り下げたときに、オーケストラはジャーンと鳴るのです。要するに、カラヤンの指揮は支配の指揮なのです。支配する指揮だからこそ、カリスマ性が求められたのです。

 ブロムシュテットの分かりやすい指揮は、指揮というより音楽に合わせて踊っているに近いのです。音楽とシンクロしているからこそ、踊りのタイミングで指揮棒を振る事が出来るのです。オーケストラに所属する優秀な楽団員なら、どちらの指揮にも付いて行けるでしょうけど、今の僕はカラヤンでは付いて行けないダメな子です。楽譜と照らし合わせながら見る(聴く)と、カラヤンは物凄い指揮者だと分かると思います。

 話をベームに戻すと、ベームの指揮はテンポが遅くて、華麗なカラヤンとは随分異なります。でも、ブラームスにはこれが良いのでしょうね。特に、第二楽章の美しさは絶品で、ブラームスのデリカシーがよく伝わってきます。若いときに聴いた曲ですが、今の方がブラームスの偉大さが理解できます。

 秋田で准教授をしている同級生は、芸大寮で酒を飲むと、僕の部屋でブラームスを聴いていました。秋田で、ブラームスの話が出来る友人はいるのかな?

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愛の喜び~マルティーニ

2009-09-06 22:00:58 | 芸術
 ショパンより少し前にフランスで活動したジャン・ポール・マルティーニの代表作が「愛の喜び」。しかし、詩の内容は、愛を失った男の苦しみを歌ったものでタイトルとは正反対。今回これを取り上げるのは、往年の名ソプラノであるエリザベート・シュワルツコップ盤が手に入ったからです→こちら(右クリックで開く、または保存)。

 この盤(歌の翼に「シュワルツコップ珠玉の名歌集」東芝EMI 廃盤に収録)は1956年に録音されたもので、録音は高域が潰れてひどいものです。シュワルツコップの不幸は良い録音で残された作品が少ないという事に尽きます。それで、多分に実際より線の細い歌唱力と見られているはずですが、彼女の表現力はやはり一流と言わざるを得ません。

 作曲者のマルティーニは無名に近いのですが、この曲は浅田真央08年エキシのショパン「別れの曲」と冒頭が似ています。年代からもショパンの方が盗作と誤解される位置にあり、曲の完成度(歌付き)でもショパンの方が劣っていると思います。ショパンの方がシンプルさで劣りくどいのです。それは元来がピアノの練習曲であった必然で、ピアノ曲に歌詞を付ける難しさを証明しています。エキシ曲の冒頭を初めて聞いた後で、僕はショパンと分かってガッカリしました。歌詞を付けたので低俗になったピアノ曲の代表です。ちなみに、ショパンは「愛の喜び」を知らなかったみたいですが。

 「愛の喜び」は、プレスリーも「好きにならずにいられない(Can't Help Falling in Love)」としてカバーしたとされますが、僕はプレスリーは好きでないので知りません。僕は混んだ電車の中で腹を押し付けられて以来、脂ぎった中年デブ男が嫌いなのです。太ったロックンローラーはただの豚だ。

 この盤の中で、僕が好きなのはチャイコフスキーの「ただ憧れを知るもののみ 作品6-6」と、モーツァルトの「春へのあこがれ K.596」、それに「ダニー・ボーイ」などですが、返す返すも録音がひどすぎます。なお、シュワルツコップが結婚したのは僕が生まれた年だと改めて知りました。06年に他界されたようですが、芸術は時間を止めるものなんですね。

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ストラディヴァリ幻想

2009-05-27 10:47:27 | 芸術
 ゴミを捨てに行ったら、外観のきれいなサンヨー製ビデオデッキが捨てられていたので、例によって修理してみました。症状は、メインの電源が入らなくて、テープも出てこない状態のようです。スタンバイ用インジケーターがチカチカ点灯するだけです。

 それでも一応蓋を開けて悪い所を調べていたら、基盤のある所を押すと電源が入ったりします。そのうち、モーターの電源も目覚め、カセットを排出しようとしました。どうも、小さなバッテリーか何かが入っていて、充電するまでは動かない仕様かもしれません。ガイドに絡んでいるテープを外したら無事に使えるようになりました(中のきれいさとグリスの新鮮さから使用頻度は低いと分かる)。テープにはフランス映画かな?モロッコを舞台にした『男と女』の続編版アナザー・ストーリーが入っていました(06年3月放送)。やはり日本映画と違って良いですね。最後まで観てしまいました。

 それで、神様がビデオデッキを修理させた理由は何かと考えたら、保存しているテープの中に気になっていたものがあります。それはストラディヴァリウスの魅力を、演奏家やヴァイオリン制作者に語らせた番組で、ヤマハ製のコピーを宣伝する意味合いもあったようです。ちょうど、真央ちゃんシニアデビューの中国大会の後ろに入っていました。フランス大会は馬鹿弟がわざと消去したので、弟の霊格の低さが分かります。

 ストラディヴァリウスの演奏家としては、マキシム・ヴァンゲーロフや千住真理子が出ていたのですが、僕はこれで、元々嫌いだった千住真理子が本当に嫌いになりましたね。デッサン力のない画家が高価な岩絵の具を求めるというパターンですね。

 僕が興味を持ったのはアメリカの科学者で自分でもヴァイオリンを製作するナジヴァリ(Nagyvary)博士の理論です。彼は、ストラディヴァリの時代に流行した殺虫剤であるボラックス(BORAX)が、偶然にニスの強度を上げて、その結果として板が堅くなり、独特の音質に貢献したと考えています。スピーカー作りの経験から見て、僕もこの説に賛成です。

 皆さんは忘れていますが、ストラディヴァリウスは、バロック・ヴァイオリンに分類される古楽器なのです。現代のスチール弦で大きな音で弾くようには設計されていません。ガット弦により、柔らかくて倍音成分の多い豊穣な響きを求めて作られていたのです。ですから、スチール弦での馬鹿でかい音を出す演奏は本質的に邪道なのです。諏訪内晶子さんによる比較的小さな音は、そういう意味では理に適(かな)っていると思います。

 このように、本来のガット弦からスチール弦に張り替えられて演奏されると、ストラディヴァリは中低音部のザラザラした質感に、中高音の輝かしい伸びがバランスした音に変貌します。これが、大きなコンサート会場では良い響きに聞こえるのです。

 スピーカー工作で分かることは、部屋を含めた残響成分によって、楽器の音が変わるということです。和室で音楽を聴いても残響が足りないのでダメなのです。今のストラディヴァリウスは、古いタンノイ(英国製)のスピーカーを、ユニットだけ新しい設計のものに換えたのに似ています。

『クレモナの栄光』というCDがあって、ストラディヴァリウスやガダニーニやアマティなどを弾き比べたものですが、大事なのはやはり演奏家の腕だと認識させてくれます。しかし、スピーカー作りに一番必要なのは直感であるのと同じく、ストラディヴァリもまた優れた直感の持ち主だったのは言うまでもありません。色々な偶然が彼を天才にしたのですが、神は予定調和の達人ですから、これもまた粋な計らいと受け止めるべきでしょうね。

 でも僕は、大学の時にヴァイオリン教室の先生をしている芸大の女子学生が、わざわざ招待して聴かせてくれたブルッフを思い出すたびに、しっとりした音色が懐かしくなります。夏が来るのに秋が恋しいというやつですね。

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ラウダテ・ドミヌム(ヴェスペレK339より)

2009-05-04 01:36:38 | 芸術
 カセットデッキが使えるようになり、少ないコレクションを聴き直しています。僕はテープを余すのがもったいない世代なので、余った所には小品を録音する癖があります。特に、今回紹介するモーツァルトのラウダテ・ドミヌムは珠玉の名曲中の名曲なので、あちこちのテープに収録されています。

 ラウダテ・ドミヌムはソプラノ独唱に合唱が加わった小品で、ヴェスペレK339という教会音楽の一部分です。僕がこの曲を知った当時では、大学の4年くらいでしたかね、声楽の女の子でもほとんど知らないという隠れた名曲でした。今ではエディット・マティス盤のほか、様々に見つけられますが。

 オーディオ評論家の長岡鉄男氏は、声楽の声は、あらゆる楽器を凌駕してダイナミックレンジ(音の強弱の幅)が広いと評していました。オーディオ機器にとって、声楽の声を再生するのは一番難しい事なのだそうです。神が授けた最高の楽器が人の声という事なのでしょうか。

 さて、ヴェスペレ(vesperae)とはカソリックの聖職者による晩課で、夕べの祈りと理解すればよいと思います。ですから、ヴェスペレは一般に証聖者の盛儀晩課と訳されています。この典礼に欠かせないモーツァルトの作品は二つありますが、今回取り上げるVesperae solennes de confessore K339ハ長調の第5曲目がラウダテ・ドミヌム(Laudate Dominum)なのです。

"Laudate dominum"

Laudate Dominum omnes gentes,
laudate eum omnes populi:
Quoniam confirmata est supernos misericordia ejus.
et veritas, veritas Dominum manet, manet in aeternum.

Gloria patri et filio et spiritui sancto,
sicut erat in principio
et nunc et semper et in saecula saeculorum.
Amen.

"ラウダテ・ドミヌム/詩編117"

全ての国よ、主を崇めよ。
全ての民よ、主を褒め讃えよ。
主の慈しみと真は
永久に私達を超えて力強い。

父と子と聖霊に栄光がありますように。
始まりがそうであったように、
そして今もそうであるように、
そして世代を超えていつもそうであるように。
アーメン!          (訳はこちらのサイトから)

 紹介したサイトではキリ・テ・カナワの独唱でしたが、僕は彼女は出自故に政治的に持ち上げられているように思えます。確かにそこそこの実力はあるのですが、評判ほど良いとは感じないのです。声が少し濁るというか、何を聴いても物足らなさが残ります。そこで、ラヘル・ハルニッシュのソプラノ独唱、クラウディオ・アバド指揮、スエーデン放送合唱団、ベルリンフィルハーモニーの盤を紹介します→こちら。これはカラヤン没後10周年メモリアルコンサートの一部なので、DVDも出ています→右クリックで新しいタブ

 ラヘル・ハルニッシュ(Rachel Harnisch)は名前からユダヤ系と推測されますが、ラヘルは『創世記』に登場するヨセフの母ラケルの現代ヘブライ語読みです。日本人の大半の祖先です。これが英語ではレイチェルになるのですが、レイチェルと言えばレイチェル・フラット(Rachael Flatt)。おや、エフライムの平のFlatに一字違いだぞ。フラグが立ったかな?それはともかくとして、ラヘル・ハルニッシュは古典的な顔立ちということもあり、来日している割には有名ではありませんね。写真を探すのに苦労しました→右クリック

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ヴェトナムの新しい伝統音楽

2009-05-02 02:00:34 | 芸術
 古代史の中にも登場する、フランスの国営放送オコラ(Ocora)から出ていた『ヴェトナムの新しい伝統音楽』は、LP時代にオーディオ評論家の長岡鉄男氏によって絶賛され、今でもプレミアで取引が為される名盤です。これを、格安で出ていたのに手に入れられなかったのは以前に書いた通りです。

 ところが、僕はカセットテープに最後の1分間だけ録音してあったのです。正確に言うと、弟からLP盤を録音したテープを貰い、うっかりして別の曲を上書きしてしまい、1分だけ消去されずに残っていたのです。これを是非とも紹介したくて、100円で落札したヤマハのカセットデッキK-750を修理していたのです。

 カセットデッキの故障の大半は、走行系のゴムベルト(キャプスタンベルト)の劣化にあります。硫黄や紫外線と反応しますから、道路際に放置すると数年で溶けますが、使っていると劣化が遅いのです。このベルトはメーカーの在庫切れが多く、今回は自作することにしました。修理は、ここのサイトを参考にしました。

 ゴムベルトの材料は堅めのゴムですから、普通のゴムでは伸びすぎてしまいます。秋葉原の千石電商では時々入荷するのですが、最初から溶けていたのでサイズが分かりません。一本三百円もしますから、何本も購入して当たりを見つけるのは大変です。それで自作となったのですが、100円ショップで平輪ゴムと、裁縫用のゴムと、自転車のゴム部品を買って試してみました。この中で、自転車のリム用という黒い平ゴムが使えたのです。

 リム用のゴムは適当な長さに切って、缶やビンに巻き付けて輪ゴムにします。この時、接着する面(糊代)を5ミリ~8ミリほど両端に取り、この部分は紙ヤスリやカッターなどで薄くしておきます。貼り合わせた時に平になるようにします。接着剤はパンク修理キットのトルエン系を用い、接着したらペンチなどで強く押さえておきます。また、貼り合わせ前に、マニキュアを溶かす除光液で接着面を溶かしておくのも良い方法です。これで、100円ショップで手に入る材料だけでゴムベルトの完成です。

 今回の機種は径65ミリではワウ・フラッター(音揺れ)が酷く、径70ミリで良い結果が出ました。あまりキツキツにしないのがコツのようです。メーカー純正ではないし、他にも劣化している部分がある割には上出来だったと思います。クラシックのフルートを聴かなかったら我慢できる範囲です。

 さて、せっかく修理したにもかかわらず、ライン出力では再生されません。カセットデッキとしては珍しく着いているスピーカー出力とヘッドフォン出力では再生できますから、ここからパソコンのライン入力に取り入れます。具体的には、CDを焼くB's Recorder GOLD8のダイレクトカット機能で録音します。

 LP→MCカートリッジ→プリアンプ→ノーマルテープ(TDK AD DOLBY Off)→30年前のカセットデッキ→ヘッドフォン出力→パソコン入力 という経路ですから、音の劣化は想像できると思います。しかし、この音を聴いて下さい→右クリックで新しいタブを開く。とても、信じられない高音質です。さすがはフランスの国営企業が、親方日の丸(トリコロール)で好き勝手にやった趣味の結晶です。この音に対する感性は日本人エンジニアでは無理ですね。

 僕はCD盤の『ヴェトナムの新しい伝統音楽(外盤はNew Traditional Music)』がどうしても欲しくて、カナダや大阪や伊勢の方にまで監視(予約)してもらっています。でも廃盤ですからなかなか出ないですね。むしろヨーロッパの方があるのかもしれませんね。という事で、中古ショップやオークションなどで見かけられた方は、是非とも代理で購入して下さい。とは言っても、定価の二倍程度までしか予算はありませんが、見つけられた方はご連絡お願いします。

 なお、アマゾンの中古などでも画像を出さずに別のCDを売りつけようという業者がいます。あくまでも画像で確認して下さい。この印象的なジャケット↓をどうぞお忘れ無く。

   

 参考 http://www.amazon.co.jp/Improvisations-Tran-Van-Khe-Quan/dp/B00000HZQ9/ref=pd_rhf_p_t_2

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バッハのクリスマス・オラトリオ

2008-12-24 14:00:22 | 芸術
 今宵はクリスマス・イヴということで、僕の好きなバッハのクリスマス・オラトリオを紹介します。

 この曲に出会ったのは芸大2年の今頃です。冬休みの帰省をせずに芸大寮で過ごしていたとき、NHKFMの「バロック音楽のたのしみ」のクリスマス週間の特集で、カール・リヒー盤を聴いたのです。この時に録音したテープが良くなかったので、次の年にもエアチェックを待ち構えていたのですが、使われたレコードは同じなのにひどい雑音で、保存状態が悪かったのだと思い、ガッカリした記憶があります。今回は、「朝のバロック」と改称してからの03年に放送されたエリオット・ガーディナー盤(CD DVD)です。こちらの方が空間は感じられますが軽いですね→weihnachts-oratorium.mp3(右クリックでリンク先を保存 音はビットレートが低いのでそれなりです)。

 クリスマス・オラトリオというのは、ドイツでのクリスマス期間、すなわち12月25日から新年1月6日の三王の礼拝の祝日(Dreikoenige)までの13日間に歌われるカンタータ(Kantate器楽伴奏付の声楽作品)の総称の事です。プロテスタントの礼拝に用いられる教会カンタータが主流なので、カンタータと言えば教会カンタータを連想する人が多いようです。バッハのクリスマス・オラトリオは全6部からなっていますが、特に第1部が演奏されます。それは、イエスの誕生の喜びを歌ったものなので、クリスマスに最も相応しいからでもありますが、曲の出来映えも第1部が最高だと思います。

 第1部の冒頭はティンパニーとトランペットによる、「幕開け」を強調した主題によって始まります。僕はこの部分を大音量で聴くのが大好きですが、今は音を出せる環境にないのが残念です。合唱部(1,5,7,9曲目)の対訳付きの歌詞はこちらのサイトでご覧下さい。合唱部を含めた全体の構成は次のようになっています。

1. 合唱:歓呼の声を放て、喜び踊れ
2. 福音史家(ルカによる福音書):その頃皇帝アウグストより勅令出で
3. レチタティーヴォ(アルト):いまぞ、こよなく尊い花婿
4. アリア(アルト):備えせよ、シオンよ、心からなる愛もて
5. コラール:いかにしてかわれは汝を向かえまつり
6. 福音史家:しかしてマリヤは男の初子を生み
7. コラール(ソプラノ)とレチタティーヴォ(バス):彼は貧しきさまにて地に来たりましぬ---たれかよく この愛を正しく讃えん?
8. アリア(バス):大いなる主よ、おお、強き王
9. コラール:ああ、わが心より尊びまつる嬰児イエスよ
参考 日々雑録 または 魔法の竪琴

 第4曲目(11分頃)のアンネ・ゾフィー・フォン・オッターのアルトで歌われる「備えせよ、シオンよ、心からなる愛もて」が特に美しく、このパートを聴くだけで感動します。2曲目の福音史家(エヴァンゲリスト)の朗読に続き、第3曲目のアルトによるレチタティーヴォと進みます。これにアリアが加わるのが教会音楽の形式「レチタティーヴォとアリア」となっています。エヴァンゲリストを『能』にたとえれば、面(おもて)を付けないでストーリーを語る間狂言(あいきょうげん)のような感じです。

 独逸語は聴き取りも難しいのですが、僕はBGM風に聴いています。ドイツ語と書くよりも、独逸語と書いた方が、ドイツ語の性格を端的に表していて面白いですね。モーツァルトの『魔笛』で、パパゲーノの歌にホイサッサと対訳が出るのですが、実際にもホイサッサと発音しているように聞こえます。もしかしたら、日本人と同じイスラエル系の言葉かも知れませんね。

完全対訳はこちら

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モーツァルトの難しさ

2008-12-16 23:04:50 | 芸術
 モーツァルトの旋律はとてもシンプルで、子供でも口ずさむ事の出来る曲が多いのですが、実は演奏する側には大変な才能が要求されます。その才能とは、魂の純粋さという事です。これがない人の演奏は、表現過多で、ミルクと砂糖を入れすぎた紅茶のようなあくどさが出ます。

 例えば、内田光子という女性はモーツァルトが大好きなピアニストですが、ピアノに寄りかかるように前屈みのスタイルは、見た目に美しくなく、またモーツァルトの本質から最も離れているのです。内田光子さんの演奏は、ナルシシズムが強く、自己陶酔の見本のような不快感が感じられます。1音1音がしつこくてくどいのです。モーツァルトを弾く場合、背筋を伸ばして、お行儀良く座り、唇に笑みを、目に好奇心を湛(たた)えて、本当に楽しく弾かなくては、その純粋な魂に巡り会う事は出来ないのです。

 卓越した技術だとか、曲に対する感情移入だとか、自己表現だとか、そんな世俗的な価値はモーツァルト弾きに必要ありません。純粋さ、心からの優しさ、素直さ、敬虔さ、それに少しばかりの賢さと、ユーモアを理解する知性があればよいのです。そうすれば、モーツァルトの曲は独りでに美しく演奏されるようになっているのですから。演奏する側が自分を押し付ければ押し付けるほど、モーツァルトの曲は濁って行くのです。

 このように、モーツァルトの曲は演奏する人を選びます。ですから、名演奏はほとんど存在しないし、僕たちが聴いているモーツァルトは、出涸(がら)しのモーツァルトか、化学調味料で誤魔化された料理のような、くどく変質したものばかりなのです。

 アイネ・クライネ・ナハトムジークという有名なセレナーデがあります。しかし、有名な割に良い演奏は知りません。キンキンした音の録音であったり、透明さのない濁った音であったり、変に重たくて、心から楽しくなるような演奏は皆無です。本当のアイネ・クライネ・ナハトムジークは、第1楽章は子供が飛び跳ねるほど楽しく歌い、第2楽章はどこまでも優しく神様が微笑んでいるような曲なのです。この曲の演奏に不満を覚えるたびに、自分が指揮したいと叶わぬ願いを抱くほどです。

 レオナルド・ダ・ヴィンチの有名な壁画『最後の晩餐』は大規模な修復がなされ、後の時代に塗られた顔料は洗い流され、オリジナルに近い色彩に復元されました。その色彩はどこまでも明るく、古い画集のような重々しさは感じられません。モーツァルトの曲も、レオナルドの絵と同じように、ロマン派以降の過度な装飾や、過剰な表現主義を洗い流し、小編成を耳を澄まして聴く事で、本来の繊細で優しく、それでいて深遠な魂の世界に触れる事が出来るのです。

 芸大の寮では何かと飲み会が行われたのですが、ある会の締めくくりに、声楽を中心とした十数人のメンバーによって、アヴェ・ヴェルム・コルプス(まことのお体~クーベリック,マティス盤Ave verum corpus)が合唱されました。この珠玉の小品は、レクイエムやミサ曲のCDにおまけとして収録されている事が多いため、編成が大きすぎてぼけてしまい、その和音の美しさをマスクしてしまうケースが多いのです。大は小を兼ねるというのは、音楽では成立しないのです。芸大の寮生によって歌われた時は、ピアノ伴奏だったのですが、とても美しく、また調和が取れていたのです。心を合わせるという一致の精神により、ただでさえ崇高な曲がより高みに至り、至福の世界を創り上げたのです。僕は彼らを心から尊敬しました。

 このメンバーのうち四人の女の子はモデルとして描いた事があるのですが、みな純粋な魂の持ち主で、この曲に相応しい人達でした。でも、メンバーには一人だけオカマが混ざっていたような…。彼も頼まれて描いた事があるのですが、夜のクラブでピアノ弾きのバイトをしていて、某有名女性デザイナーに一晩買われたという武勇伝を聞かされました。もしかして懺悔だったのかな…。悩める魂も又、それなりに純粋なのですが、闇は所詮闇ですから、その後、迷える子羊になったのかもしれませんね。どうか救いがありますように祈るばかりです。

     エフライム工房 平御幸
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ベートーヴェンとフルトヴェングラーの奇跡

2008-10-22 01:08:31 | 芸術
 第二次大戦でナチスに協力したと糾弾され、その指揮者としての活動を一時的に制限されたフルトヴェングラーですが、僕は指揮者として最大の賛辞を惜しみません。その理由は、ベートーヴェンの交響曲第3番『英雄(エロイカ)』の終楽章を聞いてもらえれば理解されると思っています→こちら(右クリックでリンク先を保存)

 この曲は、ベートーヴェンがナポレオンに献呈するつもりで書き上げた曲ですが、ナポレオンが皇帝の座に就いた事に反発し、献辞を消して発表されたものです。ここから分かるように、ベートーヴェンが残した他の交響曲とは性格が異なり、英雄の出現とその死という、極めて叙事詩的な構成が取られています。しかし僕は、ベートーヴェンが意図した以上に、一人の英雄像を喚起させる傑作だと思っています。そしてその英雄像とは、イエス・キリストの死と復活と再臨です。

 第1楽章はイエスの出現と奇跡。実に、それまでの宗教体制を否定する思想にイエスの語りは満ちていたのです。ですから、ベートーヴェンにとっての英雄である革命家と一致するのです。第2楽章は英雄の死と葬送行進曲。この有名な旋律を、フルトヴェングラーは慟哭と言ってよい表情で指揮します。そして第3楽章ですが、この曲をベートーヴェンはどのように位置付けたのでしょうか?前章が葬送ですから繋がりません。

 実は、この第3楽章を一人の人物の目を通して見ると、曲の構成が他ではあり得ないと感じます。では、その人物とは誰か?それは、死から復活したイエスを最初に見たマグダラのマリアです。このマリアは、イエスが埋葬された墓(バーバラ・スィーリング説は共同便所横)に出向き、白く輝くイエスを最初に発見した人です。しかし、イエスの余りの変身ぶりにイエスとはなかなか気が付かず、最初は天使と思ったのです。このマリアの戸惑いや、復活したイエスに出会った喜び、そして他の弟子に告げに行く道での、自分が見たものは本当にイエスだったのだろうかという疑念などなどが、続く第4楽章の途中まで見事に表現されているのです。ベートーヴェンが受けた霊感は、ナポレオンなどという俗物ではなくて、イエスという本当の英雄のために授けられたものだったのです。

 さて、ベートーヴェンという人間は『運命』交響曲や第九の印象が強く、一般にその繊細さやメロディの美しさが充分に理解されていません。それで今回は、『英雄』の終楽章を紹介し、ベートーヴェンとフルトヴェングラーのコラボが生み出した、奇跡の音楽を楽しんで頂こうと思います。僕はこの終楽章を『イエスの再臨』とひそかに呼んでいます。それは、6分50秒過ぎから始まる舞曲のような優雅さと、8分50秒過ぎの『ヨハネの黙示録』に出てくる第七のラッパを連想させる金管の響きが、イエス再臨の日の救いを思わせるからです。特に、6分50秒過ぎのオーボエとクラリネットとホルンによる優しさは比類がありません。涙が出るほどの美しさです。

 さて、このような名曲と名指揮者のコラボは奇跡と言ってよいので、小澤征爾盤を聞いた時は本当に落胆しました。小澤征爾も奈良文化会館でチャイコフスキーなどを聴いた時は良かったのですが、『英雄』の解釈は凡人のそれですね。願わくば、この名曲に相応しいフィギュア・スケーターが現れて、ババア好みの陳腐な選曲を馬鹿にするような傑作を滑って欲しいと思っています。でも、僕のような感性を持ったスケーターは出ないでしょうから諦めていますが…。

     エフライム工房 平御幸
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フルートの名曲~その2.ハーツェルツェトの魔術

2008-09-03 18:39:48 | 芸術
 前回予測したように、韓国の通貨ウォンは順調に暴落し続けています。今日の終値で1148.3ですから2日で24ポイントも下がった事になります。反日の朝鮮企業ヤフーでさえ、通貨危機の憂慮を掲載する始末。これはもう、完全に詰んでいますね。

 という事で、少し安心した(まだ気を抜いてはいませんが)ので、今回は少しばかり官能的なフルートの名曲を紹介します。正しくは曲が官能的なのではなく、この余りにも有名なスタンダードを官能的に演奏するフルート奏者がいるのです。その名は、ウィルベルト・ハーツェルツェト。トン・コープマン指揮、アムステルダム・バロック管弦楽団との共演で、バッハ(J.S.BACH)の管弦楽組曲第2番ロ短調BWV1067を古楽器のフラウト・トラヴェルソを用いて演奏しています。WARNER CLASSICS NEW BEST 50 というエラートの低価格シリーズで販売されているので、今でも手軽に聴く事が出来ます(Erato Disques)。

 さて、管弦楽組曲第2番ロ短調BWV1067は舞曲によって構成された音楽ですが、この中でも第3曲目のサラバンド(Sarabande)は古典的舞曲と評価されています。でも僕は、このサラバンドが一番好きなのです。ゆったりとした美しい旋律を噛みしめると、消耗した神経がいつも慰められるのです。でもここには官能的な表情はありません。

 官能的なのは、一つ前のロンド(Rondeau)という舞曲です。とても短い曲ですが、頭からの4音目が腰が抜ける位に心地良く、これでもかというくらい何度も繰り返されます。この官能的な音は現代的なフルートでは感じませんから、やはり古楽器独特の音色なのだと思います。古楽器はふくよかで暖かい音色ですが、この古楽器アンサンブルの音は特別にその傾向が強いと思います。もっとも、能率の低い(1W入力で91dB以下の音圧)市販のスピーカーで、この官能が表現されるかは疑問ですが。能率が低いということは、小さな音に反応しないという事ですから。

 音とか色という感覚的なものは、正しく認知したり、二次的なイメージを喚起する能力において個人差が大きく、それが嗜好に繋がります。僕はロックで興奮する人種が全く理解できない割に、日本の祭りの太鼓には結構反応します。マーラーやブルックナーの交響曲は退屈でしょうがないけれど、ベートーヴェンの交響曲第3番英雄は頭の中で編曲するほど大好きです。フィギュアスケートを観ていても、選曲に関しては大半がババァ臭くて好きではありません。ニコルさんはクラシックの名曲(ショパンなど)を扱わせると才能を発揮するのですが、ポピュラーなコッペリアなどではイマイチです。これは僕と同じく、根っからの本格派に属しているからです。ニコルさんのこういう性質を理解すれば、依頼すべきプログラムで外す事が無くなるはずです。

 フィギュアスケートを支えるのは大半が中年女性ですから、その好み(過去に気に入ったプログラム)が子供に自己投影されるのでしょう。それから、学校の音楽の時間に習った曲ですね。この二つに偏るので、世間には夥しい名曲があるにもかかわらず、悲劇的にプログラムのバッティングが度々起こるのです。フィギュアスケート関係者は真の名曲を知らない。そう思っている音楽好きがいても不思議ではありません。好きな選手の演技に、別の曲を被せて楽しむファンがいるようですが、僕もその気持ちは分かります。関係者の皆さん、特に機械音痴の女性ファンは、音楽を聴くオーディオくらいはちゃんと揃えましょう。オーディオの名器がオークションやリサイクルショップで馬鹿安く売られて(泣いて)いるのです。芸術的な感性は良い音を聴くことで磨かれるのですから。

 なお10日のFM放送で、ハーツェルツェトとモニカ・ハジェット(Vn)が共演したテレマンの曲が放送されます→バロックの森

     エフライム工房 平御幸
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フルートの名曲~フォーレの幻想曲 作品79

2008-09-01 19:13:35 | 芸術
 9月危機説の流れた韓国経済がいよいよ9月に突入し、ウォンとコスピ(KOSPI~株価指標)の動向が注目されました。蓋を開ければウォンが一時1124ウォン/ドルという、約3%の暴落。これで1100とか1120にオプションを設定していた企業は即死のようです(KIKO=ノックイン/ノックアウトオプション)。またコスピも4%の暴落。しかも、両者の暴落に、休場だったアメリカのファンドが絡んでいないのです。それで、禿鷹と呼ばれるアメリカのファンドが、コスピを始末してドル替えする明日こそ、韓国経済にとって本当の崩壊序奏だと囁かれています。

 ところで、ウォンの暴落チャートを見ていて、なぜか「フルートの名曲」を思い出しました。「フルートの名曲」というのは、90年代半ばのFM(NHK)で放送されたもので、その構成の良さに、何度聴いても飽きが来なかった番組でした。僕はNHKの左翼体質を批判しますが、FM放送では流石にプロと唸らせる番組構成と選曲が多かったのです。「フルートの名曲」もその一つですが、冒頭で演奏されるのがフォーレの『フルートとピアノのための幻想曲ハ長調 作品79』です。

 この曲は、番組の解説ではコンクールの課題曲と紹介されていたのですが、『フォーレ室内楽曲集3(パレナン四重奏団、フルート~ミシェル・デポスト)』によると、同じくヘ長調の曲の方だけ課題曲になっていました。どちらかが間違っていますね。構成が同じなのだから、両方とも課題曲ではないかと思います→デポスト盤

 さて、この曲の印象ですが、静かに始まった旋律が、ウォンの暴落チャートのように高音部に一気に駆け上がるところが課題曲としてのテーマかなと感じました。コンクールの課題曲は一般につまらない物が多いのですが(特に日本のコンクール)、この曲はとても聴き応えがあります。放送ではランパルだったと思うのですが、もう少し現代的でメリハリのある良い演奏でした→ランパル盤試聴

 この曲の後に、お馴染みの名曲が続くのです。フリードリッヒ大王の作品、グルックの歌劇オルフェウスより精霊の踊り、イベールの間奏曲、ビゼーのアルルの女第2組曲よりメヌエット、ドップラーのハンガリー田園幻想曲、デュナンのヴェニスの謝肉祭、と続きます(順番はうろ覚え)。最後は日本人作曲者だったのですが、テープが無くなり途中で切れていました。演奏者は、パトリック・ガロワ、オーレル・ニコレ、ジェームズ・ゴールウェイ、ヴォルフガング・シュルツなど多士済々。それで誰がどの曲を演奏したかを覚えるのが途中で面倒になり、結局はうろ覚えになりました。技巧的なガロワの精霊の踊りと間奏曲、情感たっぷりのゴールウェイのハンガリー田園幻想曲、清澄なニコレのアルルの女ではなかったかと記憶しています。

 もう十年前に無くしたテープですが、今でも曲と演奏者の組み合わせは覚えています。別の人の演奏だと分かるという意味です。このようなオムニバス形式の放送は、ナレーターの声と共に記憶に残るもので、親しむとCDの演奏のみは物足らなく感じます。若い時はエアチェックでナレーションをカットして録音したものですが、都会人や一人暮らし老人の孤独というのは、このような放送によって癒されて来たのかなと思うようになりました。

 デジタル放送の出現でFM放送の重要度が低下し、オーディオ産業が停滞する今の時代、バプル崩壊と共に何か大切なものを失った日本人が重なって見えます。音楽というのは、有り余る環境ではなくて、足らなくて飢えているくらいが幸福なのだと思いますね。飽食の時代は飽音の時代でもあったのです。戦後に残されたフルトヴェングラーの遺産に、当時の人の神を求める心と、音楽を求める心の一致をみる気がします。音楽は本来、神のように心を打ち叩いて求める物なのです。

     エフライム工房 平御幸
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名盤~古代ギリシャの音楽

2008-08-30 04:29:41 | 芸術
 韓国の経済崩壊は着々と進み、来月9月9日の重陽の節句(韓国では秋夕)に4兆円を超える短期外債(1年以内に返すドル建て借金)の返済が迫っています。これを借り換えできないと即破綻、借り換えできても金利がさらに上がりますから、借金は雪だるま式に増えます。ウォンが暴落しているので、借りたときよりも17%も返済額が増えているのです(金利は別)。以下、掲示板から崩壊セレモニーのコピー。

 9月09日(火):返済満期
 9月10日(水):返済満期
 9月11日(木):秋夕EVEで一斉に引き出し
 9月12日(金):秋夕EVEで一斉に引き出し
 9月13日(土):秋夕
 9月14日(日):秋夕
 9月15日(月):秋夕 一方、日本は3連休

 古代史で書いているのですが、9月9日の重陽(ちょうよう)の節句には菊酒を飲むのが慣わしのようです。菊は音読みであり、掬(すく)うという字でも分かるように、救済の理念を掲げるイエス・キリストのシンボルの一つが菊なのです。古くは古代エジプトで十六菊花紋が見られますが、これは日本人の祖先がエジプトのイスラエル12部族であった証拠の一つです。ちなみに、古代史ではまだ書いてはいませんが、イエスのユダ族のシンボルが獅子で、それでシシ十六の数となっているのです。また、旧約のヤハウェを表す八と、新約のイエスの八が、上下で十字架(紀元)を挟んでいる構図が米の字なのです。菊に米が使われるのは、新旧の神が同一で救いの神である事を表すためです。

 さて、前1292年、古代エジプトのイスラエル12部族は、モーセに率いられてエクソダス(出エジプト)を果たしますが、一部は後に分かれてギリシャに向かいます。ミケーネ文化には、契約の箱を象った祭司レビの装身具が発掘されているのです。契約の箱はモーセ以後ですから、ミケーネは定説よりも遙かに新しい文化という事になります。ですから、ギリシャ文明の母は、実は日本人と同じイスラエル12部族である可能性が高いのです。このセム系イスラエルの特徴は、美術では具象に強く、音楽では弦楽器に才能を発揮します。黒人のハム系は打楽器のリズムに強く、白人のヤフェト系は管楽器に強いのです。具象に強い白人は、間違いなくイスラエルの血が入っているのです。だからこそ、イスラエルと混血した地中海沿岸諸国に美術の天才が生まれたのです。

 という事で、今回は古代ギリシャの音楽を紹介します。グレゴリオ・パニアグワ指揮、アトリウム・ムジケー古楽合奏団の演奏で、序奏~『オレステース』のスタシモンという曲です。Harmonia Mundi(ハルモニア・ムンディ)から1978年に発売されたLPをCD化したものです。

 

 この盤は、LP時代に、自作スピーカーの神様と言われた故・長岡鉄男氏が絶賛したもので、冒頭の衝撃的な破裂音にショックを受けます。リアルで鮮明、空間の見通しが良く、レンジは広大でヒズミ感無しという名録音です。音楽というよりは、リアルな音を楽しむ盤ですが、古代の音楽を復元するのは至難の業なので、古代に実際にこのような演奏が行われていたかどうかは分かりません。でも、この鮮明さを体験すると、競技場の中心で落としたコインの音が響くという、ギリシャの乾いた空気を実感できます。

 なお、市販のスピーカーでは音が甘くなるので、衝撃的な音が感じられなくても当然です。高能率のバックロードホーンとFETアンプ向きの、超現代的な音ですが、これが30年前の録音とは信じられないほどです。というか、30年前からオーディオは進化していないのです。しかも、LP盤の方が音がよいそうです。

     エフライム工房 平御幸
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名曲の楽しみ~神を求める心

2008-02-03 14:07:30 | 芸術
 外は雪です。出かけるのも億劫になる季節ですが、こういう時期は音楽で心を満たすチャンスでもあります。芸術の秋とは、音楽が再生できなかった時代の名言であり、好きな時に再生できる現代では、もっとも静かな冬こそが芸術鑑賞に向いていることになります。

 最近、コメント欄で音楽の話が発展します。それは、大きなスケート大会の谷間であることに加え、季節的な必然性がもたらす現象ではないかと思います。良い音楽は心と霊の糧となりますから。それで、コメント欄ではスペースが取れないので、こちらで僕が愛聴している演奏を紹介したいと思います。容量と一応著作権に気を配って、ビットレートは最低の56Kbpsに落としています。そのうち、古い映像を削除して、高音質に置き換えたいと思います。いずれも、「右クリックで対象を保存」を選択して下さい。ストリーミングには重すぎます。

 最初に、日本へも度々訪れているスペインの女性ギタリスト、マリア・エステル・グスマンです。この女性は古代史でも書いているのですが、世界最高のギタリストであり、僕は史上ナンバーワンの評価をしています。イエペスもセゴビアも、グスマンの前には物足りなくなってしまうのです。その卓越した技巧はバッハのシャコンヌ(『エモシオン』より)を聴いて貰えば分かります。原曲はバイオリン・パルティータ第2番の終楽章の舞曲ですが、ギターの方がグリュミオーのバイオリンより深みがあります。
  リンク先 http://www.geocities.jp/atelier_efraym/Maria.Esther.Guzman001.MP3

 次に、同じくグスマンのアルハンブラ宮殿の思い出(『タレガ賛歌』より)。こちらは、宮殿のモザイク模様の煌(きら)めきを表現したかのような、独特の力強さが特徴です。多分に、タレガの楽譜に忠実な演奏なのだと思います。
  リンク先 http://www.geocities.jp/atelier_efraym/alhambra.MP3

 次は、現代リュート奏者の第一人者、ルッツ・キルヒホーフによるバッハの『リュートのための作品集』より、組曲ホ短調BWV996。こちらの解説は、FM放送の朝のバロックで日野直子さんが行っているので、そのままアップします。
  リンク先 http://www.geocities.jp/atelier_efraym/lute01.mp3

 今回の最後として、バッハの管弦楽組曲第2番より第2曲ロンドを、フルート独奏ウィルベルト・ハーツェルテット、指揮トン・コープマン、アムステルダム・パロック管弦楽団の演奏でどうぞ。原盤はERATO WPCS-6317、バッハの管弦楽組曲全集です。ハーツェルテットのフルートは、腰が抜けるほどの官能的な音に聞こえます。この盤は図書館で見つけたものですが、コピーしたCDが劣化して、高音質でエンコードしたものがありません。それでも、56Kbp版がハードディスクに残されていたので、それをアップします。なお、これらの演奏は、プラスチック製のパソコン用スピーカーでは表情が出ません。そのうち、手軽な再生装置に関しても書きたいと思います。
  リンク先 http://www.geocities.jp/atelier_efraym/rondo.MP3

 今回は、バッハが多かったですけど、僕は本質的にモーツァルトファンです。しかし、モーツァルトは良い演奏や良い盤が皆無に近いのです。僕の解釈が指揮者と全く異なるので、聴いていてイライラすることになります。それで、モーツァルトだけは曲を思い出して、頭の中でよい演奏を組み立てて聴いています。自分が指揮者になれたなら、モーツァルトはもっと楽しく、もっと美しく、もっと表情豊かに演奏させるでしょう。これが僕の人生最大の不幸ですね。

     エフライム工房 平御幸
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