歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

西田哲学覚書補足

2012-07-20 | 国際学会 8th IWC-Ecosophia 2011

西田幾多郎の宗教学講義(1913年8月 –1914年7月)久松真一ノート
(自覚に於ける直観と反省執筆開始 1913年9月―1917年5月)

(新全集14巻 旧全集15巻)
構成 第一章 序 第2章宗教研究の変遷 第3章 宗教的要求 第4章 宗教の諸形式 第5章 神 第6章 宗教の光における人間 

西田断章ノート2)新全集16巻 William Ralph Inge 1860-1954 キリスト教神秘思想 Christian Mysticism 1899

サンヴィクトルのフーゴー(ca.1096-1141)からの引用
The way to asend God is to descend into oneself 神への上昇の道は、自己自身への下降の道である
To ascend to God is to enter into oneself and to transcend oneself
神へと超越することは自己自身の内へと入り込み、自己自身を超越することである

エリウゲナ J.S.(についての補注
中世思想原典集成6 カロリング・ルネッサンスン 今義博訳 473-631

①    創造して創造されないもの 万物が発出する根源としての神
②    創造されて創造するもの 神の精神に永遠不変に実在する創造的諸原因(原初的諸原因)
③    創造されて創造しないもの 場所と時間的に於いて生成することによって認識されるもので②の結果
④    創造せずして創造されないもの すなわち万物の還帰する終局としての神

①    ⇒②⇒③ 被造物が発出する下降の過程
③    ⇒④ 自然の総合は万物が自らの始源である神を終局目的として還帰する上昇の過程

ペリピュセオンは万物が神から発出して再び神にかんきするという永遠的時間的な宇宙万有の壮大な弁証法的円環運動の哲学的ドラマ
上昇の弁証法:特殊から一般(普遍)への探求のプロセス 総合(統合)
下降の弁証法:最も一般的な類から出発して、この上昇の同じ諸段階を逆の方向に辿って下降しつつ最後に最も特殊なものに至るまで、より特殊なものを順次求める方法を分割(区分)という。

第一巻 すべての物の第一にして最高の分割
第一章     自然の分割: 自然とは存在するものと存在しないものすべての一般的名称
    自然を差異によっていくつかの種に分割する
第二章      すべてのものを存在するものと存在しないものとに分ける最高にして第一の分割
第三章     すべてのものを存在するものと存在しないものとに分ける五つの解釈の仕方
第一の分割の仕方 「万物の存在は存在を越えた神性である」(ディオニシウス)「目に見える被造物であれ目に見えない被造物であれ、それらのものの実体ないし本質存在(essentia)は、それが何かということについては、知性にも理性にも決して把握できない。(ナジアンゾスのグレゴリウス)。
第四章 第二の分割の仕方 存在と非存在の第二の分割 
下位の階層の肯定は上位の階層の否定であり、下位の階層の否定は上位の階層の肯定になる
上位の階層の肯定は下位の階層の否定であり、上位の階層の否定は下位の階層の肯定になる
上位の階層によって、あるいは自分自身によって認識される限りでは存在するが、
自分より下位の階層によって把握されえない限りでは、それは存在しない
第5章 第三の分割の仕方
目に見えるこの世界の豊饒さを作り上げている諸事物と、それらの事物に先立つ諸原因に於ける本性の最も秘められた内奥にとにおいて看取される。潜在と顕現 
第6章 第四の分割の仕方 ただ知性によってのみ捉えられるものだけが真に存在すると云われるのに対し、生成を通して、質料の膨張や縮小により、場所の隔たりと時間の変化で変動したり、結合したり、分解するものは、真には存在しないと云われる。
第7章 第五の分割の仕方 理性が人間本性においてのみ認めるもので、人間本性は本来神の似像の地位に於いて実在していたのであるが、原罪を犯してその地位を放棄したとき、当然の報いとして自分の存在を失い、そのために存在しないと云われる。 

アナリュティケー:私は解く・私は帰る
さまざまな種の分割が分割の始源に還帰する

第3巻第19章

超越的無にかんするエリュゲナの言葉(571-572)

聖なる神学で無という言葉で表現しているものが何であるか
「その言葉で表現されているのは、人間の知性であれ天使の知性であれ、どのような知性にも知られない、神の善性の言い表しがたく、とらえがたく、近づきがたい明るさ。
超存在的で超自然本性的。それはそれ自体において考えられる場合には存在していないし、存在しなかったし、存在しないであろう。というのもそれは、すべてのものを超越しているので、いかなる存在するものに於いても考えられないからである。しかし、存在する者どもへのある云いあらわしがたい下降を通じて、それが精神の眼で見られる場合、ただそれだけが万物に於いて存在しているのが見出され、事実存在しているし、存在したし、存在するであろう。それゆえ、その卓越性のゆえに、それが捉えられないと理解されて居る限りでは、それは無と呼ばれるとしても当然のことであるが、しかし、それがその神現(テオファニア)に現れ始める場合には、いわばそれは無からあるものに発出すると云われ、本来すべての存在を越えて居ると考えられるものが、すべての存在においても独特な仕方で認識されるのである。それゆえ、すべての目に見える被造物も目に見えない秘奥物も、神現、すなわち神の現れと呼ばれる。実際、最高の物から下端のものまで、つまり天上の存在からこの眼にみえる世界の最下端の物体までの自然本性の全秩序は、隠れたものとして理解されればされただけ、神の明るさに近づくと思われる。・・・

事物の序列を下の方に降れば降るほど、それは観想者の眼に益々明らかに現れ、そのため可感的事物の形や姿が「歴然たる神現」という名前を貰っているのである。

 それゆえに万物を越えてると考えられる神の善性は、非存在、絶対的な無と言われるが、しかしそれは全宇宙の存在であり、実体であり、類であり、種であり、量であり、質であり、万物の結合であり、位置であり、所有であり、場所であり、時間であり、能動であり、受動であり、すべての被造物において、すべての被造物について、どんな種類の知性によって考えられるすべてのものであるのだから、万物に於いて存在するし、存在すると云われる。  

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オスカーワイルドの「獄中記」を読む

2012-07-16 |  宗教 Religion

今週末の西田哲学会で「キリスト教と西田哲学」という題で講演をする予定があり、このところ西田が若い頃に出逢ったキリスト教関係の書物を調べているが、たまたまオスカーワイルドの「獄中記」を入手してこれを読み、大いに感ずるところがあった。おそらく神学者や哲学者のキリスト教論などよりも、この本一冊のほうが西田の心を直接に揺るがしたのではないか、そういう内容であったからである。

西田がオスカーワイルドを引用している『善の研究』のテキストは以下のようなものだ。

罪はにくむべき者である、しかし悔い改められたる罪ほど世に美しきものもない。余はここにおいてオスカル・ワイルドの『獄中記』 De Profundis の中の一節を想い起さざるをえない。基督は罪人をば人間の完成に最も近き者として愛した。面白き盗賊をくだくだしい正直者に変ずるのは彼の目的ではなかった。彼はかつて世に知られなかった仕方において罪および苦悩を美しき神聖なる者となした。勿論罪人は悔い改めねばならぬ。しかしこれ彼が為した所のものを完成するのである。希臘人は人は己が過去を変ずることのできないものと考えた、神も過去を変ずる能わずという語もあった。しかし基督は最も普通の罪人もこれを能くし得ることを示した。例の放蕩子息が跪いて泣いた時、かれはその過去の罪悪および苦悩をば生涯において最も美しく神聖なる時となしたのであると基督がいわれるであろうといっている。ワイルドは罪の人であった、故に能く罪の本質を知ったのである。

『善の研究』では、西田最晩年の『場所的論理と宗教的世界観』ほど深刻な悪の問題や原罪にかんする考察はない。しかし、「深き淵」より呼ばわるワイルドの声に耳を傾ける西田は、この小品に深く共鳴したことは間違いない。そのことは、『獄中記』の出版がワイルドの死後5年後の1905年であり、西田が上の文章を書いたのが1909年であったから、当然西田は出版間もない原著でこれを読んだわけであり、その詳細な読書ノートが西田幾多郎全集の第16巻断章2に収録されている。京都大学で行った宗教学講義草稿でも、「ニーチェ、ワイルドの思想は宗教を否定するもののようではあるが、一面より見れば宗教を建てんとするものと見ることが出来る」と、生の理想を美的生活に求めた思想家としてワイルドをニーチェと共に論じている。また「善の研究」の第4篇宗教論の末尾にこのワイルドの文があることからみて、西田がいかにこの文に共感を覚えていたかが偲ばれる。 

 このたびDe profundis を読んでみて、さらにこれまでの西田にかんする先行研究で指摘されていなかったと思われるテキストを見出した。それは「悲哀」(sorrow)にかんするワイルドの述懐である。彼はスキャンダラスな罪によって投獄されてから三ヶ月後、母親の死を、病をおして駆けつけた妻から聞かせられる。その折の彼の言葉。(日本語訳は角川文庫の田部重治による)

 繁栄、快楽及び成功は、いずれも肌理のあらい、繊維のような月並みなものであろう。しかし悲哀はありとあらゆる創造物の中で、もっとも感受性の鋭いものである。・・・悲哀は愛以外のいかなる手が触れても血を吐く痛手であり、また、愛の手が触れるときでさえ、痛みこそしないものの、同じように血を噴くものである。悲哀のあるところには聖地がある。いつか人々はこの意味を身に沁みて悟ることであろう。それを悟らない限り、人生については全く何事も知ることが出来ない。・・・
 喜びと笑いとの背後には、粗野な冷淡な、しかも無神経な気質が潜んでいるかもしれない。しかし悲哀の背後にはいつも悲哀がある。苦痛は快楽と違って、仮面を被ることはない。藝術に於ける真とは実質的な観念と偶然的な存在との一致ではない。形が影に似るようなものでもなければ水晶に映った形が、形そのものに似るということでもない。また窪める丘からこだまする山彦でもなければ、月を月に、ナーシサスをナーシサスに映してみせる谷間の銀色の泉でもない。藝術に於ける真とは、物がそれ自体と一致していることを云う。つまり外面が内面を表現するようにされることであり、魂が肉の形をとることであり、肉体が精神に溢れていることである。(Truth in art is the unity of a thing with itself: the outward rendered expressive of the inward: the soul made incarnate; the body instinct with spirit)。そうした理由で、悲哀に匹敵する真理はない。私には悲哀が唯一の真理であると見えるときがある。他のものは、眼あるいは嗜好の幻で、それは目をくらまし、嗜好を満たすようにされているかも知れない。しかし、悲哀から数々の世界は作られた。子供が生まれるにも、星が生じるにも、そこには苦痛がある。

私はこのワイルドの驚くほどの洞察に満ちた文を読み、はじめて西田が「哲學の動機は驚きではなくして深い人生の悲哀でなければならない」と述べたことの意味を理解したのである。その悲哀はただちにワイルドのイエス論、すなわち「悲哀の人にして悩みを知る人 a man of sorrows and aquainted with grief」としての キリスト論につながっているのである。

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