歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

「汝」の生死

2006-03-26 |  文学 Literature
 東條耿一の義弟である渡辺清二郎さんの遺稿集が昭和50年12月に私家本として刊行されたが、そのなかに義兄 東條耿一に関する次のような随筆が載っている。
 義兄の信仰は本物でした。十六才の折、復生病院でドルワール・ド・レゼー神父様から洗礼を受け、一度退院し、何回か自殺をはかり、いずれも未遂。ついに多磨全生園に入園し、精神病棟の付添夫のかたわら文学に精進しました。その頃は信仰から離れていましたが、詩は三好達治先生に師事し、当時の詩誌『四季』にも作品が発表されました。その他、「一椀の大根おろし」「爪を剪る」「夕雲物語」など、すぐれた詩を遺してくれました。カトリック関係の雑誌や新聞にも寄稿し、『声』誌に「癩者の父」「小羊日記」「金券物語」等、数多くの作品を寄せています。北條の周囲の友人がこのようにカトリックに導かれたことは、神のみ摂理の不思議と思いますが、聖徳高いコッサール神父様のお祈りによるところと思います。義兄はかつて、この神父様に向って、「キリストが十字架上で死のうと生きようと、自分には何の関係もない」と言い切ったのですが、「どうして俺はあのような冒涜の言葉を吐いたんだろうか」と、これは義兄の死を迎えるまでの心の痛みとなっていました。
東條耿一の妹の渡辺立子(津田せつ子)さんも同じ趣旨の回想を戦後まもな刊行された「いづみ」というガリ版刷りの雑誌に書かれていたが、コッサール神父は、回心前の東條に対して、「もしあなたの云うことが真実だとしたら、私が遙々日本にやってきて、ここでイエスのことを伝道していることは全く無意味になってしまうでしょう」と答えたという。

 このようなコッサール神父と東條耿一とのやりとりを聴いて、私は、結局の処、ひとがクリスチャンになるかどうかは、キリストの死と復活を自己自身の生死と根源的に関わるものとして、心の底から実感できるかどうかに関わっていることを改めて思った。それ以外のことは、ある意味で二義的なことである。

私にとって單に「他者」として片づけることの出来ない人がいる。他者について了解できることは、せいぜい、自己についての了解を外部に投影したものに過ぎないから、自己の了解の根本に関わるものではあり得ない。しかし、「他者」であると思っていた人が、ある時に、もはや他者でもなく、自己自身と深き関わりをもつ「汝」として現れる場合がある。そのような「汝」の生死は、私自身の生死と切り離すことは出来ない。

それと同時に、こんなことも思った。キリストと無縁で生活してきたものが、あるとき突然に、書物の中にしか存在していなかったキリストが生きた人格として感じられるようになることがある。そういう出来事は決して聖書を單に(物語のように)読むことだけからは生まれない。文藝や戯曲に感動するというのとは異なるものがそこにある。また、聖書にはある思想が現れてはいるが、思想以上のものがそこにある。そして、文藝や思想以上のものに触れるためには、どうしても活きた人格に触れることが必要となるだろう。

イエスキリストというのは、固有名であって、「神の子」「救世主」「ユダヤの王」等々の一般概念には決して還元されない歴史的實在を直示している。その名前は、2000年前のエルサレムから現在の私達に致まで、彼の名前を呼び続けた多くの人々の繋がりのおかげで、今此処にいる私まで届けられたのである。その名前を尊ぶ人々、その人を知り、その人を「汝」として呼び、その人を信じてきた人の生死もまた、私にとっては、もはや「他人」ではなく、自己自身と深き関わりをもっている。

コッサール神父は、説教に費やす時間はごく短かったものらしい。司祭としてミサの司式や、公教要理を使った宣教は当然行ったであろうが、信徒たちが記憶しているのは、決して彼の「教え」などではなく、彼がどんな人であったか、どんな活動をしたか、ということのようである。その活動は、現代風に言えばターミナルケアであって、重病棟で死の床にいる信徒に聖体を届け、臨終をみとることであったようだ。当時、全生病院にいた入所者の一人である竹尾茂は次のような回想記を残している。
千三百人の患者は、眞宗、大師講、日蓮宗、新教、天主教などに分れ、月々に大抵一囘乃至二囘くらゐ、各宗團の特派布教師や牧師がやつてきて、色々の話をします。でたらめな時局談ばかりやつて氣をよくしてゆく僧侶もありますし、妻や子を一緒にひつぱつてきて、美しい聲で讃美歌をうたつてかへる牧師もありますが、それらの坊さんや牧師さんはそれで禮拜堂へ参集することのできる程度の健康な癩患者をみて、ああ思つたより癩病院は明朗だ、などといつて歸つてゆくのが常で未だかつて、本當の意味での癩病であるところの重病棟へ、その足を運んだことはありませんでした。その定説は今年になつてから、長身の司祭服を九號病棟に迎えたことによつて破られました。フランス人カトリック司祭C師は、病のあつい河野のところへ終油の秘蹟を授けに來られたのでしたが、そこは癩病院のなかでの結核病棟で癩と結核菌の中へ一人の外人が微笑をふくみながら、肉親の見舞客でさへも白く羽織つてくる消毒衣もマスクもつけないで入つてこられたのでありましたから、びつくりしたのは同じその病棟に病をやしなつてゐる二十名足らずの病友でありました。(中略) C師はやがてリノリウムの床を靜かに河野の枕許に近よられるとおだやかな聲でねんごろに見舞をのべた後、嚴かに終油の秘蹟をお授けになつたのです。丁度長い重病棟に三つしかないシヤンデリヤに赤い灯が入る頃で、いつもならばごたごたと色々な人の見舞客がおしかけラヂヲがなる頃でありましたが、その瞬間には、ひそと靜まつてしまひ、C師の白い指の先が何をするかを皆がじいつと見つめてゐましたが、その指が河野の唇にふれ、かへつてC師の唇にふれて「私にもいづれその日が來るであらうが、私のその日の爲にも祈つて頂きたい」といふ師の聲があたりへ響いて行つたときには、居あはせた總ての患者は皆愕然とし粛然としてしまつたのであります。
これは、戦前の全生園で東條と並んで多くの詩を発表していた河野和人の臨終の場面を描いたものであるが、C師とあるのがコッサール神父である。ここでコッサール神父は、河野和人と同じ一人の人間としての立場に立ち、「私にもいづれその日が來るであらうが、私のその日の爲にも祈つて頂きたい」といっている。臨終を迎えている河野も、自分のことだけでなく、他者のために祈ることが出来る。その相互の祈りの中で、河野の生死とコッサール神父の生死は、一つに結ばれているのである。

コッサール神父は、フランス人であり、戦争中は敵性国家の神父ということで殆ど監禁に近い状態にあったらしい、終戦後、すぐに亡くなられたが、「いづみ」の追悼号のなかで、渡辺立子さんは、古き時代の日本とその文藝を愛したというコッサール神父について次のような俳句を紹介している。
神父様は「落栗」という俳名で作句されていたと伺ったが、次の一句だけをもれ聴いたことがある。
  「スータンに蛍(ほうたる)ついて来りけり」
スータンとは、カトリックの司祭が着る衣服であるが、それを着て、彼は、車を使わずに、徒歩で全生病院まで来院していたとのことであった。
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小笠原登 「らいに関する三つの迷信」を読む

2006-03-01 |  宗教 Religion
小笠原登の書いた論文の中では、1931年(昭和6年)「診療と治療」第十八巻第十一号に掲載された「らいに関する三つの迷信」が特に良く知られている。我が国に於いて絶対隔離政策が国是として遂行されていく中で、その根本思想を「迷信」と喝破したこの論文は現在に於いても少しも色褪せたものにはなっていない。小笠原の言う「三つの迷信」とは

(1)らいは不治の疾患であるという迷信
(2)らいは遺伝病であるという迷信
(3)らいは強烈な伝染病であるという迷信

である。このうち(2)は一般大衆の間に広まっている迷信であるが、(1)と(3)は、当時の医療関係者の間にあっても、未だ克服できていない迷信であった。小笠原は、「癩程に種々な迷信を伴って居る疾患は他にないであらう。其の迷信の中には単に一般大衆の間に拡って居るばかりでなく医師界にまで拡って居るものがある」と述べた後で、「らいは不治の疾患である」という「迷信」を取り上げる。ここで現在の読者の中には、プロミンという特効薬が開発される以前に於いて、らいが不治の疾患であったということは「迷信」と言われるべきではなく、事実であったのではないか、と考える人が多いかも知れない。はたして、1931年という歴史的時点に於いて、「らいは不治である」と考えることが迷信に他ならぬと、なぜ小笠原は言い得たのであろうか。この問題について、現在、ハンセン病医療の現場で活躍している医師である和泉眞藏氏は次のような指摘をしている。
「今日でもプロミンという薬が登場する以前にはハンセン病は不治であったと考えている人がすくなくないが、これは明らかに誤っている。なぜならプロミン以前でも自然治癒する患者はすくなくなかったし、或る程度進行しても、そこで種々の程度の後遺症を残して病勢の進行が止まることがあり、また大風子油の注射で治癒する患者もいたからである。(中略)一般病院で治癒した患者は決して例外的な症例ではなく、ハンセン病の治癒について考察した論文も多いからである。」(「医者の僕にハンセン病が教えてくれたこと」2005年11月、CBR)
小笠原の家は江戸時代より漢方によるらいの治療をおこなっており、小笠原自身も京都大学でらいの通院治療を行ってきた関係で、多くの臨床的データをもっており、それに基づいて、「らいは不治である」という俗説が迷信であること、1931年当時に於いては、「癩の治癒性は結核性の疾患に比べると遥かに大である」といえると述べている。そうであるにも拘わらず、なぜ、「らいは不治である」という俗信が生まれたのか。小笠原によれば「病気は治癒しても最早や指の釣状や口の歪みなどが消失して発病前の状態には復帰せぬのである。こゝに永久病気が治癒せざるが如き観を呈する。癩不治の迷信はこゝに生れる。即ち病気自体とそれから起つた結果との混同に基いて起る」のである。「癩も亦経済力の少い人達に多い疾患であるがために、費用の関係上充分な治療を加へる事が出来ない場合が屡々遭遇せられる。万一斯様な患者に十分の資力が供給せられるならば、尚一層其の治癒性を高め得ると信ずる」というのが小笠原の立場であった。
 次に小笠原は、「らいは遺伝病である」と云ふ迷信を取り上げる。そしてこれが迷信であることを彼自身が調査した臨床的なデータに基づいて、次のように立証している。
この迷信を持って居る人は医師には稀であって、一般民衆に多い。此の迷信が結婚、離婚、廃嫡等の問題に関係して種々な悲劇を起した事が屡々見聞せられた。此の迷信の起つたのにも亦理由がある。即ち一定の家系の人にのみ癩患者が発生するかの如き感を与へると云ふ事実に基くのである。然かし精査すれば癩患者の発生は一定の家系の人に限って居らぬ。却って従来其の家系に於て癩患者のあった事を聞かなかった人に癩症状を現はして来て居る場合が遥かに多いのである。予が昨年一月より今年七月までの間に診察した百五十七名の患者の中に於て其の家系の中に癩患者を出した事もあるものは僅かに二十一名である。然からば如何にして一定家系の人にのみ癩患者が発生するが如く見えるかと云へば、其の一つの理由には癩は特殊な体質の所有者にのみ感染する疾患であると云ふ事を数へなけれはならぬ。癩患者は発育不全性体質に属する徴候の多数を所有して居る。即ち癩菌は体質的欠陥の所有者に遭ってのみ病原体となり得るのであって、何人に対しても病原体となり得るものではないと信ぜられる。而してこの体質的欠陥は一は遺伝により一は栄養状態や家業の同一等によって子孫や、一族の間に現はれ易く、従って癩の感受性も亦子孫及び一族の間に顕はれ易い。又一族の中に癩患者が出た場合には其の接触の頻数によって其一族の中に患者の発生が促される。即ち一族の中に重複して患者の発生する理由が会得せられる。 
ここの議論で注意すべき事は、小笠原が、ハンセンによる「らい菌」の発見したことを以て、らいの病因が確定したとは考えていないということである。なぜかというと、「らい菌」がらい病の原因であることを学問的に厳密に立証するためには、所謂コッホの三基準を満たさねばならないが、らい菌の純粋培養も出来ず、また、らい菌を人体に接種しても発病に致るとは限らないと言う実験事実が知られていたからである。癩菌が発見されたからといって、ただちにそれは伝染説を立証し、遺伝説を論駁したと考えるわけにはいかない。後に、小笠原が「鐘と撞木」の譬喩で示したように、らい菌とらいの発病との関係は、単純素朴な因果関係では捉えられないからである。すなわち、らいの発病には様々な因子が関係しており、らい菌の体内への侵入だけで発病にはいたらず、患者の側の感受性が大きく関係するというのが小笠原の基本的な考え方であった。感受性は遺伝的な要因を含むが、そのことから直ちに、「遺伝病である」という結論は出ない。なぜならば、発病を引き起こす因子は、遺伝的なものだけでなく、患者の生活している環境、その衛生的状態、栄養状態など様々の因子が複合的に働くからである。小笠原は、様々な統計的データをもとにして次のように推論する。
此の如く癩は一族中に重複して発生し易いのではあるが、結核性の疾患が一族間に重複して発生するに比すれば其の率は比較にならぬ程小さいと信ぜられる。それにもかかはらず癩が特に遺伝と信ぜられるに至ったのは、癩の伝染性が極めて弱い事と共に所謂癩系統の家族に於ける癩患者の発生率が所謂癩系統ならざる家族に於けるそれに比して、著しく大なる事を考へなければならぬ。勿論絶対数は癩系統ならざる家族に於て発生する方が著しく多いのである。これは只予の少数の患者についての統計のみではなく、他の統計に於ても同様の結果になって居る。
三番目に小笠原が取り上げたのが、「らいは強烈な伝染病である」と云ふ迷信である。この迷信こそ、小笠原が絶対隔離政策を採用している日本の医師達によって、民衆に吹き込まれ、患者の不幸を増大させていたものであった。小笠原は次の如く、当時の隔離政策と、この迷信との関係を喝破している。
この迷信の起つた理由は古来遺伝病であって、一定の家族に纏ひ着いて居る特殊な奇病であると深く信ぜられて居た癩が近時伝染病である事が高唱せられるに至って、俄かに民衆の強き恐怖を喚起し、強き伝染力を有する疾患の如くに嫌忌せられるに至ったものと考へられる。勿論癩は伝染病であるからこれを恐れる事は当然である。然かしながら恐怖の余り迷信に陥って癩患者に対する措置の宜しきを失ふに至る事は大に警めなければならぬ。癩は我が国では古き時代からの病気である。それにもかゝはらずこれが伝染病である事が観破せられなかった。又これが千有余年の間何等予防施設を施す事もなく放置せられたにかゝはらず今日尚未だ全国民悉くが癩によって犯されるに至って居らぬ。(中略)癩は感受性の強い人には容易く感染するけれども感受性の弱い人には容易に感染するものでない事が信ぜられる。そして其感染率は我が内地人を七千万人とし患者の総数を二万人とするならば三千五百人に一人の罹患者を出す事となり罹病率は0.029%となるのである。この罹病率は結核性疾患に比べると殆んど比較にならぬ程小さい。極端な例であるが、予が某病院の看護婦百二十四名について結核性疾患の診断を受けたものをしらべて見た事があったが、そのなかに五四名の羅病者があった。実に四四%である。そのなか、甚だしき例では二〇名詰めの看護婦寄宿舎の一室に於て二十名中十八名迄が結核性疾患の診断を受けて居たのがあった。(中略)これ等の事実を考へると癩の伝染性は結核のそれに比して殆んど比較にならぬ程弱いものである事が想像せられる。然かるに伝染の危険の甚だ多い結核患者が大道の閣歩を許され伝染の危険が遥かに少い癩患者が幽閉を強ゐられて居る事は甚だ矛盾極まる現象である。
ここで小笠原が指摘したこと、すなわち、結核の患者は絶対隔離の對象にはならないのに、結核にくらべれば遙かに伝染の危険の低いらい患者が絶対隔離の對象になるのか、医学的には根拠が薄弱であったということは重要である。学問的に根拠のないことであっても、医療政策には大きな影響を及ぼしたもの、それこそがまさに歴史的に問われ、検証されなければならないからである。
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