歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

臨床の哲学と復生の文学ー岩下壮一・北條民雄・東條耿一のことば

2021-09-14 |  文学 Literature
AHOのZoom読書会で、「臨床の哲学と復生の文学ー岩下壮一・北條民雄・東條耿一の言葉」というテーマで講演しました。
 
https://youtu.be/l9OV9lVmFQs
 
「ある患者の死」(「聲」昭和六年四月号:『信仰の遺産』岩波文庫版 459-467頁所収)

•    二月中旬のある土曜日の夜のことであった。…けたたましくドアをノックする者がある。「××さんが臨終だそうです!」かん高い声が叫んだ。それはその朝、病室まで御聖体を運んで行って授けた患者の名前であった。その夕見舞いに行った時は、実に苦しそうだった。病気が喉へきて気管が狭くなった結果、呼吸が十分できなくなっていた。…表部屋から入ってストーブの燃え残りの火と聖燭のうすくゆらぐ聖堂を抜け、廊下を曲折して漸く病室に辿り着いた時には、女の患者達は皆××さんの床の周囲に集まってお祈りをしていた。…人間の言葉がこの苦しみに対して何の力も無いのを観ずるのは、慰める者にとってつらいことであった。私は天主様の力に縋る外はなかった。望みならば、臨終の御聖体を授けてあげようと云ってみた。しかしその時もはや水さえ禄に病人の喉を通りかねる状態になってしまったのであった。…

•     二ヶ月ほど前、全生病院でみた、咽喉切開の手術をした患者の面影が、まざまざと脳裏に浮かんでくる。どんな重症患者でも平気で正視し得る自分が、あの咽喉の切開口に金属製の枠をはめこんだ有様を、それを覆い隠していたガーゼをのけて思いがけなくも見せつけられた時、物の怪にでも襲われたように、ゾッとしたのを想起せざるを得ない。それはあまりにも不自然な光景であった。併し、その金属製の穴から呼吸しなが
ら、十年も生きながらえた患者があると医者から聞かされたとき、「喉をやられる」と去年の秋から云われていた××さんのために、復生病院にもそんな手術のできる設備と医者とがほしかった。

• 議論や理屈は別として「子を持って知る親の恩」である。患者から「おやじ」と云われれば、親心を持たずにはおられない。親となってみれば、子供らの苦痛を少しでも軽減してやりたいと願うのは当然である。しかしいかに天に叫び人に訴えても、宗教の与える超自然的手段を除いては、私には××さんを見殺しにするより外はない。癩菌は容赦なくあの聖い霊を宿す肉体を蚕食してゆく。「顔でもさすって慰める外に仕方あ
りません」と物馴れた看護婦は悟り顔に云った。そしてそれが最も現実に即した真理であった。

• 私はその晩、プラトンもアリストテレスもカントもヘーゲルも皆、ストーブのなかに叩き込んで焼いてしまいたかった。考えてみるが良い、原罪無くして癩病が説明できるか。また霊の救いばかりでなく、肉体の復活なくして、この現実が解決できるのか。

 生きた哲学は現実を理解しうるものでなければならぬと哲人は云う。
しからば、すべてのイズムは、顕微鏡裡の一癩菌の前に悉く瓦解するのである。

• 私は始めて赤くきれいに染色された癩菌を鏡底に発見したときの歓喜と、これに対する不思議な親愛の情とを想い起こす。その無限小の裡に、一切の人間のプライドをだはして余りあるものが潜んでいるのだ。私はこの一黴菌の故に、心より跪いて「罪の赦し、肉身の復活、終わり無き生命を信じ奉る」と唱え得ることを天主に感謝する。

• かくて××さんは苦しみの杯を傾け尽くして、次の週の木曜日の夜遅く、とこしえの眠りについた。…翌日も、またその翌日も、病院の簡素な葬式が二つ続いた。仲間の患者が棺を作って納め、穴を掘って埋めてやるのだ。

• 今日は他人のこと、明日は自分の番である。…沼津の海を遙かに見下ろすこの箱根山の麓の墓地から××さんとともに眠る二百有余の患者の魂は、天地に向かって叫んでいる。

「我はわが救い主の活き給うを信ず、かくて末の日に当たりて我地より甦り、我肉体に於て我が救主なる神を仰ぎ奉らん。われ彼を仰ぎ奉らんとす。我自らにして他の者に非ず、我眼こそ彼を仰ぎまつらめ!」
 
岩下壮一の祈り文
(神山復生病院院長就任時の祈り)
 
主イエズス・キリスト
主は病める者を特に愛し、これを慰めいやし給ひしにより
我れ其の御跡を慕ひ、
こゝに病人の恢復、憂人(うれひびと)の慰藉(なぐさめ)なる聖母マリアの御助けによりて
我が身を病者への奉仕に捧げ奉る。
希くはこの決心を祝し末ながくこの病院に働く恵を与へ給へ
                       亜孟(アーメン)
 
 
 
ジャック・マリタン著・岩下壮一訳『近代思想の先駆者』(昭和十一年)序文より

(六年前に本書翻訳に着手したときの心境を語った後に)ルッター論の訳了とともに生来夢想だにしなかった私立ライ療養所の経営を引き受けることとなってしまった。四十歳を過ぎるまで学校と書籍の中にばかり生活したわたしにとっては、観念の世界から急転直下の人生の最も悲惨な一面を日夜凝視すべく迫られたことはまさに一大事である。

現に今わたしが筆を執っている一室の階下には、「いのちの初夜」をもって一躍文壇に認められた北條民雄のいわゆる「人間ではない、生命の塊り」が床をならべて横たわっている。しとしとと降る雨の音のたえまに、わたしはかれらの呻吟をさえ聞き取ることができる。ここへ来た最初の数年間は、「哲学することが何の役に立とう」と反復自問しないわけにはいかなかった。しかしいまやわたくしはこの呻吟こそは最も深い哲学を要求するさけびだということを知るに至ったのである。…

現代は、すべての文明は特定の文化を、すべての文化は一つの形而上学をーそれが非哲学的な唯物論の形においてであろうともー背後に要求するものであり、そして宗教無くしてはその名にふさわしい形而上学が成立する者でないことを忘れた。これを逆に論じれば、真の宗教無くしては真の形而上学なく、真の形而上学のないところには、真の文化も存在し得ないということになる。どんな物質的進歩も文化的設備や組織も「なんじにいこうまで、われらの心やすきことあたわず」というアウグスチヌスの一語を抹殺しさることはできない。
 
「キリストに倣いて」(昭和12年JOAK放送講座:『信仰の遺産』423頁所収)
 

「汝らわが弟子たらんとせば、汝の十字架をとりて我に従え」で、師と共に十字架の道を歩まなければ、彼と共に「われ世に勝てり」と云うことはできない。世に勝たなければ、」どうしてこれを真の意味で享楽しえましょう。「神を味わいうるはかくの如き人々にして、作られし物に見出さるる一切の善をその造主の賛美にささぐ。わが霊と、そのすべての能力とを浄め、よろこばし、明らかにし、活かし、歓喜の極みに於て汝と一致せしめ給え。ああ、汝の臨在によりてわが心を満たし、われにとりて、一切に於て万事たらんその望ましき幸なる日は、いつ来たらんか」。


最後に私はこの真に世に勝てる幾多の人々を、只今及ばずながらお世話致しておりますお気の毒な癩患者の中に見出し、日毎に無言の教訓を受けておることを言い添えたい。私がここで皆様に何らかの良きことを申し上げ得たとしたなら、それはその方々に負うところの実に少なくないのを感ずる次第である。私にとっては、これこそ著者の「わが神にして一切なる者よ、悟れる者には、この一語にて足る」という言葉の活きた証明であります。

司祭職と秘蹟の問題(昭和14年「カトリック研究」19-6:『信仰の遺産』232-233頁所収)

(筆者の小さな経験を付け加えることが許されるならば)私が復生病院に赴任した後の最初の主日の朝、ある作家が「あれは人間ではない、肉の塊だ」という恐ろしいほど真に迫る言葉をもって形容したその人たちが、私の手から潰れた眼に涙を浮かべて主の御体を拝領したあの忘れられぬ光景を、あの時ほど彼らを慰むるに自分が無力であり、秘蹟がこれに反して力強きを感じたことはない。余の如き下根の者が、どうにか百何十人の現世的には最も悲惨な運命にあえぐ人々と起居していささかご奉仕のできるのは、全く秘蹟のおかげである。この実感を有する私は、嘗て『日本MTL』誌上にに載せられた都下の牧師諸君一行が全生病院を慰問した記事を興味深く読んだのである。一行が代り代り壇上に立って慰問の辞を述べた後に、患者達は舞踊や唱歌などを以て慰問団に応酬した。記者は慰問に行った自分の方が却って慰められて帰ってきた、次回は説教はよしてこちらも余興を用意して出かけたいという意味のことを書いていた。私も全く同感である。


宗教家の慰問はきまりきって永遠の生命のお説教である。それも有益で有難いには相違ないが、いつもいつも講堂に座らされて千篇一律の講話をきかされる患者達の身になれば、むしろ浪花節でもうなって貰った方がどれだけ嬉しいかわからない。況んや永遠の生命の信仰ならば、慰問者よりは遙かに徹底せる信仰者が院内にはいくらも居るに於てをやである。私はむしろ「諸君を前にして何を語っていいか自分には分からぬ」と同情の一念ををこめて挨拶してくださった県知事さんに、真の人間味を感じる。
 
資料2北條民雄のことばー小説「いのちの初夜」(昭和十一年二月同人誌「文学界」に発表ー第二回「文学界賞」受賞)から

(咽喉切開して5年間生き延びたが、苦しみに喘ぎつつ死を願う患者を前にして)「尾田さん、あなたはあの人達を人間だと思いますか。」佐柄木は静かに、だがひどく重大なものを含めた声で言った。尾田は佐柄木の意が解しかねて、黙って考えた。…
「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです。僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。あの人達の『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。ただ、生命だけが、ぴくぴくと生きているのです。なんという根強さでしょう。誰でも癩になった刹那に、その人の人間は亡びるのです。死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんなそんな浅はかな亡び方では決してないのです。廃兵ではなく、廃人なんです。けれど、尾田さん、僕等は不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復るのです。復活、そう復活です。ぴくぴくと生きている生命が肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです。
 
尾田さん、あなたは今死んでいるのです。死んでいますとも、あなたは人間じゃあないんです。あなたの苦悩や絶望、それが何処から来るか、考えて見て下さい。一たび死んだ過去の人間を捜し求めているからではないでしょうか。」
 
(失明の間近な佐柄木と共に病棟を出て夜明けを迎え)冷たい外気に触れると、二人は生き復ったように自ずと気持が若やいで来た。並んで歩きながら尾田は、時々背後を振り返って病棟を眺めずにはいられなかった。生涯忘れることの出来ない記憶となるであろう一夜を振り返る思いであった。「盲目になるのは判り切っていても、尾田さん、やはり僕は書きますよ。盲目になればなったで、またきっと生きる生きる道はある筈です。あなたも新しい生活を始めて下さい。癩者に成り切って、更に進む道を発見して下さい。僕は書けなくなるまで努力します。」
 
(昭和十年十二月八日北條民雄の川端康成書簡)

この作一週間以内に清書して先生に見て戴こうと存じて居ります。この作、自分でも良く出来ているような気がしますけれど、又大変悪るいんではあるまいかと不安も御座います。結局自分では良く判断が出来ません。けれど、書かねばならないものでした。この病院へ入院しました最初の一日を取扱ったのです。僕には、生涯忘れることの出来ない恐ろしい記憶です。でも一度は入院当時の気持に戻って見なければ、再び立ち上る道が摑めなかったのです。先生の前で申しにくいように思いますけれど、僕には、何よりも、生きるか死ぬか、この問題が大切だったのです。文学するよりも根本問題だったのです。生きる態度はその次からだったのです。それでこの作発表のこと全然と云って良いくらい考えませんでした。先生にだけ見て批評して戴いたらそれで充分、という気持で書きました。今後の作もそういう気持でしか書けないと思って居ります。

(昭和十年十二月二十日川端康成の北條民雄宛書簡)

只今読了、立派なものです、批評は申上げるまでもありません。また聞きたいとお思いになる必要もないでしょう。文壇の批評など聞く代りに第一流の書をよみなさい。それが立派に批評となってあなたに働くでしょう。早速発表の手続きをとりますが、急がないで下さい。林房雄が文學界の二月号にくれくれと云いますが、承知はしていません。文學界の改組新年号は発行所から秩父號一氏宛に送ったそうですが着きましたか。毎月文學界賞を出すことになりました。・・・題は「その初めの夜」「いのちの初夜」「入院」など考えましたが、最初の一夜の方素直で気取らずよろしいと思われます。「いのちの初夜」はちょっといいとも思われますが。佐柄木が「いのち云々」というところもあって。最初の一夜は幾分魅力が薄い。実に態度も立派で、凄い小説です。この心を成長させて行けば、第一流の文学になります。
(追伸)今私はバイブルを読んでますが実に面白い、お読みになるとよいと思います。感傷的な宗教書としてでなく、強烈な精神の書として。病院になければ送ります。
 
(注)北條民雄は、文学界賞受賞後の作品として、100枚を越える長編を二篇書いている。しかしながら、これらは、いずれも公表されず、彼の死後に刊行された創元社の北條民雄全集にも収録されていない幻の作である。しかし、川端康成の『いのちの初夜』跋から、我々は、その作品のあらましを推測することが出来る。「その一は「いのちの初夜」にひとたび得た生命観をさらに深く懐疑否定し、その彼方に光明を探ろうとするものであった。その二は、社会運動に携わってゐた青年が、さういふ世と切り離された癩院に入って、尚、プロレタリアの為に反省苦悩し腐れゆく身であくまでもその社会理想を信じて生きるものであった。」

(昭和十一年六月十日北條民雄の川端康成宛書簡)

この作(監房の手記)には、ほんとに命を賭けました。書き始めるとき、それまで手許にあった長編の書きかけも、短編の書きかけも全部破り捨てました。これは遺書のつもりだったのです。これが書きあがったら死のう、と決心して筆を執りました。けれども書き進むうち、死んではならないことだけが分かりました。死ぬつもりで書き始めながら、書き終わった時には、生きることだけになりました。進歩か転落か、それは分かりません。ただ、先生の御評を頂きとうございます。「いのちの初夜」を書いた折、生か死かの問題は解決がついたかのようにお手紙しましたけれど、あの場合はほんとに解決したつもりでいましたのですけれど、つぎつぎと襲ってくる苦しみはあの解決をぶちこわしてしまいました。(中略)
それからこの作は検閲をうけずにお送り致します。検閲をうければ、発表禁止にされてしまうのです。それで検閲なしで発表して、僕はこの病院を出る覚悟に決めました。富士山麓の復生病院の院長岩下氏が僕の「いのちの初夜」に感激したと申されて、先日フランスのカトリック司祭コッサール氏が参りましたので、その人の紹介で右病院に入る予定です。自分にとっては、小説を書く以外になんにもないのに、その小説すら思うように書いてはならないとすれば、なによりも苦痛です。検閲証の紙を一しょに同封して置きますけれど、實に激しい屈辱感を覚えます。一つの作に對してこれだけ多くの事務員共の印を必要とするのです。

(注)「監房の手記」は川端康成の判断で発表を見合わせた。北條民雄も復生病院には転院せず、昭和十二年十二月に全生病院にて逝去(享年二十三)。葬儀は、北條の遺志で、復生病院で受洗した東條耿一はじめカトリックの信徒によって行われた。
 
資料3東條耿一の詩(昭和十二年「四季」十一月号)

樹々ら悩みぬ―北條民雄に贈る― 東條耿一
月に攀ぢよ/月に攀ぢよ/唯ひとり高く在せり/圓やかに虔しく鋭く冴え/微塵の曇りなし/蒼夜なり
樹樹ら悲しげに身を顫はせて呟きぬ/月に攀ぢよ/月に攀ぢよ/されど地面にどっしりと根は張り/あらはになりて身を顫ふ
樹樹ら手をとり額をあつめ/地面はどっしりと足を捉へ/(苦し)/(苦しきか)/(悲し)/(悲しきか)
彼等はてもなく呼び應ふ/樹樹らの悩み地に満ちぬ/月に攀ぢよ/ああ月に攀ぢよ/地面はどつしりと足を捉へ
地面にどつしりと根は張り/翔け昇らんとて激しく身悶ゆれど/樹樹ら翔け昇らんとて

(注)期せずして、追悼の詩にもなったが、この詩を書いた時点では、東條耿一は、まだ、北條民雄が昭和十二年の十二月に急逝するということを全く予想していなかった。東條耿一の詩の最後のスタンザでは、天頂高く皓々と照らす月の光のもとで天に向かって「翔け昇らん」とする樹々が、上への超越を目指す作者とその「いのちの友」の象徴となっている。大地は二人の安住の場所では、もはやないにもかかわらず、その重力が強く「霊魂の飛翔」を妨げている―その二律背反的な苦しさが詠われている。東條の詩に於て、樹々が登攀しようとしている「月」は、天頂高く冴えわたった冬の月である。樹木は、武蔵野にはいまでも随所に見られる欅などの高木などを思わせる。深夜、その高木が、寒月に向かって身を捩らせている。作者はその樹木に向かって、さらに高きところをもとめて登攀せよと呼びかけている。この詩では、晩年の彼の手記に見られる様な、カトリックのキリスト教への復帰という様な具体的な形をとっているわけではないが、「月に攀じよ」という、「いのちの友」への呼びかけのなかに、読者は、東條の垂直的な超越への切実な志向を読みとることができよう。
 
訪問者(遺稿)

我門前に立ちて敲く、我声を聞きて我に門を開く人あらば、
我其内に入りて彼と晩餐を共にし、彼も亦我と共にすべし。(黙示録)

第一篇怯懦の子
こつ、こつ
こつ、こつ……
誰人ぞ今宵わが門を叩く者あり
日は暮れて、凩寒く吹き悩む
こつ、こつ
こつ、こつ……
われ深く黙して答へず/半ばを過ぎし書を読みつぎぬ
こつ、こつ
こつ、こつ……
訪へる声やまず続けり
凩はいよよ募る
われ炉に薪を投げ入れ/尚も黙せり、耳を覆ふ……
こつ、こつ
こつ、こつ……
旅人よ、何とてわが門を叩く
われに何をか告げむとするや
われ知らず、わが扉開かざるべし……
旅人よ、わが門を過ぎよ
わが隣にも人の子は在り
こつ、こつ
こつ、こつ……
噫旅人よ、執拗なり
われは沈黙の人、孤独を愛す
われは聞くを好まず、聞かざるを欲す
われをして在るべき所に在らしめよ……
旅人よ、とくわが門を過ぎよ
しかして汝に受くるものに尋ねよ
こつ、こつ/こつ、こつ……
旅人、汝呪われてあれ
何ぞわれに怨みを持つか
如何なれば斯くもわれを求め
如何なれば斯くもわが安居やすらゐを亂すや
汝に向ひ、外に開かむより
われは寧ろわが裡に死ぬるを望む……
旅人、汝わが門を行け
われは蝮の裔にして汝を噛まむ
こつ、こつ
こつ、こつ……
おお凩よ募れ、闇また来たれ
われ汝を呪はむ
汝、如何に叩くとも
わが扉は固く、朝に至るも閉さるべし
われは汝を知らず、われは汝に聞かず
さなり、われは己に生くるなり……
噫旅人、とくわが門を去れ
然らずば人の子汝を渡すべし.
 
第二篇訪問者

吾子よ、吾なり、扉を開けよ
汝を地に産みし者来たれるなり
吾、はるばると尋ね来るに
汝、如何なれば斯く門を閉じたる
吾子よとく開けよ
外は暗く、凩はいよよ募れり
噫父なりしか
父なりしか、宥せかし
おん身と知らば速やかに開きしものを
噫何とてわが心かくは盲ひ、かくは聾せり
わが父よ、しまし待たれよ
わが裡はあまりに乏しく
が住居あまりに暗し
いとせめて、おん身を迎ふ灯とな点さむ
これ吾子よ、何とて騒ぐ
吾が来たれるは
汝をして悲しませむとにはあらで
喜ばさむ為なり
吾が来れば
乏しくは富み、そが糧は充たされるべし
吾久しく凩の門辺に佇ちて
汝を呼ぶことしきりなれば
吾が手足いたく冷えたり
噫わが父よ、畏れ多し
われおん身が、わが門を叩き
われを求むを知り得たり
されど、われ怯懦にして、おん身を疎み
斯くは固く門を閉したり
噫おん身を悲しませし事如何ばかりぞや
われ如何にしてお宥しを乞はむ
さはれ、われは伏して、裡に愧づなり
わが父よ、いざ来たりませ
 
吾子よ、畏るゝ勿れ
非を知りて悔ゆるに何とて愧づる
夫れ、人の子の父、いかでその子を憎まむ
吾今より汝が裡に住まむ/汝もまた吾が裡に住むべし
父よ、忝けなし
われ、何をもておん身に謝せむ/わが偽善なる書も、怯懦の椅子も
凡て炉に投げ入れむ
わが父よ、いざ寛ぎて、暖を取りませ
われ囚人めしうどにして、怯懦の子、蝮の裔
おん身を凩の寒きに追ひて
噫如何ばかり苦しませしや
最愛の子よ、吾が膝に来よ
而して、汝が幼き時の眠りを睡れ
そは吾が睡り甘美あまければなり
われおん身を離し去らしめじ
わが貧しきを見そなはして
わが裡に住み給へば
われもまたおん身の裡に生きむ
噫永久とこしへに、われ、おん身の裡に生きむ
父よ、われをしてこの歓喜の裡に死なしめよ
父よ、われをしてこの希望の裡に生かしめよ
 
病床閑日        東條耿一(遺稿)

私はけふ晝のひと時を
庭の芝生に下りてみた
陽はさんさんとそゝぎ
近くの樹立に松蝉が鳴いてゐた
私は緑のやは草を踏みながら踏みながら
そのやはらかな感觸を愛しんだ
不思議なほど妖しいほど私の心にときめくもの
一体この驚きは何だらう
思へ寝台の上にはやも幾旬―
もうふたたび踏むことはあるまいと思つてゐた
この草この緑この大地
私の心は生まれたばかりの仔羊のやうに新しい耳を立てる
新しい眼を瞠るそうして私は
私の心に流れ入る一つの聲をはつきり聞いた
それは私を超え自然を超えた
暖いもの美しいもの
ああそれは私のいのちいのちの歌
 
癩者の改心-友への便りにかえてーフランシスコ・東條耿一
(全生園カトリック愛徳会「いづみ」昭和28年クリスマス号に掲載された遺稿より)

 あなたのお言葉は私を大変淋しくさせました。それはあなたが、私の日頃抱いている考えについてお判りにならなかったからではなく、あなたに判っていただけない私の信仰の弱さのためです。
「私は癩になった事を深く喜んでいる。癩は私の心を清澄にし、私の人生に真の意義と価値を與えてくれた。癩によって私は始めて生き得たのだ。私を癩に選び給いし神は讃むべきかな。」の私の言があなたにはどうしてもお気に入らない様ですが、私が癩の疾患を喜ぶのは、苦痛を人生の正しい条件として肯定し、苦痛を愛するが故であります。
 あなたのお手紙の中で、それは負け惜しみだ、心では泣いているくせに、と云われ、又、たいそう悟りを啓きなすったわね、と皮肉たっぷりの調子で申して居られますが、これはあなたの嘲笑の心から出たのではなく、寧ろ憐憫の情からのものと、私は善意に解しておきます。しかし、あなたのお言葉に対して全面的に否定します。
 あなたは私の如き凡庸な人間が人生にとって最悪の悲惨事であるべき不治の業病に罹りながら、却ってその疾患に、その境遇に限りない喜びを覚えるということが、健康者であるあなたには、何かあり得べからざる現象として映り、率直に承服し難いのでありましょう。
これは一応無理からぬ事で、あなたばかりでなく、私の周囲の者、つまり同病者の中にすら癩者の苦痛が判らないのか、そればかりか家族の苦しみを思うだけでも癩の何処がよいのか、と肩を怒らして撲りかねない剣幕で、私の鼻先へ拳を突き出すでしょう。ごもっとも千万です。私だとて、そのようなことが判らぬのではありません。
 然し、神は恩恵を奪うことによって更に大いなる恩恵を約束する。諸々の苦痛は謂わば、その約束の印です。神の愛は惜しみなく奪うところにあることを人は案外忘れ勝ちではないでしょうか。譬えば、私の場合の一つを拾いあげて見ますと、私は癩という世の人の最も忌み嫌う不治の疾患に罹ったが故に、カトリックになり得たのです。神との一致、救霊の道とその方法を與えられたのです。
 或いはあなたは言うかもしれない。癩にならなくともカトリックにはなれたかも知れぬではないかと。それは可能でありましょう。その様な場合には、神はまた癩と違った方法で私の救霊の道を啓示し給うたかも知れません。神の摂理は偉大でありますから、その辺の所は測り難いでしょう。
 苦痛なしには私達は存在しません。苦痛は人生の最大要素です。少なくとも私はそう感じています。苦痛がある故に我々は生きていられる。茨の道を踏まずして天の門には至り難いでありましょう。これは基督が十字架上に於て身を以て我々に示し給うた所であります。「汝もし救かりを得んと欲せば己が十字架を負いて我に従え」とある如くで、苦しみによってのみ我々は神と一致することが出来るのです。
 
主の御胸によりかかりて
福音のきよき流れを、主の
御胸の聖き泉より飲みぬ、かくて
神の御言葉の恩寵を全世界にそそぎいだせり。
(福音史家聖ヨハネの聖務日課の答誦)
 
 私は苦痛の重荷を感ずると何時も、ヨブ記を繙くことにしています。これはヨブ記に自己の苦しみを紛らせる為でなく、ヨブの如く苦しみを愛したいが為であります。ヨブが神の試みに逢ってサタンの手に渡され、その持物、羊、駱駝、馬、夥しい僕達をことごとくサタンの手により奪われ、家は覆され、身は癩になって了い、かくして激しい苦杯を舐め、惨苦のどん底に突き落されたのでありますが、ヨブはなお天を仰ぎ地に伏してエホバの御名は讃むべきかなと神に光栄を帰しています。惜しみなく奪う神の愛をヨブははっきりと知っていたに違いありません。
 私は基督教的苦しみの忍従が限りなき喜びであり愛の勝利への転換であることを述べましたが、私の貧しい言がどれだけあなたの心を掴み得たかと思うと甚だ心淋しさを覚えます。私は己に苦しみを望みませんが與えられる苦痛は神の愛として肯定し、喜んで力の限り愛したいと思います。苦痛を愛の忍従に転嫁してヨブの如く生きたいと思います。惜しみなく恩恵を奪われた者のみ、よく真に神の愛を感ずる事が出来るでしょう。
 
               私を癩者に選び給いし神は讃むべきかな。
 
 
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