僕の一番好きな言葉は「創意工夫」。工夫とは、日本人の祖先であるヤコブがメーソンの頭領であったことから、まさに「工人の男」を意味するものです。ヤコブがモデルのクフ王は、ヒエログリフの正しい読みはクフ・ウであり、ここからクフウという言葉が生まれたものと思われます。
クフだけなら「覆う形」ですが、「偉大」を意味するウが付くことで、「偉大なる天幕」になるのです。ここに、ノアの預言である有名な一節が意味を持ってくるのです。
「セムの神、主はほむべきかな、カナンはそのしもべとなれ。神はヤペテを大いならしめセムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ」『創世記』9章26-27
このように、クフウはセムの天幕、すなわちセムの繁栄の偉大さを象徴する言葉なのです。しかし、白人の祖先であるヤペテ(ヤフェト)をその天幕に住まわせるということから、白人が実権を握る世界が構築されたのです。もっとも、それは末の日までの限定です。白人は神に試されているとも知らずに、傲慢に振舞っていますがね。
試すというと、試みのミカエルを女性読者に作らせていたのですが、三人目までは成功して気が緩んだのか、それとも甘く見たのか、四人目から六人目まで同じ間違いを犯しました。試みのミカエルはユニットが内付なので、バッフルを外さないとユニット交換できない仕組みですが、何とバッフルを接着してしまったのです。ユニットが壊れたら、あるいはコードが断線したら修理できません。
試みのミカエルを設計する段階で一番苦労した部分ですが、ユニットの外付けは難しいので内付けにし、そのためにバッフルを取り付けるサブバッフルを中に作り、真鍮のネジでバッフルを固定するデザインとなったのです。バッフルを接着するなら、サブバッフルは必要ないし、真鍮のネジも必要ありません。ネジ一本でも工夫の挙句に決定されているのです。ただのデザインで付けているのではありません。全てが必然性の結果なのです→試みのミカエル再設計。
ところで、間違った三人はいずれも若いメンバーで、ゆとり世代やゆとり世代に近い年齢です。ブログで掲載した写真を見れば、誰でもバッフル交換式だと分かるはずだし、写真なんか見なくても、何でネジがあるのか考えれば容易に推理できるはずです。製作記事をろくに読んでいない、あるいは掲載した写真をボーと眺めているだけ。あるいは、設計意図を全く理解しないで、ただ組み立てていただけ。
アンプの修理をすると、回路や実装に色々な工夫を読み取ることができます。限られた予算やスペースの中で、設計者が苦労して生み出した工夫の数々。これが発見できることが修理の面白さなのです。要するに、設計の意図を理解するという、実にインテリジェンスに満ちた高尚な趣味が味わえるわけです。
理解というのは文字通り、解剖して理由を見つける作業です。何でこうなっているのか?何でこうしないのか?そのような自問自答をしながら掘り下げる作業ですから、哲学を実践しているのに等しいのです。哲学とは、一つのテーマにそって掘り下げる作業でしかありませんから。哲学者が偉いわけではありません。空論の哲学者は馬鹿と同じです。
一つのテーマで掘り下げた結果、そこに万人に普遍な何かを発見できたら哲人となるのです。他人の説を自分の褌のようにする馬鹿哲学者は有害なだけです。脳科学者というエセ科学者も同じですけど。アンプ一台を理解する。スピーカー一個を理解する。それが出来ただけで、大半の自称哲学者よりは偉大なのです。そして、その理解の先から自分の創意工夫が始まるのです。
ということで、創意工夫のない人は、その前の理解する姿勢が欠けていることを自覚しましょう。まあ、僕みたいに歩く創意工夫になっても、試しの世界である実社会で何か得するわけではありませんけど。でも、人間は復活してから何千年も勉強しなくてはならないのです。それなら早い内に神様に近付いたほうが良いと思いませんか。
追加 また一人増えて四人になったニダ orz
エフライム工房 平御幸
クフだけなら「覆う形」ですが、「偉大」を意味するウが付くことで、「偉大なる天幕」になるのです。ここに、ノアの預言である有名な一節が意味を持ってくるのです。
「セムの神、主はほむべきかな、カナンはそのしもべとなれ。神はヤペテを大いならしめセムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ」『創世記』9章26-27
このように、クフウはセムの天幕、すなわちセムの繁栄の偉大さを象徴する言葉なのです。しかし、白人の祖先であるヤペテ(ヤフェト)をその天幕に住まわせるということから、白人が実権を握る世界が構築されたのです。もっとも、それは末の日までの限定です。白人は神に試されているとも知らずに、傲慢に振舞っていますがね。
試すというと、試みのミカエルを女性読者に作らせていたのですが、三人目までは成功して気が緩んだのか、それとも甘く見たのか、四人目から六人目まで同じ間違いを犯しました。試みのミカエルはユニットが内付なので、バッフルを外さないとユニット交換できない仕組みですが、何とバッフルを接着してしまったのです。ユニットが壊れたら、あるいはコードが断線したら修理できません。
試みのミカエルを設計する段階で一番苦労した部分ですが、ユニットの外付けは難しいので内付けにし、そのためにバッフルを取り付けるサブバッフルを中に作り、真鍮のネジでバッフルを固定するデザインとなったのです。バッフルを接着するなら、サブバッフルは必要ないし、真鍮のネジも必要ありません。ネジ一本でも工夫の挙句に決定されているのです。ただのデザインで付けているのではありません。全てが必然性の結果なのです→試みのミカエル再設計。
ところで、間違った三人はいずれも若いメンバーで、ゆとり世代やゆとり世代に近い年齢です。ブログで掲載した写真を見れば、誰でもバッフル交換式だと分かるはずだし、写真なんか見なくても、何でネジがあるのか考えれば容易に推理できるはずです。製作記事をろくに読んでいない、あるいは掲載した写真をボーと眺めているだけ。あるいは、設計意図を全く理解しないで、ただ組み立てていただけ。
アンプの修理をすると、回路や実装に色々な工夫を読み取ることができます。限られた予算やスペースの中で、設計者が苦労して生み出した工夫の数々。これが発見できることが修理の面白さなのです。要するに、設計の意図を理解するという、実にインテリジェンスに満ちた高尚な趣味が味わえるわけです。
理解というのは文字通り、解剖して理由を見つける作業です。何でこうなっているのか?何でこうしないのか?そのような自問自答をしながら掘り下げる作業ですから、哲学を実践しているのに等しいのです。哲学とは、一つのテーマにそって掘り下げる作業でしかありませんから。哲学者が偉いわけではありません。空論の哲学者は馬鹿と同じです。
一つのテーマで掘り下げた結果、そこに万人に普遍な何かを発見できたら哲人となるのです。他人の説を自分の褌のようにする馬鹿哲学者は有害なだけです。脳科学者というエセ科学者も同じですけど。アンプ一台を理解する。スピーカー一個を理解する。それが出来ただけで、大半の自称哲学者よりは偉大なのです。そして、その理解の先から自分の創意工夫が始まるのです。
ということで、創意工夫のない人は、その前の理解する姿勢が欠けていることを自覚しましょう。まあ、僕みたいに歩く創意工夫になっても、試しの世界である実社会で何か得するわけではありませんけど。でも、人間は復活してから何千年も勉強しなくてはならないのです。それなら早い内に神様に近付いたほうが良いと思いませんか。
追加 また一人増えて四人になったニダ orz
エフライム工房 平御幸