歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

自然と歴史-歴程の哲学の意味するもの 1

2006-11-01 |  宗教 Religion

はじめに

私は、「過程」の哲学ではなく、「歴程」の哲学という概念によって、ホワイトヘッドがその主著Process and Reality で展開したコスモロジーを批判的に継承することを心がけている。なぜ、「歴程」という語を使うか。

それは、ホワイトヘッドの哲学的コスモロジーの要諦は、米国のprocess theologian のいうprocess の概念によっても、またホワイトヘッド自身のいう「有機体の哲学」という概念によっても十分に良く表現されないと考えるからである。

たとえば、「有機体の哲学」という言葉では、個的実存の自律性・独立性というものが表現されず、常に個物が全体に従属するカテゴリーとなるという含意がある。しかし、ホワイトヘッドの云う活動的存在(actual entity)は、自己創造的であり、自己原因的である。すなわち、活動的存在は個物であり、真の意味で実存する物(res vera)なのであるから、決して「世界」を構成する一要素にすぎない物ではない。活動的存在は個的な実存として世界をうちに含むことによって世界をその都度超越する存在なのである。

Process theology でいうところのprocess の概念を、ホワイトヘッドの Process and Reality の原点にたちかえってもういちど批判的に吟味し、継承すべき優れた洞察が何であり、批判すべき点はなんであるかを再考する必要があろう。

「歴程」という語を私が使用する理由は、それが単なるコスモロジーだけではなく、我々の実存的な歴史をも表現することが出来るからである。いや、むしろ話は逆であって、個的実存を本質的に特徴づける歴史性が、人間のみならず、人間がそこにおいて存在する世界、そして諸々の世界の総体に他ならぬ宇宙そのもののもつ本質的な特性であるというべきかもしれない。コスモロジーと個的実存の思索の双方を射程に収め得る概念として、私は「歴程の哲学」という用語を使用したのである。

「歴程」には、日本語ではさらに別の含意がある。それは戦前と戦後を通じて日本の現代詩をになってきた詩誌の名前でもあった。草野心平、中原中也、高橋新吉、逸見猶吉等が昭和10年に刊行したこの詩誌は、イデオロギーの拘束抜きで、個々の詩人の個性を重んじた詩的サークルを形成し、現在に至っている。そこで「歴程」ということばは、なによりも個々の人が経過した人生の軌跡、個人史を表すものであり、それぞれの詩人の実存の歴史にほかならない。

「過程」という日本語には、「歴程」とは違って、そのような個的実存の歴史を表すという含意がない。また、「過程」には、過ぎゆくもの、途上にあるものという意味が強すぎて、その都度完結し、作品として結実する生の航跡という意味が表されない。つまり「過程」は、その過程によって生み出された「作品」も、また「過程」において自己形成する作者自身を表現することが出来ないのである。

ホワイトヘッドがProcess という言葉を使うとき、それは、単に「途上にある」もの、「初めと終わりの中間」にある「過ぎゆくもの」を表しているのではない。Process は、實は、自己を形成し、創造し、自己の作品のなかにその都度、自己の存在の航跡を表現していく我々自身の生の歩みを一般化した語なのである。 我々は、みな、自己の生に於いては、脚本家であり、演出家であり、主役なのである。各人は、自己の歴程の主人公であるが、その主人公自身が、歴程において、他者と出会い、他者の世界を自己の世界へと内面化しつつ(抱握しつつ)、自らを他者に対して作品として与える存在なのである。

そういう自己創造のプロセスとその成果を現すのに「歴程」という日本語が最も相応しいのではないだろうか。 我々の世界の根柢を「ポイエーシスの世界」と呼び、作られたものから作るものへと動いていく創造的世界と捉えたのは西田幾多郎であるが、ホワイトヘッドの歴程の哲学の趣旨も、まさしく創造的世 界とその創造的要素である個物(actualentity)にほかならない。 それでは、かかるポイエーシス世界の構造は、のようにして哲学的に表現されるのか。単に藝術作品の創造という意味での狭い意味でのポイエーシスにとどまらず、実践(プラクシス)も理論(テオーリア)もすべて、そこにおいて表現されるべきポイエーシスの世界とは如何なるものであるのか-これが歴程の哲学の主題である。

「天地は万物の逆旅にして光陰は百代の過客なり」とは人口に膾炙した古人の詩句であるが、もし天地を宇宙(コスモス)の意味に取るならば、現代の物理学は、宇宙そのものもまた永遠なるものではなく過客(旅人)であるという認識に達したように見える。天も地の挟間にあって束の間の生をうけた個々の人間のみならず、乾坤も、行き交う年(時間)もまた旅人に他ならない。

西欧中世においては、万物はその被造性のゆえに永遠なるものを本性的に必要とすることが教えられ、この世界の偶然性(contingentia mundi)の自覺こそがキリスト教信仰への道の一つであった。我々が考察すべき課題は、我々のすまう世界が根源的に歴史に貫かれており、宇宙そのものが決して永遠不変のものではないこと、
存在するために自己以外の何ものをも必要としないような必然的な存在では有り得ないという事実の有つ意味である。

「偶然性は「この場所」「この瞬間」における独立なる二元の邂逅として尖端の危うきに立って辺際なき無に臨むものである」とは九鬼周造の言葉であるが、この「無」を無限なる物に意味にとり、有限なる世界がそこにおいてある場所と了解するならば、それはまさに歴程の哲学の視点である。この場所・この瞬間に於ける個的実存こそが歴程の哲学の基礎である。個的実存は、つねにそれに対して、その都度、相対的な世界を有つ。個的実存は、その世界を前提として現成するが、世界の内に有るのではない。世界内存在というだけでは個的実存は規定されない。それは世界を内在させることによって、世界を超越する。個的実存は時に於いて生起するのではなく、それ自身が時である。

Comments (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自然と歴史-歴程の哲学の意味するもの 2

2006-11-01 |  宗教 Religion

恩寵と自然

信仰と理性という問題は、キリスト教の伝統に於いては恩寵と自然というより広い枠組みに於いて捉えられていた。救済は理性によってもたらされるものではなく、信仰によるものであるが、その信仰そのものもまた恩寵によるのであって、我々自身の内からでるものではないというのがその意味するところである。

「自然」という言葉は、哲学・科学・宗教・文藝の諸領域に於いて、様々な意味で使用されてきた。それは決して一義的な語ではない。そこで、多義的なものを統一性を全く欠いた偶然的な多義性として放置するのではなく、ある基底的・焦点的な意味を定め、そこから、様々なる「自然」の意味を系統的に整序したうえで、それらを批判的に考察することを試みたい。

まず、さまざまな自然概念に共通して「ものの自体的なあり方」が合意されることに注意したい。列子の張湛の注に「自然とは、外より資らざるなり」とあるが、そこでは「自然とは他の力を借りないで、自ずからそうなること、もしくはそうであること」が含意されている。この意味での「自然」は、ギリシャ語の physis の用法に近い所がある。アリストテレスは「自己自身の内に運動の原因をもつもの」として physis を定義したが、そういう意味での自然概念には、運動ないし変化の原因を、外に求めずに内在化する考え方が現れている。

しかしながら、こういう哲学的議論は、我々の具体的なる経験の現場を離れて次第に抽象化され、やがては、我々自身の経験の現場を離れて、自然が対象化され、実体化されていく傾向性があることに注意しなければならない。そのように対象化された議論の枠組みにおいて、両立しがたい様々な体系――形而上学的なるものと反形而上学的なる物の双方がある――が構築されるからである。

たとえば、荘子の注釈者として著名な郭象の「無因自然」論をとってみよう。そこでは、「万物には主宰者は存在せず、個々の事物は、それぞれに存在根拠をもち、他者の介入を許さない」という意味での「自然」が強調される。これは、単に、万物の主宰者の存在を否定するという意味での無神論であるだけでなく、そもそも事物には原因なるものは存在しないと言う意味で包果を撥無する議論でもあった。これは形而上学を拒否する自然主義の一事例である。

それとは対照的に、単なる個物の感覚的認識ではなく、ものの原理と原因の認識を持って学的認識の特徴とするアリストテレスにおいては、いわゆる四原因論こそが自然学の基本となる。因果性を撥無するところには科学は生まれない。そして、自然界の全体的な認識のためには、第一の原因・原理の探求こそが要求されるのであって、かかる原因の探求は、究極するところでは、形而上学において完結する。それゆえにアリストテレスの伝統を継承する自然学は、最終的には、自己自身を越える根拠としての第一哲学=神学(テオロギケー)を必要とするのである。こちらのほうは形而上学に対して開かれた自然主義の事例である。

哲学的な思索においては、事物の原因の探求、あるいは事物の本来的なありかた、生成消滅の根拠と言う文脈において「自然」が語られるが、宗教においては、それと同時に、我々の救済の根拠を求めるという文脈で、「自然」という言葉が語られる。

仏教に於いては、「自然」という語は、良い意味でも悪い意味でも使われると言う点で両義的な用語である。救済の究極的な根拠を表現する場合にも使われるが、救済が実現されるためには否定されるべきものとして語られる場合もある。 中国仏教に於いては、無因自然のごとき考え方は、仏教の基本にある縁起説、因果の理法とは相容れぬものと扱われた。道教のいわゆる「無為自然」は「自然外道」と等置され、だから、仏教的な「空」の立場との混同を戒める議論も行われた。他方に於いて、親鸞の晩年の言葉を筆録した『末燈抄』では、「自然法爾」が、絶対他力の信心の究極を表す言葉として使用されている。

「自然といふは、自はおのづからと言ふ、行者のはからひにあらず、しからしむといふ言葉なり。然といふは、しからしむといふことば、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに、しからしむるを法爾といふ。…すべて、人のはじめてはからざるなり。このゆゑに、他力には義なきを義とす、としるべきなり」

『歎異抄』にも「わがはからはざるを自然とまうすなり。これすなはち他力にまします」
ということばがあり、ここでは、自然は、人為のはからいを捨てて絶対他力に帰依信心のありかたを指しているのである。

キリスト教の場合、カトリックとプロテスタントの神学の相違点の一つは、啓示神学に
たいする自然神学の位置づけである。バルトに於いて典型的に見られるように、聖書原理を重視するプロテスタントの神学は、基本的な傾向として、自然神学というものの価値を認めない。聖書の啓示こそが神学の与件であり、その与件に基づいて神学体系を組織する啓示神学のみが、本来の意味での神学である.その他に神学なるものはない。あるとすれば、それは神学の装いのもとに展開された世俗の哲学に過ぎない。

これに対し、カトリシズムの伝統に於いては、基本的に、自然神学の価値を承認する。それは、さしあたっては特定の経典に立脚せずに、異教徒にもキリスト者にも共通するもの、いわば両者が共に認める自然なる与件としての世界から議論を組み立てる。それは、古くはプラトンやアリストテレスのこころみた哲学的な神学(テオロギケー)の系譜を引くものであって、キリスト者と非キリスト者とが、ともに共通の場において議論可能な地平をもつ神学である。

すなわち、自然を重視し、そこから神学的な思索を行うことは、自己と異なる伝統に由来する他宗教との対話のために必要なことがらであり、自己の宗教のもつ特殊性、独自性を超える普遍性を獲得するために、必要な営みなのである。

自然の概念は、このように、仏教に於いてもキリスト教に於いても両義的である。このような両義性の由来を追尋することは、キリスト教的な創造論や救済論の文脈で自然を語る場合に於いても、あるいは大乗仏教に於ける仏性論との関係で自然を語る場合においても避けて通ることのできぬものであろう。さらに、如何なる宗教的な価値にたいしても中立的な自然科学的な意味での「自然」概念があり、これは宗教的な自然概念と如何に関係するかと言うことも、考察されるべき問題である。

「恩寵は自然を破棄せずに、却ってこれを完成する」

というトマス・アクィナスの言葉がある。歴史的に見れば、この言葉は、キリスト教が自然を学問的に研究するアリストテレスの哲学を受容したあとで、信仰と理性という相反する二つの立場を、信仰の側から統合する立場を表明したものである。これは、カトリシズムに於ける啓示神学と自然神学との根本的な関係を表明したものとして良く引用される。この言葉は、単に西欧のキリスト教の歴史のある段階に於いて発せられた特殊な命題であるにすぎないものではない。およそ、恩寵という言葉が宗教的な救済の出来事を表すものであり、自然という語が、我々の本性に由来する物を表すとするならば、この言葉は、宗教の成立する根幹にかかわる問題を指示している。いいかえれば、それは現在に於いても、我々に対して、思索を促すだけの普遍性をもっているのである。

この言葉は、トマスの言う意味での「普遍の信仰」の立場を述べたものであるから、それを単に、中世西欧のキリスト教的思惟という歴史的な文脈で理解するだけではなく、時代と思想の風土も異なる現代の日本において、我々の思索を促すものとして採り上げよう。すなわち、我々は、あらためて、次のように問うのである。

「恩寵は自然を破棄せずに、却って完成させる」という、そのことは、如何にして可能となるのであろうか。

さしあたっては、我々が事物を経験するときの、そのものの「自然なありかた」、および経験する主体である我々の「自己のありかた」の様態を形容するものとして、すなわち「ものはどのように生成するのか」、「私はどのように生きているのか」を言い表す語としての「自然」に焦点を定めたい。そういう考察に於いては、経験する主体を捨象したうえで対象化された事物の総体としての自然ではなく、対象と経験する主体との間の不可分なる具体的な関係性そのものが問題となろう。

このような「生成の〈如何に〉」を表現する「自然」は、「しぜん」というよりも「じねん」と言う、より古い読み仮名で表現する方が適切であるかもしれない。今日、「自然(しぜん)」は、主体抜きの純然たる客体、ないし客体の総体としての世界、即ち近代以後の自然科学の対象世界を指す意味で使われることが多くなったからである。しかし、自然科学が扱う自然の概念を如何に位置づけるかと言うことも我々の議論の射程に入る。現代に於いては、自然科学で言う意味での自然概念が如何にして生まれるかという問題を追尋することなくして、自然一般を論じるだけでは不充分である。自然科学で対象化された自然も又「生成の〈如何に〉」を表示する基底的な自然概念から派生するものとして議論することが出来るものでなければならない。

「生成の〈如何に〉」を表す意味での自然を第一義とする場合、それは、神と世界という二元的な対立図式の片方のみ、すなわち神から区別された世界のあり方のみを指すと固定して考えるべきではない。「自然(じねん)」を専ら神と区別された世界に限定することは、ひとつの先入主である。それは、神と世界をそれぞれ別個の「もの」として実体化した後で、時間的生成という働きを世界の側に帰し、神を自然的世界から峻別された非時間的なる存在として捉える考えを既に前提してしまっているからである。しかるに「生成する神」の概念は受肉と歴史が本質的な意味を持つキリスト教にとって必要不可欠である。

ここで、現代に於ける自然神学の一つの試みとして、神学に於ける「自然」概念の根柢は、「世界の自然」にではなく、「神の自然」にあるという考え方を提唱したい。

この提唱は、直接的には、先程提示した「恩寵は自然を破棄せずに、却ってこれを完成する」というトマスの言葉の可能根拠を指し示すものである。すなわち、恩寵とは「神の自然」に他ならず、普通言われる意味での「世界の自然」を完成するという意味である。

もちろん、こういったからといって、トマスの命題の意味するところ、その意味の全幅的な射程を覆い尽くしたなどと主張するつもりはない。そうではなくで、トマスの命題を受容し、そこから、形而上的なるもの(神的なるもの)へと開かれた自然主義の、新しい形態を出きる限り明晰に述べること、そのために必要な概念を提示するひとつの試みなのである。

そういう概念の適合性ないし有効性を判定する基準は、あくまでも我々自身の直接経験の現場以外にはない。各自が、自己自身の宗教的経験が、はたして有効に解釈され照明されるか、それを判定していただかなければならない。

「神の自然」は、「自然」というそのありかたにおいて「世界の自然」と通底している。
そのゆえに、かかる「世界の自然」のありかたを深く捉えることが、「神の自然」を捉えることに繋がり、かかる「神の自然」を捉えることによって、始めて「世界の自然」の捉え方が完成する――これが、「神の自然」という概念の意味するところである。

もし、このような言い方が許されるとするならば、「恩寵」とは、まさに、かかる「神の自然」の働きに他ならず、この「神の自然」の働きこそが、「世界の自然を破棄せずに、これを完成させる」ことの可能なる所以を与えるのではないか。

しかしながら、この間題はさらに突き詰めて考察する必要があろう。神と世界の「自然」について論ずることは、両者の区別と関係性を如何に語るかという問題の考察を要求するからである。

世界の「自然」が、単に「自己自身のうちに生成の根拠を持つ」ことにつきるのであるならば、「恩寵」はそのような自己を否定するという意味を持つはずである。仏教徒の表現を借りるならば、「自力作善」の立場が根柢から否定されると言うことが、「恩寵」には本来含まれる。神の「自然」には、世界の「自然」の自己充足性を突破するものが含まれているのでなければならない。したがって、我々は、神と世界との区別と関係性を、如実に述べるために必要にして適切なる範疇とは何であるか、それを省察することを求められるのである。我々にとっては「世界の自然」の方が先立つものであるが、事柄自体としては、「神の自然」こそが「世界の自然」に先行し、それを可能ならしめるものである。しかし、そのことは、我々にいかに如実に経験されるのか、それが経験される場というのはいかなるものであるのかが指示されなければならない。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自然と歴史-歴程の哲学の意味するもの 3

2006-11-01 |  宗教 Religion

自然と歴史

我々は、前節に於いて、自然を客体として対象化する以前に、第一義的には「生成の〈如何に〉」を表現するものとして論じた。客体としての「存在」が何であるかは、この「生成の〈如何に〉」によって、そこから論じられねばならない。前節において、「神の自然」と「世界の自然」について語ったが、その場合、神の「存在」と世界の「存在」を実体的に区別して、両者の関係を述べるという文脈で、自然について語ったのではない。実体―属性という範疇は、ここで問題にしている自然が、第一義的に語られる場ではないからである。

西谷啓治は、「自然」について語られる場は、実体という範疇では捉えられぬことを次のように指摘する。 (H・ヴァルデンフェルス『絶対無』180頁、西谷啓治『宗教とは何か』141頁以下参照)

「有の枠」がない「自然」では、aはa自体であり、bはb自体でありながら(a=a、b=bでありながら)同時にaとbとが相入している。いはゆる「自他不二」である。固定してゐなくて、a・bの間が「融通無碍」である。(a=b、むしろa←→bである)。aのうちにもbのうちにも「有の枠」はない。仏教的に言えば、aもbも「無自性」であり「無自性空」である。aがa自身であり、bがb自身であることと、abの不二ということとは、形式論的には矛盾ですが、「自然的」な有では矛盾ではなく、却って同じ事の両面であるといふことにあります。それは有が「有の枠」のない有だからです。仏教で「色即是空、空即是色」といふのが、さういふあり方を指してゐると思ゐます。それが、「おのずから」にして「みずから」に、つまり「ひとりで」にあるというふ有り方、「おのずからしかある有り方」といふことになります。

ここでは、「自然」は、「有の枠」を越えて、事物が「不一不二」のありかたで、すなわ
ち西谷が外のところで「回互的関係」とよぶありかたで、「おのずからしかある」ことが、「空の場」において考察されている。二つのものが「相入」しつつ、「一つ」ではないという「あり方」、諸事物が互いに妨げあうことなしに調和ある全体を為すというコスモロジーが語られている。華厳の「事事無礙法界」という存在把握を現代化したともいうべき西谷の言葉を手掛かりとして、さらなる考察を続けよう。

実体的な「有の枠組」を外して、事物を「事事無礙」の相でみることは、それだけでは、まだ、「自然」にとって本質的な、事物の「生成」が言及されていない。「空の場」において、時間や歴史というものが語られ得るためには、かかる回互的な「物の有り方」を述べるだけでは不十分である。ものの「生成」という次元を捨象せずに語ること、言うなれば非時間的な永遠の相において語られる「円環的な限定」においてのみ事事無礙を語るのではなく、同時に時間や歴史という「直線的限定」を語ることが必要である。それは、「無常」の相に於いてある自然なる時間的世界を如実に見るために、万物が一即一切、一切即一であることを語る「即」の論理にとどまることなく、この「即」の一字によって言い表されている事態をさらに具体的に、生成変化するものの位相において語ることである。かつてのキリスト教神学が、父と子と聖霊の内的な三位一体のペリコーレーシス(相互内在)だけではなく、歴史的世界に於てもまた三位一体論的な思索を展開したように、我々は、ひとり神こついてだけ語るのではなくて、世界について語るときにも、三位一体論的な思索を必要とするからである。

「自然」というあり方に歴史性を見ると言うことは、歴史的世界を、人為的なる世界に
限定せずに、それを越えて万物のあり方にまで一般化する事を意味する。「自然」は、その根柢に於いて歴史的であり、歴史的生成ということをその中に含む――このことが強調されねばならない。それは、近代の科学で前提されてきたような自然概念――歴史なき必然的法則に支配される世界という概念――から、我々の言う自然を理解すべきではなく、逆に、近代の自然科学が立脚していた自然概念のほうが、我々のいう意味での「自然」把握からの一面的なる抽象の所産であることを意味している。

万物が歴史的世界においてあると言うことは、二〇世紀後半の自然科学によって見いだされた新しい自然観でもある.物質には歴史があり、その諸元素は歴史的なプロセスの中で生成した物であって、永遠の昔から存在していた物ではない。宇宙全体が、不可逆的に進化するシステムであり、その進化のプロセスから、生命と意識を持つ人間が登場したこと、人類の歴史は、かかる広大なる宇宙の歴史過程のなかに位置づけられるべき事――これらは、アポステリオリに認識された科学的知見ではあるが、歴史性の欠如した近代科学の自然概念を根本的に修正するものである。存在するものの総体としての宇宙は不可逆的な歴史をもち、未来に向かって開かれている。そのような歴史性が、生物に於いて、そして人間のような高度に進化した有機体に於いて、はじめて自覚されるようになる。ポスト近代的なる自然科学で扱われる自然については、いまここで詳しく論じる余裕はないが、すくなくも、近代科学で前提されていた非歴史的自然という概念は、一面的な抽象に過ぎなかったことは、今日では自然科学自身が明らかにしている。

さて、自然が根柢に於いて歴史的であり、進化するものであると言うことを、自然科学の議論ではなく、一般的なる形而上学の議論として採り上げる場合、それは次の様な提題として定式化できるであろう。

歴史的世界に於いては、「ものが生成する」と言うことが、そのものの現実的な活動を第一義的に言い表すものであり、それが「対象として存在する」ということは、第二義的なことである。諸々の対象的存在とは常に既成の存在であり、新たなる個々の生成を制約する諸条件を形作る。ものの相互内在と言うことは、生成という次元を考慮して始めて抽象性を免れ、現実的な意味を獲得するのである。すなわち、どのものも既成の存在として、あらたなる個々の生成のための歴史的な条件として機能する、という意味で、そのものは一切の生成する事物の中に内在している。しかしながら、将来の生成が如何なるものであるかは、既成の過去の存在によって制約されはしても、決定されているわけではない。その意味での未来の開放性は、歴史的世界の存立のための不可欠の条件である。

しかしながら、過去の既定性と未来の開放性がそこに於いてある現在の活動そのものは、歴史のただ中にあって歴史を越えるものに直結している。現在は、過去とは違って未来の生成のための条件なのではなく、それ自身が常に完結し、充実した活動である。それは、我々自身の自己と切り離された対象的事物の生成変化ではなく、一切の対象的事物の変化が、そこにおいて語られる場所である。このような活動そのものを、対象的事物の単なる生成変化から区別して、「現成」と呼ぶことにしよう。

この語は、日本仏教の中で独自の時間論を展開した道元の用いたキーワードでもあった。道元の《正法眼蔵》の要語索引によれば、『現成』は単に『現成公案』の巻だけでなく、全体にわたって実に二六二箇所にわたる用例があり、すべてが絶対に肯定的意味で使用されている。これに対して、『無』はたかだか三〇の用例を、『空』は虚空という日常的な意味を含めても五一の用例を数えるのみで、それらは肯定的な文脈で使用されることもあれば、『無にあらず、有にあらず』『空を破し有を破す』というごとく否定的な文脈でも使用されている。これは、道元にとっては、有と無との相対的対立を越えるものを指す根源語は『(絶対)無』や『(真)空』ではなくて、寧ろ『現成』であったことを示唆している。

「現成」がたんなる対象的事物の「生成」から区別される点は、それが時間に於いて生じる出来事ではなくて、時間そのものを可能ならしめる出来事であるということである。しかし、それは単なる「有」と「無」という二つの相反する範疇を統合する「生成」の現実態であるがゆえに、「現成」を「有」というも「無」というも、ともに一面的な抽象となる。

かかる意味での「現成」においては、無限に生成と消滅を繰り返す直線的な時間的限定そのものが、その都度の「今此処」において統合され、現実化される。その意味で、世界の自然に於ける「生成の如何に」は、かかる円環的な生成にほかならぬ「現成」によって、一切の潜在性をもたぬ完全現実態となる。その意味ではそれぞれの「今―此処」は完結しており、その都度、歴史に一つの区切りをつける非連続性であるが、このような区切りが入ること、そのことによって、過去は破棄されるわけではなく、反復・継承というかたちで復活する。すなわち、歴史的世界に於ける直線的なる限定そのものが、「現成」という円環的限定によって可能となるのである。

「生死即涅槃」あるいは「恩寵は自然を破棄せずに、却ってこれを完成させる」ということは、仏教的に言うならば「生死」の世界、すなわち生成と消滅によって特徴付けられる世界、キリスト教的に言うならば、福音のめぐみに与る以前の自然的世界を、実在性を欠いた単なる仮象として破棄しないということである。そのような世界の「自然」というあり方が、世界の内部において自己充足するものではなく、「神の自然」によって根拠付けられており、それによって可能となるものであること――それことは、まさに時間の中において生きている我々の直接経験から、すなわち「真理がそこに住まう内なる人」に還り(アウグスチヌス)、自己そのものの現成に他ならぬ時間性に徹底することによって知られるべき事柄であろう。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする