歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

正月の俳句

2025-01-04 | 俳句航海日誌

      正月の俳句

去年暮れより妻共々にインフルエンザに罹患して

  九度八分躰震はす寝正月

  有難き梅干し粥の二日かな

  三日には病床で聴くレクイエム

  妻も倒れ炊事洗濯、四日なり

病床で「福音歳時記」書き続くーいささか物狂ひめきて

  使命あるものの如くや初仕事

  一碗の底にイエスの息吹く春

(写真は3年前に陶芸家の椿巌三さんから頂戴した茶碗です)

 

 

  

  

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福音歳時記 エジプトの聖母子

2025-01-04 | 福音歳時記

福音歳時記  エジプトの聖母子

 

 難民となりし聖母子エジプトに憩わず目指す夢の父祖の地

 

「主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしは告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探しだして殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしはエジプトから私の子を呼び出した」と、主が預言者を通じて言われていたことが実現するためであった。」(マタイによる福音書2:13-15)

 エジプトはギリシャやローマ帝国よりも遙か昔から存在した豊かな文明国。創世記にはファラオの夢を解いたヨセフの物語があり、出エジプト記には、自由を目指すユダヤ人同胞を叱咤激励して約束の地に向かうモーゼの物語がある。マタイは、預言者ホセアの言葉を引用し、イエスが「新しいイスラエル」として神に呼び出されていること、彼こそが約束されたメシアであることを暗示している。

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福音歳時記 岩窟の聖母

2025-01-03 | 福音歳時記
福音歳時記 岩窟の聖母
 
   洗礼者ヨハネ聖母に寄り添ひて十字架の悲を分つ岩窟
 
西欧の聖画には、聖母マリアと幼児の姿で描かれた洗礼者ヨハネとイエスを共に描いたものが多い。レオナルドダヴィンチの岩窟の聖母はその代表的なものの一つであるが、彼はこの主題で二つの作品を残している。ルーブルにある作品は、全体的に明るい印象を与えるが、ロンドンにあるものは、洗礼者ヨハネの持つ十字架と聖母の衣装の悲しみの青色が特徴的である。ロンドンのナショナルギャラリーにある方が後から書かれた作品であるらしい。私はこのロンドン版の方に惹かれた。洗礼者ヨハネも聖母マリアも十字架の悲愛を分有しているからである。
 
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福音歳時記  東方三博士の礼拝

2025-01-02 | 福音歳時記
福音歳時記  東方三博士の礼拝
 
キリストは何処にいます 今此処に汝の言葉のうちにこそ
 
「イエスがヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムにお生まれになったとき、東方の博士たちがエルサレムに来て「お生まれになったユダヤ人の王はどこにおられますか。私たちはそのしるしの星がのぼるのを見て、拝みに来ました」(マタイによる福音書2:2-3)
 
ここに言う「博士たち(マーゴイ)」とは、占星術や医術の博士ととるのが一般的であるが、ラテン教会の公現節の典礼では、古くから彼等を「王」と呼んでいるので、西欧の古典絵画の中では「三王礼拝図」とも呼ばれる。
 詩編71-10に「王たちの贈り物」の様子が描かれ、イザヤ60:3-4に「主の栄光が現れるとき、王たちがそのもとに歩み寄る」と書かれている預言の成就とみる伝承に従ったと思われる。
 ニコラス・クザーヌスは公現節の講話で、この「何処に居ます?」という言葉を引用して、「此処こそがイエス("Ubi" est Jesus)」と答えている。
2000年前のベツレヘムに生まれた「ユダヤの王」の在所への問いとしてではなく、今此処、そして何処に於いてもキリストを信じる者は、「イエス・キリストに於いて(in Christ)」言葉を語るという意味であろう。
 
 
 
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福音歳時記 一月一日 イエスの奉献の日 

2025-01-01 | 福音歳時記

一月一日 イエスの奉献の日

   嬰児抱くシメオン賛歌あらたしき年始まりぬ主の奉献日

キリスト教歳時記では、降誕の日から八日後は「イエスの奉献」の日である。昔のローマ教会では、この日をクリスマスの期間の最後として「オクターブ」の典礼を行っていた。16世紀以降この日を西暦の新年のはじめの日とするようになったらしい。「初めて生まれた男子は皆、主のために聖別される」という律法に従い、山鳩ひとつがいか家鳩の雛二羽をもって、ヨゼフとマリアはイエスを奉献するために神殿に連れて行った。そこで彼等は、聖霊に導かれたシメオンという老人に出会い、賛美と祝福、そして預言のことばを受ける。ルカによる福音書2:29-35 の「シメオンの賛歌と預言」は、カトリック教会では5世紀頃から「終課」のなかで朗唱され、日本の「教会の祈り」でも「寝る前の祈り」のなかで唱えられている。また、「ロザリオの黙想」の信心行、「喜びの神秘の黙想」の第4番目の主題の一つでもある。

シメオンの賛歌
「主よ、今こそあなたは、お言葉の通り、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えて下さった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルのほまれです。
シメオンの預言
「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。ーあなた自身も剣で心を刺し貫かれますー多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

(『キリストの神殿奉献』シモン・ヴーエ ルーブル美術館蔵、1640-1641年頃の作では、聖母マリアとヨセフにシメオン老人が賛歌と預言の言葉を告げているところが描かれている)

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