歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

Mulier fortis (勇敢な婦人ー細川ガラシャ)上演のお知らせ 

2023-09-30 | 美学 Aesthetics
バロック・オペラ コンチェルタンテ Mulier fortis (勇敢な婦人ー細川ガラシャ)上演のお知らせ 
2023年11月17日(金)19時開演 旧東京音楽学校奏楽堂
 
1698年にウイーンで初演された楽劇Mulier fortis(勇敢な婦人 細川ガラシャ)が、2023年11月17日(金)に旧東京音楽学校奏楽堂でコンサート形式で蘇演されることになりました。
 
主催は オペラMulier fortis 公演実行委員会
代表 澤和樹・豊田喜代美
委員:北側央・佐久間龍也・田中裕・西脇純
これは、もともと2年前に東京文化会館小ホールで上演の予定でしたが、コロナ禍のために中止になっていたものです。今回は、あらたに東京芸術大学前学長の澤和樹先生に共同代表になっていただきました。私と西脇純先生は、ラテン語の歌詞の翻訳、注釈、解説の作成などで協力しています。
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2022/01/09

2022-01-09 | 美学 Aesthetics
上智大学の中世思想研究所の江藤信暁さんから、ケーベル博士来日百周年を記念して設立された「ケーベル会」の会誌(1993−1996)を贈っていただきました。
 島尻政長先生(ケーベル会会長)の「日本美学史とケーベル先生」、上智大学中世思想研究所にケーベル会誌を寄贈された榎本昌弘先生の「岩下壮一の神父の遺品」、アウグスチヌスの神国論に関する卒業論文をめぐる記事など、多彩なその内容に興味を惹かれました。
 ケーベル博士の信じていたキリスト教は、ギリシャ正教なのか、プロテスタントなのか、ローマン・カトリックなのか、カトリックに歸正したのはいつであったのか、榎本昌弘先生の「ケーベル先生改宗日の謎」や、巽豊彦先生の「ケーベル的キリスト教について」を読むと、周辺にいた人の間で、実にさまざまな議論があったことがわかります。
 ケーベル博士の影響は、無教会の内村鑑三、プロテスタントの波多野精一、ローマン・カトリックの岩下壮一というように、宗派を超えて、キリスト教のすべてに及んでいるのですから、私に言わせれば、彼の立場は、古典の伝統を重んじる「無教会」のカトリックと呼ぶのが適切ではないでしょうか。その立場を音楽の創作と上演活動によって表現し、その活動を美学的に反省しつつ生きたところに、ケーベル博士の独自性があったと思っています。
 私は、一昨年以来、沖縄音楽大学の皆様とともにバロック・オペラ「勇敢な婦人(細川ガラシャ)」の日本での蘇演を計画し、キリシタン時代の東西文化交渉の歴史を継承する試みをしてきました。ケーベル会の創設者とも言うべき島尻政長先生が、沖縄を本拠地として活動されていたこと、またその御命日が、今日の1月9日であることを知りました。偶然といえばそれまででですが、ケーベル博士の日本での音楽活動を継承された島尻先生に倣いつつ、ケーベル博士のご業績を偲びたいと想います。

   ケーベル博士の肖像ーケーベル会誌創刊号(1993)から転載
(和服姿のケーベルと家人たち<駿河台邸>写真提供/久保いと)は来日してからまだあまり時を経ていないころの写真とのことです。




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茶道とキリスト教との出会い

2019-08-30 | 美学 Aesthetics

〇茶道とキリスト教との出会い

千宗易(利休)と同時代人である日比屋了慶は堺の著名な茶人であり、家族とともに1564年ガスパル・ヴィレラ神父によって洗礼を受けた。彼は洗礼名ディオゴで宣教師の書翰に登場する。それ以後、神父達の宿泊所となった日比屋家に堺のキリシタン達が集まり、そこでミサが行われた。1565年(永禄8年)ルイス・フロイスと共に京都に行く途中で病に倒れたイエズス会修道士アルメイダは、療養のため日比屋家に世話になり、漢方医パウロ養方軒の手厚い看護のおかげで全快し、送別の茶会が催された。朝9時に了慶が、アルメイダを茶室に案内し、彼とその二人の同伴者とともに食事をしたのちに茶の湯に移った。そのときの様子をアルメイダは次のように書翰に書いている。

さて私はディオゴの居間の側面から導かれました。そこにはちょうど一人だけが具合よく入れるくらいの大きさの小さい戸口があります。そこから私たちは真直ぐな狭い廊下を通り、杉材の階段を昇りましたが、その階段は、まるでそこに人が足を踏み入れるのは初めてのことかと思われるほどの印象を与え、あまりにも完璧な造作で、私はそれを筆で言い尽し得ません。ついで私たちは中庭に出、廊下を通り、私たちが食事をする部屋に入りました。部屋の片側には彼らの習わしによって一種の戸棚があり、そのすぐ傍には周囲が一ヴァラの黒い粘土でできた炉がありました。その上には感じのよい形の鉄釜が、非常に優雅な三脚にかかっていました。灼熱した炭火が置かれている灰は、挽いて美しく筋った卵の殻でできているように思われました..すべては清潔できちんと整っており、言語に絶するものがあります。そしてそれは不思議とするに足りないことで、この時人々はそれ以外のことに注意を注ぐ余地は決してないからであります。私たちがきわめて清潔な敷物である優美な畳の上に座りますと、食事が運ばれ始めました。その席での給仕、秩序、清潔、什器は絶賛に価します。そして私は日本で行なわれる以上に清潔で秩序整然とした宴席を開くことはあり得ないと信じて疑いません。

食事が終ってから、私たち一同は脆いて我らの主なるデウスに感謝いたしました。こうすることは、日本のキリシタンたちの良い習慣だからです。ついでディオゴは手ずから私たちに茶を供しました。それは既述のように、草の粉末で、一つの陶器の中で熱湯に入れたものです。

 アルメイダは了慶の茶の湯が単なる送別の宴ではなく、彼の信仰生活と密接に結びついた敬虔な祈りの儀式でもあったことに感銘を受けた。

 彼の報告に見られるような茶の湯とキリスト教との精神的な関わりはのちに日本文化の精神的な伝統に適合するような布教規則を定めたイエズス会巡察師ヴァリニャーノに影響を与えた。ヴァリニャーノの『日本イエズス会士礼法指針』には次のような項目がある。 

すべての住院(カザ)には清潔でしかもよく整備された茶湯の座敷を設け、また住院にいつも住んでいて、しかし茶湯についてはなにがしかの心得のある同宿(在俗信徒の奉仕者)または他のだれかを置かなくてはならない。訪問者の身分に応じて接待を行うために、二、三種類の茶を備えなければならない。そこで茶湯の世話をする人は、そこで読み書きや茶を碾くこと、茶湯に関係あることをするようにしなければならない。

 どの住院においても、よそから来る人のために、少なくとも階下に周囲に縁側のある二室一組の座敷をもたねかればならず、そのうちの一室は茶の湯のための室にあてられることになろう。これらの座敷に続いて、さらに二つの座敷がなければならず、その座敷に客人をもてなす世話をする司祭や修道士が住むことになるのである。そうすることによって、彼らが何の不便も感ぜずに、ただ扉を開くだけか、それとも前方にある座敷を随意に通るかして、自室から客人の前に姿を現すことができるようにするためである。また、これらの座敷の縁側の前には立派にこしらえられ、かつ整備された庭がなければならない。そして縁側は部屋に入ったり出たりする際に行われる日本の礼儀作法を守ることができるようにするため、日本風に司祭や住院の他の召使が一方から座敷に入り、客人が他方から入るのに便利なように、また客人がどちら側、住院のものがどちら側に座を占めなければならないかが分かるように作られることである。こういった場所には上述の領主達専用の清潔な厠と、盃に関連するあらゆる茶道具の入っている一つの戸棚(洞庫)を備えた小部屋(水屋)をもったもう一つの特別の茶湯の座敷がなければならない。そこにはまた、台所では作ることができないし、また作るべきではない吸い物とか点心とかこれに類したものを、この場所で作るのに使用される食膳用棚をもった炉が設けられていなければならない。大きな住院(カザ)や学院(コレジヨ)にあっては、他の司祭(パードレ)たちや修道士(イルマン)達のために役立てられる場所は、司祭達の望むように、また皆の精神集中に都合が良いように、もっと奥まった所に設けることができる。

〇 狩野派の絵師の書いた「南蛮屏風」(六曲一双、南蛮美術館所蔵)には、當時の教会堂(畳が敷かれているが屋根の上の十字架が南蛮寺であることを示している)での茶の湯の有様が描かれている。日本人の同宿が抹茶の茶碗を両手で持ち、黒の長衣を着たイエズス会宣教師とそのそばにいる青い制服を着た日本人修道士のもとに運ぼうとしている図である。二人の手にしている本は欧文の教理書ないし信心書と思われる。(この南蛮寺は、おそらく長崎のイエズス会のものであろう)

右上方の南蛮寺では、聖像を飾る祭壇に向かって司祭が聖餅を捧げている司祭の姿を描いている。壁には水墨画が描かれ、床は畳敷きである。白いストライプの入った礼服を纏った司祭が、聖なる麺麭を高々と掲げて立ったまま祈っている。室内中央には祭壇があり、燭台や聖杯が正しい位置に置かれている。司祭の隣には修道士が座し、ロザリオをもった武士をはじめ信徒達が座っている。左上には聖堂の二階内部が描かれ、宣教師が信心書を手にして説教している姿が描かれ、その左の手すり越しに茶碗を運ぶ同宿が描かれている。右下方には、イエズス会修道士のなかに、右手で杖をつき左手にロザリオを持った日本の老人が描かれている。山田無庵氏は、この老人を千利休と解釈し、利休吉利支丹説の論拠としているが、H.チースリック神父は、この老人を盲目の琵琶法師であった日本人修道士ロレンソと同定している。

 

〇 千利休と高山右近

 堺の茶の湯は村田珠光と武野紹鴎の伝統を受けて、それまで貴族と僧侶の間でのみ行われていた茶の湯を市民化の道をひらいたが、そのなかでももっとも後世に影響を及ぼしたのが千利休(千宗易)であった。千利休(宗易)(1520-1591)は堺の商人田中家の出身で、若いときから茶の湯に親しみ、書院式を北向道陳に佗茶を武野紹鴎に学んだ。彼は古来の伝統にこだわる都の貴族とは違って、新興都市堺の商人にふさわしい進取の気性、新しい意匠を積極的に茶の湯に導入する積極性をもっていた。彼は多面的な活動をした(ルネッサンス的)人物であり、商人として戦国武将の武器の調達、外交交渉の仲介、信長と秀吉という天下人の茶頭をつとめた。このような外面的な活動に従事しつつも、彼は参禅修行によって、臨済禅のもつ脱俗的ないし反俗的な精神を「佗茶」という藝道に統合した。すでに武野紹鴎によって「佗茶」の心は、藤原定家の

   見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ

の歌によって示されていたが、利休は、更に藤原家隆の 

   花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春を見せばや

を加えた上で次のように述べたと伝えられている。

「侘の本位は、清浄無垢の仏世界を表して、この路地・草庵に至りては、塵芥を払却し、主客ともに直心の交なれば、規矩寸尺、式法等、あながちに云ふべからず、火ををこし、湯をわかし、茶を喫するまでのこと也。他事あるべからず」(「南方録」「滅後」覚書)

 利休の佗茶の「主客直心の交わり」を強調する宗教的な共同体は、身分の差別を越えた平等な世界での心の交流(「貴人口」を排し、「躙口」という狭き門を通って茶室に入る)がめざされ、彼の理想とする茶室は、権力者の成金趣味に迎合した豪勢なものではなく、「市中の山居」であり、在俗の世間の只中にあって、塵埃に染まらない清浄な修行場が、「一期一会」の茶道の理想とされた。

 利休以後に始まる濃茶の回しのみ(すい茶)は、カトリックのミサで司祭と信徒が一つの聖杯から葡萄酒を共に飲む儀式によく似ており、茶巾と聖布(プリフィカトリウム)の扱いも酷似している。これは、裏千家家元の千宗室の云われたように、キリスト教が日本の茶道にあたえた影響と見て良いであろう。

 利休には、高山右近をはじめ蒲生氏郷、瀬田掃部、牧村兵部、黒田如水などのキリシタン大名、あるいは、キリスト教と縁の深い門人(ガラシアの夫の細川忠興など)や、吉利支丹文化の影響をうけた茶人(古田織部など)が大勢いた。 

 高山右近の父の高山飛騨守は、畿内のキリスト教伝道に大きな役割を果たした盲目の琵琶法師ロレンソ了斎の影響でキリスト教に帰依した[1]。當時少年であった次男の彦五郎(右近)も飛騨守の一族の者とともに受洗した。右近は父親から家督を譲られた後、1573年から85年まで高槻城主を務め、1585年に明石に転封された。1587年、博多にいた秀吉は、突然に禁教令を出し、まず高山右近に使者を送って棄教を迫った。宣教師の書翰によると使者に対して右近は次のように答えたという。

「予はいかなる方法によっても、関白殿下に無礼のふるまいをしたことはない。予が高槻、明石の人民をキリシタンにさせたのは予の手柄である。予は全世界に代えてもキリシタン宗門と己が霊魂の救いを捨てる意志はない。ゆえに予は領地、並びに明石の所領6万石を即刻殿下に返上する」(「キリシタン史の新発見」プレネスチーノ書簡から)

 右近の強い意志を知った秀吉は時間を置かず第二の使者を出す。陣営にいた右近の茶道の師、千利休が使者に選ばれたのである。利休の伝えた内容は「領地はなくしても熊本に転封となっている佐々成政に仕えることを許す、それでなお右近が棄教を拒否するならば他の宣教師ともども中国へ放逐する」というものであった。右近はこの譲歩案も次のように謝絶したので、利休もそれに感ずるところがあって再び意見することはなかったという。(金沢市近世資料館にある『混見摘写』による)

「彼宗門 師君の命より重きことを我知らず。しかれども、侍の所存は一度それに志して不変易をもって丈夫とす 師君の命といふとも 今軽々に敷改の事 武士の非本意といふ。利休もこれを感じて再び意見に及ばずの由」。

 四年後に利休も又秀吉の勘気を蒙りながらも(大徳寺山門事件)、秀吉に迎合せず、一切の妥協を排したために、切腹を命ぜられ、その首は、磔にされた利休像とともに都の戻橋で晒された。

 利休の次のような遺偈が伝えられている。

   人生七十 力□希咄(じんせいしちじゅう りきいきとつ)

   吾這寶剱 祖仏共殺(わがこのほうけん そぶつともにころす)

   提ル我得具足の一太刀(ひっさぐる わがえしぐそくのひとつたち)

   今此時そ天に抛(いまこのときぞ てんになげうつ)

「祖仏共殺」とは臨済録の「殺仏殺祖」に由来するが、対象化された仏や祖師を否定する偶像否定の精神の表明と言って良いであろう。

 右近のほうは、追放後、博多湾に浮かぶ能古島、小豆島など、右近を慕う大名達によって匿われたのち、金沢の加賀前田家の客将として、能登で二万石を与えられた。しかしながら、1614年の徳川幕府の吉利支丹禁令のさいに国外追放となり、翌1615年2月3日にマニラで死去した。国外追放されたとき、右近は十字架と共に、最後に利休と分かれたときに渡された羽箒(茶道具)を所持していた。また、右近が細川忠興宛にあてた書状が、細川家の永青文庫に残っている。

近々、出航いたすことになりました。ところで、このたび一軸の掛物をさしあげます。どなたにさしあげようかと思案しましたが、やはりあなた様にこそふさわしいもの、私のほんの志ばかりでございます。

帰らじと思えば兼ねて梓弓無き数にいる名をぞ留むる。 

彼(正成)は戦場に向かい、戦死して天下に名を挙げました。

是(私)は、今南海に赴き、命を天に任せた名を流すのみです。

いかがなものでしょうか。六十年来の苦もなんのその、いまこそ、ここに別れがやって参りました。先般来の御こころ尽くしのお礼は、筆舌につくす事は出来ません。恐れながら申し上げます。  

九月十日  南坊等伯(高山右近の茶人としての号)

三好長慶によって布教が許可されていたイエズス会の宣教師を領内から追放することを画策した松永久秀は、吉利支丹が邪宗であることを示すために、法華宗の信徒でもあった結城山城守忠正、公家の清原大外、高山飛騨守などに奈良に呼んでイエズス会士を吟味することを企画した。このとき吟味に応じたのが、ロレンソ了斎であった。吟味役の飛騨守は、吟味討論の場でのロレンソの説法に感銘を受け、逆にキリスト者となったと伝えられている。

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篝の舞楽

2018-08-12 | 美学 Aesthetics
 
 東西宗教交流学会に出張するついでに、8月4日夜は、大阪で前泊し、四天王寺講堂前庭で「篝の舞楽」を観賞した。飛鳥時代に中国から三韓経由で伝えられた舞楽であるが、現在は大陸では消滅し、ただ日本にのみ遺され保存されている貴重な文化遺産である。その構成は
「振鉾」(えんぶー鉾を振って天神地祇を鎮魂し事の成就を祈る。舞楽の序曲)、「篝の火入れ」、「桃李花」(初唐、曲水の宴で上演されたと云われる曲)、「林歌」(高麗楽による舞)、「還城楽」(林邑僧仏哲が伝えた林邑八楽の一つ)、「長慶子」(源博雅の作曲した慶祝の意を込めた終曲)という約一時間半の興行であった。
 グレゴリオ聖歌が西洋音楽のルーツにあるとすれば、聖徳太子の時代に伝えられた舞楽は、日本の伝統音楽、能や歌舞伎の演舞の源流を為すものだろう。
 「篝の舞楽」は一年に一回しか上演されないが、これを聴こうと思い立ったのは、シルクロードから中国、三韓を経由して日本に伝えられた音楽と舞の源流に触れることによって、典礼音楽に関する東洋の心を知りたいと思ったからである。
 ヤスパースの云う「枢軸時代」の中国には、ギリ...シャの音楽論や、アウグスチヌスの音楽論に劣らぬ、東洋独自の音楽論がすでに存在していた。例えば「論語」には次のような注目すべき音楽論がある。
 「子語魯大師樂,曰:「樂其可知也:始作,翕如也;從之,純如也,繳如也,繹如也,以成。」
 子魯の大師に樂を語りて曰く「樂は其れ知るべきなり:始めて作(お)こすに,翕如(きゅうじょ)たり;これを従(はな)ちて,純如(じゅんじょ)たり,繳如(きょうじょ)たり,繹如(やくじょ)たり,以って成る。」

 同時に複数の楽器が異なる音を演奏しながら、混沌に陥らずに見事なハーモニーが得られるということは、音楽のすばらしさである。その音楽のオーケストレーションの妙味を簡潔な言葉で表現したものが上で引用した論語「八佾第三」の文。

吉川幸次郎の論語注釈によると

翕如(きゅうじょ)=もりあがるような金属の打楽器の鳴奏
純如(じゅんじょ)=諸楽器の自由な参加(從之)によってかもしだされる純粋な調和
繳如(きょうじょ)=諸楽器がそれぞれに受け持つパートの明晰さ
繹如(やくじょ)=連続と展開
以成(いじょう)=音楽の完成
とのこと。

ここでは「如」という言葉がキーワード。孔子が人の眞實のあり方を指して言った「仁」とは、人と人との調和ある人格的関係をさすが、この関係を基盤とする社会的関係に調和と秩序をもたらしつつ、社会に於ける人格の完成を、時間的な生成の場において、「如實」に表現したものが音楽なのである。

すなわち、音楽は「一」なる始源から発し、「多」なるものへと展開発展した後に、再び一なる調和へと帰一していく宇宙と社会の調和の表現なのである。

 江文也の「孔廟大成楽章」の英訳者は、「迎神」の第一楽章、「送神」の第六楽章でいうところの「神」をthe Spirits と訳しているが、ここでいう「神」をどう捉えるべきであろうか。様々な見解があろうが、「怪力乱神」を語らぬ孔子を祭るときに「神」なる言葉を使うことの意味をさらに考察したいと思った。
 孔子は「神」について語ることを慎んではいたが、詩と音楽を媒介として、あたかも「神」がいますがごとく、「典礼」に与ることは重視していた。すなわち、孔子の倫理はあくまでも人間の立場を離れないが、超越へと開かれた人間存在をそこに読みとることが出来る。そして閉ざされた人間の自己中心性を越えるように促すものこそが音楽であり、それ故に音楽は人間の教養の完成に不可欠なものなのであった。

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李白の「静夜思」について

2009-04-26 | 美学 Aesthetics

私の手元に、中華書店で購入した「唐詩一百首」(北京語言学院 陽殿武 張恵先 王志武編著)があるが、そこにある唐詩のテキストの内、李白の「静夜思」についてはかねがね疑問に思っていた。

床前明月光, 疑是地上霜。挙頭望明月, 低頭思故郷。  (現代中国の標準表記に従う)
これは、清代の「唐詩三百首」のテキストに従うものであり、中国大陸ではこちらが一般的なものとなり、李白の詩の英訳もこれに従っているものが多いのである。しかし、日本では、それよりも古い「唐詩選」以来の詩形

低 挙 疑 牀
頭 頭 是 前
思 望 地 看 (唐詩の伝統的な縦書き表記に従う)
故 山 上 月
郷 月 霜 光

が人口に膾炙している。どちらが李白の原作であろうか。

私自身は、「明月」を二回繰り返すような冗漫な詩形はあり得ないという印象を持っていた。五言絶句という短い詩形に、かかる反復を許すのはおかしいのである。

月光を「看て」それを地上の霜かと「疑う」。そしてこれは明月の美しさを愛でる詩ではなく、「望郷の詩」なのである。月の光は、窓を通して山の端から、斜めに差し込んでくるのであり、その光に導かれて山の彼方にある故郷を思うのである。だから「山月」でなければならない。これに対して、「明月」を二回繰り返す詩形では、「望郷の想い」が伝わってこない。

従って、現代の中国人が受容している李白の詩のテキストは、日本で我々が親しんでいるものとくらべて数段、「詩として劣る」ものであると言わねばならない。なぜこのような悲惨なる改竄が行われてきたのであろうか。

ところが、先日、偶々「中國評論通訊社」のサイト に、"床前明月光"非李白原句 明清兩代做修改 という記事を発見し、我が意を得た思いがした。李白のこの詩の原型は、やはり日本に伝承されたものが本来のものであり、現代中国で採用しているものは改竄されたものだという意見が掲載されていたのである。考証の細部については、いろいろと反対意見もあるかも知れないが、すくなくとも清代以降に流通するようになったテキストを無批判的に受容したことは問題とされるべきであったろう。

2002年に北京で開催された国際会議に行ったときにも痛感したことであるが、共産主義の支配と文化大革命で古典の伝統から切断された現代中国は、かつての自国の文明のルネッサンス(文藝復興)を求める時代になっているのでは無かろうか。ちょうど西欧が古典ギリシャの文明を、アラビヤ語からの重訳を通じて再発見したように、古典時代の中国の遺産が、現代中国にではなく韓国や日本にその古形が、ありしままに保存されている場合があるということに留意しなければなるまい。それは唐詩のようなものだけではなく仏典などについてはなおさら言えるのである。中国には仏典の原典であるサンスクリット語の原テキストが散逸して殆ど残っていないが、法隆寺には般若心経のサンスクリット語のテキストが保存されていたことなど、政治闘争にあけくれた中国では失われたものが日本に残っている例は結構あるのである。

それとともに現代中国で一般化している漢詩の表記についても苦言を呈したい。簡体字を使うことが伝統との断絶をもたらすことは言うまでもないが、更に加えて、中国大陸では、唐詩のような伝統的な詩を表記するのにも、横書きで、句読点( 。)や( , )そして疑問符(?)などを標準的に使っているのである。これも奇妙な話である。とくに(?)のようなローマ字文化圏の記号を使うことなど、古典時代の中国ではあり得ないことであり、こういう無神経なことを平気で行って不思議にも思わないと言う精神こそ、私などにとっては(?)である。
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恨の情念-「長恨歌」 に寄せて

2008-08-08 | 美学 Aesthetics
七月七日長生殿,夜半無人私語時。
在天願作比翼鳥,在地願為連理枝。
天長地久有時尽,此恨绵绵無絶期。

「恨」とは、日本語では怨恨の「恨」であり、うらみ、つらみという意味であるし、現代中国語でも似たような意味である。ニーチェやマックスシェーラーの言葉を借りるならば、「ルサンチマン」という語がピッタリとするかも知れない。しかしながら、この言葉(中国語読みではhen4)は韓国では重要な意味を持つ言葉だということを、友人の韓国人から聴いて認識を新たにしたのである。この言葉は韓国語では「ハン」と読むが、それは大韓民国の「韓」に通じるのだという。抑圧された情念という意味だけでなく、もともと人間が生きるということの根柢にある情念の力を表す言葉なのであり、韓国とは「ハンの国」であるというのだ。哲学的に云えば、プラトンの云う神的なるエロース、新約聖書に云うアガペーにも匹敵する哲学的含意があるとのことであった。アガペーの神学というかわりに「ハンの神学」というものもあり得るのである。

 私がただちに思い浮かべたのは、白楽天の長恨歌の最後の言葉であった。

「永久に存在するように見える天地もいずれはつきることがあろうが、この「恨(ハン)」の情念のみは絶えることがない」

とは、まさに恨の神学の根源的命題とも云うべきものだ。キリスト教の福音書では「天地は滅びようとも御言葉(ロゴス)は永遠である」という。それに対して、ハンの神学では、おそらく「天地は滅びようとも恨は永遠である」ということになろうか。
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逆境のときの音楽

2008-07-14 | 美学 Aesthetics
囲孔子於野 不得行 絶糧 従者病莫能興 孔子講誦弦歌 不衰 (孔子世家)

孔子を野に囲む 行を得ず 糧を絶つ 従者病む 良く興つなし 孔子、講誦弦歌して衰えず

四方を軍隊に囲まれ、兵糧責めにあったときですら、孔子は平然としていつもとおなじように古典を講じ、楽器を奏で歌を唄っていたという。これが史実そのものであったのかどうか私は知らない。食料をたたれた場合、人は音楽どころでは無かろうとも思われるが、孔子はすこしも乱れることなく平常心で古典の講義をし、音楽を奏で、歌を唄ったというのだ。この場合、音楽は孔子にとって、ただの娯楽などというものではなく、キリスト教徒にとって讃美歌がそうであるように、宗教的平安を与えるものであったに違いない。

嘗てサルトルが言ったように、飢死しようとする子供の前では如何なる藝術も無力であろうが、人は麺麭のみにて生くるにあらずという事も等しく事実なのだ。江文也は文化大革命に踊らされた若者達によって迫害を受けた。彼がどのようにしてその逆境に対処したのか私は知らないが、逆境の時にも平常心を失わずに詩歌管弦をたしなんだ孔子のエピソードを伝えるこの一節が、私の中では江文也その人に重なるのである。

数年前に「戦場のピアニスト」という映画を見たことがあるが、その主人公はナチスの迫害を受け、飢えに苦しみながら生き延びてドイツ軍将校の前でピアノを弾く。ピアノによって敵味方の壁が崩れ落ち、つかの間の友情が芽生える-そんなあらすじであった。孔子世家の上の一節を読んで、ふとこの映画のモデルとなったシュピールマンの弾くショパンの夜想曲を聴きたくなった。

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祭神如神在 -典礼の美学と形而上学

2008-07-13 | 美学 Aesthetics
祭如在 祭神如神在 子曰 吾不與祭 如不祭 (論語 八佾第三)
ji4 ru2 za4i ji4 shen2 ru2 shen2 za4i zi3 yue1 wu2 bu4 yu3 ji4 ru2 bu4 ji4
祭ること在(い)ますが如くす。 神を祭ること、神在(い)ますが如くす。子曰わく、吾れ祭りに与(あずか)らざれば、祭らざるがごとし。

吉川幸次郎は論語(八佾第三)の上の文に対して二つの解釈を紹介している。ひとつは、子曰の前の部分を孔子の祭事における振舞を叙したもので、孔子は先祖の法事をするときには、先祖があたかもそこにいる如く敬虔に行い、先祖の神霊以外の神を祭る場合にも、神がそこに在ますがごとくであった。後半は、そういう孔子の行動を自ら説明した言葉である。もうひとつは、荻生徂徠の説で、前半は孔子以前の古典の言葉であり、それを敷衍して、後半の孔子の言葉があるというもの。いずれにしても、神々については「怪力乱神を語らず」とした孔子とその門弟達が、祭礼は重んじて、あたかも「神がいますが如く」敬虔に振る舞ったという点では一致している。
 一個の世界市民として論語のこの一節を読むと、私は、孔子の哲学思想、とくに神に対する考え方に、19世紀のカント哲学と通底するものを直観する。孔子の時代の中国は、すでに神話的世界像から脱却した合理的な啓蒙の時代であったが、人間を越える秩序への崇敬の念は孔子の中に生きていた。神の存在は理論的に証明し得ぬとしても、我々は実践理性の要請によって、あたかも「神がいますかのように」この世で行動すべきであると教えたのがカントの理想主義哲学であったが、孔子の上の言葉には、そう言う立場を先取りしたものがあるようだ。そして、孔子の場合は、単なる理性の限界内部で宗教を説いたカントをこえて居る面もあるようだ。それは、典礼・音楽・詩の位置づけである。カントは典礼については語らず、その第三批判を読むかぎりでは詩も音楽も趣味判断の域を超えるものではなかったが、孔子にあっては、詩と音楽を統合した典礼に参加することは、単なる理性の限界を超えて、形而上の世界に我々を導くのである。
 易経の「繋辞傳」によれば、儒教の神髄は「形而上」なる「道」にあり、「形而下」つまり「器」(用具)を重んじる功利主義・世俗主義ではない。目に見える世界のみを実在と思わず、また、過去の世代に対する責任を持って、彼らが、あたかも存在するかのように、礼を尽くすことこそが、我々を形而上の世界へと導くのである。孔子の倫理学は、その意味で、同世代のもの、すなわち生者に対する責任だけでなく、過去の世代、来るべき世代にたいする責任を負う「世代間倫理」なのである。 そして、世代をつなぐものこそが典礼であり、とくに音楽であり詩である。そこにこそ、孔子が理想とした美と善との一致、すなわち美を尽くし、善を尽す藝術のありかたも求められるであろう。
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禮以道其志 樂以和其聲 -文明化された社会の要件

2008-07-06 | 美学 Aesthetics
禮以道其志 樂以和其聲 (禮記)

li3 yi3 da4o ji1 zhi4, yue4 yi3 he2 ji1 sheng1

礼を以て其の志を道(みちび)き、楽を以て其の声を和(やわら)ぐ

今の中国でも日本でも「禮」は失われている。それを封建道徳と結びつける近視眼的な考え方に災いされていたと言うべきであろう。「禮」の時代によって変わらぬ本質なるものを直観することが肝要である。この文、為政者が民を導くというように理解すれば、たしかに統治の具として禮をもちいるということになろう。しかし、統治されるものは自ら統治するものでもあるということ-すなわち人民の自治を認める立場に於いても、「禮」は必要なのである。禮は、各人の意志をただしく実現させるために必要不可欠な順序を示すところにその本質があり、それらの複数の主体の異なる意志を、如何に調和させるか、それらがオーケストラのハーモニーのように、不協和音とならずに一大「和音」をめざすべきこと--如何なる文明化された社会もそれをめざすべきであろう。
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樂者天地之和也 禮者天地之序也-美にして善なる価値の実現のために

2008-07-05 | 美学 Aesthetics

樂者天地之和也  禮者天地之序也 和故百物化 序故群物皆別

yue4 zhe3 tian1 di4 zhi1 he2 ye3, li3 zhe3 tian1 di4 zhi1 xu4 ye3. he2 gu4 ba3i wu4 hua1 xu4 gu4 qun2 wu4 jie1 bie2.

楽は天地の和なり 礼は天地の序なり 和なるがゆえに百物みな化し 序なるがゆえに群物皆別あり

古典時代の中国の思想には様々な側面があったが、私が注目するのは、超越的なるものと内在的なるものとの統合である。すなわち天とは超越であり、地は内在である。両者は互いに求め合う。天を陽、地を陰として単なる陰陽思想のみでこの一節を理解するものは浅薄の謗りを免れまい。超越的内在、内在的超越こそ孔子の詩的直観、倫理的洞察の根本にあるものである。そして超越と内在の調和を美学的に表現するものが「音楽」であり、倫理的に表現するものが、「礼」である。この宇宙に倫理的な「善」の実現をもたらすと共に、「美」をも実現しなければならない。倫理的価値にほかならぬ「善」には、「序」すなわち一定の規律に従った実践が不可欠であり、「多様性」への配慮がなければならぬ。これにたいし「美」は、超越と内在の「一」に帰するところをハルモニアをもって表現する。それによって、善という価値と美という価値の統合が成立し、此処において「仁」という人間的な徳に基づく教養が完成するのである。
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素以為絢 ということ-孔子の美学思想

2008-07-03 | 美学 Aesthetics
中国は偉大なる精神文明を過去において持っていた國である。共産党政権のせいで、それが中国の若い世代から忘却されてしまったのはまことに嘆かわしい。しかし、孔子は文化大革命の時に排斥されたとはいえ、儒教には2000年以上にわたる悠久の歴史があるのである。マルクシズムの如き底の浅い唯物思想の影響の方が一時的なものであったということになるだろう。江文也の音楽上の仕事もかならずや将来、再評価されるに違いなかろう。理不尽なかたちで失われた彼の音楽作品が再び見いだされることを強く望むものである。

さて今日もまた、「論語」にたちかえって典礼を機軸とする彼の藝術論を考えたい。

子夏問曰:「巧笑倩兮,美目盼兮,素以為絢兮。何謂也?」

子曰:「繪事後素。」

曰:「禮後乎?」

子曰:「起予者商也!始可與言詩矣。」

子夏問うて曰く:「巧笑倩(せん)たり,美目盼(はん)たり。素以って絢を為すとは、何の謂いぞや」

子曰く:「繪の事は素(しろ)きを後にす。」

曰く:「禮は後か」

子曰く:「予を起す者は商なり。始めて共に詩を言うべきのみ。」

「素(しろ)」という言葉は、絢爛豪華な「色彩」とは対極にたつものであるが、それこそが「絢」を完成させるものだというこの言葉は、古典時代の中国の美学がいかに洗練されたものであったかを伝える。敢えて言おう。素人の持つすばらしさが、技巧を尽くした後で、その技巧を完成させるということ、飾らぬ美しさこそが、飾る美しさのあとに目指されるべきものであるという「美」のとらえかた、あるいはそれは「美」だけでなく「善」を尽くしたあり方について言及されていると言うべきかも知れない。あたかも、すべての色彩が光において合一すれば白色光になるように、色を持たぬ「素」こそが、全ての色がそこから生まれそこへ帰す究極なのである。孔子が教養の完成としておいた「禮」もそうであって、「素」を最初にして最後とする精神があって、「禮」もまた生きるのである。我が国においても、舞踏家が素踊といって、衣装など付けずに踊ることがあるが、それは化粧や衣装をすべて捨て去ったときにそのもととなる「素」を最初にして最後のものとする美学からくるのであろう。
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孔子の音楽論

2008-06-30 | 美学 Aesthetics
子語魯大師樂,曰:「樂其可知也:始作,翕如也;從之,純如也,繳如也,繹如也,以成。」

zi3 yu3 lu3 da4 shi1 yue4, yue1:「yue4 qi2 ke3 zhi1 ye3: shi3 zuo4, xi4 ru2 ye3; cong2 zhi1,chun2 ru2 ye3, zhuo2 ru2 ye3, yi4 ru2 ye3,yi3 cheng2。」

子魯の大師に樂を語りて曰く「樂は其れ知るべきなり:始めて作(お)こすに,翕如(きゅうじょ)たり;これを従(はな)ちて,純如(じゅんじょ)たり,繳如(きょうじょ)たり,繹如(やくじょ)たり,以って成る。」

当時(孔子の時代)の音楽は、いくつかの管楽器、いくつかの弦楽器、いくつかの打楽器をもつオーケストラであったらしい。

同時に複数の楽器が異なる音を演奏しながら、混沌に陥らずに見事なハーモニーが得られるということは、音楽のすばらしさである。その音楽のオーケストレーションの妙味を簡潔な言葉で表現したものが上で引用した論語「八佾第三」の文である。

吉川幸次郎の論語注釈によると

翕如(xi4 ru2 きゅうじょ)=もりあがるような金属の打楽器の鳴奏

純如(chun2 ru2 じゅんじょ)=諸楽器の自由な参加(從之)によってかもしだされる純粋な調和

繳如(zhuo2 ru2 きょうじょ)=諸楽器がそれぞれに受け持つパートの明晰さ

繹如(yi4 ru2 やくじょ)=連続と展開

以成(yi3 cheng2)=音楽の完成

とのこと。

ここでは「如」という言葉がキーワードだろう。孔子が人の眞實のあり方を指して言った「仁」とは、人と人との調和ある人格的関係をさすが、この関係を基盤とする社会的関係に調和と秩序をもたらしつつ、社会に於ける人格の完成を、時間的な生成の場において、「如實」に表現したものが音楽なのである。

すなわち、音楽は「一」なる始源から発し、「多」なるものへと展開発展した後に、再び一なる調和へと帰一していく宇宙と社会の調和の表現なのである。

江文也の「孔廟大成楽章」の英訳者は、「迎神」の第一楽章、「送神」の第六楽章でいうところの「神」をthe Spirits などと訳しているが、ここでいう「神」をどう捉えるべきであろうか。様々な見解が在ろうが、「怪力乱神」を語らぬ孔子を祭るときに「神」なる言葉を使うことの意味をさらに考察したいと思った。

孔子は「神」について語ることを慎んではいたが、詩と音楽を媒介として、あたかも「神」がいますがごとく、「典礼」に与ることは重視していた。すなわち、孔子の倫理はあくまでも人間の立場を離れないが、超越へと開かれた人間存在をそこに読みとることが出来る。そして閉ざされた人間の自己中心性を越えるように促すものこそが音楽であり、それ故に音楽は人間の教養の完成に不可欠なものなのであった。
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公開講座のことなど

2005-12-11 | 美学 Aesthetics
昨日の北本市の公開講座は、市が計画している生涯学習講座の一環でした。120名くらいの受講者がありましたが、熱心に聞いて頂けました。

二年前からソフィア・コミュニティ・カレッジで、国文学の大輪先生、俳句結社「若葉」の主宰の鈴木貞雄先生と共に、「俳句と連歌」という連続講座を開いています。このコミュニティカレッジは、普通は四谷で行うのですが、時々、外部と連携して公開講座を開きます。

公開講座での私の話の内容は、その都度更新かつ追加して、PDFファイルにしてあります。最新版は、場所の詩学ー座の文藝に関する一考察です。このファイルは、これからも追加改訂していく予定です。
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蕉風俳諧の成立 1

2005-11-25 | 美学 Aesthetics
―貞門俳諧・談林俳諧から蕉風俳諧へー

貞門俳諧の実例

紅梅千句 (承応二年(一六五三)正月興行)

紅梅やかの銀公のからころも    長頭丸(ちやうとうまろ)
  翠(みどり)の帳(ちやう)と見ゆる青柳(あをやぎ) 友仙
堤つく春の日々記かきつけて   正章
よむや川辺の道ゆきの哥    季吟

長頭丸とは貞門俳諧の師、松永貞徳の俳号。季吟は芭蕉の師。紅梅千句の出版に携わる。千句興行とは、春夏秋冬の句をそれぞれ発句にとって百韻を十巻連ねる興行で、十百韻という。通常、春と秋を発句とするもの各三巻、夏と冬を発句とするもの各二巻、追加表八句を詠んで神社に奉納する。時に、貞徳は八十二歳、貞徳の俳諧がいかなるものであるかを後世に伝えるものとされ、一門の規範書となった。
発句は、漢の武帝の后、銀公の袖の香が梅花にうつり匂ひをとどめた」故事をふむ。

附合は、紅梅→青柳→堤→川辺 日記→よむ のように、縁のあるもの、対照的なものを連ねる「もの附け」が原則。脇の「帳」は貴婦人の寝室の帳(とばり)であるが、第三の「帳」は堤の普請(堤つくの「つく」は築くの意)でつかう帳面。このように、掛詞によって意味をずらして付けることも行われる。
貞門俳諧の基本は、第一藝術である和歌や連歌をたしなむことの出来ない武士や町民を教化するための第二藝術として俳諧を位置づけたところにある。その俳諧は、連歌では使えない漢語や俗語を自由に使用したが、俳諧としての自律性、独立性に乏しいものであった。この紅梅千句にあらわれている句風は、談林派の俳諧師達から批判された。たとえば、岡西惟中は「俳諧蒙求(もうぎゆう)」のなかで

「これらの句みな連歌の正真なり。又古事・物語も、かかる仕立ては全くありごとにて俳とも諧とも見えず」

といって、俳諧は滑稽を旨とすべきで、その附合は、「無心」つまり、意味のない「そらごと」であるほうが理屈抜きで面白いというのである。
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蕉風俳諧の成立 2

2005-11-24 | 美学 Aesthetics
談林俳諧に呼応して

延宝三年(一六七五) 西山宗因江戸にて十百韻(千句)興行 開巻の表八句

さればここに檀林の木あり梅の花  宗因
  世俗眠をさますうぐひす    雪柴
朝霞たばこのけむり横折れて    在色
  駕籠かきすぐるあとの山風   一鉄

談林俳諧は、大阪の新興の町民たちに受け入れられた。貴族や武士ではない新しい階級の文藝としてである。その宗匠、西山宗因は、この千句興行のときはすでに七十一歳であったが、当時の江戸の俳壇を圧倒する気力の充実振りを示した。
宗因の付け方は、心附とよばれ、率直で自由闊達な詠みぶりが当時三十三歳の芭蕉に大きな影響を与えた。 翌年芭蕉は、山口信章(素堂)との両吟で次のような二百韻(百韻二巻)を詠んでいる。

梅の風俳諧國に盛んなり     信章
  こちとらづれもこの時の春  芭蕉
紗綾(さや)りんず霞の衣の袖はへて    同
  倹約しらぬ心のどけき     章
してここに中頃公方おはします   同
  かた地の雲のはげて淋しき   蕉
海見えて筆の雫に月すこし     同
  趣向うかべる船の朝霧     章

「梅の風」とは梅翁こと西山宗因の談林風をさし、宗因の十百韻に和したもの。
第三の芭蕉の句は、大阪町民の華美な出で立ちを詠んだものであるが、次の四句では、それを風刺している面白い。公方とは足利義政あたりを指す。芭蕉の「かた地の雲のはげて淋しき」は、漆器の堅地の雲のはげかかった茶器を詠んで、茶道の「さび」の精神をもって承けたもので、後年の芭蕉の附(心付け、匂い附け)を思わせる。
芭蕉はのちに「上に宗因なくんば、我々が俳諧今以て貞徳が涎をねぶるべし。宗因はこの道の中興開山なり」と言ったが、同時に談林の華美な詠みぶりを批判する視点も持ち合わせていたと言うべきであろう。
大阪の新興の町民文化を背景とする談林俳諧は、奔放かつ無軌道な詠み方が、やがて質よりも量を重視する「早口俳諧」、井原西鶴の「矢数俳諧」にいたり浮世草子の世界へと吸収されていく。
「近年俳道の盛んなるに任て、千句万句など名付け、早口の俳諧を好むこと、誠に何の味もなき事なり。句は沈思して一句にても心をとめてし出すこそ面白けれ」(岡西惟中)
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