はじめに
「天地は万物の逆旅にして光陰は百代の過客なり」とは人口に膾炙した古人の詩句であるが、もし天地を宇宙(コスモス)の意味に取るならば、現代の物理学は、宇宙そのものもまた永遠なるものではなく旅人であるという認識に達したように見える。天と地の挟間にあって束の間の生をうけた個々の人間のみならず、乾坤も、行き交う年もまた旅人に他ならない。
西欧中世においては、万物はその被造性のゆえに永遠なるものを本性的に必要とすることが教えられ、この世界の偶然性(contingentia mundi)の自覺こそがキリスト教信仰への道の一つであった。我々のすまう世界が根源的に歴史に貫かれており、宇宙そのものが決して永遠不変のものではないこと、存在するために自己以外の何ものをも必要としないような必然的な存在では有り得ないということ――この根源的な事実の有つ意味を問うことは形而上学の現在を問うことに他ならない。
なぜそのように問うことが形而上学の問題であるのか? 形而上学とは、普遍妥当的かつ必然的なる事実の探求ではないのか。そうであるならば、アポステリオリなる経験科学が形而上学に対して考察すべき問題を提示することがどうしてできようか、とも問われよう。しかし、形而上学とは、その源流に位置するアリストテレスにあっては、まさしく、自然学を前提し、自然によって存在するものからの内在的なる超越の道を辿るアポステリオリな道であり、それは、感性的なる経験世界から離れて有るイデア的なる叡知的世界から天下り的に論じるアプリオリな道ではなかったことを想起すべきであろう。
西欧の哲学はプラトンの脚注である、と喝破し、自己の「有機体の哲学」を20世紀のプラトン哲学として位置づけたホワイトヘッドは、同時に、アリストテレスの『形而上学』の後継者でもあった。彼は、ピュシス(自然=實在)の探求を通じてて形而上学を構想したアリストテレスの顰みに倣い、自然神学を主題とするギフォード講義で「過程と実在」を論じたのであった。自然を探求するアリストテレスの道を再び辿ることによって、はじめて、20世紀のプラトニストたり得るのである。
もっとも、プラトンやアリストテレスにおける西欧形而上学の濫觴以後二千年以上の時が経過しており、その間に蓄積された人類の経験は、現在の哲学者に、彼等の形而上学的営為を単純に反復することを許さないのは当然であろう。
十七世紀の西欧に起きた科学革命は、アリストテレスの自然学の批判をきっかけとしておきたものであり、近代自然科學の哲学的な基礎付けという課題は、同時に形而上学の思弁的認識の断念をともなうべきであるというカント主義の認識批判、実証主義者、分析哲学の立場からの言語批判等を踏まえなければ、およそ現代に於いて形而上学を云々する資格はないであろう。