歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

武士道とキリスト教 2

2007-01-31 |  宗教 Religion

 近代のキリスト教は、国民の統合の象徴としての「聖なる国王」の物語を否定するという側面をもっている。明治時代の天皇制は、当時のヨーロッパに残存していた帝政の模倣であったが、「天皇は神聖に侵すべからず」とするそのイデオロギーもまた、近代化の激動と混乱を乗り切るために持ち出された嘗ての西欧の絶対王政のイデオロギー-王権神授説―を思わせる。たとえば、英国のジェームズ王が一六一〇年に議会で行った演説を引用しよう。

地上に於いて君主国家は最も尊いものである。なんとなれば国王というものは単に神の代理人として玉座に座しているだけではない。神 (God)御自身によって国王は神々(gods) と呼ばれているのである。国王は地上に於いてまさに神の権力に類似するやり方で力を行使するが故に神々と呼ばれているのである。もし汝等が神の属性を考察するならば、それが国王の人格といかに一致するものであるかが解るであろう。[i]

God自身によって、国王はgodsと呼ばれ」「国王は神の代理人である」というイデオロギーこそイギリスの王室と教会を結びつけたものであり、キリスト教的に潤色された王権神授説にほかならぬが、こういう考え方こそ、国王を処刑し市民革命を推進したイギリスの急進的なキリスト教徒によって否定されたものであった。新渡戸が蔑視した「アングロ・サクソン的」キリスト教には、こういう君主制とキリスト教との安易な結合を全面的に否定するものが含まれていた。一七世紀の民主主義革命を市民自ら遂行したイギリスには、キリスト教の名において王権神授説的な復古主義と戦うキリスト教の精神があった。その精神は、チャールズ国王を民衆が裁判に掛けて処刑したことの正当性を主張したジョン・ミルトンのピューリタニズムにとどまらない。王政復古をへて名誉革命を経験したイギリスの穏健なる民主主義思想の範型となったジョン・ロックの政治論もまた、ロバート・フィルマーの「家長論」を聖書を典拠として駁論することから始まっていることを想起すればよいであろう。 

不幸にして、近代化の道を歩み始めた日本においては、英国とは違って、王権神授説的なる古代的イデオロギーが正統派の見解であって、それは敗戦を経験するまで圧倒的な支配力を民衆の間にふるったのである。その基本的な政治的・宗教的枠組みを新渡戸が肯定したということは、日本に於けるキリスト教を、武士道という幹に接木するという彼の思想―すなわち日本という「旧約」を土台として、キリスト教を土着化させるという『武士道』の思想―に対して基本的なる問題を投げかけている。すなわち、人々の武士道的「忠誠心」を天皇に向けさせた軍国主義・帝国主義のイデオロギーに対して、はっきりと「否」といえるような精神が、残念ながら、新渡戸の『武士道』からは生まれなかったということ、従って、そのような武士道は、依然としてキリスト教以前の「古き契約」のもとにとどまっていたのではなかったか、という問題である。

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武士道とキリスト教 3

2007-01-30 |  宗教 Religion

一 新渡戸と尊皇の思想

 新渡戸稲造は幕末に武士として生まれたのであって、教育勅語以後の明治政府の教育システムの中で天皇崇拝をたたきこまれた世代には属していない。従って彼の天皇にたいする限りなき敬意はより内発的なものであったとみなすべきいくつかの理由がある。 

 佐藤全弘氏は「新渡戸稲造の皇室観」という論文において、一八七六年に行われた天皇の東北巡幸が新渡戸の生涯に深刻な影響を及ぼしたことを指摘している。天皇は青森県三本木の新渡戸家を仮行在所とした。そのとき明治天皇は、新渡戸家の祖父や父が十和田湖の水を荒地であった三本木原に引き三千石の美田を拓いたことを讃え、「今後とも一族が農に励むように」と述べた。それは稲造にも伝えられ、彼はこの言葉に奮起して、農業に方向転換して、彼が札幌農学校へ進路変更する機縁となったという。そして、天皇の御下賜金の一部は東京で勉学中の新渡戸に送られ、彼はそれによって英文聖書を購入したという。つまり、新渡戸にとって、明治天皇と自分の一族との出会いが生涯の転機を形作り、彼自身の職業選択と宗教信仰の形成に大きな影響を与えたということである。新渡戸が『武士道』を執筆した動機は、もともとは、外国の友人や妻に日本文化と封建時代の日本人の道徳について説明したいというもっぱら個人的なものであったが、日露戦争に於ける日本の勝利とともに諸外国で日本にたいする関心がたかまるにつれて、この書が様々な言語に翻訳されるようになると、明治政府にとっても、そのキリスト教的な含意は除外して、日本古来の武士道精神を諸外国に伝えるものとして評価されるようになる。こうして、一九〇五年には新渡戸は妻とともに明治天皇に拝謁し、英文『武士道』を直接に献上する。いわゆる「天覧の栄」に浴したわけであるが、そのときの上書が三年後に邦訳された『武士道』の巻頭に載っている。つまり、武士道は、単に、外国人に古来の日本人の倫理を紹介するものとしてではなく、まさに同時代の日本人の教育のためにも役立つ書として再認識されたのである。新渡戸は、教育勅語に呼応するかに思われる古色蒼然たる文体で、次のように書いている。

上英文武士道論書

  伏して惟るに

皇祖基を肇め

列聖緒を継ぎ、洪業四表に光り、皇沢蒼生に遍く、声教の施す所、徳化の及ぶ所、

武士道茲に興り、鴻を輔けて、国風を宣揚し、衆庶をして忠君愛国の徳に帰<o:p></o:p>

せしむ。(中略、このあと、新渡戸家の盛岡藩での治水事業のことが書かれる) 

聖上東北を巡狩し、三本木駅にて、畏くも稲造の居宅を仮行在所に充て給ひ、爾時父祖の追賞を蒙り、子孫国事に奉ずべしとの聖諭を拝せり。稲造等一族感泣く措く所を知らず、各身を殖産の道に立て、父祖の遺志をつぎて、皇恩に報い奉らんことを誓へり。(中略、次に稲造のこれまでの経歴が書かれる)

稲造短才薄識、加ふるに病笶、宿志未だ為すところあらず、上は

聖恩に背き、下は父祖に愧づ。唯僅に卑見を述べて此書を作る。庶幾くは

皇祖皇宗の遺訓と、武士道の精神とを外邦に伝へ、以て国恩の万一に報い

  奉らんことを。謹んで此書を上り、乙夜の覧を仰ぎ奉る      

                           誠頓首明治三八年四月>

京都帝国大学法科大学教授従五位勲六等農学博士 新渡戸稲造 再拝白

  このような上書は、当時の格式に従ったものとはいえ、武士道が、新渡戸の著作自体にはなかった「皇祖皇宗の遺訓」と併置され、「以て国恩の万一に報いる」ために書かれたかのように思わせる。実際、新渡戸自身は、著作の中では武士道を遠い過去の道徳として語りながらも、「天覧の栄」に浴するようになると、教育勅語に呼応しつつ、国民の忠誠心を天皇に向ける「尊皇」思想のうちに、中世の武士道精神の繼承を見いだしているのである。この点、札幌農学校の同窓であった内村鑑三が、新渡戸と同じく武士道に共感を寄せつつも、尊皇思想とは一線を画し、日本への愛国心を直ちに天皇崇拝と結びつけなかったこと、いうなれば彼等の愛国心の質の違いに留意すべきであろう。

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武士道とキリスト教 4

2007-01-29 |  宗教 Religion

二 武士道という「旧約」

 内村鑑三の自伝「余は如何にして基督者となりしか」に、札幌農学校に入学してすぐに「イエスを信じるものの契約」に署名したころの記述がある。 今日の我々にとっていささか不思議に思われるのは、キリスト教については殆ど何も知らなかった少年達が、なぜかくも短期間に「イエスを信じるものの契約」に署名し、その後、受洗して信者となっただけでなく、伝道者となったのは何故かということである。この「新しき契約」は、「少年よ大志を抱け」という言葉を残して帰米したクラークの起草したものであったが、それは次のような文で始まる「契約」であった。

以下に署名する札幌農学校の学徒は、キリストの命に従い、彼への信仰を宣言し、キリスト者のすべての義務を至誠を以て果たすことを願う。それは、十字架の死を以て我等の罪を贖われた尊き救主にたいする我等の愛と感謝を表すためである。我等はまた、キリストの王国を人々の間に推進し、キリストが代わりに死に給ふた人々の救済を促進するために、今より以後、神とともに、また我等相互に、厳粛なる契約を結ぶ。我等はキリストの忠実な弟子となり、その教えの文字と精神に厳格に従って生活し、適切な機会が与えられるときはいつでも、試問と洗礼を受けて福音教会に入ることを約束する。

 このあと、キリスト教の基本的教理と、モーゼの十戒に対する信仰が宣言されているが、内村がこれに署名したのは、上級生に強制されたからであって、決して自発的な意志ないし、内的な欲求によってではなかったと、内村が回顧しているところが面白い。内村は決して好きこのんでキリスト教徒になったのではなかったのである。この「イエスを信じるものの契約」に署名したとき、内村は、まだ一六歳であり、新渡戸はさらに年少であった。彼等は、言うなれば、札幌農学校の「恩師」クラークに敬意を払うべしという上級生達の圧力に屈したのであるが、それだけでなく、当時の札幌農学校の学生達の間には、西洋文明の実用的な結果だけではなく、その根底を成す精神に他ならぬキリスト教をこれから学ぶべきであるという思いが有ったものと思われる。

 もっとも、札幌農学校の内村の同期生はすべてこの文書に署名させられたとはいえ、実際に洗礼を受けてキリスト者になったのは一部であった。つまり署名は単なる入学時の通過儀礼という側面もあったのであろう。しかし、内村にとっては、この文書に署名したと云うことは決定的な意味を持っていた。彼は、一八歳で洗礼を受けたのであるが、そのときに次のような言葉を日記に記している。

ルビコン川はこうして永久に渡られた。われわれは新しい主人たるキリストに忠誠を誓い、われわれのひたいには十字架のしるしが刻まれた。いざこの後は、地上の主君のために教えられてきた忠誠の念を以てキリストに仕え、王国また王国と征服しながら進んでいこう。  
   地のいやはてに住む民もメシアの聖名を学ぶまで
ひとたび回心して信者となったわれわれは、こうしてさらに伝道者となったのである。しかしそのためにはまず何よりも教会を作らねばならぬ。

この日記を書いている内村にとって、受洗は自らの決断である。彼は、自己の私的願望に従う信仰ではなく、私心を離れて、世のため人のために、キリストを新しき「主」として、その忠誠の対象とすると生き方を自ら選択したのである。つまり、内村の場合は、キリスト教徒になるということは、キリストと主従関係の契約を結ぶことであったといってよいだろう。それは文字どおり新しい契約であったのであるが、注目すべき事は、新渡戸にせよ内村にせよ、自分たちは、キリスト者になる以前に、天地の創造主である「主」と、旧き契約をむすんでいたと考えていたことである。そのように考えることがいかにして可能となったのか。それを次に考察しよう。

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武士道とキリスト教 5

2007-01-28 |  宗教 Religion

内村鑑三の英文著作「代表的日本人」の西郷隆盛の章に、次のようなくだりがある。

西郷を討った側の者もみなその死を悼んだ。涙ながらに彼の遺体は埋葬され、今日に至るまで涙にくれて墓参する人はあとを絶たない。かくして最も偉大なる人物、おそらくは「最後のサムライ」(the last of the samurai) ともいうべき人物がこの世から姿を消したのである。

 何故、基督者の内村鑑三が「最も偉大で、おそらくは最後のサムライ」として西郷隆盛を論じたのか、それは説明を要する。西郷の言葉と行動のうちには、内村の心に深く訴えかけるものが有ったに違いない。 「代表的日本人」は英語で書かれたが、西郷の人生観を要約する言葉―「敬天愛人」―と西郷の詩文を内村はいくつか翻訳して引用している。

「天は人も我も同一に愛し給ふが故に、我を愛する心を以て人を愛するなり」(Heaven loveth all men alikeso we must love others with the love with which we love ourselves.)という西郷の言葉には、律法と預言者の思想が込められており、西郷がそのような壮大な教えをどこから得たのか興味深いところである。

内村は、西洋の宣教師によってキリスト教が明治の日本に伝えられる遙か以前から、万物の創造主である神が、日本人にそのこころをつたえなかった訳ではないと考える。言うなれば、神は、ユダヤ人に対してのみ「旧き契約」を結ばれただけでなく、世界の諸民族に対しても、その伝統と文化に応じた形で、その天意を伝え、キリストの教えにたいする準備をされていたはずである。 内村は、福音書のイエスの言葉に呼応する言葉が、西郷の遺文にあるのを見出す。それは、「天にいます主」によって直接に、「代表的日本人」の一人である西郷に伝えられたに違いないーつまり内村は、言うなれば匿名のキリスト者として、西郷を描いているのである。
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武士道とキリスト教 6

2007-01-27 |  宗教 Religion

封建道徳という時代の制約の下にありながらも、その道徳(旧き契約)を突きぬけるような死生観が西郷の言葉と実践の中にある。それは「最も偉大なる、おそらくは最後のサムライ」の死として過去のものになったとはいえ、完全に姿を消したわけではない。それは、基督者である内村自身の中に、明治という新しい時代の日本の基督者としての内村自身の中にも、その「最後のサムライ」の精神が、かたちを新たにして生きているーそういう印象を受ける。

 内村が引用している西郷の詩文に次のようなものがある。(内村の英訳を付する)  

一貫唯唯諾す         Only one way, "Yea and Nay";  
従来鉄石の肝         Heart ever of steel and iron.  
貧居傑士を生じ        Poverty makes great men;  
勲業多難に顕わる                   Deeds are born in distress,  
雪に耐えて梅花麗しく      Through snow, plums are white,  
霜を経て楓葉丹し        Through frosts, maples are red;  
もしよく天意を識らば      If but Heaven's will be known,  
あに敢えて自ら安きを謀らん   Who shall seek slothful ease!  
地古く、山高く        Land high, reccesses deep  
夜よりも静かなり       Quietness is that of night
人語を聞かず         I hear not human voice,
ただ天を看るのみ       But look only at the skies

 この詩文の最後の二節は、その前の詩文の、「もしよく天意を識らば、あに敢えて自ら安きを謀らん」と呼応している。それは、単に山に籠もって自然に親しむと云うだけでなく、世俗の人の声を離れて、唯天を仰いで、神の声を聞くという意味に、内村は解釈していたと思う。それは、この著作を書いた当時の内村自身の心境でもあったろう。

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武士道とキリスト教 7

2007-01-26 |  宗教 Religion

 このように、新渡戸稲造の「武士道」よりも先に出版された「代表的日本人」には、武士道のなかに「旧き契約」をみいだすという新渡戸と共通する発想がみられるが、内村は、旧き契約として考えていたものは、武士道だけではない。そこには、新日本を建設した「最後のサムライ」だけでなく、封建領主として上杉鷹山、農民聖者としての二宮尊徳、村の教師としての中江藤樹、仏僧の日蓮が論ぜられているからである。武士道を含みつつも、それよりもさらに広い視野から日本人の精神的遺産を自覚しようと云う姿勢がみられる。これらについて今は詳論する余裕がないが、西郷隆盛と同じく陽明学の影響を強く受けた中江藤樹に関する章で、内村が謙譲の美徳について語っている点は注目に値する。内村は次のように云う。 

何ものも懼れずに独立不羈の人であった藤樹の倫理体系の中で、何よりも注目すべきは、彼が「謙譲の徳(the virtue of humility)」を最高位に置いたことである。藤樹にとって謙譲の徳とはすべての源となる根源的な徳であり、謙譲の徳がない人間ならば、すべてを欠いているのとおなじであった。「學者はまず慢心を捨てて、謙譲の徳を求めないならば、どれほど学識や才能があっても、凡庸な迷妄を越え出る資格がないのである」「充実は損失を招き、謙遜は天の法である。謙譲は虚である(Humility is emptiness)。心が虚であるならば、善悪の判断は自ずから生じる」。藤樹は、虚という言葉の意味を説明して、次のように述べる。「昔より真理を求めるものは、この言葉につまずく。霊的(spritual)なるがゆえに虚(empty)であり、虚であるがゆえに霊的である。このことを良く考えよ。

 キリスト教倫理をギリシャ的な倫理から分かつものは、謙譲の美徳に他ならない。アリストテレス的な中庸の美徳では、謙譲は傲慢と同じく極端であって、決して美徳とはされない。それがキリスト教倫理で美徳とされるのは、イエス自身の「ケノーシス」(虚しくすること)の行為に倣うがゆえにである。この美徳を中江藤樹の思想の中に見出した内村は、、単なる武士道の倫理よりも更に一層キリスト教倫理に近づいたものを、日本人の精神文化の内に見出したといって良かろう。内村が、藤樹の和歌を、次のようにキリスト教的に翻訳している。

上もなくまた外もなき道のために

身をすつるこそ身を思ふなれ

He loves  his life forsakes

For Ways that no like or higher know

「代表的日本人」は、内村自身にとっては過渡期の著作である。それは彼が聖書に基づいて非戦論唱える前に書かれたものであり、内村自身によれば「キリスト者としての私がその上に接ぎ木されたところの台木を示している」と位置づけられた。しかしながら、内村は同意に次の言葉を付け加えることを忘れてはいない。

日蓮、法然、蓮如その他の敬虔な尊敬されるべき人々がすでに私の先輩であり、宗教の本質を私に教えてくれたのである。藤樹らがわが国の教師であり、鷹山らが藩主、尊徳らが篤農家、西郷らが政治家であったのは、私をして、かつてーナザレの神の人の足もとにひれ伏すべく召し出される前に私があった通りのものにするためである。

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武士道とキリスト教 8

2007-01-25 |  宗教 Religion

三 晩年の新渡戸と日本の軍国主義

 新渡戸稲造の晩年におきた松山事件の経緯をたどることは戦時に於ける軍国主義批判が当時の日本においていかに取り扱われたかを知る上で興味深い。満州事変以後、政府の不拡大方針の声明にも関わらず日本は軍部の独走によって泥沼のごとき戦争に深入りしていった。この暗黒の歴史のただ中において為された新渡戸の発言は、現代ならばきわめて正鵠を得たものとして 評価される種類のものである。「我が国を滅ぼすのは共産党と軍閥である。そのどちらが怖いかと問われたら、今では軍閥と答えねばならない」というのが新渡戸の真意であったが、それは、文字通りその後の歴史の歩みを先取りしているからである。この警世の発言は、残念ながら、当時の超国家主義の世論のまえでは、新渡戸の不用意な「放言」として処理された。狂信的な右翼によって生命の危険を感じた新渡戸が、帝国在郷軍人会で陳謝するというかたちで決着がはかられたそのいきさつは、現在に至るまで改められているとは言い難い日本の「斉一主義」の思想的圧力を思わせるものである。

 しかしながら、後世のものにとっていささか不可解なのは、新渡戸が、この松山事件の後に私人として渡米し、米国で日本の外交政策の正当性を弁明する発言をしていることである。なぜ、新渡戸は、対日感情が最悪であった時期のアメリカに出かけたのか。そして、そこで、なぜ、満州国の建設が日本にとって必要であったことを訴えるなど、日本の帝国主義を擁護するような発言をあえて行ったのであろうか。その結果、彼は米国に於ける多くの友人達の信頼を裏切ることになるのであるが、この矛盾に満ちた言動を理解するひとつの鍵が、新渡戸が編集余録に託した次のような告白にある。>

私の訪ねるべき国(アメリカ)は、全く暗黒と見えた。私はいわば目をこらして、私を導き慰めるべき光りを探した。一条の光線も見つからないので、私の心はうち沈み、その任務を放棄したい気になった。そのとき、一つの声が私のうちで叫んだのだ――行け、汝のうちなる光りをたよりに。私は大いに勇気づけられた思いがした。というのも、私の心中、利欲や野心はひとかけらも宿してはいなかったからだ。

 米国において日本の立場を弁明することがいかに困難であっても、それが自己の義務であると考えたことが上の記事から伺える。新渡戸の米国での弁明にたいして、「新渡戸稲造博士にたいする公開状」と題する記事を出したR・ビュエルは「あなたほどの経歴の持ち主がこのようなことを自分の意見として述べるとはまことに情けない」とのべ「現在の日本の政体を考えた場合、あなたが沈黙してしまうというなら我々は理解できるが、まるで無批判に日本の軍国主義を弁護するという態度は理解できない」と批判した。

 たしかに、個人の良心を国家の要請よりも重んじる欧米の個人主義の視点からすれば、なぜ新渡戸が日本帝国の政策の弁護をあえて米国で行おうとするのか、理解しがたい事であったろう。しかしながら、新渡戸は「内なる光」が、米国に行くことを彼に命じたと言っている。

 この「内なる光」とはいったい何を意味したのか、それは、もともとクエーカーの用語であったが、この文脈では新渡戸の考えた「日本人の魂」に内在する光、すなわち帝国臣民として武士道を説いた新渡戸の歩むべき道を照らし出す光を意味すると見て良いだろう。米国で日本のために弁護するという誰も望まぬような困難な役割を引き受けることが、天皇に仕える一臣民としての自己の義務であると考えたことが新渡戸を渡米させた最大の理由のように思われる。それは、日本の国内だけで通用するような偏狭なる愛国心の宣揚のために謝罪を迫った在郷軍人会にたいする新渡戸流の答えでもあったのかもしれない。しかしながら、そのような新渡戸の苦渋に満ちた選択は結局実を結ぶことなく、彼は、失意のうちに帰国を余儀なくされる。その直後に、日本は国際連盟を脱退を通告し、世論もまた、急速に超国家主義へと傾斜していく。渡米の結果を昭和天皇に報告した一週間後の太平洋クラブでの昼食会で、新渡戸は、国際連盟を離脱した政府の外交政策を基本的には支持しつつも、「連盟が世界の将来の福祉にとって最大の希望である」という彼の信念を吐露している。そして、この信念とは矛盾する政府の諸政策を、帝国の一臣民として国外に対して支持し続けるという甚だしき矛盾をついに解決することなく、彼は米国で客死したのであった。

 新渡戸にとって、クエーカーの言う「内なる光」の日本民族に於ける現れは、日本人の魂に内在し、その倫理的な行動に指針を与える武士道の精神であった。新渡戸は『武士道』の序文の中で、そういう趣旨のことを個人的な信念として示唆しているが、各民族が、キリスト教が伝道される以前に、その民族固有の「旧約」をもつという思想そのものは、決して特異なものではない。問題は、そのいわゆる各民族の「旧約」から「新約」への「転換」がいかにとらえられるかということである。ヘレニズム時代のギリシャやローマも、またキリスト教を受け入れたゲルマン民族も、それぞれの民族の宗教的伝統とキリスト教との関係の問題を考慮しないわけにはいかなかった。カトリックのキリスト教には、「恩寵は自然を破棄せずにかえってこれを完成させる」という有名な定式がある。これはキリスト教伝道以前の「自然なる立場」において為された倫理的かつ文化的な伝統を全面的に否定することなく、これをキリスト教を準備するものとして再解釈する道を示している。新渡戸の思想は、クエーカーの「内なる光」という考えから影響されたものであるが、それは、キリストによって与えられた神の恩寵は、遡及的にキリスト以前のキリストを知らぬ民族の間にも、それと自覚されることなく働いたという神学思想(retroactive grace)に立脚しているように見える。歴史的にあとからくるものが先立つものに影響を及ぼすという恩寵の働きとは、古き道徳が本来言わねばならなかったことが何であったかがキリスト教の福音に接して、はじめてよく了解されると言うキリスト者自身の経験に基づくものであろう。歴史をいまだ完成されざる絵画にたとえるならば、新しく付け加えられた色調が、画の図柄そのものを一変させてしまうことは十分に起こり得る。したがって、武士道という古き物語の描かれた画が、キリスト教の宣教に接することによって、その面目を一新するということを新渡戸が期待したことには決して不自然ではない。 

しかしながら、武士道からキリスト教の福音への転換とは、単に古きものの価値を新しきものにおいて再発見すると言うだけではない。もともと旧約から新約への転換とは、民族ないし国家は個人の忠誠の捧げられるべき究極的な対象ではなく、それを乗り越えて、異邦人もユダヤ人も差別することなく神のまえに平等であるという立場に立脚するものであった。キリスト教とは、その意味では「普遍の信仰」なのであって、その「普遍」は、民族や国家という「種的な特殊性」を媒介とするものではあっても、それを越えて人類の立場に立つことを要求するものである。この世界宗教は、第一義的には「個人」と「普遍」との間に成立する。天皇に忠誠を誓う武士道という「古き契約」は、あくまでも「種的特殊」にほかならぬ立場を絶対視するものである以上、それに固執することは、キリスト教の見地からすれば偶像崇拝なのである。

 宗教において、普遍と個を枢軸として考えるか(世界宗教)、あるいは、種的存在、すなわち民族や国家のような共同体を枢軸として考えるかという問題は、新渡戸稲造と同時代の哲学者であった西田幾多郎と田辺元との間の論争点の一つでもあった。新渡戸の場合には、これは哲学の思索の問題としてではなく、むしろ実践上の困難な課題であったと言えよう。 

 キリスト教信仰を通して米国人の女性を妻とし、外交官として、日本と米国の間に「太平洋の橋」を築かんとしたこと-これは新渡戸の生涯の中に、家族や民族という「種的特殊」を越える普遍的なるものの促しがあったことを示している。『武士道』は英語で書かれた書物であるが、日本の文化について英語で書くという作業もまた、そのような普遍的な視座を要求したものと思われる。しかしながら、次第に国家主義へと傾斜した日本の歴史自体が、そのような自由な立場から「太平洋の架け橋」となることを新渡戸に許さなかったし、新渡戸自身も又、日本の超国家主義を、キリスト教の普遍的立場から批判することは出来なかった。日本という「旧約」のもつ限界が露呈されるためには、近代日本の挫折に他ならぬ敗戦という事態を待たなければならなかったのである。

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